13 振り返った視線
電車はトンネルを抜けた直後の停車に備え、ブレーキをかけた。瑠夏は利仁亜にわざとらしくよろけるが、利仁亜は瑠夏の腰を左手で難なく抱えた。その時、利仁亜の指の先が予期せず瑠夏のTシャツの内側に入り込み、熱い素肌に触れた。瑠夏の表情がかすかに甘く溶けた瞬間を利仁亜は窓ガラス越しに捕らえた。同時に、彼を見つめる冷たい視線が、利仁亜より四人右の乗客から発せられていることに気づいた。
詩織だった。気づいた瞬間、その乗客は利仁亜に向けて上目遣いに小さく首を傾げた。
間違いない。利仁亜が確信したと同時に、車窓は光に満ちあふれた。混雑した車内で利仁亜は詩織がいるはずの場所を振り返ったが、彼女の姿を見つけることはできなかった。
電車は四谷駅に停車した。半分ほどの乗客がこの駅で降りてしまったので車両の中をだいぶ遠くまで見渡せるようになったが、それでも利仁亜は詩織の姿を見つけることができなかった。周囲を見回す様子を瑠夏に問いただされないだろうかと利仁亜は心配したが、そうはならなかった。
ただ、二人はその後、お茶の水駅で電車を降りるまでずっと無言だった。
駅の改札をくぐると、利仁亜は駅前のスクランブル交差点を渡ろうとする詩織の後ろ姿を見つけた。咄嗟に走り出そうとして前に出る足を止め、瑠夏を振り返った。
「ちょっと先に行くから」
えっ? 瑠夏は驚いたが、表情だけが先走り、声を出す間もなかった。
「ねえ、約束だよ?」
瞬時の間の後、瑠夏自身でも信じられないほどの弱々しい声が、瑠夏の口から出た。
「うん。下着のことは気にするな」
声は利仁亜にちゃんと届いている。強ばっていた表情がほどけた。
利仁亜は交差点の雑踏の中に飛び込んで行った。その姿を後ろから見守っていた瑠夏は、交差点に足を踏み入れる直前で立ち止まった。深呼吸を一度だけして、小さくうなずくと再び歩き出した。
点滅していた青信号は赤になった。人々は皆、向こう側に足を急がせる。向こう側からも人々は次々と流れ込む。
例外があった。瑠夏はその姿を横目で捕らえた。利仁亜と詩織だった。先を歩いていた詩織と、彼女の左手を後ろから掴んだ利仁亜は前を向いたまま立ち止まっていた。
瑠夏は立ち止まらなかった。振り返らなかった。約束通り、利仁亜は詩織との決着をつけ、何の後ろめたさもなく私のところにやって来る。そう信じていた。
交差点を渡り切った。振り返ってはいけない。彼を信じよう。なのに鮮明に蘇ってしまう。さっきの四谷からお茶の水、あの無言の時間。上の空の利仁亜の姿。
大丈夫? 彼への心配と思いやり。確かにそれはお互いの間に必要不可欠。だが、今のそれは彼を信じられない言い訳にすぎない。
もう遅かった。交差点を渡り切り、歩道のブロックに足を踏み入れてばかりの瑠夏は二人を振り返っていた。利仁亜と詩織は交差点の真ん中に取り残されていた。信号待ちの車が交差点にゆっくりと流れ込み始める。
もっとも迂闊な瞬間だった。瑠夏の視線を詩織は捕らえてしまった。利仁亜は全く気づいていない。どうして? 利仁亜は気づいてくれないの?
詩織が瑠夏に微笑んだように見えた。詩織は利仁亜を抱きしめ、背伸びをして彼の唇を自らの唇で引き寄せた。
利仁亜の両腕が詩織の背中を堅く捕らえた。
「利仁亜の馬鹿!」
そう叫ぼうと息を吸い込んだ瞬間、リムジン然とした黒塗りの大型セダン車がクラクションを切れ目なく鳴らし続けながら交差点を突っ切って行った。
固く抱き合った二人は交差点の中心でぴったりと動きを止めた。彼らの前後左右を車列が次々と、元々何もなかったかのように通り抜けて行く。
瑠夏はきびすを返し、学校に向かって歩き出す。いつか将来こんなことがあっても、決して涙は流さない。昔からそう決めていた。泣けば泣くほど、望みは閉ざされる。そう学んだつもりだった。
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