第32話 宝の誕生


 健太君と最後の夜を共にしてから数週間が過ぎていた。

 私は彼との関係に完全に終止符を打ち、陽菜さんの兄である隼人さんとの穏やかで正しい未来を歩むのだと、そう固く心に誓った。けじめをつける意味もあって数日前には隼人さんとの初めての夜を過ごしたばかりだ。隼人さんとの結婚式の準備も順調に進んでいる。全てがあるべき場所へと収まろうとしていた。

 そう、全ては完璧に進んでいるはずだった。

 しかし私の身体は私の決意や理性を裏切るように、静かなしかし確実な異変を訴え始めていた。

 周期通りに来るはずの月のものが、来ない。

 最初は結婚式の準備によるストレスだろうとそう自分に言い聞かせた。しかし一週間が過ぎ十日が過ぎてもその兆候は一向に現れない。そして日中の、微かでしかし不快な吐気。まさか。そんなはずは……。

 その可能性に思い至った瞬間、私の全身からさっと血の気が引いていくのが分かった。


 その日の夕方、私は誰にも見られないようドラッグストアの隅で妊娠検査薬を手に取っていた。そのあまりに無機質で他人事のようなプラスチックの箱が、私の人生の全てを破壊しかねない爆弾のように思えて指先が微かに震えた。

 自宅マンションの白く冷たいタイルに囲まれたバスルーム。私は説明書の事務的な文字を目で追いながらゆっくりとその手順を踏んだ。結果を待つ数分間。それはまるで永遠のようにも感じられた。心臓が耳元でドク、ドクとうるさいほどに脈打っている。

 やがて判定の窓に、ゆっくりとそして残酷なまでにくっきりと、二本の線が浮かび上がった。

 陽性。

 その二文字が意味するものを私の脳が理解した瞬間、世界から音が消えた。私はその場に崩れ落ちるように冷たい床に膝をついた。手には私の未来を終わらせたそのプラスチックの棒を、強く強く握りしめていた。

 パニックに陥る頭の中でしかし、私の理性だけが氷のように冷たく計算を始めていた。

 いつ?

 健太君とのあの最後の夜。あれは確か、前の生理が終わってちょうど二週間後。基礎体温が上がり始める最も妊娠しやすい排卵日の直後だったはずだ。私たちはあの夜、避妊をしなかった。

 では隼人さんとの初めての夜は?あれはほんの数日前。次の生理開始予定日のすぐ前だった。もう排卵が終わって一週間以上経っているはずの、医学的には妊娠の可能性が限りなく低い時期。

 指が震えながら日数を数える。計算はあまりに単純で、そしてあまりに確定的だった。

 答えは一つしかない。

 この子は……このお腹に宿った命は、健太君の、子供だ。


 その疑いようのない事実にたどり着いた瞬間、絶望が冷たい津波のように私の全身を飲み込んでいく。涙さえ出なかった。

 どうしよう。どうすればいい。隼人さんを裏切り陽菜さんを裏切り、そして何より未来へ向かって歩き出したはずの健太君の人生をも、私は滅茶苦茶にしてしまう。私の人生はもう終わりだ。

 しかしその絶望の海の、最も深い暗い場所で。ちろりと、一つの小さなしかしどうしようもなく温かい光が灯ったのだ。

 お腹の子の父親は健太君だ。

 あの不器用で真っ直ぐで、私が心の底から愛したたった一人の男の子。彼とのあの奇跡のような恋が今、この私のお腹の中で新しい命となって息づいている。

 私と、健太君の、子供。

 その事実に思い至った瞬間、私の心に絶望とは全く質の違う、禁断のそしてどうしようもないほどの喜びが泉のように湧き上がってくるのを、私は止めることができなかった。


 その夜、私は一睡もできなかった。泣き悩みそして考え続けた。

 やがて窓の外が白み始め朝の光が部屋に差し込んできた頃。私は鏡の前に立った。そこに映っているのは憔悴しきった酷い顔の女。しかしその瞳の奥には昨日までの自分にはなかった、鋼のような強い光が宿っていた。

 私はそっと、まだ何も変わらない平らな自分のお腹に手を当てた。

 この子は間違いや過ちなんかじゃない。

 この子はあの奇跡のような恋が私に残してくれた、たった一つのそして何物にも代えがたい、「宝物」なのだと。

 そう確信した。

 この宝物を私は何があっても守り抜く。誰にも知られず私一人で。健太君に告げれば彼と陽菜さんの未来を壊してしまう。隼人さんに告げればあの優しい人を地の底まで傷つけることになる。

 この秘密は私が一生涯をかけて一人で背負っていく十字架なのだ。

 私はこの子を隼人さんの子として産む。そして母親として生きていく。

 そのあまりに重くそして罪深い決意を固めた瞬間、私の心は不思議なほどの静けさとそして悲壮なまでの力強さで満たされていた。

 私はもうただの女でもただの教師でもない。

 愛する人の子をその身に宿した、一人の「母」なのだから。

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