6 しくじった勇気
「じゃあ、あとここまでみんなやってよ」
黒縁メガネは、問題集のページを繰って瑠夏に見せる。問題はあと二十問近くあった。全部解いていたらあと一時間はかかるだろう。
「えー、そんなにたくさんできないよー」
瑠夏の表情が瞬時に曇る。
「さっきの問題とけてたじゃん」
「でも……ぜんぶやったら夜になっちゃうよ」
「じゃあとちゅうまででいいからさあ」
黒縁メガネはひざで貧乏ゆすりをしている。瑠夏が問題を解いた時のにこやかな表情はなくなっていた。
「でも、やっぱ全部はかわいそうだよ」
リスが申し訳なさそうに黒縁メガネをなだめる。瑠夏はほっとしながらも、不安そうに正行の顔を見る。
「でも……とちゅうまでならいいじゃん」
黒縁メガネがさらに渋る。
「もう帰りたいよ……」
瑠夏はますます声を詰まらせる。何か言わなくちゃ。正行は胸の中が苦しくなる。言わなくちゃ、言わなくちゃ……。
「もうゆるしてあげてよ! かわいそうだよ! るかちゃんはおとうさんもおかあさんもしんじゃっていないんだよ!」
気がつくと正行は声を振り絞っていた。黒縁メガネの表情が固まる。
「もういいにしようよー、ね?」
リスが黒縁メガネを諭す。
「うん……」
生まれて初めて、自分以外の誰かを助けるために声をあげた。上級生たちは半ばうなだれて、お互いの顔を見合わせている。やっと言えた。これで瑠夏は上級生たちから解放される。正行の胸の中がじわじわと暖かくなり始めるところだった。
「ちがうもん!」
瑠夏は正行の方に振り返り、鋭く声をあげた。正行はうろたえ、とっさに返せない。初めて実行した正義の行為。一体何がおかしいというのだろう?
「おとうさんはしんでないもん!」
「えっ、だって……しんじゃったって……?」
返す自分の声の調子がたどたどしいことに、正行は恐れを感じた。
「おかあさんはしんじゃったけどおとうさんはどっかでちゃんといきてるもん……」
俯いたまま声を絞り出す瑠夏の姿を正行は呆然と見つめる。彼女のおろされた両手の拳は強く握られ、かすかに震えていた。
瑠夏の足が一歩前に出た。真正面に立っていた正行は、反射的に横に一歩下がり、瑠夏に道を空けた。かすかに嗚咽を漏らしながらゆっくり歩きだした瑠夏は、一度大きくしゃくりあげると声をあげて泣きながら、家に向かって走り出した。
「あーあ、泣いちゃった……」
「のえるくんがわりーんだぞー。あの子にむりやり宿題やらせるからー」
「だって、まりおくんだって、なまいきチンゲールとかいってたじゃん……」
上級生二人はお互いに言い訳がましい口調で争っている。
瑠夏が田んぼから道路に上がり、正行と二人で来た道を走って戻っていく。下校中の生徒たちの何人かが、彼女に一瞬注意を向ける。
正行は動揺しながらも今までの出来事を思い返していた。一緒に学校まで行きたいと言ったから、二人でここまで来たのに、途中で瑠夏は一人で帰ってしまった。助けてあげたつもりが彼女を泣かせてしまった。なぜだろう。あの、首のないお地蔵さんを瑠夏は見てしまった。だから罰が当たったかも知れない。でも、瑠夏は何も知らなかった。地蔵の姿を見てはいけないともっと早く言ってあげていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
上級生たちの向こうに学校の白いコンクリートの校舎が見える。白く明るいはずだった。しかし、もうその姿はかすかにあたる夕日を受け、薄赤く暗い。
正行は顔がどんどん熱くなるのを感じた。顔の表面から熱くなり始め、すぐに頭の中まで熱でいっぱいになってしまう。涙が溢れだし、頬を伝った。抑えることなく大声で泣き出した。上級生たちは正行をなぐさめる言葉が浮かばず、かといって立ち去ることもなく、しばらくの間、考えあぐねていた。
「しょうがないなあ。じゃあ、僕たちもいっしょに行くから、あの子の家までごめんねって言いに行こうよ」
しばらくしてリスが提案した。正行はその言葉を聞いてやっと泣き止んだ。
「な。もう大丈夫だからさ」
黒縁メガネが正行の肩を優しく叩くと、ようやく正行は歩きだした。三人は正行を真ん中にして横に並び、瑠夏の家の方向に進んで行った。
「あの子のうち、こっちでいいの?」
黒縁メガネが心配そうに尋ねる。
「うん。ぼくんちのとなり。あの家のむこう」
鼻をすすりながら正行は答える。
「へえー。あそこなんだ。じゃあ県境に家があるんだ、すごいなー」
リスが正行の方に顔を向ける。
「けんざかい?」
「うん。きみんちとあの子んちで静岡県と愛知県に分かれてるんだよ」
父親によってベランダに閉め出された、あの日に一人で見た、あの景色を、境目を遠くから近くに辿ったあの時を、正行は思い出した。
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