第29話 交錯する縁
俺が陽菜との穏やかで満ち足りた大学生活を送り、過去の熱病を美しい思い出として心の引き出しにしまい込もうとしていた、まさにその裏側で。運命の歯車は俺の知らない場所で、静かにしかし確実に、狂った音を立てて回り始めていた。
ある休日の午後。大学近くの、学生時代から馴染みのカフェ。佐藤隼人は卒業論文のための資料を広げ、静かに読書に耽っていた。窓から差し込む柔らかな光がコーヒーカップの湯気をきらきらと照らしている。
その時、カランとドアベルが鳴った。何気なく顔を上げた隼人の視線が、ドアの前に立つ一人の女性の姿を捉え、そしてぴたりと止まった。
艶やかな長い黒髪。知的な印象を与えるフレームの細い眼鏡。数年の時を経て学生時代の少女のような雰囲気は薄れ、洗練された大人の女性としての落ち着きを湛えている。しかしその凛とした佇まいは、彼の記憶の中にいる姿と寸分違わず重なっていた。
「……早瀬?」
隼人が思わずというようにその名を呟くと、女性もまた驚いたように目を見開き、やがて懐かしそうにその美しい唇を綻ばせた。
「……佐藤君?うそ、久しぶり」
早瀬葵。隼人が大学時代に淡い恋心を抱きながらも、その思いを告げられないまま卒業してしまった唯一の女性。その彼女とのあまりに偶然な再会。隼人はこれを単なる偶然ではなく、神が与えてくれた二度目の機会、運命の采配なのだと心の底から感じていた。
その日を境に、二人の止まっていた時間はゆっくりと動き出した。
健太や陽菜が自分たちの新しい日常に夢中になっている、まさにその裏側で。隼人と葵は連絡先を交換し食事を重ね、失われた数年間の空白を埋めるように互いのことを語り合った。
葵にとっても隼人との再会は心地よい安らぎをもたらすものだった。健太との、あの全てを焼き尽くすような激しくも禁断の恋。その記憶は未だに彼女の心の奥底で、甘くそして鋭い痛みを伴って燻り続けていた。しかし隼人の、どこまでも誠実で穏やかな優しさは、その痛みをまるで春の陽だまりのようにゆっくりと癒していった。
この人となら穏やかで幸せな家庭を築けるかもしれない。教師という立場、そして自分の年齢という現実を考えた時、隼人という存在はあまりに完璧でそして正しい相手のように思えた。健太への想いを今度こそ完全に心の奥底に封印し前に進むべきなのだと、葵はそう自分に言い聞かせ始めていた。
隼人の真摯なアプローチに彼女の心が完全に傾くのに、そう長い時間はかからなかった。やがて隼人は葵を両親――つまり陽菜の両親――に紹介し、二人の関係は周囲も公認の、結婚を前提とした真剣な交際へと発展していく。
そして運命の日は、実に穏やかなありふれた日常の一場面として訪れた。
ある日曜の夜。俺は陽菜と共に彼女の実家である佐藤家の食卓を囲んでいた。隼人さんも帰省しており四人で囲む食卓は、笑い声の絶えない温かいものだった。
食事が一段落しデザートの果物に手を伸ばした、その時だった。隼人さんが少し照れくさそうに、しかしその表情には隠しきれないほどの幸福感を滲ませながら切り出したのだ。
「父さん、母さん、それに陽菜と……健太君にも、報告があるんだ」
その場の全員の視線が隼人さんに集まる。
「俺、結婚しようと思ってるんだ」
「まあ、隼人!」
「ええっ、兄さん、本当!?」
陽菜とお母さんの嬉しそうな声が上がる。俺もまた「おめでとうございます!」と心からの祝福の言葉を送った。
「相手は、どんな方なの?」
お母さんの問いに隼人さんははにかむように、そしてどこまでも誇らしげにその名前を告げた。
「ああ。……早瀬葵さん、っていうんだ」
カチャン。
俺が手に持っていたフォークが手から滑り落ち、床に甲高い音を立てた。
世界から音が消える。陽菜やその両親の、驚きと喜びが入り混じった声が、まるで厚いガラスの向こう側から聞こえてくるようだ。俺は頭が真っ白になり何も考えることができなかった。
早瀬、葵。
俺の憧れの人。俺の初めての女。俺がその全てを懸けて愛した、たった一人の女性。
その彼女が、今俺の隣で笑っている陽菜の、兄と、結婚する……?
「……そう、なんですか。……おめでとう、ございます」
俺はかろうじて、引きつった笑顔を作りそう言うのが精一杯だった。
その夜、俺は自分の部屋のベッドの上で暗闇の中、ただひたすらに天井を見つめていた。
ショックという言葉では到底生ぬるい。これは運命の、あまりに悪質な悪戯だ。俺がようやく過去のものとして整理し、美しい思い出として心の箱にしまい込んだはずの、あのパンドラの箱。それがこじ開けられ、その中身が俺の今の、そしてこれからの現実にぶちまけられてしまった。
俺の「憧れの人」が俺の「恋人の義姉」になる。
俺はこの先、何度も何度も彼女と顔を合わせなければならないのだ。家族として。親戚として。陽菜の隣で笑顔を浮かべながら。
そのあまりに残酷でそして逃げ場のない事実に、俺は言いようのない不安とそして運命への焦燥感で、息が詰まりそうだった。
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