第2話 ソーダ水の夜空・ユイ

 パパは運転がうまいと思う。発進も、カーブも、駐車も。

 パパと同じくらい格好いい、艶のある紺色の車の後部座席で、私とママはいつもパパからお姫様扱いだった。車のドアを閉めてくれて、降りる時には先廻って開けてくれるパパ。車の中の茶系のシックなインテリアに合わなくても、私のお気に入りのピンクのクマのぬいぐるみを飾ってくれるパパ。車内で流す音楽も、私やママの好みのアイドルの曲や、オルゴールの音色にしてくれる。

 今日はジャズだ。ピアノと、前にパパが教えてくれた心地いいサックスの音色が響いている。たまにはパパの好きなジャズでもいいのだけれど、そんなことじゃなく今日はおかしい。

 いつも車の中では三人で楽しくおしゃべりするのに、今日は私が学校のことやテレビで見た話題で話しかけても、パパもママも、

「そうだね。」

「良かったわね。」

と、適当な返事ばかりで、少しも盛り上がらない。

 つまらない。せっかく郊外までドライブしてお食事なのに。

 窓の外を街の灯が流れて行き、やがてそれもまばらになる頃、目的のレストランに着いた。

 緑に囲まれた、レンガ造りの洋館のようなレストランは、入るとフローリングの床が照明に照らされて光っていた。座席はゆったりと配置されていて、カーテンやイスなどもヨーロッパのアンティークといった感じで素敵だ。パパやママはいつもいろんなお店にお食事に連れて行ってくれるけれど、こんなに大人っぽいレストランは初めてで緊張する。

 料理を待つ間も三人とも言葉少なで、聞こえてくるのはレストランに流れているクラシック音楽と、他のテーブルの低い話し声だけ。

 食事が終わり、お手洗いに立って帰ってくると、パパとママが楽しそうに笑いあって話しをしている。もしかして二人はケンカをしていたのだろうか。これまで一度も夫婦ゲンカなんて見たことはないけれど、でもそういうこともあるかもしれない。だから二人とも少し変だったのかな。笑っている、機嫌が直ったんだ。

「パパ、ママ。」

イスに座りながら笑いかける。二人が同時にこっちを見る。

「あの…」

どうしてそんな目で私を見るの。お前は邪魔だ、という目。パパとママのこんな目は見たことがない。

「パパ、ママ、ねえ、いったいどうしたの、何があったの、私、悪い子だったかな。」

何も言ってくれない、どうして。

「ねえ、何か言って。」

 「ユイ、何かって、何を。」

顔を上げると、ママが不思議そうな顔をして、私をのぞきこんでいる。

 だから、と言いかけて、左手でふわふわとしたものを押さえているのに気付く。見るとお気に入りのマカロン型クッションだ。どうして、これがここにあるんだろう。あたりを見回すと、自宅の自分の部屋……

 「シオリちゃんが帰ってからも、ずいぶん熱心にお勉強してると思ったら寝てたのね。」

 今のは夢……

 「ごはんよ、降りて来なさい。」

「あ、ねえ、パパは、パパ、もう帰ってきた……」

「帰ってるわよ。」

「いつ帰って来たの。」

「さっきだけど、どうして。」

「いつもより早くない。」

「七時だから、いつも通りでしょ。」

早く降りて来なさいと言って、ママが部屋を出て行く。

 夢だったんだ、テーブルに伏せたまま眠って……

 怖かった、すごく現実感のある夢だった。

 でも、本当のわけないよね、パパとママが私を邪魔にするなんてありえない。いつも、ユイは私たちの宝物、生まれて来てくれてありがとう、って言ってくれてるもの。

 私は、外ではつい控えめないい子になってしまうけれど、家では安心してわがままも言う。それは、パパとママに愛されているって確信があるから。私達は世界一仲良しの家族なんだもの。

 それでもキッチンに入る時、ほんの少し不安だった。パパが私のことを、どんな目で見るか。

 「パパ、お帰りなさい。」

恐る恐るパパの目を見る。

「ただいま、ユイ。」

いつもどうりの優しい声と笑顔。良かった。

「お帰りなさい、パパ。」

 ああ、嫌な夢だった。

 翌日のお昼過ぎ、私はママのお手製のケーキとクッキー、それとお泊まりセットを持って、パパの車の後部座席にママと乗り込んだ。シオリの家まで送ってもらうことにしたのだった。自転車で行けない距離ではないけれど、荷物が多いし。帰りはまた迎えに来てもらうことにしたし。

 車内には、今話題のアイドルグループの最新曲が流れている。

 パパとママは、私を送ってからお茶を飲みに行くんだって。天気がいいから、海沿いのカフェとかいいかなあと話をしている。仲良しだなあ、ほんと。

 でも、

「一晩でもユイちゃんがいないと、ママ寂しいなあ。」

きゅっと、私の右腕にしがみつくママ。

 車が我が家の前の道を真っ直ぐ抜け、四つ角の信号で止まった時、角の家から男の子が出て来た。水色のパーカーを着て、サッカーボールを持っている。窓際の私を見て、にこにこと手を振りながら、こっちへ近づいて来る。

 「ママ、あの子誰かなあ。」

「え……」

ママも私の方の窓から外を見る。

「あんなににこにこして、絶対私の事知ってるよねえ。」

窓を開けて、少し視線を上に上げる。大きな赤茶色の三角屋根が目に入る。

 「出かけるの。」

男の子は私に、親しげに話しかける。

「あ、はい。」

その時、信号が変わり車が動き出す。

「じゃあ……」

ぎくしゃくとした応対は、自分が忘れてしまった人間に会った時はいつものことだった。

 「ママ、あの子、あの家の子だよね、近所の子。」

ママの方を振り向いて聞く。

「さあ、ママは知らないわ。」

首を振るママ。

「パパは今の子見てた、知らないかなあ。」

パパも運転しながら知らないと言う。

 誰だろう、あの家の子じゃないとしても、遊びに来ていた友達……それで、私の以前のクラスメートとか。

でも、さわやかでいい感じの子だった。次会った時まで覚えていられるといいなあ。

 シオリの家に泊まりに来るのは、夏休み以来だ。ここ半年のことはよく覚えているはず。

 あれ、何か記憶がはっきりしたきっかけがあったと思うんだけど、何だったろう。

 シオリのお母さんに挨拶をして、二階のシオリの部屋に上がる。

「ね、ちゃんと覚えてたでしょ、シオリのお母さんの事。」

前は、何回会っても忘れてしまい、居合わせた隣の家の人にお泊まりの挨拶をして慌てたりした。

「まあ、うちのお母さん、特徴ないからなあ。ユイのママと違って美人でもないし。」

「そんなことないよ、今も着物すごく似合ってた。」

「ああ、今日は午前中、生徒さんが来てたから。」

シオリのお母さんは、自宅でお花を教えている。だから家の中には、いつもきれいな生け花があって、それが純日本風の家によくあっている。今日も玄関には、白と紫色の花に、赤い小さな実をつけた小枝をあわせたものが生けてあった。シオリの部屋には、薄いピンクと白のコスモスが品よく飾られている。うちのママもお花は好きだけど、洋風のフラワーアレンジメントという感じだから、この家へ来ると同じお花でも興味深い。

 「お花の先生になりなさいって、まだ言われてるの、シオリ。」

「そうなのよ、嫌だって言ってるのに。ね、それよりお茶しよう、ユイのママのケーキ食べよう。」

「シオリのお母さんにも、どうぞってさっき言っておいたの。」

「わかった、台所で切ってもらってくるね。」

 「あ、ねえ、その前に一つだけ。」

一階に降りようとするシオリを呼び止める。

「何。」

「私の家の並びの、東側の角の家なんだけど、そこにね、私たち位の男の子とかいたっけ。」

「角の家。」

「そう、赤茶色の三角屋根の家。その家の子の友達かもしれないんだけど、さっき来る時話しかけてきて……」

「ううん、ユイの近所には、そういう子はいないはずだよ。だから友達っていうのも、ちょっと……」

「そう。もしかしたら、その子、人違いしてたのかも。」

「そうだよ、きっと。気にしない、気にしない。」

そうだよね、人違いだよね。

 その夜、シオリとシオリの両親、それに小学三年の弟のカオル君とご飯を食べた。カオル君は私が話しかけると、ちょっと照れてかわいい。シオリの家族も私の家と一緒で、とっても仲良し。その上、弟。いいなあ。シオリはケンカばっかりというけれど、私も兄弟が欲しい。弟でなくても、妹でもいいから。そしたら思いっきりかわいがるんだ。

 夜、お風呂上りにパジャマ姿で、ずいぶん遅くまでおしゃべりし、その後、上にカーディガンをはおって二人でベランダに出た。お互いの家に泊まると、いつも寝る前に星を見る。私が忘れていても、シオリが覚えている。

 星を見始めて、ひとしきりきれいだとか、夜空に吸い込まれそうだとか言ってしまうと、私たちはとても無口になる。なぜだか、それが星空に対する礼儀のように思う。少なくとも、今年の夏休みにお互いの家に泊まった時はそうだった。

 賛美と祈り。大人っぽい口調で、私の家に泊まりに来た時、シオリが言っていたっけ。

 黒い夜空は、その奥に、ここからは見えていないたくさんの星を隠している。それが全部見えたらいいのに。

 星座を探しながら、空のあちこちを見ていると、ふいに東の空が赤みを帯びてきた。

「シオリ、ちょっと、あの辺赤っぽくない。」

「え、どこ。」

「ほら、あの、三階建ての家の右側。もしかして火事……」

だとしたら大変だ。

 慌てる私に向って、

「火事じゃないよ。今の時間だったら太陽が昇って来たんでしょ。」

「太陽、え、もうそんな時間。」

部屋の中の、四角いパネルに草原の絵が描かれた掛け時計を見ると、まだ夜中の一時だ。

「まだ一時じゃない。」

「だから……」

シオリの指さす東の空が、どんどん明るくなってくる。そして、そのあたりの空がブクブクと泡立ち始めた。黒い夜空に、濁った灰色の泡が次々生まれる。

 ぽかんとして見ていると、なんとシオリの言う通り、真っ赤な炎のようなものが見え始めた。太陽、でも、太陽よりずいぶん大きい。これまで見たこともないような巨大な星が、長大な炎を噴き上げながら、東の空から昇って来る。圧倒されて、思わず後ずさりする。

 「何あれ、ど、どうして、自転は、公転は……」

驚き過ぎて自分でも何を言っているのかわからない。

 「警察、警察に電話、救急車呼ばなくちゃ。」

「落ち着きなさいよ、ユイ。いったい誰を救急車で運ぼうって言うの。」

「何落ち着いてるのよ、もしかしてこの世の終わり、そうだ、パパとママ……」

家に電話、電話をして……

 その時、私の真上あたりでバチバチッという大きな音がした。びっくりして視線を空に戻すと、もはや空は泡立つどころか火花が散っている。赤黒い炎をあげながら、東から南の空まで燃え広がって行く空。その先頭には巨大な太陽が、信じられない素早さで、空を西へと動いて行く。息をするのも忘れていたのか、苦しさに息を吸い込んだ途端、物凄い焦げ臭さに大きくせき込む。

 「やだ、もう……」

私はその場に座り込んで頭を抱えた。恐ろしくて、空をとても見ていられない。焦げた空気に、満足に息もできない。体中が大きく震えている。

 「ユイ、私が……」

バチバチッの他にも、何かシャーッというような音もして、シオリの声がよく聞こえない。

「ねえ、私の、去年の夏の失恋相手ね。」

シオリが大声で叫ぶ。

 今、今、その話をするの、でも、とても顔を上げることなんかできない。

 シオリが、相手の名前を絶叫する。私は信じられない気持ちでそれを聞いた。驚きと嫌悪が自分の中に広がる。

 怖い夢だ。空も燃えてる。シオリが……に失恋したなんて、怖くて嫌な夢。

 











 


 

 

 

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