第15話:食事

 交代の時間になり、桶を抱えたエリアスが湯屋へ入っていった。

 ローワンは外に腰を下ろし、まだ火照った体を冷ますように息を吐く。

 鼻先をかすめるのは石鹸の残り香と、アルシュタインがかじっているにんじんの甘い匂い。

 不思議と心が和むひとときだった。


 ──だが、視線はどうしても戸口に向かってしまう。


 木戸がわずかに開き、湯気が流れ出す。

 その奥に見えたのは、濡れた髪をかき上げ、肩に桶の水を流すエリアスの背だった。

 陽の光に照らされた肌には、無数の古傷が刻まれている。

 斜めに走る刀傷。火に焼かれた痕。幾度も裂けては癒えた跡が、重なり合って背を覆っている。

 それはまるで──戦いの記憶が刻まれた、ひとつの地図のようだった。


 ローワンは息を呑む。

 工房にこもり、石と精霊獣に向き合ってきた自分の背には、一つの傷もない。

 右手を失ったとはいえ、それすらも「職人の事故」として片付けられるものだった。

 生きてきた世界の違いが、これほどまでにくっきりと見せつけられるとは思わなかった。


 胸に押し寄せる感情は──劣等感でも、畏怖でもない。

 それを越えて、ただ一つの思いにまとまっていく。

(……すごいな)


 思わず目を逸らした瞬間、不意に視線が合った。

 振り返ったエリアスが、わずかに口角を上げて言う。


「……おい、職人殿。覗きは趣味か?」


 ローワンははっとして顔を背け、耳まで赤く染まるのを隠すように拳を握った。

 返す言葉も見つからず、ただ黙り込むしかなかった。


◇◇


 腹ごしらえをするかと入った食堂で、エリアスがふとこちらを見た。

「……辛いものを、気に入ったりしたか?」


 その問いかけに、ローワンはわずかに視線を逸らし、首を横に振る。


「だろうな」

 エリアスは短く笑うと、壁の木札を指でなぞるように見上げた。


「じゃあ次からは──肉料理は塩焼き、魚は蒸したやつが無難だ。野菜ならこの辺りの煮込みがいい」


 指さされた札の位置を追いながら、ローワンは黙って頷く。

 ただの説明なのに、不思議と胸の奥がじんわり温まっていく。


「……全部、分かるのか」

 思わず漏らした問いに、エリアスは肩をすくめる。


「旅人は生き残るために覚えるもんだ。毒草やら辛すぎる香辛料やらで腹を壊してたら、命がもたねぇからな」


 当たり前のように語るその声に、ローワンはまた頷いた。

 ──知らない世界のことを、こうして一つずつ教えてもらえるのは悪くない。

 そんな思いが、言葉にはせずとも胸に残った。

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