終戦の翌年の夏。父の支配下にあった中村財閥の解体が始まった。


 父は、彼が可愛がっていた役員もろともに、追放された。それまで彼だけの物だった会社は、業務ごとに細かく分断され、中村の血縁でもなんでもない者や中村姓を名乗ってはいても、父が鼻もひっかけず見下していたような分家によって引き継がれることになった。 


 最終的に父の自由にできる事業として残ったのは、全体の四分の一程度。だが、それさえも、表向きは父が関わっていないことにしなければならない。自分の意思を代行する者のひとりとして、父は弘幸を立てた。血が繋がっているとはいえ、弘幸は、それまで全く事業にかかわってこなかったし、戦争が始まった時には勘当されてもいた。そのため、彼が会社の経営にかかわることになっても、当局に言い訳がきいたのだ。 


 しかしながら、父の代理に立てられたところで、経営者としての弘幸は無能である。なんの役にも立たないばかりか害にしかならない。自慢だった息子たち死なれ、築き上げてきたものの多くを奪われるだけでなく、わずかに残ったものさえも唯一生き残った息子によって破壊されつつある父は、荒れに荒れた。


 そんな時、ひとりのみすぼらしい身なりの老婆が中村家にやってきた。彼女は、祈祷師だと名乗り、自分には目に見えぬ霊魂や因果が見えると主張した。 


 家ではひた隠しにしてきたにも関わらず、老婆は、弘幸をひと目みるなり宝珠と宝珠守っている刀の存在を言い当てた。だから、彼女になにかしらの能力が備わっていることは、弘幸も認めざるをえない。しかしながら、しょせんは市井の拝み屋である。「この家は呪われている」と彼女が言ったところで、弘幸は信じる気にもなれなかった。


 だが、老婆が現れた時期が父にとって生まれて初めて経験した逆境の時期であったこと、老婆が父しか知りえぬことまで言い当てたことから、父は彼女を信じた。 弘幸や家の者が、どんなに「あれは偽物だ」と意見しても信じない。しかも、老婆が、弘幸の息子を抱いて「この赤ん坊が死ねば、この家も終わる」などと言ったものだから、父は、これも信じてしまった。


 二十年足らずのうちに、老婆の言葉は別の意味で真実になるのだが、その時の父は、とにかく赤ん坊を死なせないことに夢中になった。もともと頭数にいれていなかった孫である。父は容赦なく赤ん坊を、『完全看護』という檻の中に放り込んだ。

 赤ん坊は、周囲の環境から完全に隔絶された離れで、限られた者たちによって厳重に守られて育てられることになった。弘幸と妻でさえ、子供との面会を厳しく制限された。しかも、父本人は、その後、赤ん坊の顔を見ようともしない。


 この無体な仕打ちに、さすがの弘幸も我慢の限界を迎えた。彼は、息子を取り返そうと躍起になった。しかしながら、相手は、腐っていても大財閥の支配者である。弘幸が闇雲に奪い返しにいったところで、返り討ちに合うばかりだった。

「でも、絶対に返してもらう。そして、二度と、お父さんの好きにはさせない」

 息子を盗みだすための計略、屋敷を逃げ出すまでの段取り、そして逃げた後の算段、等々……  頭を冷やし、考えられる限りのことを考え、ぬかりなく準備を整えてようやく、弘幸は息子を盗み出すことに成功した。

 やっと取り戻した息子の弘晃は三歳になっていた。だが、彼は、生きながらえさせることだけを目的に生かされていたため、ロクに言葉も覚えていなかったし、いまだに歩くことさえままならなかった。そんな息子を、弘幸と彼の妻は精一杯愛して育てた。 


 しかしながら、慎ましいけれども幸せな暮らしは、長くは続かなかった。体が極端に弱い息子は、頻繁に熱を出した。一年も経たないうちに、息子を診てもらっていた近所の町医者が匙を投げた。

「この子は、大きな病院に連れて行ったほうがいいよ。うちでは、これ以上は無理だ」

 だけども、大きな病院にいけば、きっと父に見つかってしまうだろう。息子の生死に家の存亡がかかっていると信じている父は、今も彼を取り返すのに必死になっているはずだからだ。

「どうしよう」

 熱のせいでぐったりとしている息子を抱えながら、弘幸は途方に暮れた。このままでは息子が死んでしまう。かといって、父に捕まれば、この子は、また生かされるだけの独りぼっちの生活に戻されてしまう。

「どうしよう。どうしよう。どうしよう」

 その時。ふと、宝珠のことが頭に浮かんだ。


(閣下は、『命を繋ぐ珠』だと言っていたよね? 『どんな願いも叶えてくれる珠』とも)

 ならば、あの宝珠が、この子を生かしてくれるかもしれない。この先ずっと病知らずの体にしてくれるかもしれない。弘幸は部屋にとって返すと、押し入れに仕舞い込んだ桐の箱から宝珠を引っ張り出した。『 ヨセ 』という異質な声が頭をかすめる。宝珠を守護する飾太刀の声だとわかったものの、弘幸は、その警告を無視した。

「お願いだ。この子を直してくれ!」

 弘幸は息子の枕元に宝珠を置くと、それに向かって叫んだ。だが、しばらく待っても息子の苦しげな様子は変わらない。熱も下がる気配がない。弘幸は、宝珠に向かって這いつくばるように頭を下げ、畳に額を擦りつけた。

「頼みます! なんでも願いを叶えてくれるんだろう? 頼む。頼むよ!」

 何度も何度も、頼み込む。その場に他の者がいたら、弘幸の行動を滑稽に思っただろう。だけども彼は必死だった。息子を死なせるわけにはいかない。


『 無駄ダ。宝珠ハ ソノ任二 非ズ 』

 再び、飾太刀が彼に語りかけてきた。

「うるさいっ!」

 弘幸は飾太刀を怒鳴りつけ、宝珠を掴むと夜の街に飛び出した。大きな通りで捕まえたタクシーに乗り込んで向かったのは、閣下の家である。


「お願いです。これの使い方を教えてください!」

 応対に出た閣下に、弘幸はすがりついた。

「閣下のことです。知らないなんて言っているけれども、本当はこれがどれほどの物かも、どうやって使ったらいいのかもご存じなんでしょう? お願いですから教えてください。息子が死にそうなんです」

「残念ながら、本当に知らない。すまない」

 出会ってから初めて、閣下が弘幸に謝罪の言葉を口にした。しかしながら、そのことに気づけるだけの心の余裕は、弘幸にはなかった。

「嘘だ! あなたは絶対に、なんか隠しているんだ!」

「落ちつけ! 弘幸!」

 激高する弘幸を閣下が大声で叱り飛ばす。これまで聞いたことがないような閣下のどなり声に驚いて、弘幸は腰を抜かしかけた。


「知らされないこと、イコール、隠していることではない。全ての謎に答えが用意されているとは限らない。だからこそ探さなければならないことを、弘幸は誰よりもよく知っているはずだろう。学者なんだから」

 弘幸をいたわるように、閣下が彼の肩に手をかけた。

「君の息子だが、奇跡に頼る以外に、命を救う手だてはないのか?」

「は……い、いいえ」

 うなずきかけた弘幸は、慌てて首を横に振った。今のうちならば、息子の命を救える可能性は充分にある。

「では、その可能性にかけるがいい」

 閣下は言った。

「まずは、彼の命を救うことが最優先だ。その後のことは、それから考えればいい」

 閣下の言葉が、息子を心配し過ぎて沸騰しかけていた弘幸の頭をほどよく冷やしていく。 


「そう……ですね。まずは、弘晃の命を救うこと。後のことは、それから考えればいいですね」

 弘幸は、オウム返しに閣下の言葉を繰り返した。引き離される心配をするよりも、まずは息子の命を助けること。もしも死んでしまったら、息子と引き離される心配さえ、できなくなるではないか。こんな簡単なことを、閣下に言われるまで、どうして決められなかったのだろう?

「まずは、設備の整った大きな病院に連れて行って……」

「そうだ。できるだけ大きな病院に連れて行こう。立派な医者が沢山いるところがいいな」

 弘幸を励ますように閣下がうなずく。

「その後のことは、そこで考えよう。私も一緒に考える。私にできることがあれば、どんなことだって手伝ってあげるから」

「閣下?」

「友だちの宝物を、私が守らないでどうする?」

 ぼんやりと見上げる弘幸に、閣下が微笑む。

「友だち?」

「少なくとも私はそのつもりだった。弘幸もそう思ってくれていると思っていた」

 『だから、君が父親のところから逃げ出した時に、なにも相談してもらえなかったのは、私としては少しばかり遺憾であった』と、照れたような怒ったような口調で閣下が言う。

「すみません。ご迷惑をかけたらいけないと思ったものですから」

「それが、水臭いというのだよ」

 閣下が弘幸の腕を引っ張って立たせた。 

「ほら、行くぞ。まずは大病院だ」


 息子は肺炎を起こしていた。

 中村の息がかかっていなそうな病院を選んで受診したつもりだったが、3時間もしないうちに、父親がやってきた。顔を合わせるなり、弘幸は、父からこてんぱんに殴られた。弘幸に付き添ってきた閣下が庇ってくれなかったら、殺されていたかもしれない。 


 翌日、小康を得るのを待って、息子は中村系列の病院に移され、そこで手厚い看護と治療を受けることになった。息子の体のことだけを考える限り、父の庇護下にいるほうが安心であることは、弘幸も認めざるを得なかった。どのみち、彼らは、ここから逃げ出せそうになかった。父は二重三重の見張りを彼らにつけていた。

「家に……中村の本家に戻ろう」

 散々悩んだ挙句、弘幸は、自分でそう決めた。 


 独りぼっちだった時のことを忘れていない息子は、弘幸の決定を聞くと、泣いて嫌がった。

「やだ! あそこは嫌い! ずっと、お父さんとお母さんと一緒にいる!」

「お父さんも、お母さんも、ずっと君と一緒にいるよ」

 弘幸は息子を抱きしめた。

「今度は、絶対に寂しい思いなんかさせない。病気で自由に外には出られないかもしれないけれども、その代わりに、お父さんが外のことをいっぱい教えてあげるよ。お友だちも、いっぱい作ろうね。みんなで、いっぱい笑おう。できないことはいっぱいあるかもしれないけど、できることだって、きっといっぱいあるよ。それを、お父さんと一緒に探していこう。それから、いっぱい勉強して……」

 泣きじゃくる息子に思いつくまま並べた約束を、そのまま自分が達成すべき目標として心に刻む。

(この子は、僕の宝物。この子を守れるのは、僕しかいない。僕は、お父さんなんだから)

 息子が笑顔を取り戻すまで何度も何度も自分に言い聞かせているうちに、彼は、なんの見返りも求めずに《いわくつき》の宝物を守ってきた守り人の気持ちが、少しだけわかったような気がした。




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