第22話 魂の誓い
最後の決戦を数日後に控えた、冷たい冬の夜だった。俺は、「最後の願掛けです」という、我ながらほとんどこじつけに近い理由を携えて、早瀬先生の部屋のドアの前に立っていた。二人で会うのは、あの日、俺が未来への約束を乞い、彼女が涙ながらに頷いてくれた、あの夜以来のことだった。もはや俺たちの間に、不純な取引は存在しない。それでも、俺はこの戦いに臨む前に、どうしても彼女の顔を見て、その声を聞いておきたかったのだ。
部屋に通された俺たちは、ローテーブルを挟んで、少しだけ気まずい、しかしどこまでも穏やかな時間を過ごしていた。俺たちの間に、もうあの頃のような、欲望を巡るヒリヒリとした緊張感はない。ただ、同じ夢を目指す同志としての、静かで、そして深い信頼関係だけが、温かい紅茶の湯気と共に立ち昇っていた。
俺は、来たるべき試験への意気込みを、そしてその先にある、教師になるという夢への揺るぎない情熱を、我を忘れて語っていた。生徒たちの未来を預かることの責任の重さ、そして、人の人生を変えることができるかもしれないという、その仕事の尊さ。俺が今抱いている想いの全てを、先生は、ただ黙って、愛おしそうに聞いてくれていた。その瞳は、もはや俺を試すような光はなく、ただ純粋な誇りと、母性にも似た深い愛情で満たされていた。俺の言葉の一つ一つが、彼女の心を温めているのが、手に取るように分かった。俺たちの精神的な繋がりは、この瞬間、間違いなく頂点に達していた。
そして、だからこそ、それは起こるべくして起こったのかもしれない。極限まで高められた魂の交感は、これまで理性の奥底に必死に抑え込んできた、互いへの肉体的な欲望を、静かに、しかし抗いがたい力で揺り動かし、再燃させたのだ。
俺が熱っぽく夢を語り終えると、先生は、何も言わなかった。ただ、その美しい顔に、万感の想いを込めた微笑みを浮かべると、ゆっくりと、そして実に優雅な仕草で、自らの**眼鏡を外し**、テーブルの上に置いた。
カチャリ、と立てられた小さな音。
それは、世界が終わる合図のようでもあり、そして新しい世界が始まる合図のようでもあった。
教師の仮面が、外される。潤んだ瞳が、何の隔たりもなく、真っ直ぐに俺を射抜く。その瞳は、もはや教師のそれではない。ただ一人の、愛する男を求める、「女」の瞳だった。
その、あまりに雄弁な無言の誘いに、俺の中で、かろうじて保っていた理性の最後の箍が、音を立てて弾け飛んだ。
どちらからともなく、俺たちは互いを求めていた。ソファの上で重なり合った唇は、貪るように互いのそれを求め、服の上からでも分かるほどの熱さで、肌が触れ合う。欲望のままに、俺の手は先生のニットの裾から滑り込み、その柔らかな素肌を確かめる。先生もまた、俺の背中に腕を回し、そのシャツを強く握りしめた。欲望は限界まで高まり、部屋の空気は、俺たちの吐息の熱で、飽和していく。
まさに、最後の一線を越えようとした、その瞬間だった。
俺は、自らの意思で、ゆっくりと先生の身体から離れた。
「……っ、健太君……?」
息を切らし、潤んだ瞳で俺を見上げる先生。その表情には、戸惑いと、拒絶されたことへの微かな痛みが浮かんでいた。俺は、その美しい顔を両手で包み込むと、彼女の額に、自分の額をこつんと合わせた。
「ダメです、先生。……まだ」
俺の声は、欲望と、そしてそれを超える決意で、自分でも驚くほど低く、そして強く響いた。
「俺が、この試験に合格して、先生との約束を完全に果たして……。あなたと対等な一人の男として、もう一度、ここに来ます。だから……その時まで、待っていてください」
.
それは、単なる欲望から、彼女と対等な存在になりたいという、俺の人間的な成長の証だった。俺はもう、彼女から報酬を与えられるだけの、無力な生徒ではないのだと、そう伝えたかった。
俺の言葉を聞いた先生は、驚いたように目を見開くと、やがて、その瞳から、大粒の涙を、ぽろぽろと零した。それは、悲しみの涙ではなかった。俺の成長を、心から愛おしいと感じてくれた、喜びの涙だった。
その夜、俺たちは、決して一線を越えなかった。しかし、その代わりに、互いの魂を、これ以上ないほど深く確かめ合うような、より神聖な「誓い」を交わしたのだ。
俺は、先生の身体ではなく、「試験に合格して彼女を迎えにくる」という、未来への約束をこの胸に刻みつけて、彼女の部屋を後にした。
.
冷たい冬の夜道を、一人歩く。身体は、満たされなかった欲望の熱を、まだ持て余していた。しかし、俺の心は、不思議なほどに澄み渡り、そして静かに燃えていた。
試験へのモチベーションは、もはや単なる報酬のためではない。愛する女性との未来を、この手で勝ち取るための、聖なる戦いへと、完全に昇華されていた。
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