22 浅瀬に囲まれた大陸
洗った手をハンカチで拭きながら、洗面所の鏡に映る白衣姿の自分を確かめる。医者であると同時に研究者でもある自分を思い起こす。足が止まった。
生まれてくる子供は、悠馬の研究の産物でもあった。昨年の秋、悠馬が自らの手で極秘に体外受精の手術と、受精卵に対しての遺伝子の組み換えを行った。外部から見れば、それは、研究室で行われる普段の実験と何の違いもないはずだった。扉の向こうに真綾がいたとは誰も知らないし、予測する者もいないだろう。秘密を守ることには自信があった。
だが、もしこれが大学当局に知られてしまったら、悠馬はもうここにいられなくなるのは間違いないだろう。
人間に対しての遺伝子の組み換えは、人類の理性として長年にわたって自重され続けてきた。それを破ることは究極のルール違反であり、種としての人類のあり方に大きな禍根を残すことになる。浅瀬に囲まれた大陸。申し合わせてあえて誰もが足を踏み入れてこなかった領域。悠馬だけが立ち入ってしまった。遺伝子操作による先天的な異常、難病や障害のリスク。悠馬も十二分の承知だった。
際限なく遺伝子の操作を行うことで、人間としてのあらゆる能力を最上位の領域にまで高めた種を生み出すことも、不可能ではなかった。しかし、悠馬はそういうことには興味を持たなかった。彼は自身と真綾がお互い不完全な人間であることを知っていたし、そんな二人をお互いに愛していた。だから、二人の基本的な資質を遺伝子操作によって変えてしまうことはしなかった。
ただし、健康についてだけは考えが別だった。悠馬は医師である。病の苦しみがいかに深く重いかという事実、そして、どんなに金や時間を積んでも健康だけは買うことができない貴いものであるという事実を、短い医師経験の中であっても幾度となく噛みしめた。愛する我が子にだけは、たとえ大学当局や医学界、世界や歴史を敵に回してでも、それで誰かを傷つけるのでなければ、健康という最大の贈り物を届けたかった。彼が遺伝子工学を志したのもそれがきっかけだった。
研究の日々は続いた。誰よりも努力したという自負はあるが、そんなことは誰にも言う必要はなかった。成果は誰からの賞賛でも金でも名誉でもなかった。子供の健康。ただそれだけだった。遺伝子操作の失敗による重大な事故は絶対にあってはならない。理論の検証だけでなく、実験データの検証には万全を期した。スーパーコンピューターによる遺伝子複製のシミュレーションも、結果は万全だった。
そして、シミュレーションの過程のデータは全てきれいに削除した。もうこれ以上、検証の必要はない。後は、生まれてくる子供を待つだけだった。
前に向き直り、トイレのドアに手をかける。視野の右隅に自分の姿が鏡に映るのがわかる。
手は止まった。
まだ間に合うのではないか。
子供を殺してしまえば……。霧が晴れるような感覚が一瞬あった後、胃の奥から熱くこみ上げるものがあった。それだけは断じてあってはならない。俺の気は確かだ。
そうだ……もしやるなら、もっと前でなければならなかったはずだ。そんなことを言う自分がもう一人いた。
いや、人類の未来を考えれば今でも遅くない。膝が震え始める。内腿の筋肉が吊りそうになる。トイレの扉の白い壁が視界を支配する。
子供を殺して自首する。俺と真綾は終わりだ。医師免許を返上し、俺の医師としての生活も終わる。俺は大学の名に泥を塗ったまま立ち去る。親も泣くだろう。
しかし、それでも、それを遙かに大きく上回る、将来の人類への利得があるかもしれない。人類に対しての遺伝子汚染のリスクは……それはあくまでもリスク、可能性に過ぎない……何千何万…もしかしたら何億分の一の……それはゼロとなる。……少なくとも、俺自身の責任においては。
目の前の扉が前に開いた。見ず知らずの外来患者がいぶかしげに悠馬の姿を見る。
悠馬は我に返る。軽くお辞儀をして、扉をくぐり抜ける。トイレの中は外よりも若干、冷房の効き目が甘かったようだ。そのぬるい空気と共に、たった先ほどまで考えていた危険な考えを置いてきたような気になれた。
廊下には真夏の厳しい陽が差し込む。管理された空調によって空気は涼しく、湿度も適正な状態が保たれている。顔が陽の光を吸い込む感触を味わいながら悠馬は歩き、考える。
危険な考え。どちらともとれるだろう。他人事のようにすら思った。むしろ、最大の危険に対して突き進んでいるのかも知れない。だが、今は自分の進む道を信じている。生まれてくる子供を暖かく迎え入れる覚悟はある。たった今まで揺れていた自分の自信は一体何だったのだろうか。どうでもよかった。
足を止め、窓の外を向く。肩を広げ、陽の光を全身で受け止めた。深呼吸をした。心の奥底で澱んでいたものが澄み渡っていく。
窓から見える向こうの棟には真綾が子供と一緒にいる。この光を二人にも早く届けたい。早く二人に逢いたいというこの気持ちと共に。
胸ポケットの携帯電話が震えた。
「ね、もうちょっとだよ。本当……あとちょっと。もうすぐだから……ね」
悠馬がすぐに電話に出たことで、真綾は彼が午前の仕事を終えたことをわかっていた。
初めて真綾に逢った瞬間が脳裏に浮かぶ。悠馬が深夜当番医だった時に救急車でかつぎ込まれたのが真綾だった。
点滴を行い、苦痛に顔を歪ませる真綾を悠馬は励まし続けた。医師としての使命感、恐れ、他人への無責任な愛情、あらゆるものが入り交じった感情で一杯だった。時折目を開いたかと思うと、思い切り閉じる。声とも呼吸音ともつかない、彼女のかすかな息づかい。ふと自分を横目で見つける彼女の姿に心を奪われた。後から悠馬が思い起こす限りでは、医師としての冷静さを欠いていたことは明らかだった。
「大丈夫。僕がそばにいるから」
あの時、悠馬の口からつい漏れた一言だった。真綾は脂汗を流しながらも、明らかに戸惑いの表情を浮かべ、そして、笑った。気がつくと、悠馬は真綾の冷たい手を強く握り締めていた。
たった今、悠馬は同じ言葉を口にした。
「そう言ってくれるって思ったよ。ふふっ。……待ち遠しいね。早くこないかなあ楽しみだね!」
潤みがちな真綾の声は明るくはじけた。
悠馬の口からはもう、真綾の名前しか出てこなかった。今はそれでいいと彼は思った。
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