カウンセラーを目指せば?

 りりあの自室は、あくあの部屋とは反対の廊下の突き当たりにあった。

 ドアは閉まっている。耳を欹ててみたが、物音などは聞こえてこない。

「ここあ、ここにいるの?」

「いる。どうして分かったの?」

 声はまだ涙に侵されている。「いる」と「どうして」のあいだには大きく洟をすすった。ただ、口調は思いのほかしっかりしている。

「んー、なんとなく。入ってもいい? ちょっと話をしよう」

「えー、やだ。ドア越しだったらいいよ」

「なんで?」

「だって、メイクぐちょぐちょのべちゃべちゃだよ? どろどろのぐずぐずだよ?」

「いいよ。全然気にしてないから」

「いや、気にしろよ。かわいい顔のあたしと話すほうが絶対いいでしょ。煩悩丸出しの思春期男子として、そこはこだわってよ」

「えっ、怒られるの? かっこつけたセリフのつもりだったんだけど」

「ああ、なるほどね。下心が見え透いたから鼻についたわけだ。納得だ、納得」

 僕は「なんでだよ」と言葉で不満を表明しつつも、嬉しかった。ああ、やっぱりここあはこうでなくちゃ、みたいな。

「じゃあ、ドア越しでもいいよ」

 僕はそう答えて、ドアの開閉の邪魔にならない場所に胡坐をかく。フローリングの床の冷ややかさに、少し浮ついていた心がすっと大人しくなった。

「ここあがずっと知りたかったこと……。之瀬さんの自殺の原因が明らかになったわけだけど、どう感じた?」

「よかったと思うよ。よくないけど、でも、謎のまま終わるよりも断然まし。でも……うん。なんていうか――」

「複雑だよね」

「だね。なにせ、死んじゃったわけだから。帰ってくることはないわけだから。そういう道を選んじゃった、選ばせちゃったんだって思うと……」

 漂い始めた重苦しい雰囲気を、ここあの「いや」という強めの声が払いのける。

「もう少しポジティブな話がしたいな、あたしは。これ以上暗いのはしんどいし、りりあもそれは望んでいないみたいだから」

 ここあの声には適度な明るさがあった。だから僕は快く賛成したうえで、こう話を振ってみる。

「遺書を読んでみて、一之瀬さん、責任感が強い人なんだなって思ったよ。物凄く真面目に、ひたむきに、自分ができることを精いっぱいやろうとしていた」

「そうそう。むちゃくちゃがんばり屋なの、あの子は。凄くしっかり者。一番上の姉があんな感じだし、りりあは控えめで大人しい子だから、あたしがちゃんとしなきゃ、引っ張らなきゃっていう意識はもともとあったの。だけど、本当に支えていたのはりりあだったね」

「僕、クラスメイトだけど交流はほとんどなかったから、一之瀬さんのことを知れてよかったって思う。もう会えないけど、でもよかった」

「りりあは交友関係が広い子じゃなかったから、佐伯みたいなことを言ってくれる人ができて、天国で喜んでいるんじゃないかな。……行き先は天国だよね?」

「もちろん! 一之瀬さんが地獄に行くなら、七十何億人の地球人はほぼ全員地獄行きになっちゃうよ。

 自殺を決意した人って、心が乱れて、支離滅裂なことを書き遺しそうなイメージがあるけど、とてもしっかりした文章だったよね。誰を責めるでもなく、心に響くような言葉を妹と姉に遺して」

「名文だったね。思わず泣いちゃった」

「無理もないよ。あんなに優しいメッセージを読まされたら」

「大変だなって思う。ああいうしっかりした子が先に行っちゃうと、残されたほうは」

「ここあはどうするもりでいるの? あくあとの関係は。一之瀬さんは仲よくやれって書いていたけど」

「そのつもりでいる。というか、こんなことになる前から、あたしは仲よくしようとしていたよ? そのための努力はずっとしていた。か弱いりりあを守るために、あくあの横暴には断固として屈しないっていう方針も立てていたから、できるだけ仲よくの方針が後回しにされることもあっただけで。あいつに厳しくしていたのは、あくまでも立ち直ってほしいからであって、叩きのめしたいわけではないから」

「なるほど。あくあに立ち直ってほしいっていう気持ちは、きっと姉妹共通のものなんだろうね」

「あくあ本人だけは例外な気もするけど」

「でも、一之瀬さんの遺書を読んだことで変わったんじゃない?」

「そう信じたいね」

「きっと変わるよ。だって遺書を読んでからのあくあ、凄く大人しかった。なにか思うところがあったんだと思う。考えが変わろうとしているんだと思う」

「客観的に見られる立場の佐伯がそう言うのなら、きっとそうなんだろうね。――分かった。きっとそうなるって信じて、これからはあいつと二人で生きていくよ」

「ポジティブな言葉が聞けて、安心したよ」

「安心したところで、佐伯、いっしょに考えない? 最後まで残った最大の謎について」

 ここあはいったん言葉を切り、少し声を低めて語を継ぐ。

「飛び降りたの、なんで高校の校舎の屋上だったんだろう。確実に死ねる高い建物なら、他にもたくさんあるよね。駅前のビルとか、アパートとかマンションとか。昨日と今日、二日連続で上ったアパートだって、六階建てだから校舎よりも高い。学校よりも近い場所にだって何棟もある。それなのに、りりあはわざわざ学校を死に場所に選んだ。遺書に理由は書いていなかったから、生き残った人間が知恵を絞って推理するしかない」

 最後に残った最大の謎――たしかに、ここあの言うとおりだ。

 でも、あくあと決着をつけて、改めてこの謎と向き合ってみると、次から次へと見えてくるものがあった。

「あたしが考えたのは、学校で嫌な思いをしていたから、当てつける目的であえて学校を死に場所に選んだ可能性。クラスメイトからいじめを受けていたとか、教師に目をつけられて日常的に嫌味を言われていたとか」

「これはすでに話したけど、一之瀬さんに対するいじめはなかったよ。いじめられていたら、悪い意味で目立っていたはずだけど、一之瀬さんはそうじゃなかったから。そもそもうちのクラスに、ただ大人しいだけの女子をいじめるような、根性が曲がった生徒はいないし。教師に関しては、一之瀬さんは優等生だから、むしろかわいがられるタイプだと思う。教師から被害に遭っていたとは考えにくいよ」

「でも、佐伯はそもそもりりあとは直接的な交流はほぼなかったんでしょ? あの子は苦しみを我慢するタイプだし、知らないところでなにかされていたとかは、普通にある気がするんだよね。ネット上でいじめられているっていう噂は聞いたことがない、という話だったけど、本当にそう言い切れるの? 佐伯の知らない場所で酷い目に遭っている可能性、普通に考えられない? 教師の場合も、嫌がらせはなかったとしても、セクハラとか」

「そうだね。絶対になかったと断言はできない。でもね、ここあ。一之瀬さんは遺書になにも書いていないんだよ。あくあに関して、そして君に関して、今まで口にしてこなかった想いを、あんなにもしっかりとした文章で書き遺したにもかかわらず、校舎から飛び降りることにした理由は一言も」

「あ……」

「学校に関係するちょっとした悩み、みたいなものはあったかもしれない。というよりも、当然あったと思う。でもそれは、思春期の人間なら誰でも、それこそ僕も抱えているような、当人以外の人間にとってはくだらない悩み、ありふれた悩みであって、自殺の直接の要因ではなかったんじゃないかな」

「……なるほど。佐伯の話聞いてたら、それが正解な気がしてきた。でも、それが真実だとして、けっきょくなんで学校なの?」

「これも断言はできないんだけど」

 そう前置きをしたうえで、考えを口にする。

 一之瀬りりあの死について僕はずっと考えてきた。彼女が自殺してからずっと、断続的にではあるが考えてきた。行ったり来たり、進んだり下がったりしながら考え続けて、徐々に見えていなかったことが見えてきたし、考えがまとまってきた。

 そして今日、あくあの話を聞き、りりあの遺書の内容を知ったことで、完全に固まった。完璧に整理できた。

 それを今、ここあに伝えよう。

「遺書を読んだかぎり、一之瀬さんは家族想いだよね。死を選んでしまうくらいに激しい暴力を振るってくるあくあに対してでさえ、恨み言を言うんじゃなくて心配をしていたくらいだから、文句なしの家族想いだ。だから自殺を考えたときに、ここあやあくあに迷惑をかけるような方法は選びたくなかったと思うんだよ。

 たぶん一之瀬さんは、自分の死んだ姿を家族が見たらショックを受けると考えて、自宅以外の場所で死ぬことにした。中途半端に生き残っても迷惑をかけるだけだから、確実に決行できて確実に死ねる場所と方法を選びたい。だから、通勤通学ラッシュで人が多い駅や、高くても立ち入ったことがないビルは除外した。前者は周りの人間に阻止される恐れがあるし、後者は屋上に通じるドアに鍵がかかっているとかして、そもそも入ることさえできない可能性があるからね。

 検討した結果、一之瀬さんは確実に入ることができて、邪魔をする人間が周囲にいなくて、確実に死ねる高さがある、S高校の屋上から飛び降りることにした。ここあもあくあも学校には行っていないから、地面に叩きつけられる瞬間を姉や妹に目撃される心配はないという意味でも、好都合だしね。

 たぶん、そういうことなんじゃないかな」

「……なるほど。佐伯の推理、正しい気がする」

「あくまでも推測で、確証はないんだけどね」

「佐伯。あんたさ、なんて言うか」

「なに?」

「カウンセラーを目指せば? 将来に就く職業」

「は? なんでいきなり?」

「最初は『さすがは名探偵』って茶化そうとしたの。茶化すっていうか、普通に称賛? 謎の真相、あたしは全然分からなかったのに、佐伯はすらすらと見事な推理を披露してみせたから、凄いな、あたしには絶対無理だなって思って」

「見事、なのかな? 僕は一之瀬さんの家族じゃないから、一歩引いた場所から客観的に分析できたのがよかったのかもしれない。でも、なんでカウンセラーっていう言葉が出てきたの?」

「佐伯の推理はたしかに見事だけど、でも、推理の一つ一つに明確な根拠はないわけだよね」

「そうだね。これが正しいかなって思うものを選んでいっただけで」

「佐伯はそうやって謙遜するけど、あたしの心が楽になるような解釈を選んで『これが真実です』って言っているように、あたしは感じたんだよね。

 たとえば、『りりあはクラスメイトからいじめを受けていたから、加害者に当てつけるために学校を死に場所に選んだ』って答えるよりも、『確実に死ぬために校舎から飛び降りることにした』って言ったほうが、あたしが食らう精神的なダメージは少なく済むわけでしょ。佐伯は本音では、りりあは生徒あるいは教師と揉めていて、それも自殺の一因だと考えているんだけど、そう言っちゃうとあたしがさらに傷つくことになるから、わざと違う解釈が正しいかのように話したんじゃないかな、なんて思って。

 真相がどうこうというよりも、遺族であるあたしの気持ちを最優先に考えて発言したんだから、探偵というよりもカウンセラーでしょ」

「いや、違う。それは違うよ、ここあ。僕は本当にそれが正しいと――」

「分かってるよ。あたしが佐伯を凄いやつに仕立て上げようとしているってことくらい、あたしにだって分かる。

 でも、今くらいはそう思わせてよ。ドア越しにこうして佐伯の話を聞いているあいだ、あたしは心から安らかな気持ちでいられているんだから。そもそも佐伯がいなければ、あたしはずっとあくあに苦しめられて、挙げ句の果てにりりあと同じ道を辿っていたかもしれない。命の恩人なんだから、実質以上に凄いやつだって褒め称えるくらい、させて。佐伯だって、過大評価されてむず痒いかもしれないけど、悪い気分ではないでしょ?」

「……ここあ」

「佐伯、改めてありがとう。出会ったのは偶然だったけど、偶然出会ったのが佐伯でよかったって心から思うよ」

「僕もそう思う。刺激的な非日常を期待していたけど、まさかこんな二日間になるなんてね。紆余曲折あったけど、ここあを助けられてよかったよ。凄くほっとしてる。こちらこそ、ありがとう」

「どういたしまして」

 ここあのその一言を最後に、僕たちがいる世界を沈黙が包んだ。少しくすぐったかったが、なごやかで、心地よくて、いつまでも浸っていたい、そんな沈黙。

 僕たちはしばし身を委ねた。

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