9 封じられた涙
翌日、学校から帰ると、正行は玄関の前に座り込んで瑠夏の帰宅を待った。家の前の道は住宅地の奥まった位置にあり、道も狭く通り抜けができないため、正行の前を通る者は近隣の住人か配達業者などの訪問者に限られていた。
彼女が現れるまでそれほど長くはかからなかった。ゴットゴットと遠くから音が聞こえ始めると、黒いブレザーとスカート姿に黒いランドセルを背負って、瑠夏が歩いて正行の家の前までやってきた。
「ねえ、るかちゃん、ぼくんちであそぼうよ」
正行が立ち上がって声をかけると、瑠夏は立ち止まって振り向き、微笑みかけた。しかし、自身の家の方をちらと見ると怯えたような目をして、そのまま歩いていった。正行はもう一度名前を呼んだ。瑠夏は走り出した。正行の胸の中が冷たくなった。追いかけることができなかった。瑠夏が彼女の自宅玄関に駆け上がると同時にドアが開いた。中からおばさんが顔を覗かせた。正行は、おばさんの視線が瑠夏ではなく自分に向いていることを確信した。恐ろしくて顔を逸らした。
一瞬のことだった。視線を瑠夏の家の玄関に戻した時、もうドアは閉まっていた。顔から血の気が引いた。
「それはまた今度にしましょうね」
あの早口で瑠夏をたしなめる口調が脳裏によみがえった。やはり自分は赦されていなかった。では、昨日の瑠夏の言葉は何だったのか。正行の中で、二つの気持ちのつじつまを合わせることはできなかった。
夕飯はろくにのどを通らなかった。
「どうしてだろうね。もしかしたら、おべんきょうが大変で忙しいのかも知れないね。だから本当は遊びたいけど、がまんしてるのかもしれないよ」
「本当に?」
「本当かどうかはわからないよ。でもほら、おとうさんだってね、本当はおかあさんやまさゆきくんといっしょに夕ご飯食べたいんだよ。仕事が大変だから、ずっと遅くなっちゃうけどね。それといっしょだよ」
「おばさんがこわいかおしてぼくのほうを見てたんだよ。きっとまだおこってるんだよ」
「それはお勉強のじゃましないで! っていいたかったんじゃない? だから心配しないで、るかちゃんが遊びに来てくれるまで待っててあげればいいと思うよ」
正行は静かにうなずき、再び残りの食事に箸をつけ始めた。いつもよりも時間は掛かったが全部食べた。葵は正行が食事を進めるのを傍でゆっくり、お茶を飲みながら見守っていた。
食事と風呂、そして宿題を終えてベッドに入ってからも、正行は瑠夏が走り去っていった時のことをずっと思い起こしていた。
そうだ、もしかしたら……。起き上がり、カーテンを開け、ベランダに出た。瑠夏の家のベランダは室内の照明を受けてほのかに明るかった。風は強くなかったが、一昨日よりも冷たくなっていた。鼻の先から冷たい虫みたいな何かが奥の方にするっと入り込んでいく瞬間を正行は感じた。くしゃみが出た。鼻をすすると、ベランダの壁から瑠夏が顔を出した。
「はっくしょい。はっくしょい」と真似をして笑っている。
「ここでね、こっそりまってたの」
「ねえ、また明日いっしょに学校にいこうよ」
「うん。こんどはね、もうおじぞうさんを見ないからだいじょうぶだよ」
「やくそくだよ」
「じゃあ、ゆびきりげんまんしよう」
お互いの手を伸ばしたが、隣同士とはいえ、かなりの距離があるので届かない。手を伸ばしながら正行は考えた。二人が大人になったら届くだろうか。瑠夏が笑いながら、思い切り片手をこちらに伸ばしている。正行も笑いがこぼれた。その瞬間、正行の視界が急に明るくなった。
「何やってるのッ!」
鋭い金切り声が冷たい空気の中で響きわたる。瑠夏があわてて振り向く。おばさんは瑠夏を背後から捕まえる。
「あぶないでしょ! もう二度とベランダに出ちゃいけません!」
瑠夏の家からの光で二人は影になっていた。彼女たちの表情は正行にはよく見えない。瑠夏の、言葉にならない悲鳴が響いた。すぐにそれはくぐもった声になった。おばさんが瑠夏の口を塞いだからだった。
羽交い締めにされながら、瑠夏は部屋の中に引きずり込まれた。サッシのドアが乱暴に閉まる。部屋の明かりは消えた。瑠夏の泣き声は部屋の中からもかすかに漏れ、正行にもはっきりと聞こえた。その泣き声は、上級生達から逃げ出した時とは全く種類が違っていた。あの時は悲痛ながらも、誰かにわかってほしい、という望みがあった。今聞こえる声には、それがない。
正行は震えが止まらなかった。黒縁めがねの前で、田んぼでうろたえていた自分が頭の中で重なった。でも、あの時と今とは違う。
正行はあわてながらも、思い切り大きく呼吸をして、考えた。今、瑠夏はあのおばさんに、実の母親じゃない人に、あんなにひどく叱られている。何を思っているだろうか。
「るかちゃんがさびしがってたら、はげましてあげるといいよ」
母の言葉がよみがえった。瑠夏はきっと今こそ父親に会いたがっている。
「おとうさんはね! ぜったいどっかにいるよ! いるからね! だからだいじょうぶだよ!」
ベランダから身を乗り出し、思い切り叫んでいた。家の中から漏れていた瑠夏の泣き声が低くなったような気がした。しかし、家のベランダは暗くなったまま、再び明るくなることはなかった。
涙があふれてきた。声を出して泣きたかったが、抑えなければならないと思った。今、ここで我慢すれば自分は我慢できなかった自分よりも強くなれると思った。強くなればなるほど、もっと瑠夏の近くにいられるような気がした。
翌日も、その翌日も正行はベランダで瑠夏を待った。しかし、彼女が姿を現さなかったばかりか、ベランダに明かりが差し込むことすらなかった。
家の前や駅の近くで瑠夏に偶然会うことがあった。しかし、瑠夏は簡単なあいさつをするだけだった。これ以上関わらないでほしい。正行にはそんな風に感じられた。失望から諦め、そして無関心へと、時間は正行の心をゆっくりと洗い流した。
中学生になった正行はふと思い出した。そういえば、あの女の子、瑠夏の姿を最後に見たのはどれくらい前だろう。五年生? 六年生? いや、もっと前だろうか……
「お父さんは、もう死んじゃったの」
瑠夏の言葉がふと響いた。正行は彼女の言葉を、無意識に、「瑠夏の父親に生きていてほしい」という願望で丹念に上書きしていたのだ。だが、その行為にも漏れがあった。
だからといって、彼にはもう、どうすることもできなかった。何とかしなければならないという気も彼には起きなかった。
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