シーン26 オディル
僕は弱い。
手は震え、腰は引ける。
『予兆』は男の前に立った瞬間から近くで警告を発している。
剣を合わせずとも歯が立たないことなどわかっていた。
それでも――戦う。
『予兆』には誰かを救う力があると信じているから。
「ファルナ様の命が欲しいのなら、先に僕を倒してからです」
「愚かな」
男が剣を振るう。
それを視認することすらできなかった。
僕はただ『予兆』の最も激しくなる直前に跳び退っていた。
鼻先をかすめる風の気配で、避けたと気づいた。
避けられると思っていなかったのか、彼は意外そうに首を捻って間合いを開けた。何かを確かめるように僕の頭の天辺から足の爪先まですっと眺める。
そして、攻撃。また回避と繰り返す。
お互いくるぶしまで川に浸かっていた。
これなら幻惑魔術を使われても水しぶきで居場所がわかる。
「前にも同じことがあった」
男が口を開く。
「そうでしたっけ? 覚えがありませんね」
「暗闇の中でのことだった。部隊の中に罠の魔石を持った純人がいた。身のこなしは軽いが戦い慣れていない純人だ。私は必殺を確信した。だが、貴様はその一撃を躱した。偶然だと思っていた。だが、違う。そうではない。性質的に明日の書でもない……」
男は独り言のようにぼんやりとつぶやく。
「『丘の上に花が咲いていた』」
知らない言葉だった。意味もわからない。だが、どこかで聞いたような覚えのある音だ。たしか、それは歌のような、詩のような……。
遠い記憶が刺激される。
僕はそのフレーズを知っている。
「やはり、覚えがありますか。君はどこの生まれです?」
男の声から敵意が抜けていた。
「ザラメルギスの田舎です」
「両親もですか?」
「親は……覚えていません。物心ついたときには親族は誰もいませんでした。貴族の使用人が親代わりで、僕はその跡を継ぎました」
「あまりいい生活はしてこなかったようですね」
僕の言葉から細かい感情の機微を感じたのか、憐れむように男は言う。
「……何が言いたいんですか?」
川の水が冷たい。
徐々に体温を奪われるのを感じる。
これ以上、この男の話を聞いていていいのだろうか。
自分を構成する何かが崩れてしまいそうな予感。
心臓の音がいやに大きい。
「先程の言葉はクルスミアに伝わる童謡の一節ですよ」
「童謡……?」
「かつて明日の書を奪った者たちはクルスミアをひたすらに貶めました。それは今も続いています。正しき歴史を奪い、同胞たちを迫害し、美しき文化を消し去った。君も犠牲者のひとり。君の持つ力は本来クルスミアにあった技術のひとつに違いありません。我々は同じルーツを有する仲間です」
「まさか……そんな」
今まで思い出せなかった童謡が頭の中で響いている。優しい声。暖かな音。知らない誰かが僕に触れる柔らかな感触。
そして、音楽は途中でぷつん、と途切れた。
足元が揺らいだ気がした。
「もっと上手く説明できればいいのですが、それは難しい。クルスミアの民は各地へ散り、その錬金術の知識も散逸していますから」
『予兆』はクルスミア語で書かれている。
たったひとつ、それだけの動かしようもない事実のせいで仮面の男の話を作り話だと笑い飛ばすことができない。
この人は僕の仲間なのだろうか。
味方だと思っていた人は僕を利用していただけなのだろうか。
「君も君の両親も迫害されていたのです。私と共に行きましょう。そこに真実がある。もう明日の書を奪った者どもに跪く必要はありません」
仮面の男が手を差し出した。
もしも、クルスミアが滅んでいなければ、と想像する。僕は豊かな国で生きていて、両親から愛され、たくさんの幸せをつかんでいたかもしれない。
なんと優しい世界だろうか。
けれど、それは夢に見ても手に入るものではない。
「……あなたが正しいのかわかりません」
「いきなり言われて戸惑うのも仕方ありません。この剣を見て下さい」
仮面の男は太陽に剣をかざした。
「この剣はかつて魔獣殺しや魔術士殺しとして恐れられた魔剣でした。ある特殊な鉱石を利用したもので、斬ったものから魔力を奪う。伝説にもうたわれるクルスミアの魔道具。錬金術の粋を集めた至高の魔剣」
その刃は光を返すことのない昏い色をしていた。見ているだけで嫌悪感を催す、この世にあってはならない類の気味の悪さ。
とても男の言うような栄誉ある剣には見えない。
「だが、その輝きはもうない。かつての戦いでクルスミアの大地は残瘴に侵され、そのとき剣の魔力を奪う力は残瘴に反応し、この忌まわしき姿になり果てたからです。決して許してはならない過去を封じ込めた魔剣。それがこの『末路の剣』なのですよ」
「『末路の剣』……」
「はい。お分かりいただけましたか」
「……えっと、それが何だと言うんですか?」
「これこそ奴らの罪の証に他なりません。愚か者どもが野心によってクルスミアを蹂躙し、今も我々を苦しめているのが一目でわかるでしょう?」
男の仮面は本来無表情なもの。
だが、今はそうは思えないほどの激情が感じられる。
「せめて一矢報いなければ……奪った者たちに償わせなければ……栄光のクルスミアを取り戻さなければならない! それがどんな過酷な道だとしても!」
仮面の男の慟哭に全身が震えるようだった。
底の見えない憎悪。
僕が彼から感じたものはそれだった。言うことは支離滅裂で怨嗟に心が焦がされている。そこに現実と過去の整合性はない。
きっと彼は僕がさっき見た夢に近しいものを今も見ている。
だから、こんなにも悲痛な願いを叫び続けられるのだ。
でも、それでは前には進めない。
「わかりません」
「何?」
「残瘴を封じた剣は残瘴を封じた剣でしかありません。あなたは真実の探求を放棄し、都合のいい仮定(ウソ)に縋っているだけではないのですか?」
「君がまだ若いからわからないだけです」
「であれば、ここは停戦を提案します。僕は僕なりに真実を探します。人から話を聞き、本を読み、足で証拠を見つけます。あなたの言うことが正しければきっとまたあなたを訪ねるでしょう。それではいけませんか?」
男が何かを堪えるように仮面に手を当てた。
渋々といった様子で言葉を絞り出す。
「……いいでしょう」
『末路の剣』の切っ先がファルナへと向かう。
「しかし、そこの王女は殺します」
「それは認められません。僕の真実が見つかるまでは待ってください」
「君を泥の底へと追いやった者にまだ尻尾を振るのですか。そこの女もまた簒奪者の末裔でしかないというのに」
「彼女と彼女の祖先は違いますよ」
男は剣を構える。
ついに僕の言葉は届かなかった。
「君のことを知ればザラメルギスはその力を利用しますよ。いや、もう知っているのでしょうか。このままでは君の未来には不幸しか待っていません」
その声は優しく、子供をなだめるようだった。
だが、剣はこちらに向けられたままだ。
「君の殺し方には見当がついています。一撃目は躱せても素早く連撃を打ち込めば躱せないのではないですか? あなたは戦士ではない。未来が読めたところで戦いのスピードには付いてくるのは不可能かと」
「さあ、どうでしょうか」
額から汗が流れた。
仮面の男の斬撃が放たれる。
それを切り払い、次の攻撃を躱そうとした。
だが、それより早く喉元に刃が突きつけられていた。
すぐに距離を取る。
追い打ちをかけてくる様子はない。見逃されたのだ。
男の態度には余裕があった。自分が圧倒的強者であり、戦闘の主導権を握っていることを疑っていない。いつでも僕の命など奪えると告げている。
そして、それは正しい。
「今ならまだ間に合います。君の手でその女を殺しなさい」
「お断りします。僕は一度死ぬまでは彼女を信じると決めました。隠し事だらけで嘘ばかりでしたが、僕の運命を預けるに足る御方ですよ。ファルナ様には覚悟があり、信念があり、それを実行する意志があります」
「――残念です」
男は再び剣を構えた。
「せめて苦しまないように殺して差し上げます」
ただ、川の流れる音だけが聞こえる。もう視界には男の姿しか入らない。神経が戦いに向けて研ぎ澄まされている。
視界から仮面の男が消える。
水しぶきはどこにもない。陸に上がったのか。
僕はただ何も考えず、陸の方に向かって剣を振った。何かが当たって、火花が散る。見えない何かは強い力で僕を水の中に押し倒した。
ただ、もがく。
青空の下に鈍色の刃を見た。
そして、叫んだ。
「僕が『明日の書』だ!」
びく、と何かがどこかで動いた。
この言葉に意味はない。ただ、男がその意味を考え、一瞬でも動きを止めればいい。そのために決めたファルナとの合図だった。
僕の目の前にいくつもの氷の槍が飛来する。
それは何もないはずの空間に当たって宙で止まる。
すぐに魔術は解かれ、男の姿が現れる。氷は彼の胸を貫き、黒い服からおびただしい量の血を滴らせていた。致命傷だ。
「……何故」
「最初から決めていたんです。僕があなたを引き付けて、攻撃を加える直前に合図を出す。そのときファルナ様があなたを倒すって。あなたの言う通り、僕には攻撃する瞬間がわかります。細かいところは少しだけ違って、一撃で殺してくれなければ使えない手でした。もし、いたぶられたら困っていたところです」
すべては『予兆』を前提にした作戦だった。
ファルナが攻撃を受けたふりをして隠し持った氷の破片で自分を斬って血を流し、代わりに僕がひとりで仮面の男と戦う。そして、『予兆』が死を示す直前にファルナへと合図を出して、僕の目の前にいるはずの男を攻撃して貰う。
行き当たりばったりだったが、敵が攻撃に意識を集中させている瞬間を狙うのが一番勝ち目があると思った。
「失敗すれば死んでいたのは君ですよ」
「だから言ったじゃないですか。一度死ぬまでは信じるって」
「馬鹿馬鹿しい。死者に二度目などないというのに」
男はもう立っていられなかった。
半身まで川に浸かった男は右手を天に突き出す。
手のひらから光が大きな球体となって空へと飛んでいった。かと思うと、高い場所で弾けた。一瞬ではあったが、太陽がふたつに増えたかのような光景だった。
「一体、何を……?」
男は仮面の下から血を流しながら笑う。
「すぐにエイド軍が来ます。きっと君たちを追い詰めてくれるでしょう。逃げるのなら早いうちにどうぞ。どうせ助かりはしないでしょうがね」
その言葉でさっきの魔術が信号弾の役割を持っていたのだとわかった。仮面の男がファルナの捜索に出たと知っていれば、エイドの兵たちもすぐに駆けつける。
全身から血の気が引いていく。
「ファルナ様!」
「わかっている。さっさと逃げるぞ」
ボロボロになっても逃走劇は続く。
本隊まではまだ遠かった。
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