第1話 海を統べるもの(前編)

 能登半島沖──日本時間23時57分


 荒々しい波が船を揺さぶる。

 鋭利なやいばと化した漆黒の波間を、黒塗りの不審船が飛ぶように疾走する。


 追尾するのは海上保安庁・巡視船「あさぎり」だ。


 ヘリすら搭載しない小柄な船体で、波を押しのけながらの追跡。先程からディーゼルエンジンも悲鳴をあげていた。


 それでも猛追する。もはや執念だ。


 風速25メートル、視界不良──追撃は止まらない。



 うねる波頭に「あさぎり」は、踊るように上下動を繰り返した。


「方位、二九〇ふたきゅうまる。不審船、逃走継続。距離、一五〇〇ひとごーまるまる。速度、六〇ろくまるノット以上。ジェット推進、間違いありません」



 その報告に船長の大畠おおばたけは、苦虫を噛み潰したような顔で前方の海を睨む。

「やはりウォータージェットか、くそったれ!」


 海上保安庁にだって、ウォータージェット推進の巡視船艇くらいある。

 ところが、それらの出航を上は認めなかった──何故なんだ。


 不審船の船体は細長く、異様に喫水が浅い。とても民間漁船には見えない。

 だから進言した「これは武装工作船です」と。


 せめてヘリ搭載船の応援が欲しいと懇願した。


 ところがそれすら却下された。

 ただ、一言「追尾せよ」それが上からの命令だった。



 逃さないように見張っておけ。無理はしなくて良い、と言われた気がして憤慨した。


 事実、海上自衛隊に対して『海上警備行動』が発令されたと聞いた。




「手柄は海自に、ってか? 冗談じゃねえ。こっちで拿捕してやる」



 全身の血が湧き上がるのを感じる。拳を握り締めた。


 だが、しかし──舵を握る操舵員は、怒りを隠すこと無く呟いた。

「くそっ、こっちは30ノットがいいとこだぞッ!」


 大畠は、その言葉に、むしろ違和感を覚えた。


 おかしいだろう。

 じゅうぶん逃げ切れる速度差でありながら、なぜ追尾不可能な公海上まで振り切らないのか。


 相手は海岸線に沿って港へ急接近したかと思えば、諦めたようにまた離れる。必死に足掻いているように見えた。



「こいつら、外国から遙々やってきたわけじゃ無い──ひょっとしたら、日本に拠点があるんじゃないか?」



 潮を被った舷窓越しに、不審船の航跡がかすかに見える。その白い筋が、夜の海を切り裂いてゆく。



「逃走船へ警告する──こちらは海上保安庁、日本国政府の法執行機関である。停船せよ、繰り返す、即刻エンジンを停止しろ」


 複数の言語で流される警告。

 日本語、英語、中国語、朝鮮語……果てはロシア語まで。


 しかし無線機のスピーカーからは、雑音と、ときおり混じるような男の怒声が流れてきた。 ノイズまじりの、あざけるような嗤い声も混じっていた。



「舐めやがって」


 ブリッジの窓から船首にそびえるボフォース40㍉機関砲を確認した。


 極太の眉が動く。


 海上保安官を拝命して三十年の叩き上げ。決して感情を表に出さぬ男だったが、額に刻まれた皺に汗が浮く。


 部下たち一人ひとりを見ながら、

「諦めるな。俺たちは警察だ。泥棒が逃げるのを、黙って見送る仕事じゃない」


 全員へ覚悟を求めた。



「逃走する不審船に対し、船体への警告射撃を……」

 言い終わらないうちに、航海長が叫び声をあげた。


「船長ッ、護衛艦ですッ!」


 その瞬間、海が割れる音とともに船体が大きく傾いた。横波を受けたのだ。


 機関部で警報が一瞬鳴る。



「何事かぁ!」


 いつ接近したのか。真横に巨大な艦影が浮かび上がっていた。


 それはディーゼル機関の唸りとは明らかに別種の、ガスタービン・エンジンによる高周波音。排気ダクトから漏れるのは、闇の海に轟く得体の知れぬ息遣いだ。

 全身をダークグレーに染めた──巨獣が巡視船「あさぎり」を嬲るように見下ろす。



「ば、ばけもの」

 恐怖の汗が滲んだ操舵員の手から、舵輪がすべり落ちた。

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