シーン25 ファルナ

 ファルナが川岸に流れ着いたとき、隣には死人同然のオディルがいた。

 傷を見るために触れた体はぞっとするほど冷たかった。

 へこんだ頭蓋骨に捻じれた手足。内臓に傷がついたのか血を吐いている。彼の体に無事なところはひとつもなく、生きているのが不思議なほどだった。

 すぐに魔術による治療を行い、破いた服で血を拭った。

 ファルナの高度な治癒魔術と傷をすぐ手当てしたことが功を奏し、オディルは健康体にまで回復した。どちらかが欠けていれば命は危かっただろう。

 一方でファルナは比較的軽傷だった。

 ファルナにはオディルがなんらかの確信を持って崖から飛び降りたとしか思えなかった。でなければ、あんな大胆な真似ができるはずがない、と。

 若いファルナを軽んじて粗雑に扱う人間はいた。

 軍師を気取って願望のような予測を垂れる人間も見た。

 大した戦闘力を持たずに戦場に出る楽観的な新兵も自分のために命を捨てる戦士もファルナの記憶には刻まれている。

 だが、オディルはそのどれとも違う。

 物心ついたばかりのように好奇心にあふれ、自分のことを信じて貰えずとも気にしない。それでいてどこか年不相応に達観している。明日の書の運命を覆すために取った数々の行動は未来を知る者からすれば命知らずにも映る。

 ファルナにはそんな彼の態度が生きることを諦めているように見えた。


 ファルナたちは川沿いを進む。

 川の近くは岩場になっていて地面には大粒の石がごろごろ転がっている。

 足場は悪いが視界は広い。敵が来てもすぐにわかる。まだ敵の姿は見えない。

 前を歩いていたオディルが動きを止めた。

「いますね」

 オディルがささやく。

「獣人でもないあなた方に気づかれると思いませんでしたよ」

 森の奥から仮面の男が姿を現す。

 ファルナが腕を一振りする。すると、その手には氷でできた剣が握られていた。冷たく鋭利で透き通った幻想的な剣だった。

「未来がわかるのですから当然でしょう」

 答えたのはオディルではなくファルナだ。

「これから何が起こるか私にはすべてわかっています。仮面のあなたは目的を果たすことはできません。すぐにここから失せなさい」

「ほう。私の知る明日の書の性質とは違いますね」

 カニングが姿勢を低くして走り出す。

 認識からカニングが消える。

 ファルナは動じることなく、広範囲に氷の魔術をばらまいた。

 ひとつひとつは小指の先ほどのごく小さな氷の礫だ。わずかな傷も負わせることのできない、攻撃とも呼べないような術だった。

 だが、それがカニングの術を暴いた。

 氷礫は実体だ。魔術が感覚を塗り替えても実体の遮蔽まではねじ曲げられない。氷の礫が遮られた場所、そこに敵はいる。意識しなければ見逃してしまう程度の違和感だが、ネタさえわかっていれば集中することで見破ることができた。

 ファルナは魔力による身体強化を施した体で剣を薙ぐ。

 鋼と氷が激突し、甲高い音を立てる。

 魔術の剣はカニングのそれに打ち負けることはなかった。

 一度見破った幻惑魔術をかけ直す暇を与えず、素早い連撃を叩きつける。

 氷は硬く、刃は鋭い。

 打ち合っても破片すら飛び散ることなく、戦い続ける。

 ファルナは天才的な魔術士だ。

 そして、それは剣士としての能力がないことを意味しない。

 彼女の魔術の真髄は生成する氷の硬度。極度の圧力で練り上げられたそれは通常の氷の倍近い密度を持ち、丘の上の戦いでは防壁としてあらゆる魔術を防いできた。

 武器として成形されれば、その刃は鋼さえ断つ。

 その構造は理論上にのみ存在し、現代魔術では生成不可能とされていた。

 これがファルナの魔術――第七氷結魔術。

「あなたはクルスミアの遺民ですね?」

 ファルナの言葉にカニングは動きを止めた。

「何を根拠に」

「まず、その魔術です。幻惑魔術はクルスミアで発展した魔術。彼の地にはその適性者も多かったと聞きます」

「……それだけですか? これくらいどこにでもできる人間はいるでしょう」

「次に仮面の魔道具です。魔力を感知しているそうですね。これもクルスミアの技術が見られます。まだありますよ。あなたはクルスミアの地理に詳し過ぎます。見知らぬ土地を庭のように動き、地形を利用して戦ったのはいくらなんでも出来すぎです。あなたは残瘴が本格的に抜ける前から何度もこの地を訪れていたのではないですか?」

「なるほど。面白い推理です。だから、どうしたというのです? 私がクルスミア人の末裔だからといって何が変わるのですか?」

「私はこの地に街を作ります」

 ファルナは凛と声を張り上げた。

「そこには純人も獣人も精霊人も、ありとあらゆる人々がいるでしょう。クルスミア人が戻ってくることを拒絶は――」

 カニングが踏み込んだ。

 大ぶりの一振りがファルナの小さな体を弾き飛ばす。

「虫のいい話だな」

 カニングの体が震える。

 それは――怒りだ。

「クルスミアはクルスミア人のために存在する! 明日の書もだ! 卑しい国々が共謀して祖国を滅ぼし奪ったことを忘れたか! 私利私欲のために! 私は決して許さない! 貴様らも、貴様らの国も、その先祖も!」

 その叫びは慟哭にも似ていた。

 カニングの攻撃が苛烈なものへと変わった。

「頭を下げるでもなく『拒絶しない』だと? 我らがこの二百年、どんな思い、どんな境遇で過ごしてきたか。貴様にはわかるまい!」

 乱雑になった力押しの攻撃に対してファルナは技による反撃を試みた。カニングは無理やり太刀筋を曲げて応じる。力も入っていない浮いた斬撃。しかし、残瘴を秘めた魔剣だ。薄皮一枚でも斬られればこの戦いでは致命傷になる。

 ファルナは即座に下がる。

 しかし、間に合わない。

 振り切った魔剣の先から鮮血が飛ぶ。

 そして、ファルナは岩の上で態勢を崩し、傷を押さえた格好で転がった。

 カニングが足元に目を落とす。

 そこにはファルナの持っていた鞄が落ちていた。体に括り付けていた紐が切断されたために落ちてしまったようだ。

 残瘴の剣が鞄を切り裂いた。

 中に入っていた本が露出する。

「これが『明日の書』、いや――」

 それを切り裂く。

 千切れた頁が風圧で飛んで川へと落ちていく。

「やはり、偽物か。くだらない真似をしてくれる」

 再びカニングが剣を構える。

 ファルナは起き上がるが、すでに氷の剣は溶けかかっていた。

 多少回復したとはいえ、戦いだけでなくオディルの回復にも魔術を使っている。ろくに休憩を取れていないのもあって限界は近い。

 カニングが近づく。

 だが、そこに立ちふさがる者がいた。

「なんのつもりだ?」

 彼の前に小さな兵士が剣を握り締め、立っていた。

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