12 ガラス窓に映る影
瑠夏と利仁亜は自宅最寄りの警察署に被害届けを出した後、それぞれ別にある一限の授業を受けるため、大学に向かった。商店街のある表通りから一本奥に入り、静かな住宅街の狭い通りを二人で歩いた。一限の授業には、まだ十分な時間があった。二人の足取りはゆっくりとしていた。出勤途中の会社員達が次々と、早足で二人を追い越して行く。
駅に着くと、中央線の東京行き快速電車に乗り込んだ。利仁亜は吊革につかまったまま胸ポケットから電子書籍端末を取り出した。折り畳み式の物差しのような機器を広げると長方形の枠のような形になり、スイッチが入る。枠の中には機器の側面から発する光により、書籍のデータが表示される。中に指を入れると、ページの移動や内容の拡大縮小、文字の書き込みなどができる。
この機器はスケールと呼ばれている。形状が定規に似ていることを理由に、十年前に初めて発売された時からそう呼ばれていた。広く普及した結果、スケールという単語には、本来の意味である定規よりも、この電子書籍用端末の意味合いの方が主になっていた。
利仁亜は神妙な表情で画面に見入っては、時折その中に指を差し込み、文字を書き込んでいる。横から瑠夏がのぞき込んだ。
「え? それ正規表現……基礎? 全学部一年で必修のアレ?」
数秒遅れて利仁亜は面倒くさそうに答えた。
「こういうの文系だから苦手なんだよ」
「それ、言い訳だよ。私だって文系か理系かって言われれば文系だし……でもさ、文系理系ってリアルな会話で聞いたり使ったりするの、もしかして今、初めてかも」
「あ、そう」
利仁亜は顔をしかめながら練習問題の解答に取り組んでいる。電車は荻窪に停車し、さらに乗り込んだ人の波に押し込まれ、二人は肩を密着させた。
「まだ単位取れてないの? てゆーか、それ落としても三年まで進めるの、文学部って。仕組み的におかしくない? 法学部だったら授業についてけないよ。授業中、口頭で正規表現使う先生だってけっこういるし」
「別に、これ再履修の奴って俺以外にもけっこういるけどね」
「正規表現をわかってなくて、他の科目のレポートとか書けるの? そっちの方が逆にすごいわ」
「ま、法学部はどうなのか知らないけど、俺は文学部だからね。それで何とかなってるの」
「レポートに小説や詩を書くんだ」
「なわけないだろ。レポートの時はレポートの時で調べながらに決まってるだろ」
「えーっ、それで本当に卒業できるの?」
「うるさい、ちっと黙ってろよ」
利仁亜はムッとして瑠夏を制し、瑠夏はわざとふくれっ面をした。
電車が新宿駅のホームに停車すると、半分ほどの乗客が降りようとして動き出した。降りようとする他の乗客達に二人は押される。利仁亜は他の乗客のじゃまにならないよう瞬時にスケールを畳み、胸ポケットにしまい込んだ。
正規表現は、二十一世紀半ばの日本においては、あらゆる分野の学問や技術と密接に関わる、必須の言語技術となっている。ただし、小説や詩などの芸術作品に限っては例外とされていた。正規表現が使われていない時代の作品は正規表現を使わないことによってこそ味わえるものであり、新たな作品についても、あえて正規表現を使わない、言葉の持つ旧来のあいまいな機能や雰囲気にこそ文学の面白味が存在する、と考えられていたからだった。もっとも、批評や評論の分野に関しては、その対象が文学や芸術であっても、正規表現は十二分に活用されていた。
新宿駅を出た電車は四谷駅手前のトンネルに入った。左側に瑠夏、右側に利仁亜が寄り添って立つ姿が窓ガラスに浮かび上がる。
「私と利仁亜って背の高さも肩幅もほとんど変わんないよね」
「ああ、そうだな」
利仁亜の身長は百七十八センチで瑠夏は百七十五センチだった。どちらも華奢なタイプではないし、高校時代、水泳で鍛えていた利仁亜も体力と健康には自信があった。しかし、彼は瑠夏に出会って上には上がいると驚いた。瑠夏は小中高校と学校を欠席したことがなく、彼女自身の記憶の限りでは風邪をひいたことが一度か二度しかないという。彼女の健康の秘密は、あの高い平熱にあるのではないかと彼は思っている。
「もっとちっちゃくて細くって、守ってあげたくなる感じの方がいい?」
「いいや。俺はお互い対等に切磋琢磨するような関係の方がいいけど」
利仁亜は彼女の問いかけに対して、無意識の内にすんなりと答えていた。
「本当ぉ?」
問いかける瑠夏の口調はにやけている。
「お前に会ってから、そういう風に考えが変わった」
たった今自分が答えた言葉の意味を瞬時に咀嚼し、気恥ずかしくなりそうだったが、つとめて不愛想な口調で利仁亜は答えた。
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