蒸発の空 突出の星

木野 永吏

第1話 記憶の中の十五年・ユイ

 ユイ、お前は、一秒前に誰かが作った世界に生きているのだ。その記憶も全て、本当に起こったことではなく、与えられた偽物なのだよ。そう言われても、私はとても信じることはできない。 

 けれど、この世界が十五年前から徐々に誰かによって作り始められ、だから、つい最近まで世界は不完全だった、というなら信じても良いと思う。 なぜなら、生まれてから十五年分の私の記憶が、あまりにも虫食い算状態だから。一般的には、伏せられた数字を、明らかになっている数字から推理するという虫食い算。私も、所々ある記憶から、空白の部分を推理して補って生活している。その空白は、誰かが世界を作る途中で作り損ねた部分ではないだろうか。(それにしては、他の人の記憶に空白の部分がないのはなぜだろうと思うけれど)

 一方、両親に聞いたところによると、私は一人っ子のせいもあって、ママと、ママのママ、つまり私のおばあちゃんがつきっきりで大事に育てたという。だから、何かのショックで記憶を一部失ったりということは思い当たらないそう。今まで大きなケガや病気もしていない。

 何度かお医者様を変えて見てもらったりしたけれど、結局原因はわからず、記憶の空白部分が戻ることもなかった。

 それがなぜか、ここ半年程の記憶ははっきりとしている。世界はやっと完成したのだろうか。

 それとも、私がチアキ君に再会したから……なぜチアキ君に会って、記憶の状態が良くなるのかはわからないけれど。

 あれは半年前、ゴールデンウィーク明けの日曜日だった。朝寝坊をしていたら、ママが部屋に入って来て言った。

「あのね、チアキ君たちご家族が、お父さんの転勤先から元の家に戻って来られたの。今、下にいらしてるのよ。」

「チアキ君。」

誰……

「覚えてないのね……」

少し寂しそうにママが言う。

「うちの家の並びの東の端の家、赤茶色の三角屋根の家の子……ユイと同じ年で、小学校の五年で転校するまでユイとよく遊んでたのよ。」

少しも覚えていない。

「あちらの奥さんが、ユイに会いたがってるの。小さい時から、すごくかわいがっていただいたのよ。あちらは男の子一人だからって、何か可愛いものを見つけるたびにユイにって……」

 とにかく挨拶だけでもと一階の居間に行くと、優しそうな男の人と、綺麗な女の人、それに細身の男の子がソファに座ってお茶を飲んでいた。

 「ユイちゃん、まあ、大きくなって、ますますきれいになって。髪、ずっと肩の下まで伸ばしてるんですってね。私、この少し茶色がかったサラサラの髪が、昔から好きだったのよ。」

 チアキ君のお母さんは、こっちが照れるほど喜んでくれた。顔や、声や、ふわふわとカールした髪など、とにかく可愛らしい人だった。私のママも可愛いと思うけれど、そういうレースのリボンのような感じではなく、華やかな刺繍の入ったドレスといった感じの人だった。

 一緒にお茶を飲みながら、必死に何か思い出さないか考えてみる。たまにこういう時、記憶の欠片みたいなものが頭に浮かんでくる場合がある。

 ふと目に留まる、カップを持つチアキ君のママの白くて綺麗な指、薄い赤に塗られた爪。

 あ、私、この人に髪を、そう、編んでもらったことがある……ママ以外の人に髪を触られる、あのくすぐったい感じ、白い指にとられた赤いリボン。確かに私のそばにいた人達なのだ、この家族は。チアキ君のお父さんとチアキ君の記憶はないけれど。

 「チアキもユイちゃんも、全然話さないのね。前は二人でずっとしゃべってたのに。」

チアキ君のママが、おかしそうに言う。

「お互い、すっかりお兄さんとお姉さんになって恥ずかしいのかな。」

 チアキ君は少し不機嫌そうに斜めを向いて、部屋の隅の白木のチェストの上に飾ってあるピンクがかった紅色のバラを見つめている。

 私は初対面の気分で、じっとチアキ君を見ていた。美少年と言えないこともない。けれど、きつく口を結んでいるその横顔は、誰にもなかなか心を開かない性格の持ち主のように見えた。

 そのチアキ君は、今や私のクラスメートだ。再会の時の無口さが嘘のように、クラスで一番騒がしいお祭り人間と周囲から言われている。

 私に、

「お前、小学四年の時の、クリスマス会でさあ……」

と、小さい頃の思い出話をやたらふってくる。こちらは内心ひやっとしながら、適当に話を合わせている。小学四年も何も、私にとってチアキ君は半年前に突然現れた人に過ぎない。

 クラスには、チアキ君以外にも小学校時代のクラスメートが何人かいるのだけれど、その子達に卒業式の話をされた時も焦った。

「ユイ、大泣きだったよね、学年で一番泣いてた。」

覚えていないのです。それにあなた達のことも、うろ覚えなのです、と言えるはずもない。

 でも、私にはシオリがいる。小学六年で同じクラスになって以来、中学三年の今日まで、ずっと同じクラスの大親友同士として過ごしている。そして、私の生きる思い出帳でもある。学校関係で記憶にないことは、シオリが頼りなのだった。

 私の記憶がまばらなことも、両親の他はシオリしか知らない。

 「明日、二時ぐらいには来るの。」

 十月最後の金曜日の曇った午後、私の部屋で宿題をしながらシオリが確認する。明日は、シオリの家でお泊まりだ。ゆっくりおしゃべりしたり、遊んだりするためにも、今日宿題を片付けてしまおうというシオリの提案にのったのだった。

 本当なら高校受験の準備で、友達の家に泊まったりしている場合ではないのだろう。でも、私たちの学校は私立で、中学から高校に進むのに試験などないのだった。

「行くよ。ママにホールケーキ作ってもらって持って行くからね。」

「いいの、嬉しい。ユイのママのケーキ、お店で買うよりずっとおいしいんだもの。」

 シオリの持つ、薄いグリーンの軸のシャープペンシルが、よどみなくノートの上を走って行く。今解いているのは数学の問題だけれど、シオリはどの教科もよくできる。その整った顔と切れ長の目をを見ただけで、勉強だけに限らず賢い子だということは、初対面の人にもすぐわかる。

 「丸写しはだめだよ。」

ノートに目をやったまま、シオリが言う。

「え、私は別に……」

「全然やる気ないよね。」

ピンクのマカロン型クッションを抱えてベッドにもたれかかる私を、シオリが軽くにらむ。

 シオリは、私の記憶係をしてくれるぐらい優しい子だけれど、変に甘やかしてはくれない。

「ユイはやればできるのに、なかなかやる気にならないんだから。」

「はあい……」

しぶしぶ、白いローテーブルの上の真っ白なノートに取り組み始める。

「変わらないなあ、そういう、スタートの遅いところ。」

「え。」

「変わらない、変わったところもあるけどね。」

ふっと、ため息をつくシオリ。かなわないなあ、私より私の過去に詳しい子には。

「じゃあ、ずっと夏休みの宿題とか、ため込んで困ってたんだ。」

「困ってたどころじゃないわよ。八月三十一日に半泣きで家に来て、ワークブックは丸写しだわ、読書感想文書くために、本のあらすじを話させられるわ……私が早めにしなさいって言ってあげてたのに……ちょっと、聞いてる……」

「聞いてるよ、だから今は頑張って……」

あ、消しゴムが転がって、

「シオリ、消しゴム、そっち行ってない、ピンクの、花の形がちょっとつぶれてる……」

テーブルの下をのぞき込む私の耳に、

「去年なんて、こっちは失恋の翌日だったのに。」

しんみりシオリの声が届く。

……失恋。

「その顔は、覚えてないな。」

「私、そんな時に宿題持って押しかけたの。」

そんなことしたの、私。

「ううん。失恋の事話したのは、しばらく経ってからだから仕方ないんだけど。」

「シオリ……」

「いや、仕方なくないか、もう、宿題あんなにためて。」

「ごめんね、シオリ。」

「もういいよ。」

ところで、

「誰に、失恋したの。」

そこに興味がある。

「もう、思い出したくないから言わない。」

「お願い、聞かせて、というか、忘れたからもう一回教えて。」

「嫌。」

「明日、ケーキにクッキーもつけるから。」

「だあめ。」

 結局、明日の気分次第で教えてあげるということで、シオリは帰って行った。

 そうだ、早めにママに追加でクッキーのお願いをしておこう。

「ママ、明日、ケーキと一緒にね……」

言いながらキッチンに入ると、驚くことにパパがいる。

「パパ、どうしたの、まだ五時だよ。」

いつも七時頃にしか帰って来ないのに。

「ユイ……」

パパとママが私を見る。ママの趣味の白と花柄で統一されたキッチンで、いつもどうりに笑って、笑って……なんだか、変だ。笑ってるよね、怒ってはいない、この顔は。何だろう、何かいつものパパとママと違う。まるで、見えない皺が顔中に刻まれている感じがする。怖い。

 「ユイ、今日は早く仕事が終わったんだ、皆で外に食べに行こうか。」

ハンサムで背が高くて、優しくて頼りがいがあって……私の理想の男の人であるパパ。結婚するなら、絶対パパみたいな人と決めている。

 「支度しなさい、ユイ。」

美人で可愛くて、優しくてお料理上手なママ。私と歩いていると、よく姉妹に間違えられる。私は、ママみたいなお嫁さんになるのが夢なの。

 「はい。」

クッキーのことは後で言おう。今、このキッチンにいてはいけない気がして、私は慌てて二階の自分の部屋へと上がって行った。嫌な感じにドキドキする胸を抱えながら。


  





 

 

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