第3話 小さな悪だくみ


 九月に入り、定期試験の足音がすぐそこまで近づいてきていた。俺、山上健太は、人生で初めて「試験勉強」というものに真剣に取り組むふりをしていた。放課後の図書館の、窓際から三番目の席が俺の定位置になった。もちろん、それは純粋な向学心からくるものではない。全ては、新任の英語教師、早瀬葵先生と二人きりになるための、甘く、そして罪深い計画の一環だった。


 「健太がこんなに頑張るなんて、本当に珍しいね。私、すごく嬉しいな」


 俺が自発的に机に向かい始めたと信じ込んでいる幼馴染の佐藤陽菜は、心から嬉しそうに、そのふんわりとした頬を綻ばせた。彼女は自分の勉強があるにもかかわらず、いつも俺の隣の席に座り、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

 静まり返った図書館に、カリカリとペンを走らせる音と、ページをめくる乾いた音だけが響いている。西に傾いた太陽が、高い窓からオレンジ色の光を投げかけ、書架に並ぶ無数の本の背表紙をノスタルジックな色合いに染め上げていた。窓の外では、野球部が最後の練習に励む声が微かに聞こえてくる。そんな平和で、どこまでも健全な空間の中で、俺だけがよこしまな考えを頭の中で巡らせていた。古い紙の匂いに混じって、隣に座る陽菜の髪から清潔なシャンプーの香りがふわりと漂ってくる。その香りが、俺の罪悪感を静かに、しかし確実に刺激した。


 陽菜は、真剣な眼差しで分厚い参考書に引いたマーカーの線を、指で丁寧になぞっている。その真摯な横顔を見ていると、自分の下劣さがいかに場違いなものであるかを思い知らされるようだった。俺は教科書の文字を目で追うふりをしながら、実際には、心の中で「わざと間違えるべき問題」のシミュレーションを繰り返していた。あの先生の専門である英語で、それも、俺が本来得意なはずの文法問題で点数を落とせば、彼女はきっと俺の異変に気づいてくれるはずだ。そして、面談に呼んでくれるに違いない、と。


 「あ、健太。ここの関係代名詞のとこ、分かりにくいよね。ちょっとコツがあってね……」


 俺のノートを覗き込んだ陽菜が、自分のノートを広げて丁寧に教えようとしてくれる。色分けされたペンで描かれた可愛らしいイラスト付きの解説は、市販のどんな参考書よりも分かりやすかった。その純粋な善意と献身が、今は鉛のように重く俺の心にのしかかる。

 「ああ、本当だ。サンキュ、陽菜。助かるよ」

 俺は作り得る限りの感謝のこもった笑顔で応じながら、心の中では百度近く「ごめん」と繰り返していた。しかし、その罪悪感が深まれば深まるほど、反比例するように早瀬先生への想いは募っていく。先生のあの知的な横顔、眼鏡の奥で細められる優しい瞳、そして何より、あの夜に夢で見た、俺だけに向けられるかもしれない特別な微笑み。それを手に入れるためなら、どんな罰でも受けよう。俺の心は、そんな悲壮感に似た自己陶酔に浸り始めていた。先生に近づきたいという強烈な欲望が、俺のちっぽけな倫理観をいとも簡単に食い破っていく。「これも、先生に会うためなんだ」。その言葉は、俺の罪を浄化してくれる魔法の呪文のようだった。


 そして、運命の試験当日。シンと静まり返った教室の空気が、生徒たちの緊張を映している。試験官として、早瀬先生が静かに教室に入ってきた。カツ、カツ、と彼女のヒールの音が、俺の心臓の鼓動と重なる。教壇に立ち、教室全体を見回す先生の、眼鏡の奥の冷静な瞳。俺はその視線が自分に向けられるのを待ちながら、計画を実行に移す最後の決意を固めていた。

 試験開始のチャイムが鳴り響く。俺は、驚くほど冷静だった。問題用紙をめくり、本来なら数分で解けるはずの英文法のセクションに時間をかける。そして、いくつかの確実に正解できる問題を選び出し、意図的に間違った選択肢をマークシートに塗りつぶしていく。一つ塗りつぶすたびに、心臓が罪の色に染まっていくような感覚があった。

 ふと、隣の席に視線を移すと、陽菜が唇をきつく結び、必死の形相でペンを走らせているのが見えた。その真剣な横顔が、俺の胸を鋭く抉る。再び、自己嫌悪の黒い波が足元から這い上がってくる。だが、俺はその感情を振り払った。これは裏切りじゃない。俺が先生と出会って、もっと高みを目指すようになれば、結果的に陽菜にとっても良いことなんだ。そうだ、これは、俺の成長に必要な儀式なんだ。この不誠実さも、先生という存在を手に入れるための、俺なりの「愛の努力」なのだと、もはや支離滅裂な自己正当化の理論で、心を武装する。

 問題を全て解き終えた(ということにして)、俺はペンを置いた。残りの時間は、全て彼女を眺めるためだけに使った。答案を回収するためにゆっくりと教室内を歩く先生の姿、長い髪が揺れる様、スカートの裾が翻る様。その全てを目に焼き付けながら、俺は放課後の二人きりの時間を想像し、下腹部が熱くなるのを感じていた。


 最後のチャイムが、長い戦いの終わりを告げた。解放感から、教室のあちこちで安堵のため息や喧騒が生まれる。俺は、先生との面談が確実になったという高揚感に包まれ、静かに勝利を噛みしめていた。計画通りだ。廊下に出ると、人混みをかき分けるようにして、陽菜が明るい笑顔で駆け寄ってきた。

 「お疲れ様! どうだった? 英語、結構難しくなかった?」

 その屈託のない笑顔が、夕日に照らされてキラキラと輝いている。その輝きが、なぜか俺の胸をナイフのように突き刺した。

 「ああ……まあまあかな。ちょっと、やらかしたかもしんない」

 俺は、努めて平然と、しかし少しだけ後悔を滲ませるような声色で嘘をついた。計画が成功したという喜びと、一番大切な幼馴染を騙し続けているという罪悪感。その二つの巨大な感情の板挟みになりながら、俺はこれから訪れるであろう早瀬先生との特別な時間を想い、期待と不安に心を震わせるのだった。

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