第2話 憧れの新人教師


 翌日の一限目、英語の授業を前にした教室は、夏休み気分が抜けきらない生徒たちの気だるい喧騒に満ちていた。しかし、俺、山上健太だけは、その喧騒から完全に切り離された世界にいた。まるで戦いの前の静寂の中にいる兵士のように、俺は教壇だけをじっと見つめ、彼女の登場を今か今かと待ち構えていたのだ。

 予鈴が鳴り、本鈴が鳴り響く。その音と入れ替わるように、教室の前方のドアが開き、早瀬葵先生が姿を現した。その瞬間、昨日体育館で受けた衝撃が、より鮮明な現実となって再び俺の体を貫いた。


 「Good morning, everyone.」


 その流麗な発音は、まるで静かな湖に投げ込まれた一石のように、教室の空気を震わせ、俺たちの注意を否応なく引きつけた。俺は最前列の席ではなかったが、前のめりにならんばかりの勢いで、必死に身を乗り出して彼女の姿を網膜に焼き付けようとした。

 今日の彼女は、昨日とは違う、淡いグレーのスーツを着こなしていた。チョークを持つその白く長い指、流暢な英語を紡ぎ出す形の良い唇の動き、テキストに視線を落とした瞬間に伏せられる、驚くほど長いまつ毛。そして時折、話の句読点のように、その人差し指で眼鏡の位置をクイッと押し上げる、知的な仕草。

 授業の内容なんて、もはやどうでもよかった。俺は昨日までの自分とは別人のように、熱心にノートを取っていたが、そこに書き連ねていたのは、不定詞の用法でも、仮定法の構文でもない。彼女の一挙手一投足、その全てを記録するための、俺だけの観察記録だった。

 「健太、すごい集中力だね……どうしたの、急に」

 隣の席の陽菜が、呆気にとられたような顔で、ひそひそと俺に囁いた。彼女は、俺の視線が一切手元の教科書には向かわず、常に教壇の上のただ一点にだけ注がれていることに気づき、純粋な驚きと、ほんの少しの戸惑いを隠せないようだった。俺は彼女に曖昧に笑いかけると、再び意識を前方の聖域へと戻した。


 授業が進むにつれて、俺の視線は、より生々しい熱を帯びて彼女の身体の細部を捉え始める。黒板の高い位置に文字を書くために彼女が腕を上げると、白いブラウスの胸元が張り、その下に隠された豊満な胸の輪郭が、俺の想像力を掻き立てるようにくっきりと浮かび上がった。タイトなスカートに包まれた、丸みを帯びた臀部のラインは、教壇をゆっくりと歩くたびに、俺の視線を釘付けにするように蠱惑的に揺れた。そして、教室の前の方まで漂ってくる、甘いが爽やかさもあるフローラル系の香水の香りが、俺の鼻腔をくすぐる。

 知的な憧れと同時に、腹の底から、どうしようもなく生々しい性的欲望が湧き上がってくるのを、俺ははっきりと自覚していた。喉が渇き、心臓が早鐘を打つ。彼女の全てを知りたい、手に入れたい。そんな、ほとんど暴力的とも言える独占欲が、俺の中で静かに、しかし確実に芽生え始めていた。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、生徒たちが解放感と共にぞろぞろと教室を出ていく。俺は、逸る心臓を必死に抑えながら、その流れに逆らうように席を立った。勇気を振り絞り、教壇で教材を片付けている彼女に近づく。

 「あの、先生。さっきの不定詞のところなんですけど……ちょっと、よく分からなくて」

 用意してきた、ありきたりな質問。緊張で声が少し上ずるのが自分でも分かった。早瀬先生は、俺の方に向き直ると、その眼鏡の奥の瞳で、真っ直ぐに俺を見つめ返した。間近で見る彼女は、透き通るような肌のきめが細かく、吸い込まれそうなほど綺麗だった。

 「ええ、いい質問ね。山上君。ここは少し複雑だから、分かりにくいわよね」

 俺の拙い質問に対して、彼女は嫌な顔一つせず、それどころか嬉しそうに微笑み、驚くほど分かりやすく解説を始めてくれた。俺のためだけに、彼女の貴重な時間が割かれ、その優しくも芯のある声が、すぐそばで響く。その事実に、俺はこれまで感じたことのない、脳が痺れるような高揚感を覚えていた。単なる外見や身体だけでなく、彼女の持つ知性や誠実さ、そして生徒一人一人に向き合おうとするその真摯な姿勢に、俺はより一層、どうしようもなく強く惹かれていった。


 その日の放課後、俺は一人、進路指導室の前で息を殺して壁にもたれかかっていた。早瀬先生と直接言葉を交わしたことで、俺の漠然としていた「悪だくみ」は、より具体的で、揺るぎない目標へと変わっていた。

 ただ話すだけじゃない。二人きりになるんだ。そして、彼女に俺という存在を、特別な生徒として意識させる。そのためには、次の定期試験こそが絶好の、そして唯一の機会だ。俺の心は、これから始まるであろう禁断のゲームへの期待と興奮で、張り裂けんばかりに高鳴っていた。もう、あの退屈だった頃の俺はどこにもいない。

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