第5話【掌握】
シエノラの存在が部屋を満たした。
それは圧力ではなく、重力に近い何かだった。
空気そのものが彼女に従い、光が屈折する。
「死霊術師……」
父親が一歩後ずさる。
母親は息を呑み、動けない。
シエノラは静かに部屋の中央へと歩を進める。
黒衣の裾が床を撫で、音もなく滑る。
「失礼いたします」
声は丁寧だが、問いかけではない。
許可を求める言葉ではなく、事実の宣言。
シエノラの視線が部屋を一瞥する。
壁に掛けられた農具。
棚に並ぶ木彫りの小さな動物たち。
窓辺の花瓶、しおれかけた野花。
床の隅、子供用の小さな靴。
彼女の瞳が一つ一つを捉え、測り、理解していく。
まるで部屋全体が書物であり、彼女は瞬時に読み取っているかのようだった。
視線が家族に移る。
父親の拳──爪が掌に食い込み、血が滲む。
母親の揺れる瞳──希望と恐怖、焦点が定まらない。
二人の立ち位置──守るように、しかし逃げ出したいように。
シエノラの唇に、かすかな笑みが刻まれる。
雲間から覗く月のような、冷たく美しい微笑。
「ルヴァント」
ルヴァントは背筋を伸ばした。
「はい」
「ソウルの構成要素について、何を学びましたか?」
「個人の記憶、経験、感情──物語を形成する要素です」
「それだけでしょうか?」
ルヴァントは言葉に詰まる。
「物語とは、語る者と聞く者によって成立します」
シエノラは静かに続ける。
「個人が個人であるためには、その個人を認識する他者が必要です」
シエノラはリムスの遺体に視線を向けた。
「この子は、誰でしょう?」
「リムス・エヴァレットです」
「いいえ」
シエノラは首を横に振る。
「この子は、ご両親にとっての『息子』であり、村の子供たちにとっての『友達』であり、畑仕事を手伝う『小さな働き手』です」
シエノラは家族に向き直る。
「お二人に伺います」
父親と母親が身を固くする。
「リムスは、どのような子でしたか?」
◇
母親が震える声で答える。
「好奇心が強くて……いつも笑っていて……」
「もっと具体的に」
シエノラの声に、優しさはない。
責めるような響きもない。
ただ、真実を求める冷徹な探求心だけがある。
「朝、一番に起きて……父さんの畑仕事を手伝いたがって……」
父親が続ける。
「小さな手で、一生懸命に土を耕そうとして……」
「夜は、私の膝で物語を聞くのが好きでした」
母親の目に涙が溢れる。
「星の話、動物の話、遠い国の話──どんな話でも、目を輝かせて聞いてくれました」
シエノラの瞳が、わずかに揺らめく。
「ありがとうございます」
シエノラはゆっくりとリムスの傍に膝をつく。
その動作は、舞踏のように優雅だった。
シエノラは革袋から空の小瓶
「ご家族の方に手伝っていただきたいのですが」
沈黙。
「指や臓器をいただくことはありません」
シエノラは穏やかに付け加える。
「指先から数滴で十分です。ご両親の血液を」
母親が一歩前に出る。
「目でも心臓でも使ってください」
その声には、一切の迷いがなかった。
「リムスのためなら、私の全てを差し出します」
シエノラの表情が、一瞬だけ変化した。
驚きではない。
確認──彼女が探していた何かを、見つけたときの静かな満足。
「お気持ちだけで十分です」
シエノラは小さな針を取り出す。
銀色の針が、窓から差し込む光を冷たく反射する。
「お母様、手をお貸しください」
母親が震える手を差し出す。
シエノラはその指先を優しく掴み、針を刺した。
一滴の血液が指先に滲む。
「リムスに触れてください」
母親はリムスの髪に手を伸ばす。
髪は血で固まり、黒く変色していた。
指が触れる。
血の塊が砕け、音を立てる。
乾いた血が爪の間に入り込む。
母親の指先が、リムスの血液で赤黒く染まる。
それでも、母親は撫で続けた。
まるで生きている頃のように、優しく、何度も。
「リムス……もう一度、声を聴かせて」
シエノラは、その手を見つめている。
「お父様も」
父親も恐る恐る指を差し出す。
シエノラはその指に針を刺した。
父親がリムスに近づく。
一歩。
また一歩。
そして──止まった。
父親は膝をつく。
震える手を伸ばし、そっとリムスの唇に触れた。
一瞬、手が離れる。
涙が一粒、リムスの頬に落ちる。
次々と。
止まらない。
父親の肩が震え、息が詰まる。
声にならない嗚咽が漏れた。
「リムス……俺がもっとしっかりしてれば……」
震える手を伸ばし、そっとリムスの唇に触れた。
涙がリムスの顔を濡らし、父親の手の甲を伝い、血液と混じり合う。
彼女の瞳が、何かを捉えた。
見えない糸──いや、鎖のようなもの。
両親とリムスを結ぶ、感情の束。
愛情、記憶、執着、後悔、希望──すべてが絡み合い、リムスの物語をこの世に拘束している。
その鎖は、シエノラにしか見えない。
濃密な、ほとんど物質化しそうなほど強い鎖。
そして──
シエノラの瞳の奥で、何かが明滅した。
目を閉じる。
一瞬だけ。
誰も気づかない短い時間。
そして目を開いたとき、彼女の表情は戻っていた。
「ルヴァント」
「少し離れていてください」
ルヴァントは数歩下がる。
シエノラは立ち上がり、窓辺へと移動する。
午後の陽光が部屋を照らしているが、彼女が立つとその光が歪む。
まるで彼女自身が夜を纏っているかのように、周囲の光が陰り始める。
シエノラは振り返る。
その姿は、白昼の部屋に立つ夜の化身だった。
銀髪が光を受けて輝き、左半身の灰色の痕跡が影のように浮かび上がる。
夜の海のような瞳が、部屋の全員を見渡す。
窓から差し込む昼の光が、シエノラを境界として二つに分かれる。
彼女の前方は薄暗く、まるで黄昏が訪れたかのようだった。
「終わった物語に、新たな頁を書き加えます」
シエノラは二人を見つめる。
「よろしいですか?」
沈黙。
母親と父親が頷く。
「では──」
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