シーン24 オディル

「明日の書なんて最初からなかったということですか?」

「違う。明日の書は実在する。前線に近い場所に所有者がいて、そこから各戦線に記述の内容を送る。送られてきた情報を元に指揮官が策を立てる。こうしてザラメルギスはあたかもすべての戦線で明日の書があるかのように振る舞ってきた」

 言葉にすればとてもシンプルな作戦だ。

 クグズット軍と同じく彼女もまた囮だった。しかも、偽の明日の書に書いてあったことが真実なら王の子供達には皆、同じことをさせられている。命令するだけではなく、自分も命を賭ける覚悟があったということか。偽明日の書にも書かれていた通りだ。

「そんな簡単なことで引っかかるんでしょうか?」

「そのためにできるだけのことはしている。情報伝達の速度で手元になければ不可能と思わせたり、内通者へフェイクをつかませたり、まあ他にもいろいろだ。更に戦場というのが判断を狂わせる。功を焦る将がいれば嵌まるだろう」

「なるほど。馬の目の前に人参を吊るしたわけですか」

 策が綺麗に決まる必要はない。ただ、明日の書の幻を見た人間がいくらか釣れたらいいくらいにザラメルギスの王は考えている。ひとりが功を焦れば自然と足並みは乱れる。その乱れを突いて敵を崩すのが狙いなのだろう。

「……何がおかしい?」

 ファルナが問う。

 僕は思わず両手で頬を揉んだ。

「ああ。また笑ってましたか。すみません。癖になっていまして」

 普通に話してはいるけど、ファルナは王女だ。普通ならば僕と会話を交わすこともない相手。そんな人に緊張していつもの愛想笑いが出ていたんだろう。

 指で顔の筋肉をほぐすと少しすっきりした。

「別に構わんが、さっきから不敬だな」

 これは仕方ない。偽明日の書が意外と親しみやすいのが良くなかった。敵に見せても問題ないものだから嘘はあるだろう。だが、本筋は普通の少女の日記だった。本心でないとはわかっていても一方的な親近感が生まれる。

「申し訳ありません。なんとか取り繕ってみても根が田舎者ですから礼儀なんて全然ですよ。ファルナ様こそ話し方変わりましたよね。そっちが素かとも思いましたけど、何かしっくりきませんし。もしかして、自分を作ってるタイプですか?」

「直截的な奴め……」

 ファルナから威圧的な雰囲気が消えた。

 呆れた表情だ。初めて見る。

 最初に会った聖女のような柔らかさに戻ったわけではないが、肩の力が抜けて顔に疲れが見えるようになった。なんというか、人間らしくなった。

「痛むところはないか?」

 ファルナが僕の体をぺたぺたと触る。

 水で洗ったばかりなのか、冷たい手をしていた。

「ありませんけど。どこか怪我してたんですか?」

「打撲、それと骨を何本か折っていた。魔術で治療したがな」

「え、気づきませんでした。ありがとうございます。どこの骨ですか?」

 服をめくってみるが、それらしい場所はどこにも見当たらない。治癒魔術は跡形もなく怪我を治してしまうからどこに怪我をしたのかさっぱりわからなかった。

「どこでもいいだろうが。敵に見つかる前にさっさと行くぞ」

 ファルナが小屋を出ていくので後に続く。

 ここは川辺にあるクルスミアの古い集落だったようだ。さっきまでいたのと似たような小屋がいくつも立ち並んでいる。規模としてはエイドの野営地より小さいか。丘の上でも見た赤い花がまばらに咲いていた。

 クルスミアも田舎の方では僕たちと変わらない生活をしていたようだ。

 二百年経った今も建物が残っていることを思うと建築技術に関してはかなり優れていたのかもしれない。

「今の私が不自然に見えるか?」

「僕からするといつもより話しやすいですよ」

「……そうか」

「元の自分と表の自分を分けるのは面倒ではないですか?」

「偽りのない自分でいられるならそれが一番いい。しかし、必要に迫られる時がある。私には立場があるのだ。子供のままではいられない」

「だからってやってることが極端すぎると思いますが」

「子供が誰からも望まれない理想を夢見たときにできることはふたつ。ひとつは諦めて生きること。人はこれを大人になるという。もうひとつは本心を、野心を隠して物わかりのいい子供になったふりをすることだ。私は野心を捨てきれなかった」

 面白いことを言う人だ。

 それに当てはめれば僕は前者だ。すでに諦めた側の人間だ。

 思えば、本心を隠すための愛想笑いが染みついて離れなくなったのはいつからだろう。そのときからいつも諦める側に回っていた気がする。

「その野心って何なんですか?」

「……知ってどうするつもりだ」

「ただ知りたいだけです。この数日で僕は戦うため、生きるためにいろんなことを皆から学びました。それを活かすと喜んで貰えました。今はもっと純粋に知ることを面白いと思ってます。こんなときに不謹慎ですけどね」

 クルスミアの歴史と文字、魔術を使って何ができるか、獣人と純人の違い……エイドやザラメルギスのこと。

 僕は短い間に多くのことを知った。

 すべてが生きるために必要だったわけじゃない。

 でも、知って良かったと思う。

 知らないままだったら、きっとまだ僕はクグズットにいた頃の無気力な僕だった。

「好奇心旺盛で結構だが、他人の事情を詮索するのは行儀が悪い」

「野心が何かは教えてくれないんですか?」

「すでに知っているだろう」

 少し考えたが、前に言っていた自分の街を作りたいというあれだろうか。カモフラージュに見せかけて、それが本心。裏の裏は表みたいなややこしい話だ。

 作り物の自分に立場に合わせて整えた本音を喋らせる。

 そんな器用な真似、僕には無理だな。

「疲れませんか、それ?」

「さっきから馴れ馴れしいぞ」

「誰でもいいですけど、ちゃんと素のまま話せる同僚……は難しいので部下を作った方がいいと思いますよ。そのうち自分が分裂するかもしれません」

「余計なお世話だ。神話でもあるまいし、人が分裂するか」

「物理的な話ではないんですけどね」

 古い集落を抜けて景色は森へと変わる。

 近くに大きな川が流れている。流れも激しいのか水音は大きい。これをたどれば本隊が待機している開けた場所に出るらしかった。

 先を歩いていたファルナが少し速度を落として僕に並んだ。

「そういえば、まだ聞いていなかったな」

「なんでしょうか」

「どうして、崖から飛び降りた? 純人の視力では下の様子もわからない高さだった。死ぬとは思わなかったのか?」

「『直観』……ではもう納得して貰えませんよね?」

「私の秘密は話した。次はあなたの番だ」

「うーん。でも、グラニ様に止められているんですよねえ」

 ファルナが苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「私の言うことは聞かないのに爺の言うことは聞くのか。防衛隊での序列は私が一番上だぞ。わかるか? 権力を使って聞き出したいわけではない。権力に伴う責任があるから部下を適切に使うため、聞こうとしている」

「わかってますよ。けど、ずっと自分を偽ってる人間をどうやって信じろって言うんですか。グラニ様も不安だったと思いますよ」

「む……」

 勝手にグラニの心情を代弁すると露骨に困った顔になった。

 彼女にとってグラニの存在はただの近衛兵に収まらないものらしい。爺と呼んでいるから小さい頃からの付き合いであることも想像がつく。

「それにもし話して怒られるのは僕です。死ぬ一歩手前まで詰められましたからね。知りたければ先にグラニ様から許可を貰ってきて下さい」

「頑固だな」

 命令であれば僕も断れないが、ファルナはそこまでするつもりはないようだった。グラニを不安にさせていると言ったのがよほど効いたらしい。

「そういえば、仮面の男がまた襲って来るんですけど、どうしましょう?」

 起きてからしばらくは『予兆』のことを忘れていた。ファルナが口にしたことでどうなっているかと思えば、まだ赤く点滅している。そこには『残瘴』の文字もあり、経験からすれば仮面の男がまたやってくることは簡単に予測できる。

「崖から落ちたんだ。まさか生きてるとは思わないだろう」

「いや、来るんですよ。少なくとも僕は例の残瘴の剣で斬られるんです。死ぬのは明日の昼過ぎくらいだと思います」

「確信があるのか?」

「ええ、まあ」

「そこまで言うなら……いや、いい。仮面の男だな。魔力さえ万全であれば勝機もあるのだが、今の私とオディルだけではな」

 敵はウルガル小隊をたったひとりで相手にした猛者だ。いくらファルナが優れた魔術士といえども相手にするのは厳しい。このままでは僕と一緒に死んでしまう。それだけはなんとしても防がないといけない。

 ファルナは注意深く周りを見渡した。

 あたりは静かなもので、生き物の気配はどこにもない。

「避けるのは難しいか?」

「相手には魔力を感知する索敵能力があります。この感知範囲から逃れるのは難しいですよ。本隊に向かわないのであれば可能かもしれませんが」

「ならば、無理だな」

 敵は追ってきているのだろうか、それとも待ち構えているのだろうか。僕が早朝から日が高く昇るまでずっと寝ていたせいで用意する時間はいくらでもあったはずだ。

 迂回できれば一番いい。だけど、『予兆』はそこまで器用ではない。相手の感知範囲がわからないし、前にいるのか後ろにいるのかも不明。こんな限られた情報でどう移動すればいいかなんてわからない。

「倒すにしても急に姿が消えるのを何とかしないとどうにもなりませんね」

「あれは姿を消しているのではない。幻惑魔術だ。人の五感を狂わせ、近くにいる者に自身を認識できなくさせている。戦っていた者だけが見失っていた理由がこれだ」

「そんな魔術があるんですね」

「知らなくても無理はない。適性のある者の少ない魔術だ。私も古い魔術書を読んで知っていただけで見るのは初めてになる」

 ファルナの言う通りならウルガルは倒された可能性より、出し抜かれた可能性が高いように思える。殺しても死にそうにない人だし、生きている気がする。冷静になって考えればウルガルを倒すよりその魔術で逃げる方が簡単だ。

 問題は獣人の嗅覚や聴覚でもとらえることができなかったこと。

 ここを何とかしなければ僕たちに勝ち目はない。

 幻惑魔術、残瘴の剣、魔力感知……手札がたくさんあって羨ましくなる。

 一方で僕にあるのは『予兆』だけ。

 頼りない限りだが、勝機はここにしかない。

「ファルナ様、ひとつ提案があるのですが」

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