11 パンツがない

「……ごめん」

 利仁亜は先に口を開いた瞬間、失敗したと思った。

「なんで?」

「だって……言いたくないんだろ?」

「何を?」

 わかってるくせに。その言葉を口に出したらダメだと思い、つばを飲み込んだ。

「なんでいつもカーテンを閉めないのか不思議なんだけど、その理由を言いたくないんだろ?」

 十秒ほどの沈黙の後、瑠夏が起き上がり、利仁亜を背後から抱こうとする。その動きを彼はゆるやかにすりぬける。

「窓の外にいつも誰かいそうな気がしちゃうんだけど。俺達、本当に二人っきりなの? みたいな」

 早口でまくしたてると思いがけず語尾が上がってしまった。

「ふーん、利仁亜がそれゆうかあ?」

 早口な利仁亜に対して、瑠夏は緩慢な口調で語尾を上げる。 

 ちっ。利仁亜はつくつもりのなかった舌打ちをついてしまったような気がした。それが音に出たのか背後の瑠夏に聞こえたのかはわからなかった。

 利仁亜の背中が再び柔らかい熱に包まれる。瑠夏の両腕が彼の胸の前で結ばれる。

「あの子と別れてよ」

「別れるって言ったじゃん」

 利仁亜には、藤倉詩織という恋人がいる。詩織とは大学では同じクラスで、入学時からかれこれ二年つきあっている。瑠夏は今までに何度か、利仁亜と詩織が立ち話をしているところに割って入ったことがあった。驚きと戸惑いを隠さない利仁亜とは対照的に、詩織は穏やかで冷静だった。瑠夏にもそっと微笑み返す心の余裕があった。

「先週でしょそれ。今日じゃなきゃダメ。一人でできないならわたしも一緒に行こうか?」

「ダメに決まってるだろ! 向こうが傷つくのわかんだろ?」

 瑠夏はため息をつき、利仁亜の髪をくしゃくしゃに撫で回しながら言う。

「あーあ、そんなどっちにもいい顔して結局どっちも傷つけちゃうの。なんでわかんないの。いつになったらあなたはわたしを正式な恋人にしてくださるのかしら?」

「いいから。もう一人でけりをつけるから。今日中に」

「先週も同じこと言ってたような気がするんだけど?」

 実際その通りだった。二人の言葉は止まり、その間にレースのカーテンは大きく三回はためいた。

「瑠夏はそんな簡単にゆうけどさあ!」

 利仁亜は瑠夏の両腕をほどき、ベッドから立ち上がった。振り返り、彼女の目を睨みつけた。

「簡単だなんて思ってないよ」ふくれたような顔をして答える。

「……ごめん。でもさ」

 声を荒げたことを恥じて、利仁亜はフローリングの床の上にあぐらをかいた。やっぱり簡単だと思っていたからそんな言い方をしてしまったのだろうか。そんな戸惑いが、彼女の視線から、彼女を見上げる利仁亜には読みとれたような気がした。

「あっちはまだ俺のこと、それなりに真剣に思ってるんだよね。痛いほどわかるの。あえて痛いほどまでわからないでおいて、あっちの思いをそこまで受け止めないでおいてさらっと振っちゃえば、自分は傷つかないし楽だよそりゃ。でも、そういうの、ずるいような気がして俺的にはイヤなんだよね」

「うそ……」

 瑠夏のうつろな視線は利仁亜ではなく、彼の背後にあるベランダに向いている。

「嘘じゃねーよ。おれはね、真正面から正々堂々とぶつかってあいつの気持ちをがっちり受け止めた上で、あいつに別れを告げたいの……」

 やっぱり立ち上がらないと気持ちがしっかり伝わらないような気がした。

「どうやって……」

「はあ?」

 利仁亜は苛立ちながら勢いよく立ち上がった。丁度、瑠夏の目の前に立ち塞がる形となった。

「パンツがない」

「何言ってんだよさっきからはいてねーよ」

「ちがうの! ブラといっしょに吊しといたのに、パンツだけないの。しかも二つとも」

 下着とTシャツを着て瑠夏はベランダに駆け出した。ベランダから下の景色を見回す。住宅が密集する細い路地には車も人も通る気配がない。見上げると、左手遠くには新宿の高層ビル群がそびえるのが見える。真正面には住宅地が広がり、その間を商店街のアーケードに挟まれた細い道が駅まで続く。一キロほど先からは駅を発着する中央線の電車の走行音がかすかに聞こえる。

「だってここ四階だろ? どうやって入って来るよ?」

 利仁亜の声に瑠夏が振り返ると、彼は裸のままベッドに横たわっていた。

「わかんない。でも、見て。ここにパンツを挟んでおいたのに。パンツだけないの」

 洗濯物用のハンガーにはブラジャーが二つ、洗濯ばさみで留められ、Tシャツが二枚掛かっている。風でパンツだけが舞って行ったとは考えにくかった。

「プロの仕業だな」

「もしかして、犯人は同じ奴かも」

「誰か知ってるの?」

「私の知ってる子で二人、下着泥棒にあったんだよ。一人は私と同じクラスの子。もう一人は、ゼミの子の後輩の恋人」

「ゼミの子の後輩の恋人? こじつけ過ぎだな」

「そう思うでしょ? でもこじつけじゃないの。だって二人とも、私と同じ誕生日、生年月日なんだよ」

 瑠夏は残りの洗濯物を片づけて部屋に戻ると、またベランダに出た。 

「えっ? さすがに気持ち悪いな。偶然にしても、ちょっとした出来心じゃそこまで出来ないよ普通」

 瑠夏は利仁亜に背を向けてベランダの手すりに寄りかかったままだった。利仁亜は寝そべったままその姿をぼんやりと眺め、ゆっくりと深呼吸した。こんな二人の状況は、前にも二、三度あった。彼は彼女がこうしていることが好きだと思っていたし、こうしている彼女の後ろ姿が好きだった。それとは別に、突然置かれることになった今の瑠夏の立場を、彼は理解していないわけではなかった。

「警察に届けようよ。一緒に行くからさ。今から支度すれば、まだ一限の授業には間に合うだろ?」

 利仁亜の言葉に振り向いて無言でうなずくと、瑠夏はベランダから戻った。

「シャワーあびる」

「ああ。俺も後であびていい?」

 横になっている利仁亜に瑠夏が左手を差し出す。

「だめ。今いっしょに来てよ」

 瑠夏は泣き出しそうな目をして見つめていた。利仁亜はようやく気づいた。たった今、彼女の身に起きた出来事を他人事だと感じていたことに。

「あ、ああ……」

「あの子と別れてくれるよね」

 そっちか? どっちなんだ! いや、両方か? ここでこそ、一番しっかりしなければ。

「ああ。心配するな!」

 利仁亜は二秒間の沈黙を思い切り突き破る。瑠夏の手のひらを右手で勢いよく掴んで立ち上がった。

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