20 父になる日
「お母さんこれ見て下さい。亮太君の肺の写真です。ちょっと曇ってますよねここ。肺が炎症を起こしてるんです。今回は注射……ちゅうしゃで対応します」
福田悠馬が指すディスプレイには、患者の肺の写真が映っている。
「ちゅうしゃ」患者の亮太は顔をひきつらせながら、小声で悠馬の顔を見上げる。
「うん。注射」
悠馬は亮太に微笑んで答えると、母親に向き直る。
「それから抗生物質を三日分出すので、必ず三日全部飲ませて下さい。それでもよくならなかったら……すみません。言い方が抽象的でした……一度でも咳が出たり、熱が37度以上出たら、もう一度いらっしゃって下さい。途中でよくなっても薬は全部飲みきって下さい。じゃ、隣の処置室で注射……ちゅうしゃをするので、どうぞ。こちらへ」
亮太は母親におびえた視線を向けている。
「大丈夫よ。すぐに終わるから、さ。隣のおへやにいこうね」
母親は息子を優しくなだめ、立ち上がる。
「どうもありがとうございました」
亮太も小さく礼をするが目がおぼつかない。二人は仕切の白いカーテンを開け、診察室を退出する。
「中村大輔さん、中へどうぞ」
悠馬の呼びかけで次の患者がやってくる。
「やだー! こわいよこわいよ」
隣から亮太の悲鳴が聞こえる。還暦をとうに過ぎた中村さんという男性は苦笑いする。
「吸って下さい、吐いて下さい……」
「やだー! ギャー」
「……もういちど、お願いします」
「やだ!! やだやだー!」
「……すみません、もういちど」
「ああああーっ!」
中村さんは息をつきながら「どうですか」と尋ねる。表情は少し固い。
「すみません。二分だけ時間を頂けますか」
悠馬は中村さんに一言断りを入れると、隣の処置室に入った。
「亮太君、注射は痛いかい」
「やだ、痛いよー!」
「もう打ったのか、痛かったかい、もう6歳だもんな。えらいなー」
「やだ、痛いからうたないもん」
「なんだ、まだうってないのかー。泣くなら打ってからじゃないとだめだなー。むちゃくちゃ痛いぞー」
「やっぱり痛いの?」
「ああ、痛いよ。死ぬかと思った。先生もこないだここに注射したんだよ。ほらみて。ここに傷がある」
白衣を脱ぎ、左腕をまくる。腕の付け根を示すが傷らしきものはない。
「どこ?」
「亮太君の腕にも同じ傷があるんだよ。ほら」
「傷なんかないよ?」
亮太は何が何なのかわからないまま、自分の左腕をまくってみるが、傷などあるはずがない。悠馬はすかさず亮太の腕にアルコールを塗った。
「塗ると傷が見えるんだよ」
「本当?」
そう言って、少し離れた場所にいる看護師に目で合図すると亮太の腕を押さえる。
「ほら、注射」
「ぎゃー、痛い! いやだー!」亮太は声を振り絞る。その瞬間に注射針は抜ける。
「終わったよ。痛かっただろう? がんばったから好きなだけ泣いていいよ。じゃあお大事に」
悠馬が頭を撫でるが、亮太は泣きやまない。母親は戸惑い気味にお辞儀をすると、亮太の手を引いて退室した。
「子供だからって、あんな騙すようなやり方ってどうなのかしら?」
診察室をのぞき込んだ事務職員が、使用済みの注射針をダストボックスに捨てようとする看護師に小声で尋ねる。悠馬には聞こえていた。
「僕は子供には正直に、注射は痛いよって言ってるんで。騙したりはしてないですよ」
悪びれることもなく、悠馬はにこやかな声で答えると、隣の診察室に戻った。
「さっき、胸の音を聞かせて頂きましたが、前回よりだいぶよくなっています。お薬は量を半分に減らしてあと一週間飲んで下さい」
ディスプレイに表示された二つの波形を示しながら、悠馬は説明した。上半分の波形よりも下半分の方は振幅が目に見えて少ない。こまめにうなずきながら中村さんの表情が緩くなっていくのが悠馬にもわかる。
「じゃ、これで……」
診察を終えようとした時だった。
「そういえば、先生の奥さんはお元気ですか」
悠馬の妻である真綾は、ここ東三河医科大学付属病院の産婦人科に入院している。
「ええ、おかげさまで……今日、予定日なんですよ」
つとめてにこやかに返す。実際の感情とは関係のない感情を装い顔に出すことは、研修医として患者と接する内に、次第に覚えてきた。とはいえ、なじみの患者に自分のことを気にかけていてもらえたことは素直にうれしかった。
「そうですか、おめでとうございます。もう、今日は仕事どころじゃないですね」
「それがですね、同じ病院内なんで、すぐに駆けつけられちゃうんですよ。便利なのか休めなくて残念なのかどっちなんだって感じですが」
はやる気持ちを抑えようと、逆に素っ気ない口調になってしまったことに、悠馬自身も気づいた。
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