「解脱」

@nana-yorihara

第1話 解脱

「あぶらごにされたんよ」

 母は忌々しそうにため息をついた。

 言外の「おまえが悪い」を逝可憐(ゆきがーりー)は感じ取った。

「あぶらご」とは本来、幼すぎたり何らかのハンデがあったりする子どもでもいっしょに遊べるようにという優しい配慮の産物だったらしいが、母は「仲間はずれの哀れな子」の意味で使っていた。

 転勤族で県内を二年おきに転々とする生活は、母にとっても強い疎外感を覚えるものだったのかもしれない。

 逝可憐は、友達を作ってうまくやっている姿を母に見せたかった。新しい環境でわざとひょうきんにふるまったが、どこに行っても浮いてしまうばかりだった。席替えで逝可憐の隣になった快活な少女が、「これじゃ二学期が楽しくない」と泣いた。逝可憐は気まずい顔で、毎日息を殺して教科書を読むふりをしていた。

 逝可憐は今年中学三年生になり、転校も今回が最後になりそうだ。県庁所在地にある中学に転入した逝可憐は、偶然にも従姉と同じクラスになった。同い年だが逝可憐にとっては姉のような存在の轢人形(ひきどーりー)だ。

「ヒキ姉さん、もう学校嫌いはやめたんですか」

 引きこもり期間が長かった従姉に、逝可憐は標準語で話しかける。一度も県外に出たことがないくせに、逝可憐は常に標準語だった。方言を使えないことで爪弾きにされたこともあるが、あえて覚えるつもりもない。

「ほなけど」「はがいたらしい」「しょうたれげぇな」

 母が日頃から使っている地元の言葉は、響きも意味も醜い印象のものばかりだった。

「そこにあるでせんか」

「へりくつばっかりこねよったらはりますけんな」

「とばとばしよったらおちくれるじょ」

 逝可憐は醜い言葉を浴びて育ったが、自分自身は決してそれらを使うまいと決めていた。人語を理解しない植物さえ、罵詈雑言を聞かされ続けたら枯れてしまうらしいが、蓮の花は澱んだ泥に咲く。私は大丈夫、と逝可憐は自分に言い聞かせる。

「学校にいたほうがましかなと思って」

 同じように標準語を使う轢人形は、欠伸をして答えた。ぱさぱさした金髪の彼女は、腫れぼったい一重に分厚くアイシャドーを載せている。目と目の間には距離があり、リップクリームを塗った口唇からはいびつな歯が覗いている。人から見れば彼女は美しくないのだろうけど、逝可憐はこの顔が好きだ。

「伯父さんに叱られた?」

「叱るほど私に興味ないよ、お父さんは」

 轢人形の語る家庭は、いつも冷たい。農家だし『サザエさん』みたいに祖父母と同居しているのに、大勢で暮らしている温かさみたいなのが話のどこにも感じられない。一族に流れる陰気な血のせいかな、と逝可憐は思っている。

 逝可憐の母と轢人形の父は兄妹だ。そして、轢人形の父は同じ名字の身内と結婚している。逝可憐の両親も幼いころから互いを知る親戚同士だった。べつに、恋しあっていたわけではない。適齢期になっても結婚相手が見つからず、まわりがお節介をしてくっつけただけだ。轢人形の両親はほとんど会話しないらしいし、逝可憐の親も夫婦喧嘩が絶えない。

「うちの親みたいになるくらいだったら最初から結婚しなきゃいいのに、昔はそれが許されなかったんだろうね」

 轢人形はピンクのやすりで爪を磨きながら言う。

 彼女は昼休みを食事に充てていない。逝可憐は隣で弁当を広げ、遠慮なくアスパラガスの肉巻きを口に運ぶ。

「うちもあんまり仲良くないし、そんなもんですよ」

 逝可憐の父は単身赴任だからめったに帰ってこないが、帰ってきたときも母と楽しそうに会話したりしない。祖父母もにこりとも笑わない人たちだ。法事などで親戚が一同に会すると、口角が下がった無口な人たちばかりで、黒い雲が立ちこめているようだった。だから要するに、そういう血が流れているのだろう。逝可憐はもう諦めて、いずれ何とかしてこの町を出ていこうと決めている。

「ユキは、進路とかもう決めた?」

 轢人形が、爪磨きの道具を鞄に仕舞って逝可憐のほうを見た。

「声優になりたいですね」

 逝可憐は黒縁眼鏡の奥の目をそっと伏せた。夢を口にするのはいけないことのような気がした。特に、この町において「声優」とか「芸能人」みたいな現実味のない職業を志すのは、天に唾する異端の行いのように思われた。「将来」といえば公務員か介護士か看護師か主婦になることであって、大人になるとは目先三寸にとらわれた哀れな生き物になること。

 口元のしまらない子どもの手を引いて、

「はよきぃ」「しおい」「なんしょん」「せられん」「どんくさい」

 など、脳みそ以外のどこかとつながっているような音を鳴らしながら年老いていくこと。

 今習っている定理も法則も哲学も倫理もぜんぶ無駄になって、文学も音楽も科学も宇宙もどこか遠い無関係な世界の文化になってしまうこと。

 逝可憐はそれが恐ろしかった。

 何かに抗うように、サブカル雑誌を常に鞄の底にいれ、イヤーカフをつけてアイメイクにこだわっているけれど。ここにずっといたら、重苦しい空気に巻き込まれて、鉛の人形に変わってしまうような気がいつもしていた。

「声優か。なんか、この辺りの方言ってさしすせそがうまく言えないんだってね。声優とかナレーターにはなれないって聞いたことがある」

 轢人形は、容赦なく自分の知っていることを口にした。

「さしすせそ」

「そう、しゃししゅしぇしょになっちゃうんだって。ほら、お年寄りとか『しぇんしぇい』って言ってるよね」

 確かにそう聞こえることもある。

「そうですかね」

「ほら」

 そ、がうわずって「しょ」に近くなってしまったのを、轢人形は聞き逃さなかった。



 轢人形は、小学校高学年から引きこもり気味だった。

 外に出てもしかたないような気がしていた。用水路を覗き込んだりしながら田んぼの間の道を通って、二キロ先の学校まで通う。ジャージ姿の先生たちから、教科書の内容やその他のあれこれを教わり、いずれ退屈な大人にならなければならない。その過程を、轢人形は有意義なものに思えなかった。勉強も手を抜きがちで没頭できることも特になかったから、轢人形は毎日無気力だった。

 引きこもりがちなことを、母親は最初叱っていたけれど、家にいたらいたでやるべきこともある。田畑の草抜きや手入れを多少なりとも手伝う轢人形に、両親はしだいに何も言わなくなっていった。

「学校行きたぁなかったら。家のこと手伝っとったらええんよ。お父さんのほうの土地もようけあるし、会社にいかいでも困らせんわ」

 祖母が横から言ってくれたこともあって、轢人形は学校に行かない自分を後ろめたく思わなくなっていった。逝可憐とつながっているほうの親族は暗い人たちばかりだったが、すぐ近くに住んでいた母方の祖母は、太陽のように明るい人だった。

 春は菜の花を取ってきて炒め、秋は団子を作ってお月見していた祖母は、轢人形に四季を教えてくれた人だった。轢人形は頻繁に、近所の祖母の家に入り浸っていた。

 その祖母が今年のはじめに亡くなり、家にいづらくなった轢人形は観念して学校へ通うことにしたのだった。ちょうど逝可憐も転校してくると聞いたから、それを楽しみに通うことにした。逝可憐がしきりに都会へ出たがっていることも、この町にずっといたら錆びついてしまうと怯えていることも、轢人形は知っている。同い年だけど「幼いなぁ」と思っている。

 晩ご飯を食べたらすぐに自室にこもる轢人形は、暗くした部屋でネットサーフィンしながら、ときどき押し入れのほうを見る。押し入れの上の段にはシートが敷いてあって、その上にハムスターのケージが置かれていた。金網のケージではなく、プラスチックの水槽に似たケージである。ゴールデンハムスターのオスが、回し車の中でせっせと走っている。

 轢人形はこのハムスターに名前をつけていなかった。畜生だし呼んでもしかたないだろうと思っている。半年ほど前にペットショップで購入してから毎日世話はしているが、特別深い愛着は生まれてこない。ときどきケージから出して全身を見たり散歩させたり、飼い主として必要なことだけはこなしている。

 今日がちょうどその日だったので、轢人形はハムスターをケージから出した。ハムスターは轢人形の存在を覚えてはいるが、なわばりから出されて、軽く口を開けて戸惑っている。その口から時折覗く大きな歯を、轢人形はあまり好きではなかった。小さな顔に対して大きすぎるのが不気味に感じられるのだ。

 たまに可愛いと思って二本の指でなでようとしたとき、その大きな歯が見えると轢人形は手を引っ込めてしまう。轢人形自身も、人よりも歯が大きいと言われてきた。だから、人前で笑わないようにしている。

 ハムスターは、小屋に戻って餌を食べ終えると満足したのか、大きな金玉を抱えるようにして眠り始めた。四本の小さい桃色の指が、暗い色の金玉の上にそっと載っている。

「畜生め」

 轢人形は小さく罵って、進路希望の紙を鞄から出した。

 小さく小さくちぎって、小屋の巣材にするようにとハムスターのケージに入れてやる。

 匂いに敏感なハムスターは、片目だけ開けて轢人形を見て、また金玉に顎を沈めた。



「なれるわけないでないの、声優や。何でそんなもん書いたんよ、恥ずかしい」

 三者面談の帰り道、母の運転する車の中で叱られる逝可憐は、ずっと無言を貫いていた。

 抱いた夢を否定されるのはこれが初めてではない。

 幼稚園のころ「シェフ」と言っていたら、「料理やできんくせに恥ずかしい」、小学校低学年で「バレリーナ」と作文に書いたら、「アンタには無理なんやから言われんのよ」とたしなめられた。とにかく、何かになりたいと思うことは「恥ずかしい」ことだった。

(幼稚園児がプロ並みに料理できるはずがないし、子どもがバレエ漫画に影響されるのなんて普通のことでしょ)

 逝可憐は思うだけで言い返さない。

 腹が立ったときにふいに出てしまう方言がいやで、人との言い争いは避けていた。

 声優を目指して毎日読んでいる台本には、「ほなけど」も「~じょ」も出てこない。冷静に分析してみると、なんて意味のない音の羅列なんだろうとぞっとしてしまう。早くこの醜く澱んだ泥沼から抜け出さなくては。

 帰宅した逝可憐は、声優の専門学校のホームページを開いて資料請求のフォームに入力する。行ったこともない都会から、海を越えて書類は届くだろう。

「さしすせさそさそ」

 サ行がシャ行になってしまうなんてきっと迷信だ、と逝可憐は思う。


 轢人形が進路希望の紙を出さなかったことについて、担任はあれこれ言ったが、頑なに忘れたふりをしていたらそのまま何も言われなくなった。志望校がないならとりあえず偏差値の高い普通科高校を薦められるだろう。

 轢人形の母親は三者面談でも特に何も言わず、「うちの畑でとれた野菜です」とスーパーの袋いっぱいの野菜を担任に渡しただけだった。

 轢人形には将来なりたいものなどない。逝可憐のように都会へ出たいとあがく気力もない。逝可憐は都会へ行きさえすれば何かが大きく変わると考えているようだが、はたして何が違うだろう。空気も水もつながっているし、言葉が違うだけの同じ人類だ。都会のハムスターが人語を解すというわけでもあるまい。

 轢人形はただ、何もなさずに息だけをして年老いていきたかった。ケージの中の世界しか知らずに死んでいくハムスターのように。

「畜生、餌の時間だよ」

 フードを新しく入れてやろうとケージを覗きこんだら、いつもいる巣箱のところにハムスターの姿はなかった。ケージの上の扉が、ほんの数センチこじ開けられていた。



 秋が来て冬が過ぎ、逝可憐が学校に来なくなった。ついこの間まで、声優の専門学校の入学試験を受けに行くとはりきっていたのに。

 メッセージを送っても既読にならないので、轢人形は逝可憐の家を訪ねることにした。

 逝可憐が暮らしているのは灰色のアパートの二階の部屋だ。この時間、叔母は仕事でいない。

「ユキ」

 そっとドアを開けると、足元にモズクのような泥が流れ出してきた。同時に、お経のようなものが聞こえてくる。

「きゃっきゃがくるわぁ、ほないしたらめげるでないの、はよもんてきいよ、わからんいきにいいよって、おとろしおとろし……」

 逝可憐が部屋の中央に胡坐をかいてぶつぶつ唱えているのだった。それらの音はただただ意味を含まずに轢人形に押し寄せてくる。足元の泥は逝可憐の穴という穴から溢れだしており、雑貨やサブカル雑誌を濡らしていくのだった。泥はしだいに嵩を増していき、轢人形の足も埋もれていく。何か踏んだと思ったら、声優学校の不合格通知だった。

 轢人形が何か言っても、虚ろな目の逝可憐には届かなかった。

 泥水に埋まっていく部屋の中、逝可憐の頭頂部から咲いた蓮の花だけが、救いのような光を湛えて優しく辺りを照らしている。

「あばばいなぁ」

 泥に取りこまれていきながら、轢人形は思わずつぶやいた。         終

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