第6話【繋術】
「では──」
シエノラは両手を広げた。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
窓から差し込む陽光が、彼女を境界として屈折する。
光が歪み、色彩が分離し、虹のように広がっていく。
彼女の前方だけが薄暗く、まるで夜が昼に侵食していくかのようだった。
ルヴァントが配置した六本の蝋燭。
シエノラは一瞥もしない。
彼女が手を広げると、部屋全体が彼女の舞台となった。
詠唱が始まる。
『夜空に瞬く若い星よ
闇を恐れず光を放つ』
シエノラの周囲に、光の粒子が現れ始める。
最初は一つ、二つ。
やがて無数の光が、彼女の周りを漂い始めた。
それは星空のように美しかった。
母親が息を呑む。
父親は目を見開き、言葉を失っている。
『月は銀の糸を紡ぎ
その光で道を照らした』
シエノラの手が宙を舞う。
その指先から、銀色の光の糸が伸びていく。
糸は空中で編み込まれ、複雑な模様を描く。
まるで見えない織物を織っているかのようだった。
『星々は群れをなして
孤独を知らぬ輝きを教えた』
光の粒子が増えていく。
部屋全体が、柔らかな光に満たされる。
その光は温かく、優しく、まるで全てを包み込むかのようだった。
光の糸が、リムスの身体へと伸びていく。
一本、また一本。
やがて無数の糸が、リムスを繭のように包み込んだ。
『深い藍の夜が抱き
真珠色の夢が育ち
琥珀色の記憶が宿る』
シエノラの声が部屋に響く。
それは歌のようでもあり、祈りのようでもあった。
光の粒子がリムスの身体に降り注ぐ。
まるで星々が地上に降りてきたかのようだった。
『蛍火のように儚く
光芒のように鮮やかに
一瞬で夜を駆け抜けた』
シエノラの両手が、ゆっくりと円を描く。
光の糸が渦を巻き、リムスの周りで踊る。
部屋の温度が変わる。
冷たくも、温かくもない。
ただ──何か神聖なものがそこにある。
シエノラの指先が、わずかに震える。
一瞬。
誰も気づかない。
『けれど夜明けは必ず来る
星は消えても光は残る
紺碧の空に溶けゆく星よ
あなたは確かに輝いていた』
光の渦が加速する。
リムスの胸が、かすかに上下し始める。
『夜露が朝日に煌めくように
あなたの物語は語り継がれる』
最後の言葉とともに、シエノラが両手を閉じた。
すべての光の粒子が、リムスの身体に吸い込まれていく。
糸が解け、光が収束し、やがて消えた。
部屋に陽光が戻る。
まるで何事もなかったかのように。
しかし──
リムスの頬に、かすかな色が戻っていた。
沈黙。
そして──
リムスの瞼が動いた。
◇
「……お母さん?」
母親の身体が硬直する。
信じられない。
今、確かに──
「リムス!」
母親が悲鳴のような声を上げ、リムスに駆け寄る。
その小さな身体を抱きしめた。
「リムス!リムス!リムス!」
何度も名前を呼びながら、母親は泣き崩れる。
父親も膝をつき、震える手でリムスの頭を撫でる。
「リムス……本当に……本当にお前なのか……?」
リムスは穏やかな表情で、両親を見上げる。
「お父さん……どうしたの?」
「お前が……お前が戻ってきてくれたんだ……!」
父親の涙が、リムスの頬に落ちる。
リムスは不思議そうに首を傾げた。
「僕、どこかに行ってたの?」
「ああ……遠いところに……」
母親がリムスを抱きしめたまま、身体を震わせる。
「でも……戻ってきてくれた……戻ってきてくれたのね……」
リムスは優しく笑った。
「お母さん、泣かないで。僕、ここにいるよ」
その言葉に、母親は更に泣き崩れる。
「リムス……リムス……」
ただ名前を呼び続ける。
それしかできなかった。
父親もリムスを抱きしめる。
三人が、固く抱き合った。
ルヴァントは立ち尽くしていた。
師匠が成し遂げた。
完璧な蘇生を。
「師匠……」
シエノラは窓辺に立ったまま、家族を見つめている。
その表情に、何も映らない。
◇
しばらくの間、三人は抱き合っていた。
やがて、母親がリムスの顔を両手で包む。
「リムス、覚えてる?崖に行ったこと」
「うん……綺麗な鳥がいて……追いかけて……」
リムスは記憶を辿るように目を細める。
「それから……よく覚えてないけど……」
「怖かった?」
「ううん。夢を見てたみたい」
「どんな夢?」
「綺麗な夢。星がたくさんあって……夜空が輝いてて……すごく静かで……」
リムスは穏やかに笑う。
「でも、お母さんとお父さんの声が聞こえて、戻ってきたの」
母親が息子を強く抱きしめる。
「よく戻ってきてくれたわね……よく……」
父親が優しく二人を抱きしめる。
「もう離さないからな。絶対に」
「うん」
リムスは幸せそうに笑った。
ルヴァントは、その光景を見つめていた。
完璧だ。
あまりにも完璧すぎる。
◇
三人は思い出を語り始めた。
「リムス、覚えてる?初めて畑仕事を手伝ってくれた日」
「うん!お父さんが褒めてくれた」
「小さな手で、一生懸命に土を耕そうとして……」
父親の目に、また涙が滲む。
「お前はいつも、本当に一生懸命だったな」
「お母さんの作ってくれたパンも、すごく美味しかった」
母親が泣きながら笑う。
「また作ってあげるわ。いくらでも」
「本当?」
「ええ、いくらでも」
三人は笑い合う。
涙と笑顔が混ざり合った、温かい時間。
しかし──
やがて、リムスが小さく呟いた。
「お母さん……」
「なあに?」
「なんだか……眠くなってきた……」
母親の笑顔が凍りつく。
「リムス?」
「ごめんね……すごく……眠い……」
リムスの瞼が重くなっていく。
父親と母親が顔を見合わせる。
そして──理解した。
これが、最後なのだと。
◇
「お母さん、いつもありがとう」
リムスの声が小さくなる。
「お父さんも、ありがとう」
母親が息子の手を握りしめる。
「毎日、僕のこと考えてくれて……ごはん作ってくれて……畑の手伝いも、楽しかった……」
「リムス……」
父親が涙を流す。
「僕ね、お母さんとお父さんの子供で、本当に幸せだった」
「こちらこそ……こちらこそ、お前の親でいられて幸せだったよ……」
母親の声が震える。
「だから……心配しないで。僕、大丈夫だから」
リムスは笑った。
優しい、温かい笑顔。
「また会えるよね?」
「ああ、必ず」
父親が息子の頭を撫でる。
「いつか、必ず会おう」
「うん。じゃあ、それまで……おやすみなさい」
リムスの目が閉じる。
「大好きだよ、お母さん、お父さん」
最後の言葉。
リムスの胸の上下が、ゆっくりと止まる。
◇
母親は号泣していた。
しかし──微笑んでいた。
「ありがとう……ありがとう、リムス……」
父親もリムスを抱きしめたまま、泣いている。
「お前は本当に……本当に良い子だった……」
二人は抱き合い、泣き続ける。
しかしその涙は、絶望の涙ではなかった。
やがて、母親がシエノラに向かって頭を下げる。
「ありがとうございます!本当にありがとうございます!」
何度も、何度も頭を下げる。
「最後に、リムスに会えました。声を聞けました。『ありがとう』って……『大好き』って……」
父親も深々と頭を下げる。
「突然あいつがいなくなって……何も言えないまま……それが一番辛かった」
「でも……最後にお別れができて……リムスも、私たちも……」
母親の声が震える。
「リムスは幸せだったって言ってくれた。私たちも、幸せだった」
「あんなに良い子に育ってくれて……最後まで、私たちのことを……」
「これで……心残りなく、送り出せます」
二人は涙を流しながら、笑っている。
本当に、心から満足している。
シエノラは無言で一礼する。
その表情に、何も映らない。
ルヴァントは立ち尽くしていた。
両親は──満足している。
心から。
でも、僕は──
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