心に届く言葉
あくあは僕とここあの手によって束縛から解放された。
自らの意思で、ここあの服を勝手に借りて身にまとった。昨日ここあが着ていたのと同じデザインのキャミソール。ただし、ピンク色ではなく空色だ。
四肢の自由を得て、さらには着衣したことで、数十分前まで凶器を振るっていた怪物は、見違えるほど人間らしくなった。
『遺書? 捨ててないよ。捨てるわけがない。今もちゃんと保管してある』
あくあはそう明言した。顔つき、声音、ともに彼女らしくもなく真面目くさっていて、真実を告げていると僕は感じた。
『ついてこいよ。いっしょに読もうぜ』
部屋を出たあくあが向かったのは、自室。僕が二階まで上がってきたときに見た、突き当りの一室だ。
ドアが開かれる。
殺風景な室内だ。テーブルや箪笥など、どの家庭のどの部屋にもありそうな最低限の家具を除けば、余分なものはなに一つ置かれていない。あくあは一階のリビングを自室のように使っている。だからこその殺風景なのだろうが、それにしても、という感想は持った。
あくあは机の一番上の広い引き出しからなにかを取り出し、無言で妹に渡した。
真っ白な封筒。表、裏、どちらにもなにも書かれていない。
ここあの手が慎重に封筒を開ける。
現れたのは、水色の便箋。
二つ折りにされたそれを開くと、びっしりと文字がつづられている。
一番左上の文字は「あくあお姉ちゃんへ」。筆圧の弱い、丸みを帯びた文字。
「りりあの字だね。りりあが書いた文章で間違いない」
ここあと、いつの間にかその隣に移動していたあくあは、顔を見合わせてうなずいた。
「……で、誰が読むの?」
一同の顔を見回しながらここあが疑問を呈した。
「え? ここあが読むんじゃないの?」
と、僕。なんだか久々にしゃべった気がする。
「いや、だってこれ、あくあ宛だし。あくあが読んでよ」
「オレに宛てられたんだから、オレは聞く側だろ。読むのはお前ら二人のどちらかだ。佐伯とかいう名前の童貞、お前は勉強がそこそこできるくらいしか取り柄がなさそうだから、朗読は得意なんじゃねぇの? お前が読め、命令だ」
「ちょっと待って。僕はただのクラスメイトだよ? そんな薄い関係の人間じゃなくて、やっぱり家族が読むべきだよ。あくあさんこそ、本当は自分で読みたいんじゃないですか」
「んなわけねぇだろ。音読の一つもこなせないのか、情けないやつだなぁ。……しょうがない。ここあ、お友だちの責任をとってお前が読め。たしかお前、国語の成績よかったよな」
「毎学期五点満点中二くらいだったんだけど。佐伯の言うとおり名指しされた張本人が――と見せかけて、佐伯が読んで。思い出したけど、佐伯は小説を読むのが趣味じゃなかったっけ」
「あっ、馬鹿! この場面でそんなこと……」
「はい、決定ね。ほい、便箋」
「待て、待て。なんで血の繋がりのない僕が引き受けなきゃいけないんだ。やっぱりあくあさんかここあのどちらかが――」
三人のあいだで謎の言い合いが発生した。妥協点は一向に見えてこない。放っておけば永遠にでも続きそうだ。
「ああ、もう!」
ここあがじれったそうに声を荒らげた。
「まったくもう、みんなして、どうしてこうも責任をとりたがらないかな。――分かったよ。あたしが読む。あんたら二人はモアイ像みたく大人しく聞いてなさい」
世の中のありとあらゆるものにうんざり、という顔でため息をついたが、便箋を広げたときには凛とした表情に変わっている。
聴衆の、そして自らの脳髄に刻み込むように、くっきりした声、ゆったりめのテンポで、ここあは読み始めた。
『あくあお姉ちゃんへ。
わたしは今日、自殺することにしました。理由は、これ以上はあくお姉ちゃんにされていることに耐えられそうにないからです。
お姉ちゃんを昔みたいな優しくて思いやりのある女性に戻すのが、わたしの使命。そう思って今までがんばってきたけど、いつか絶対に叶うとわたし自身は信じていたけど、まさかわたしの心の限界が先に来るとは思ってもみませんでした。なにを言われてもへこたれない、めげない、絶対に膝を屈しない強い心。それだけはたしかだと思っていたのに。それだけが取り柄だと思っていたのに。「自分のことは自分が一番分かっている」とよく言われるけど、ちょっと違っていたみたい』
まだ読み始めたばかりだが、朗読者の声は早くも潤んでいる。洟をすする音が時おり混じる。
『自殺する理由、今の暮らしがつらいからなのはもちろんだけど、命と引き換えにお姉ちゃんに変わってほしい、戻ってほしいっていう気持ちもあるんだ。お姉ちゃんは強情だから、そうでもしないかぎり変化は期待できそうにないから。
何日か前、もう忘れちゃったけど、夕食の準備が遅くて殴られたときにわたし、お姉ちゃんに言ったよね。「お姉ちゃんが今よりも少しでもまともなお姉ちゃんになってくれなかったら、変わろうっていう姿勢を見せてくれなかったら、わたし、死んじゃうかもしれない」って。
でもお姉ちゃんは、床に倒れているわたしを何度も何度も蹴りながら、こう答えたよね。「お前はこの世界に必要ないから、さっさと死ね」って。
もともと自殺は考えていなかったんだけど、そういう選択肢もあるんだって、目から鱗が落ちた思いだった。ちょうどいいやって思って、自分の命を自分の手で終わらせることにしたの。あわよくば、わたしを自殺に追い込んでしまった罪悪感から、あのころのお姉ちゃんに戻ってくれればっていう目論見があったの』
言葉が止まる。ここあは目に光るものを指先で何度も拭いながら、あくあを睨みつける。
あくあはうつむいている。まばたきすらしていない。止まっている。ここあの朗読をただ聞くだけの存在と化している。
少し時間はかかったが、なんとか気持ちを立て直し、ここあは遺書を読むのを再開した。
『あくあお姉ちゃんのことだから、わたしが死んだからといって変わってくれるのかな、っていう疑問は正直ある。だけどいくらお姉ちゃんでも、少しは前向きな方向に変わってくれるはずだって信じているよ。あの強情なお姉ちゃんが少しでも変わってくれるのなら、自殺した甲斐があったって言えるんじゃないかな。死んじゃうから、変化した姿をこの目で見られないのが残念だけど。
それから、ある意味あくあお姉ちゃん以上に心配なのは、ここあのこと』
「ここあ」という名前を口にした瞬間、本人の双眸から涙があふれ出した。
あくあは顔を上げて妹の顔を直視した。
涙は止まらない。それでもここあはしゃべる。
声は聞き取りにくい。それでもしゃべる。
『ここあはわたしのことが大好きで、あくあお姉ちゃんのことが大嫌いだから、わたしが自殺したって知ったら、きっとお姉ちゃんを責めると思う。いつもわたしに話しているように、本当に殺してしまうかもしれない。でも、わたしは姉妹がいがみ合う未来は望んでいない。だから、お姉ちゃんは絶対に、ここあにこの遺書を見せて。わたしが自殺することにした理由を知ったら、ここあも納得するだろうし、今後二人が喧嘩することもなくなるんじゃないかな。……ちょっと楽観的すぎる気もするけどね』
途切れ途切れながらも紡いできた言葉が、とうとう続かなくなった。拭っても、拭っても、追いつかない。涙はぽたぽたと床を濡らす。激しくも切ないむせび泣き。
おもむろに、ここあは便箋を差し出した。
自分の姉ではなく、僕へと。
差し出されるままに受け取る。文章には続きがあると知り、僕は託された役割を理解する。
『自殺という選択肢を選んだ時点で、ここあはわたしのどんな説明にも納得しないし、悲しくて悔しい気持ちはずっと消えないと思う。ここあとは普段からたくさんお話をして、わたしの気持ちを理解してくれているし、いっそのことなにも書き遺さないでおこうかとも考えたんだけど、やっぱり少しだけここあ宛の言葉も書いておくね。
短いあいだだったけど、今までありがとう。あなたがいたから、わたしの人生は輝かしいものになった。あくあお姉ちゃんと仲直りして、仲よくしなくてもいいけど喧嘩はせずに過ごして、わたしの分まで長生きをしてね。大好きだよ』
横目にうかがったここあは、依然として泣きじゃくっている。
僕の言葉は聞こえているだろうか?
いや、そんなことはどうでもいい。
りりあがこうして書き遺してくれているんだから、好きなときに好きなだけ読み返せばいい。
『やっぱりここあ宛の遺書もちゃんと書いたほうがいい気もするけど、書き直すと命を絶つ意志が揺らぎそうだから、あくあお姉ちゃん宛だけにしておくね。
わたしはあくあお姉ちゃんのことを、最後まで信じているよ』
ここあは泣き、あくあは呆然と立ち尽くしている。
二人が最低限気持ちを立て直すまで、付き合うのが僕の義務なのだろう。
音を立てないように便箋を畳んで封筒に戻した。
どれくらいの時間が流れたのかは分からない。
というか、どうでもいい。
「一人になりたい。一人にさせて。ていうか、なるから」
洟を盛んにすすりながら、ここあは部屋を出て行った。
そして再び、あくあと二人きり。いまだに呆然と立ち尽くしている一之瀬家三姉妹の長女と。
「あの、あくあさん」
呼びかけると、呼びかけられたほうは顔を緩慢にこちらに向けた。
一言で表すなら、呆然自失。
伝わるのか。そもそも聞こえているのか。不安ではあったが、呼びかけに応じてくれたのだから心配は杞憂に終わると信じたい。
いや、信じよう。
信じて、信じきって、僕が伝えたい言葉をあくあに伝えるんだ。
「大切なものを失ったことに気がついたあとって、今のあくあさんにみたいに途方に暮れてしまうものだと思う。でも、これからどうすればいいかが分かっているのは、不幸中の幸いなんじゃないかな。りりあさんがしてほしいって書いていたこと、やってみればいいんだよ。あくあさんはこれまでの人生で、自由気ままに振る舞うことが多かったみたいだけど、これからは少し我慢もしながら生きて。つらいほうがあとに来るから、メンタル的にはちょっとしんどいかもしれないけど、なかなか頼りになる妹もいるし。それから、一応僕も」
僕は白い歯を見せて微笑む。不自然ではない笑いかたで笑えた手応えがあった。
あくあは忙しなく目をしばたたかせている。
どうやら、僕の言葉は心に届いたらしい。
それを踏まえて、あくあはどう行動するだろう?
できればこうしてほしい、という大まかな希望はあるが、行動を決めるのは僕ではなくあくあ。
伝えるという役割は果たした。僕の出番は終わった。速やかに退場するべきだ。
「じゃあ、僕はここあのところへ行ってくるね」
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