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戦争が終わったばかりの東京は、焼け残った地区を数え上げるほうが早いぐらいだった。比較的無傷のまま残った堅牢な建物は、初めからそうするつもりであったかのように占領軍によって接収されたという。
弘幸夫妻が間借りしていた部屋も、燃え殻になっていた。
黒焦げになりながらも一本だけ残った柱に、『生き残ったなら戻ってもいい。 父』と書かれた紙が曲がった釘で打ち付けてあった。
「誰が帰るか」
弘幸は、張り紙に向かって舌を出した。そもそも、まったく商売に向かない弘幸を、「うちの子とは思えない出来損ないだ」と罵り続けたあげく、息子が商人になるのを諦めて学者の道を目指した途端、「そんな奴は、もはや息子ではない」と見限り、縁を切ったのは、父である。弘幸に頭を下げて戻ってやる義理はない。
「勝手に家を追い出しておいで、『戻ってきてよい』とは何様のつもりだ。『戻ってきてください』だろうが」
だが、彼の父親は、昔から横暴な男であった。
焼け跡を見張っていたらしい父の使いは、柱の張り紙に向かって悪態をついている弘幸を見つけるなり、拉致するようにして彼を生家に連れ帰った。いったんは逃げることに成功したものの、それは妻の居所を探るために泳がされただけであったようだ。宝物の疎開場所である屋敷に逃げ込んだ弘幸を追いかけて、父の配下の者が押しかけてきた。
ここで彼らに騒ぎを起こされては、閣下と疎開させてまで守った宝物に迷惑がかかる。弘幸と静江は、後始末が残っている閣下との仕事を継続させてもらうことを条件に、彼の生家に戻ることにした。父が寄こしたピカピカの黒塗りの車に、少ない荷物をまとめて弘幸夫妻が悄然と乗り込んだ時、妻が手なずけた琵琶は、彼女との別れを惜しんで、哀切極まりない旋律を奏でてくれた。
彼が生まれ育った麻布の家は、信じられないことに無傷だった。悪運が強いとは、まさに、こういうのを言うのであろう。家に到着するやいなや、まだ一か月ほど先だと聞いていたのに、妻が陣痛を起こした。生まれた男の子は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しく、ろくに手足も動かさない。医師たちからは、三年も生きられないだろうと宣告された。
「出来損ないが、出来損ないを生んだか」と、数年ぶりに会った父は、開口一番、弱いながらも一生懸命生きようとしている命を侮辱した。
「しばらくここにいるがいい。このご時世、今にも死にそうな赤ん坊を甲斐性のないお前が養えるわけがないからな」
弘幸は悔しかったが、何も言い返せなかった。大財閥の本家だけあって、ここだけは医師も食料も温かい寝床も充実していた。狡い了見ではあるが、弱い赤ん坊が命を繋いでいくために、この家以上に最適な環境があるとは思えない。それに、非常に苦手としているものの、弘幸は、父親のことも心配ではあった。弘幸には二人の兄がいるのだが、彼らは事業の責任者として家族を連れて大陸と欧州に行っており、まだ帰ってきていない。
「先のことは、兄さんのどちらかが帰ってきてから考えるとするか。なあに、父親の顔さえ見なければ、それほど不快な思いもしないでいられるだろう」
基本的に呑気な三男坊は、しばらくの間、父親の言葉に甘えてやることにした。
だが、二人の兄も、彼らの家族も、結局帰ってこなかった。終戦から半月ほど後、まず長兄家族が、続いて次兄家族が、帰国の途中で全員亡くなり向こうで葬られたという知らせが入った。病が原因だろうということであったが、占領された地で贅沢に暮らしていたのを恨まれて殺されたのでは……という噂もあった。
頼りにしていた兄たちの死に、父は相当なショックを受けた。
「お前が死ねばよかったんだ! 役立たずの、お前と、お前の息子が!」
知らせが届いた日からしばらく、父は、泣きながら弘幸に当たり散らした。
秋が深まるにつれ、占領軍の命令で財閥が解体されるようだという話が、実現に向かって動き始めた。頼りになる息子たちを失い、先祖代々築き上げてきた財産をも奪われる期限が迫ってきたことで、父はますます怒りっぽく横暴になっていった。
一方、宝物の守り人たちは、ぽつぽつと家に戻り始めていた。
その中でも真っ先に戻ってきたのは、例の茶入の守り人だった。彼は、静江が想像していた通りの、頼り甲斐のありそうな好人物だった。終戦によって帰国し自宅の玄関先まで戻ってきたところで奥方から茶入のことを聞き、家の敷居をまたぐこともせずに、こちらに来てくれたという。
「女ばかりのところに茶入を置いていくのは心配でしたが、あれが最も好みそうな戦場に持っていくわけにもいかず、ひたすら案じておりました」
彼は、茶入が世話をかけて申し訳なかったと、弘幸たちに何度も礼を言って帰って行った。
先祖代々怪しい宝物の管理を任されてきただけあって守り人の帰還率は比較的に高かったが、それでも四分の一の守り人は、その年の末までに戦死が確認された。
あの琵琶の守り人も帰ってこなかった。
「これは、うちで引き取ることになるだろうな。もはや人を害することもないだろうし、妻が気に入っているようだから」
閣下が胴を撫でながら琵琶に語りかけると、元の主を偲んで静かな旋律を奏でていた琵琶は嬉しげに和音をかき鳴らした。
翌春になると、いよいよ引き取り手のない宝物だけが閣下の手元に残った。閣下は、それらの宝物と奥方と共に、疎開先から補修を済ませた世田谷の自宅に戻った。
「弘幸。どれか引き取ってくれないか?」
引っ越しを手伝いに来た弘幸に、閣下がたずねる。
「勘弁してください。どうしてもというなら、琵琶を預からせていただきます」
琵琶。大人気である。
閣下は、弘幸の反抗的な態度が気に入らなったらしい。その晩、家に戻った弘幸が着替えをしていると、ポケットの中に守り人を失った宝物の一つを見つけた。それは、ところどころに白い筋と大小の金色の粒が入った、ビー玉よりも少し大きめの珠だった。小石川あたりの屋敷に保管されていた物で、装飾過多な飾太刀とともに預かったと、弘幸は記憶している。
「石としての価値もなさそうだし、飾太刀の装飾品のひとつかな?」
だが、太刀の飾りであるならば、紐を通す穴がついていてもよさそうなものだ。
「となると、この珠自体が独立した宝物というわけか。金色の粒はともかく、これだけ白い筋が多いと、この種の石としての価値は、低いはずだと思うのだけど……」
弘幸は掌の上の球を電灯の光にかざした。この珠が不思議なことをするところを、弘幸は目撃していない。それでも、石としての価値が低いのであれば余計に、《いわくつき》だからこそ、これが疎開させられたことは間違いないと思われる。
「閣下ってば、悪戯もほどほどにしましょうよ。なあ? 弘晃?」
弘幸は、珠に興味を示したように手を伸ばしている赤ん坊の布団の脇に座り込んだ。弱々しいながらも、赤ん坊が声を立てて笑う。すると、その宝物も笑った
……ような気がした。
「笑った? いや、笑ったような気がしただけだよね? うん。気のせいだ。絶対そうだ」
首を振りながら自分に言い聞かせる。ただでさえ面倒くさい父親と心配でたまらない息子を抱えているのに、これ以上の面倒は御免である。
「明日になったら、絶対に閣下に返してやる」
そう思いながら、その晩の弘幸は寝床についた。
その夜。弘幸は夢を見た。
『 寄越セ 』
『 ソレ ヲ 寄越セ 』
無数の手が、声が、弘幸を追いかけてくる。
『 寄越セ 』
『 ソレ ハ オマエゴトキ ノ 手ニ 負エヌモノ 』
『 ワタシ ニ コソ 相応シイ モノ 』
伸びてきた手が弘幸の髪を掴んで引きずり戻す。
別の手が、弘幸の腕や足を掴んで、体の自由を奪った。
『ドコ ダ? ドコ ヘ ヤッタ?』
声が、執拗に弘幸を問いただす。
『 大人シク 渡セバ 許シテヤロウ。 サモナク バ 』
『サモナクバ オマエ ヲ 殺メル ゾ オマエ ノ 大事ナ 者ヲ 殺メル ゾ』
体の自由を奪われた弘幸の前で、別の手が、長い爪を立ててながら、宝珠を手に笑っている息子に向かって伸びていく。
『 アッタ! 』 『 見ツケタ 』
『 コレサエ アレバ ワタシ ハ ―― 』
「やめろっ! 息子には手を出すなっ! 逃げなさい! 弘晃!」
弘幸は、息子の名を絶叫した……ところで目が覚めた。彼の手には、なぜか、昨晩布に包んでから引き出しにしまったはずの、あの珠がしっかりと握られていた。
翌日、弘幸が文句を言いがてら珠を返しに行くと、閣下は自身の犯行を否認した。
「失敬な。私は、そんな幼稚な悪戯はしていない」
「あなたさまでないのであれば、どなたの仕業ですか? 奥さまがおやりになったとでも、おっしゃるつもりですか?」
「彼女ならば、やりかねない。だが、それも違うと思う」
「じゃあ、誰が?」
「そりゃあ、君。その珠……宝珠が、だよ」
宝珠が自分の判断で弘幸にくっついていったのだろうと、閣下が言い逃れようとする。
「そんなことが……」
「おや、疑うのか? 今まで、宝物たちから様々な不思議を見せられておいて?」
呆れながら首を振りかけた弘幸を馬鹿にするかのように閣下が笑う。閣下の後ろでは、彼のものになることが決まった琵琶が、これまた弘幸を馬鹿にするかのように勝手にジャカジャカと鳴った。
「しかし、よりによって、その宝珠が弘幸を守り人に選ぶとはね。いや、宝珠らしい選択といえば、そうかもしれないな。あるいは、君のところの赤ん坊に惹かれてついて行ったのかもしれない。宝珠は、愛らしいものが好きであるようだから」
自問自答しながら、閣下が、いささかの同情を込めて弘幸を見た。嫌な予感が、弘幸の背筋を這い上がってくる。
「この宝珠って、どういうものなんですか?」
「今回預かった宝物の中で、実は一番やっかいな物。かもしれない」
予感的中である。
「でも、一番無害な物…… でもあるといえるかもしれない」
「おっしゃる意味がわかりません」
「私が知る限り、その宝珠が悪さをしたという記録もなければ言い伝えもない。時々光る。時々歌う。小さくて可愛いらしい生き物が好きらしい。わかっているのは、そんなところだ。ただ……」
「ただ?」
「どんな願いも叶えてくれる珠だと言われている。命を繋ぎ育む珠だとも言われている。言われているだけだが……」
「言われているだけだけど、なんですか?」
「言われているだけだが、欲しがる者は多い。だから、それを持っていると狙われる。生きている者であれば、珠の在り処を知らなければ狙ってくることもなかろう。だが、生きている者の妄執や死んで妄執だけになったモノは、宝珠に惹かれて集まってくる。そして、奪おうとする。それこそ、守り手を殺さんばかりの勢いで」
今にも泣き出しそうな顔になった弘幸に、閣下が心配そうにたずねた。
「昨日、それを単独で持ち帰って大丈夫だった?」
「夢……ですけど、大丈夫とは言い難かったような」
「それは、たぶん、ただの夢ではないと思う。だから…… ちょっと待っておいで」
閣下はいったん部屋の奥に消えると、金の透かし彫りと螺鈿で豪華に飾られた一振りの飾太刀をもって戻ってきた。宝珠と共に預かった太刀である。
「これを持っておゆき」
まったく実戦向きではなさそうな刀を差し出しながら、閣下が言った。
「この太刀は、その宝珠と対になっている。これを常に宝珠の傍においてやれば、悪しきモノは、太刀を恐れて近づいてこない。ついでに、宝珠の守り手も守ってくれる」
「私は、『ついで』ですか」
閣下に差し出されるまま、弘幸は飾太刀を受け取った。
飾太刀は、琵琶や茶入と同様に、人格のようなものを有しているらしかった。押し戴くようにして閣下から飾太刀を受け取った途端、弘幸の頭の中で、『 我ガ守ル故、案ズル ナ 』という若い男性の声が響いたような気がしただけでなく、なにやらとてつもなく頼りになる存在が自分の背中を守ってくれているような安心感を覚えた。
飾太刀を手にしてから、弘幸が恐ろしい悪夢に悩まされることは、ほどんどなくなった。たまに悪夢を見たとしても、彼が怖いと思う間もなく、飾太刀を腰に佩いた狩衣姿の青年が夢の中に颯爽と現れ、襲い掛かってくるモノどもをバッサバッサと切り捨ててくれるようになった。
しかしながら、本当の悪夢は、現実の世界において、ますます実体化しつつあった。
原因は、彼の父親だった。
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