15 赤く染まる夜明け

 夜明け前の窓辺で白いカーテンが、外の赤い光に染まり、穏やかに波打つ。ベランダに、洗濯物はない。

「なーにが、心配するなっ……だ」

 ベッドの上で横たわったまま、瑠夏は腕を空中に伸ばし、勢いよく起き上がった。丁度先週の今日、目の前にあった利仁亜の両手、伸ばした彼女の両手を固く掴む利仁亜の両手は、そこにない。

 彼とはお茶の水駅で別れたきりだった。お互いにどちらからも連絡をとることはなかった。既に一週間が経っていた。

 心の表層では、もう過ぎたことだと割り切ったつもりだった。日に日に、その考えは心の奥底まで塗りつぶしていく。しかし、わずかに底の底にまでは届かなかった。彼は詩織と別れるために今、一人で苦しんでいる。きれいさっぱり片をつけてから、初めて私のところにやって来る。彼は中途半端な気持ちで私に連絡をよこさない。だから、静かに待つのが一番いい。

 カーテンの白い波はなくなっていた。風はない。首筋や額が汗ばんできた。部屋の中は目覚めた時よりも大分明るい。

 空は勝手に明るくなり、風は勝手に止んだ。今の何もしない自分の態度は、彼を諦めたとも待っているとも、どちらにでも取れる。ずるいのだろうか。自分から行動を起こして白黒をはっきりさせるべきではないだろうか。

 ベッドの脇に置いてあったスマートフォンに手を伸ばす。タッチパネルに指を滑らせ、利仁亜に電話をかけようとしたが、やめた。脱ぎ捨てたスカートの上に放り投げた。

 瑠夏は思い出す。そういえば、こんな二十一世紀初頭の古い技術に、利仁亜は興味を示さなかった。

「スマホ? そんな古くてごついやつ使うのは、さすがに南海トラフ地震の時まででしょ」

 その一方で義父が言ってたことも思い出す。

「枯れた技術は安定してる。未知の新技術にはリスクもある。ま、俺は仕事でさんざん思い知らされてきたからな。新しいものに振り回されるよりずっと安心だ」

 IT機器の高機能化は、国民に情報格差のリスクをもたらした。次々と現れる新しい機器やメディアに疲弊する情報弱者が社会的な問題となった。煩雑なアップデートや新しい機器の購入を頻繁に促す形で、一部の情報技術産業は利用者から不当に利益を搾取しているのではないかという疑惑も噴出した。

 日本に致命的な打撃をもたらした南海トラフ地震が発生した二〇三五年、日本政府は復興政策の一部として、その時点で既に過去の技術となりつつあったスマートフォンのOSを一斉に民間から買い上げた。国営でバグ修正とアップデート、機器の供給と保守を行う体制を整備した。この年から百年後の二一三五年までは、スマートフォンによって必要最低限の情報インフラを国民が利用できることを保証した。この政策は「IT基本保証制度」と呼ばれた。いわばITインフラのベーシックインカムに近い位置づけだったため、略してBIと呼ばれることもあった。

 もっとも、このBIという呼び名には、古いものにこだわり続けたり、進化に追いつけない者に対する揶揄の意味合いの方が強かった。

 瑠夏の義父は「IT基本保証制度」の構築に携わっていた技術者だった。

 携帯電話端末はスマートフォン以外にも、様々な形のものが開発されていた。利仁亜が通学電車内で使っていたスケールにも通話機能が存在する。それに対してスマートフォンは二〇三五年以降、ハードもソフトも何一つ更新は行われていないが、最も安定したインフラとして、一定数の国民の生活を支えていた。

 瑠夏のような女子大学生が「時代遅れの」スマホを使い続けることは極めて例外的とも言えた。

 スカートの上のスマートフォンが振動する。脱ぎ捨てられたスカートの起伏は振動によって少しづつ形を崩す。振動は続く。瑠夏は飛び起きてスマートフォンに手を伸ばす。

「利仁亜?」

 自分から先に名前を呼んでしまったことに気づく。二秒間の沈黙。気持ちが張りつめる。

「話したいことがあるんだけど、いい? 学校で」

 利仁亜の口調は普段通りだった。瑠夏は、電話に飛びついた自分が何だか恥ずかしかった。

 夕方、大学のキャンパス脇にある児童公園で二人は待ち合わせることになった。

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