第4話 進路指導室の密約


 数日後の放課後。俺、山上健太は、職員室の前に立っていた。これから起こるであろう出来事への期待と、計画が綻びるかもしれないという不安が、心臓を不規則に脈打たせる。やがて、目的の人物である早瀬葵先生が、ファイルを手に出てきた。俺の姿を認めると、彼女は少しだけ眉をひそめ、普段通りの落ち着いた声で、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。

 「山上君、ちょっといいかしら。進路指導室で待っていて」

 その言葉は、俺の鼓膜を甘く震わせた。計画通りだ。俺は「はい」と短く返事をし、彼女に背を向けて、運命の部屋へと足を向けた。


 西日が差し込む進路指導室は、静まり返っていた。壁一面に貼られた有名大学のポスターが、まるで別世界の風景のように色褪せて見える。歴代の卒業生が残していったであろう、使い古された赤本が棚にぎっしりと並び、部屋の隅に置かれた観葉植物の葉には、うっすらと埃が積もっていた。俺はパイプ椅子に腰を下ろし、これから始まる尋問、いや、面談の時を待った。床に伸びる椅子の長い影をぼんやりと眺めていると、やがてドアが開き、葵先生が入ってきた。

 机を挟んで向かい合う。午後のオレンジ色の光が、彼女の艶やかな黒髪を輪郭どり、神々しいとさえ思えるオーラを放っていた。彼女は俺の成績一覧表をテーブルの上に広げると、真剣で、どこか心配そうな表情で俺を見つめた。

 「どうしたの、山上君。あなたらしくないじゃない」

 その優しい声が、俺の罪悪感をわずかに疼かせる。俺はうつむき加減で、指で制服のズボンの膝をいじるという、我ながら完璧な「反省している生徒」の演技を始めた。声は少し震わせた方がいいだろうか。いや、それだとわざとらしいか。思考を巡らせながら、俺は用意してきたセリフを、絞り出すようにして切り出した。

 「……すみません。なんか、最近……勉強が、手に着かなくて」


 俺の言葉に、先生はさらに心配そうな顔になる。彼女の真摯な眼差しに、俺の罪悪感と、計画がうまくいっていることへの背徳的な興奮が、胸の中で渦を巻いた。そして、俺は最大の爆弾を投下する。

 「先生のことばかり、考えてしまって……」

 その言葉を聞いた瞬間、葵先生の動きがぴたりと止まった。数秒の沈黙。やがて彼女は、はあと大きなため息をつくと、「あなた、おばさんをからかってるの?」と呆れたような声を出す。俺が本気だと訴えかけると、彼女は「ドッキリか何かでしょ。マイクとか仕掛けてるんじゃないの」と言いながら、椅子から立ち上がって俺に近づいてきた。そして、俺の制服の胸元や脇腹を、その白く長い指で探り始めたのだ。

 「せ、先生……?」

 突然のことに、俺は完全に不意を突かれた。葵先生の指が、シャツ越しに俺の肌に触れる。その柔らかく、少しひんやりとした感触に、俺の身体はびくりと強張った。身体が近づいたことで、彼女のフローラル系の香水の香りがより一層濃く感じられる。その奥にある、彼女自身の甘い体臭が混じり合い、俺の理性を鈍らせていく。彼女の髪が、俺の頬をふわりとかすめた。その瞬間、俺の身体の制御は、完全に脳から切り離された。腹の底から突き上げるような熱い衝動。それは、これまで溜めに溜め込んだ性的エネルギーの暴発だった。俺のペニスが、意思とは無関係に、熱を持ち、硬く、大きく膨れ上がっていくのが分かった。

 葵先生の手が、俺のズボンの股間部分の、その不自然な隆起に偶然触れた。彼女は「えっ」と小さく声を漏らすと、弾かれたように手を離し、顔を真っ赤に染めて後ずさった。俺は、自分の身体のあまりに正直な反応に、顔から火が出るほどの羞恥心を覚えた。しかし同時に、これが俺の本気度を伝える、何より雄弁な証拠なのだとも感じていた。


 「……ごめんなさい」

 気まずい沈黙を破ったのは、先生だった。彼女は自分の席に戻ると、動揺を隠すように、無意識に眼鏡を外し、こめかみを押さえた。普段の知的な印象とは全く違う、無防備で、どこか人間味のあるその仕草に、俺は心を奪われた。

 「あなた……本気なのね」

 「はい」

 眼鏡を外した彼女の瞳は、少し潤んでいるように見えた。俺が必死に食い下がると、彼女はしばらく何かを考え込むように黙っていたが、やがて、観念したかのように、しかし悪戯っぽく微笑んで、こう言った。

 「分かったわ。じゃあ……取引しましょう」

 「取引……?」

 「次の試験で、英語、80点以上取れたら……ご褒美に、キスしてあげる」

 キス。その言葉の破壊力は、俺の想像をはるかに超えていた。頭が真っ白になり、心臓が爆発しそうになる。俺が最初に「60点じゃダメですか」と弱気に交渉すると、彼女は少しむっとしたように眉をひそめた。

 「……私のキスって、その程度の価値しかないわけ?」

 その言葉に、俺は慌てて「いえ!とんでもないです!80点取ります!絶対に!」と叫んでいた。その必死な俺の姿がおかしかったのか、彼女は「ふふっ」と声を漏らして笑った。そのやり取りで、部屋の気まずい空気は少しだけ和らいだ。そして、彼女は照れ隠しのように、その形の良い唇を俺に向け、小さく投げキスをした。


 俺が進路指導室を出た時、西日は完全に沈み、廊下は薄暗くなっていた。まだ体に残る先生の指の感触と、鼻腔の奥に残る甘い香り。俺は、廊下の壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

 投げキス。あれは、本物のキスの、ほんの「序の口」に過ぎない。俺の頭の中では、キスの先の行為、つまりセックスが、最終的な、そして絶対的な目標として明確に設定されていた。「80点でキスなら、満点を取ったら、一体どうなってしまうんだ?」。葵先生との「密約」。それは、これまで退屈だった俺の人生に、初めて生まれた、燃え上がるような目標だった。俺は、薄暗い廊下で一人、静かに、しかし力強く拳を握りしめた。

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