第2話 海を統べるもの(後編)

 漆黒に紛れていた影に突如明かりが灯った。

 まるでスポットライトを浴びて登場する舞台女優のように──それは妖艶な存在へと豹変していた。ひとの姿に化けし漆黒の妖魔は、ご挨拶代わりにとでも言うように、アクティブ・ソナーを一発打った。


 ──ピンッ!


 巡視船「あさぎり」の船内に、ぞわりとするソナー音が響き渡る。

「バケモノからのキスなどいらん」

 大畠はマイクを握ると、並走する護衛艦へ通信回線を開いた。



「海上警備行動、ご苦労様です。貴船は対象船の前方にまわり動きを阻止してください。我々で拿捕します」

 紳士的に言葉を投げた。とにかく協力してくれようというのだ。邪険にする必要はあるまい。そんな大人としての心遣いは、しかし相手には伝わらなかったようだ。



「勘違いなさっているようですわね」



 女性の声だった。品があり落ち着いた声色の──けれどとてつもなく冷徹な、一切を受け付けない氷のような声だった。


「勘違い……なんのことだ」


「日本国政府より先程、防衛出動が下令されました。本艦は今より軍事行動をとります」


「防衛出動だと? そんな話は聞いていない!」



『こちら護衛艦しらぬい、艦長の田尾たお2等海佐です。内閣より防衛出動が発令されました。以後、この海域は我々が掌握します。軍事作戦展開の為、至急に本海域より離脱願います』



 こんどは男の声だった。

 同い年と推定される低く押さえた初老を感じさせる声は、紳士的な話し合いが出来る雰囲気はあった。


 だが、「ふざけるな!」大畠は即座に反発する。

「我々は司法権限を持つ海の警察だ。自衛隊などという軍隊の出番はない!」


 その激高に、再び冷徹な女性の声が割って入る。

「あら、御宅のオモチャの大砲で止められると思ってる?」



 通信マイクを握り潰さんばかりに拳へ力が入る。血管が浮き上がる。額には汗が滲み、頬を伝って顎に落ちる。

 海保の男としての意地が嘲られたのだ。膝を折ることなど許されなかった。


 軍艦として建造された護衛艦が放つ無言の圧力は、まるで大畠の心臓を握りつぶすようだったが、彼は歯を食いしばり、目を逸らさない。

 肺に空気を溜め込んで怒りを──怒鳴り声をあげようとした、瞬間、頭上の爆音に気持ちを押し潰された。

 直上を巨大なヘリコプターが通過した。


「特殊部隊を突入させます。噂くらいはご存知でしょう。我が海上自衛隊が誇る特警隊とっけいたいです。彼らは存在そのものが最高国家機密です。見学会は開催されません。ご理解出来たなら、一刻も早く離脱を」


「こんなことは異常だ。戦争でも、おっぱじめようってつもりか!」


「船長ッ!」

 通信士が割って入る。


「今度はなんだぁ!」


「霞が関の……長官からです」


 普段聞き慣れない者の名前に困惑する。

「長官だと。俺に、直接なのか──いったい、何が起こっているんだ」


 衛星通信の端末を受け取り耳に近づける。

 通話相手に対して一切の反論なく、大畠はただ頷いた。

 所詮は一介の公務員、組織人だ。頷く以外の選択肢など許されない。


 通話が終了すると放心したように俯く。そして気が抜けた声で呟いた。




「撤退だ」


 ブリッジの全員が抗議する。


「何故ですか!」


「こんな形で手柄を奪われるのか!」




 だが、それらを一喝した。

「命令なんだ!」


 ブリッジから見える護衛艦を睨みつけた。

 奥歯を噛み締め、拳を握りしめながら、距離が開いていくのを見送るしかなかった。

 こんな屈辱は初めてだ。護衛艦が見えなくなった後も、しばらくその場から動けなかった。

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