21 震えを超えて

 午前の診療がいつも通り押し気味の時間で終わり、昼休みに入った。午後には入院患者の回診が控えている。悠馬は昼食を急いでかき込んでしまおうと食堂へ急いだ。

 エレベーターに乗り、ドアが閉まる。下降と同時に胃が持ち上がる感覚を覚えた。これが慣性の法則だとしたら。エレベーターの下降はあまりにも緩やかすぎる。胸が締め付けられる。大きく息を吸うのに力がいる。強烈な吐き気を催した。脂汗が額に滴る。悠馬はあらゆる階のボタンを連打した。そして、すぐに最寄り階で止まったエレベーターから飛び出した。

 トイレに駆け込むと、体の震えが止まらなくなった。ガチガチと鳴り続ける歯を食いしばることができない。脂汗が額から垂れ、目の中に入る。

 夜眠る前に動悸が激しくなることも、頭の中が冷たく冴え渡り、じっとしていられないことも、今までに何度もあった。しかし、どれも今ほどの唐突さでも激しさでもなかった。

 原因は自分でも分かりきっている。自分が父親になることへの重圧だった。

 落ち着かなければいけない。そのための根拠はいくらでもある。一つ一つ、具体的に挙げて検証すればよい。悠馬は深呼吸を十回繰り返した後、目を瞑り、思いを巡らせた……。

 まず、これは誰もが経験することだ。実際にこの病院でも赤ん坊は次々と生まれ続け、それを機に新しい父親になる者だって何人もいる。自分よりも若い者だって小さい者だってたくさんいる。そういえば、中学生の時に一緒に悪さをした同級生のあいつも、俺が大学に入るか入らないかという時に父親になったと風の噂で聞いた。将来のことなんて関係ない、今が全て。俺だってあの頃はそうだった。それが、一体いつからどうしてこんなに、余計な先回りばかりするようになってしまったんだろう。

 まてよ。誰もが? それをあの先輩、青峯先輩に言ったら彼は渋い顔をするのではないか? 俺よりも五年先輩だったか。俺が研修医になった時にはもう結婚してたから結構長いな。子供がいるって話は聞いたことがない。ちょっと前に4LDKの家を新築したと言ってたが。レントゲン技師の誰だっけ? あいつか。そんな広い家に二人だけで住むなんてもったいないから早く子供がほしいですよねーとかいいやがった。誰もが気づかない振りをしていたが、青峯先輩の微妙な表情に、あいつ以外の全員に気まずい空気が流れた。でも、先輩ならきっと、俺を羨ましいと思いつつも心から喜んでくれるだろう。

 俺は俺と真綾の子供が欲しいと心から望み、今、その通りになろうとしている。でき婚じゃない。ずっと望んでいた結果がこれなんだ。うまく行きそうな時は、こうやって妙な揺り戻しが起きるものだ。不満でも現状維持が一番安全っていう本能みたいなやつだ。

 それに……真綾は今、俺の何百倍も大変だ。妊娠高血圧症候群という厄介な病気とも闘っている。一日一日、いや一時間、十分ですら、真綾にとっては長く苦しい時間だ。俺のこんな、動悸とか吐き気とかそんなものの比じゃない。幸い、血圧も落ち着いてきた。本当に今までよくがんばった。あいつは否が応もなく、あの大変な出産と病気を、途中で抜けることなんか許されず、乗り越えてきた。もう少しだ。俺だったら真綾になれるか? なれないかもしれない。でも、なれないかもしれないような男じゃだめなんだ。そうだ。出産で一山越えたら、俺が何か料理を作ってあげなくちゃ……。

 それにしても、なぜこのことが俺の頭の中で最初に出てこなかったんだろう。俺はこの期に及んでも尚、真綾と子供よりも自分の心配をしている。こんなことで父親が務まるのか。家族を守れるのか。これはとっさの判断。反射みたいなものだ。俺は常日頃から、真綾と、生まれてくる子供のことを最初に考えてあげられるように、思考を鍛えなければならない。そうしないと、いざという時に、逃げる。

 子供はもう生まれる。戻ることはない。たった今、この瞬間に俺は成長しなければならない。前に進まなければ。

 悠馬は、腰掛けていた洋式便器から敢然と立ち上がった。奥歯はしっかり噛みしめられており、震えは全くない。足も背筋もまっすぐに伸びている。額に湿り気が多少残るものの、発汗は止まった。

 個室のロックを解除し、外に出ようと扉を開けた。意気揚々、颯爽と歩く。本来であれば今こそが、幸せの絶頂だ。苦しんでいてはもったいなさすぎる。さあ、早く今日の勤めを滞りなく終えて、真綾の元に。

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