14 微笑みは私が選ぶ

 幼少の記憶が瑠夏の脳裏に蘇った。

 シャッターが降りた暗い窓。閉ざされたベランダ。奪われた景色。

 声を振り絞って泣いていた。隣に住んでいた男の子とベランダで指切りをしようとして、義母に無理矢理引きはがされた。ベランダから部屋に押し込められたると、カーテンにしがみ着いた。たまりかねた義母は瑠夏の頬を平手打ちした。義母があんな風に手を挙げたのはあの時が初めてだった。泣き声は悲鳴となった。涙で濡れる顔をカーテンに押しつけ、義母の手を必死で振り払おうともがいていた時だった。

「おとうさんはね! ぜったいどっかにいるよ! いるからね! だからだいじょうぶだよ!」

 隣から男の子の声が飛び込んだ。その言葉を信じられそうな気がした。信じることで強くなれると思った。彼の声をもっと聞きたくて、瑠夏は泣くのをやめた。しかし、それ以上、声は聞こえなかった。

 次の日からベランダはシャッターで固く閉ざされ、二度と開けることは許されなかった。

 あの男の子とは登下校時に偶然会うこともあった。最初はうれしくて、立ったままおしゃべりを続けていた。義母は陰でそれを見ていた。

「あっちの子と遊んじゃダメって何度も言ったでしょう!」

 家に帰れば、きつく叱られた。その度に、瑠夏はあの暗い部屋に閉じこもり、毎日泣いていた。明かりをつけようと思えばつけることができたが、彼女はそうしようとしなかった。

 ある日も同じように瑠夏が泣いていると、突然、熱のない白い光で部屋が満たされた。まぶしさに顔を手の甲で覆った。義母が部屋の入り口に立っていた。瑠夏が振り返ると、義母はゆっくりと歩み寄り、瑠夏の前で正座した。

「どうしてもあっちの子と遊びたいの?」

 瑠夏はうつむいたまま口を結んだ。

「あっちの子達と遊びたいなら、あっちで暮らせばいいわ。あなたはあっちの子達とはちがうのよ? お父さんだって、ちゃんと勉強してほしいって天国で困って……」

「お父さんは、本当のお父さんはどっかで生きてるもん!」

 うつむいたまま瑠夏は叫んでいた。怖くて顔を上げることができない。義母は黙っている。自ら呼吸を繰り返す音だけが響く。

「まだそんなことを言ってるの! 目を覚ましなさい!」

 義母の鋭い声が飛んだ。瑠夏はうつむいたままぎゅっと目を瞑った。沈黙が破られた安心と恐怖が入り交じる。

「お前のお父さんがもし生きてれば、何をなげうっても真っ先にお前のところにやって来るに決まってますよ! それは優しくて賢い立派な方だったんですよ。でもね、それでもね、お前の側に来てあげられなかったの。もういない、ってことなのよ」

 義母の声の調子が次第に穏やかになってくることで、瑠夏は落ち着きを取り戻しつつあった。恐る恐る顔を上げると、義母はじっと瑠夏の目を見据えていた。今捕らえられたのではない。ずっと捕らえられていたのだ。逃げられないと思った。

「世の中にはどうにもならないことがいっぱいあるのよ。泣いても誰も助けてくれないの。でもね、誰も助けてくれなくても、お前一人がしっかりすれば大丈夫なの。お前がそういう大人になれるように、おじさんとおばさんだって必死なの。学校だって、いいとこに入れてあげたでしょう? 試験は大変だったけど、お前も本当によくがんばったわ。だからいい? いつまでも泣いてちゃだめ。しっかりしなさい!」

 恐る恐る、瑠夏は義母の前で正座をしていた。それは義母に対しての従順さから、というよりは反骨心からだった。こうして義母が送り放ち続ける、何か得体のしれないものによって、自分の身が飲み込まれてしまうような気がした。どうしてもそれは避けたかった。義母に飲み込まれたくはなかった。

 義母が部屋を出た後、生まれて初めて足がしびれたが、決して正座を崩そうとしなかった。

 親としての本当の愛情を注げるのは義母や義父ではなく、血の繋がった親しかいない。瑠夏は誰に教わったわけでもなく、頑なにそう信じ続けていた。一方で、誰も助けてくれない、という義母の言葉を真実として受け入れつつあった。義母を受け入れたくないが故に、結果として父の死を受け入れることになった。

 結果として今、瑠夏がこうして東京の大学に通うことができるのも、まさしく義母と義父のおかげだった。あの時、あれほど彼らに反発していた瑠夏は、今では二人に深く感謝している。

 瑠夏は自分に言い聞かせた。泣くことで望みは閉ざされる。誰も助けてくれなくても私は平気でいられるように。私は平気でいられるから。私は泣かない。

 瑠夏の歩く先から、同い年ぐらいの男が歩いて来るのが見えた。人混みの中、彼の細い目は瑠夏の姿を遠くから捕らえ続けている。見とれているのだろうか。彼女にとってはよくあることだった。つい、彼を利仁亜と比べてしまう。この暑い中、長袖の白いワイシャツに茶色いコーデュロイ。表情にはまだあどけなさが残っている。それを誤魔化すかのような無精髭に可愛らしさすら感じた。

 妙な気まぐれが瑠夏を誘惑した。いつもは、こういう男達を静かにやり過ごしているが、今日はちょっと違うことをしてみてはどうだろうか。いや、くだらない。先ほどの利仁亜と詩織の抱擁が頭をよぎる。振り払いたい。彼らに私の心を動かされたくない。私は私が笑いたいから今、笑う。人は私の心から動く。私が動かす。

 ほら、そこの君。すれ違いざまに瑠夏は彼に微笑みかけていた。彼は目を白黒させ、顔を紅潮させる。何事もなかったかのような仕草など彼にはできなかった。あからさまにうつむいた表情で瑠夏の横を通り過ぎる。瑠夏には、彼の心の内が手に取るようにわかる気がした。

 彼は今、夢にも思わないであろう。彼女がたった数十秒前まで、思い切り泣き出すのをぎりぎりまでこらえていたとは。


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