第23話 最後の試験


 二月。高校生活の終わりを告げる、学年末試験の火蓋が切って落とされた。凍てつくような冬の朝、俺、山上健太は、夜明け前のまだ薄暗い中で目を覚ました。窓の外は、深い藍色に沈んでいる。決戦の朝だ。

 玄関で、新品のように磨き上げたローファーに足を入れる。冷たく澄んだ空気が、寝ぼけ眼の頬を鋭く撫で、俺の意識を完全に覚醒させた。その日の俺の足取りは、これまでの人生で経験したことがないほど力強く、そして静かな決意に満ちていた。

 教室へと続く廊下で、同じように参考書を片手に歩いていた陽菜と会った。彼女は俺の姿を認めると、ふわりと微笑んだ。

 「おはよう、健太君。いよいよだね」

 「ああ。おはよう、陽菜」

 俺たちは、どちらからともなく、互いに拳を差し出した。コツン、と軽く突き合わせる。

 「頑張ろうね」

 「おう」

 短い言葉の交換。しかし、それだけで十分だった。俺の心は、不思議なほどに落ち着いていた。あの夜、早瀬先生と交わした、魂の誓い。そして、今目の前にいる、陽菜の揺るぎない応援。その二つが、俺の心を、まるで頑丈な鎧のように守ってくれていた。これは、もはや先生との個人的な取引のための試験ではない。俺が、俺自身の力で、自分の成長を証明するための、最後の聖なる戦いなのだ。


 決戦の場となる教室は、しんと静まり返り、生徒たちの緊張感が飽和しているかのようだった。試験開始のチャイムが鳴り響く。問題用紙が配られ、俺は深く息を吸い込んだ。

 ペンを握りしめ、問題を解き進めていく。驚くほど、頭が冴えわたっていた。これまで暗闇の中を手探りで進むようだった難解な数式や、複雑な古典の文法が、まるで光に照らされた一本道のように、はっきりとその構造を見せている。

 机の左隅には、俺の唯一のお守りが鎮座していた。手垢で黒ずみ、ページがよれて膨れ上がった、あの一冊の「英文法の問題集」。それはもはや、性的な報酬を得るための卑しい道具ではない。俺の血と汗と涙が染み込んだ、努力の結晶そのものだった。

 難しい問題に直面し、心が折れそうになるたびに、俺は様々な光景を思い出した。

 「ここは絶対に出るから覚えろ」と叫んでいた、親友・唯斗の顔。

 「健太君なら、きっと大丈夫だよ」と、優しく微笑んでくれた、陽菜の顔。

 そして何より、「あなたと対等な男として、もう一度ここに来ます」という俺の誓いを、涙を流して受け入れてくれた、愛する早瀬先生の顔。

 俺は、一人じゃない。俺のこの戦いを、見守ってくれている人たちがいる。その想いが、枯れかけた思考の泉から、次々と新しい力を汲み上げてくれた。


 地獄のようだった試験期間が終わり、全ての戦いが終わった日の放課後。俺は一人、誰もいなくなった教室の、自分の席に座っていた。冬の弱い日差しが、窓から差し込み、机の上に刻まれた無数の傷を、黄金色に照らし出している。黒板には、誰かが書いた卒業までのカウントダウンの数字が、寂しげに残されていた。

 まだ、結果は出ていない。不安と期待が、津波のように押し寄せてきて、押し潰されそうになる。しかし、それ以上に、俺の心を満たしていたのは、静かな感慨だった。

 ほんの半年前まで、俺は、この教室で、ただ窓の外を眺めて、退屈な時間をやり過ごすだけの、空っぽな存在だった。そんな俺が、今、自分の未来を賭けて、これほどまでに必死になった。

 早瀬先生と出会い、恋をして、必死に、無我夢中で勉強した。その、狂おしいほどの情熱の全てが、今の俺を作っている。結果がどうであれ、俺がこの数ヶ月で得たものは、決して失われることはない。俺は、自分の確かな成長を、静かに、そして誇らしく噛みしめていた。


 そして、運命の結果発表の日。俺は、職員室の前に張り出された成績上位者の掲示の前に立っていた。自分の名前を探す指が、震える。

 あった。数学、国語、理科、社会……そして、英語。全ての教科で、俺の名前は、上位の欄に記されていた。詳細な成績表を確認すると、五教科全てが、90点を超えていた。

 完全なる、勝利。

 俺は、派手に喜ぶことも、叫ぶこともしなかった。ただ、込み上げてくる熱いものをこらえるように、固く、固く、拳を握りしめた。深い安堵と、身体の芯から震えるような達成感が、俺の全身を包み込む。

 俺は、愛する女性との未来への扉を、この俺自身の力で、こじ開けたのだ。

 俺は、職員室にいるであろう彼女の元へは、まだ向かわなかった。この勝利の報告は、まず、俺の戦いを支え続けてくれた、二人の戦友に捧げなければならない。俺は、陽菜と唯斗のいる教室へと、誇らしい足取りで向かった。

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