それから数か月かけて、弘幸は閣下と共に、個人宅を一軒一軒訪ね、収蔵されている《いわくつき》の美術品を借り受けては、疎開先に運び込むという作業を繰り返した。訪問先は、元は士族であったり公家であった家が多かった。一覧表に記されている訪問先をざっと見る限り、昔から商家であった家はない。手前味噌ではあるが、数百年間商売をやってきた弘幸の実家の土蔵には、うなるほどの美術品がある。しかしながら、そういった物は、閣下の興味をひかないらしい。


「商家にあるのは、金で購えるものばかりだから」と、閣下は言う。


 閣下によれば、金で買える程度のもの、流通に耐えられる物ならば、それほどの危険はないのだそうだ。同じように、訪問した先で見せられた数多くの美術品についても、閣下は、楽しげに鑑賞するだけで、目的の宝物と一緒に預かるようなことはしなかった。「金で買ったものは、金を払って守ってもらえばいい。私の出る幕ではない」とのことである。


 また、目的の宝物の正当な持ち主が、徴兵されずに宝物と共に家にいる場合、あるいは、持ち主の判断で既に安全な場所に移されている宝物についても閣下は預からなかった。「守り人の元にあるのが、一番安全だから」とのことである。  


 ところで、閣下は、宝物の持ち主のことを、いささかの敬意を込めて《守り人》と呼ぶ。初めのうちは何を言われているのかわからなかった弘幸だが、閣下と行動を共にしているうちに、彼が言うところの《いわくつき》とか《危険》の意味が、だんだんとわかってきた。というのも、閣下が預かり守ろうとしている宝物は、普通とはかなり違っていたからである。


 夜中に勝手に鳴り出す琵琶や、眺めているとなぜか説教されている気分になる禅画、誰も触れていないのに見回りに行くたびに置き場所が変わっている人形などは、まだ可愛らしいほうである。中には、鞘を一切受け付けないとかで抜き身のままになっている刀や、柄を握ろうとすると逃げようとする短刀というものもあった。この短刀というのが実にすばしっこ奴で、追いかけている者から離れるように勢いよく動き回るので、弘晃が短刀を捕まえるのを眺めていた閣下が、あやうく刺されかけたということもあった。

「大丈夫ですかっ?! それより、なんなんですかっ?! これっ!」

「だから、言っただろう? 《いわくつき》だって」

 手の甲にうっすらとついた切り傷をハンカチで抑えながら、閣下がのんびりと答える。


 のんびりといえば、弘幸の妻の静江も、たいそう肝が据わっていた。静江は、弘幸と共に、宝物の疎開先に身を寄せていた。年明けから都市へ空襲が頻繁になったものの、静江は東京生まれで弘幸は勘当中。逃げ出したくても、田舎に頼れる伝手がない。そんな時、閣下が、「口の堅い女手も必要なことでもあるし、あなたの宝もここに疎開させておきなさい。私の妻も呼ぶから」と言ってくれたのである。 


 ある程度の事情は話してあるとはいえ、静江は、弘幸たちが次々に屋敷に不思議な物を持ち込んでも、それが常とは違う動きをしても、一向に気にしていないようだった。鼻歌まじりに宝物にハタキをかけながら、「毎晩、美しい音色を聴かせてくださって、ありがとうございますね」と、前述の勝手に鳴り出す琵琶に話しかけたりもする。


 ともあれ、閣下が所望するのが、そんなものばかりだったので、家長の留守中であっても彼に先祖代々の宝物を預けることを拒む者はおらず、むしろ、喜んで閣下に宝物を預けたがった。もっとも、当時の社会における閣下の身分の高さも、彼らからの信用を得るためにおおいに役にたった。弘幸を信頼できると判断した閣下が明かした名は、都賀祥聖つが よしまさ。祖父だか曾祖父だかが<宮>と呼ばれていた人物であり、厳密には違うのだが閣下本人までもがいまだに宮さま呼ばわりされてしまうほど、やんごとない生れの御方なのである。


 それはさておき、いわくつきの宝物に話を戻そう。 

 

 例えば、とある大海の茶入――つまり、丸くて平べったい形をした抹茶を入れるための小さな茶器を引き取りにいった時のことである。茶器をを所有していた家の夫人は、弘幸たちの訪問を受けて、心底ホッとしているようだった。 


「義父も夫も出征してしまい、わたくしが、これの管理を頼まれたものの、このご時世で、ございましょう? ふたりのいない間に万が一のことがあったら……と、気が気ではありませんでした。なにより、わたくしは、これが恐ろしくて恐ろしくて……」

「拝見させていただきます」

 こんな小さな入れ物のどこが恐ろしいのだろうと訝しく思いながら、弘幸は、夫人が押し出した茶入を引き寄せると、銘を確認するために、畳に肘をつきながら、茶入を掬い上げるようにして両の掌に収めた。 


 弘幸の頭の奥のほうから聞き覚えのない声が響いたのは、その時である。




『お前を王にしてやる』




「え?」


『お前を王にしてやる。我が主となり、我を解放せよ。さすれば、お前を王にしてやる。解放せよ。お前を王にしてやる。お前を……』


 呆然と眺めている間も、茶入は、弘幸の頭の中でささやき続ける。


『お前を王にしてやる。気に入らない者を排除してやる。まずは、お前を馬鹿にしつづけている父親。それから、お前を殴った上官。出来の良い、お前の兄たち』


 ささやく声が弘幸の記憶をかき回し、具体的な標的を提示しながら、彼を誘う。



『あいつらを殺してやろう。この蓋を開け、我を解放せよ。そうすれば、お前の望むとおりにしてやろう』


「う、うわっ!」

 恐ろしさのあまり、弘幸は、茶入を放り出した。 

「こらこら、雑に扱うでないよ。割れたら、どうする」

 部屋の隅に転がった茶入を拾い上げながら、閣下が非難がましい視線を弘幸に向けた。

「すみません。でも……」

「これは口が達者なだけだ。だが、うっかり本気にして、これの言いなりになると、痛い目をみるだけじゃすまないよ。割ってしまえば、もっと酷いことになる」

「すみません」

「ね? 恐ろしゅうございましょう?」

 失態に小さくなる弘幸に同情するように、夫人が目じりを下げた。

「わたしくだって、主人から託された以上、自分で守りたい気持ちはございます。ですが、これは、この家の主こそが持つことが許されるものだと思うのです。わたくしの夫や舅のように、幼い頃より修練を重ね、この声の誘惑に負けないだけの心の強さを手に入れた者でなければ、持っていてはならない物だと思うのです。他のことなら主人の代理も勤まりましょうが、こればかりは私の手に余ります。主が戻るまで宮さま方にお預かりいただけるというのであれば、安心です。でも……」

 別れ際、ためらいがちに夫人が念を押す。 


「夫が戻ってきたおりには、きっと、お返しいただけるのですよね?」


 夫人が言った一言のせいで、帰り道での閣下は、珍しく不機嫌だった。

「返すに決まっている。こんな危なっかしいものばかりを、誰が好き好んで借りっぱなしになどするものか。せいぜい一年から二年の暫定的な措置だというから、私だって引き受けたんだ。でなければ、いくら私でも身がもたない。戦争なんて大っ嫌いだ。誰が始めたんだか知らないが、とっとと止めてほしいものだ」

「閣下、お願いですから、もう少しお声を落としてください」

 誰かに聞かれたら直ちに逮捕されかねない台詞を閣下が平然と吐き散らかすので、弘幸は気が気ではないが、そうこうしているうちにも、空襲警報が発令される。 


 物陰に身をひそめ体を強張らせながら顔を上げると、敵国の飛行機の編隊が空を横切っていくのが見えた。こちらが迎撃してこないと高を括っているのか、飛行機は人々を威嚇するかのように低空を飛んでくる。冗談抜きに、竹やりで落とせるかもしれないと思うような低さだ。

「攻撃目標は、もう少し先か」

 航跡を追いながら閣下が呟く。 

「そのようですね」

 弘幸も淡々と答える。爆撃に対する恐ろしさはあるけれども、ここのところ毎日こんな調子なので、最近では恐怖心がマヒしつつある。『兵隊さんが戦地で戦っていらっしゃるのに、死を恐れるとは何事か』という風潮が、なおさら鈍感さに拍車をかける。


「私たち、こんなことをしていていいんでしょうか?」

 疲れた顔で弘幸は閣下に訊ねた。 

 身近で人が毎日死んでいる。否、殺されている。それにもかかわらず、自分たちは、死んでいく人を守ろうともせずに、比較的安全な場所で宝物の救出作業に当たっている。

 今の任務も大切かもしれない。だけども、今は、命のない物にかかわっている場合ではないのではなかろか? ひとりでも多くの人を死なずにすむように、もっと何かすべきことがあるのではないだろうか? そんなジレンマに囚われる。

「言いたいことは、わかる」

 ぶっきら棒に閣下が答えた。

「他にすべきことがあるだろうと思う。だけども、今は、これしかしようがないようにも思う」

「でも……」

「でも、例えば、今日預かってきた、それだが」と、閣下が弘幸の言葉を受けつつ彼の背嚢の中にある茶入を示す。「もしも、ここで私らが死んで、赤の他人に手に渡ったら、どうなると思う? または爆撃を受けて茶入が割れたら?」

「どうなるって……」

 弘幸は、路上に倒れた自分の荷物から、見知らぬ男が茶入をかすめとる様子を想像した。


 茶入を手に入れた男は、家に持ち帰って、茶入を掌に収めるだろう。すると、茶入が彼を誘惑し始める。記憶を探り、彼が恨みを持ちそうな人物や忘れていた憎悪を暴き出し、そいつを殺す代わりに自由にしろと彼に取引を持ち掛ける。茶入の誘惑に負けた男は……


「……。この茶入。本当に人を殺せたりするんですか?」

「世界を手に入れるほどの力はないだろうけど、十人や二十人は、わけない。 と、思う」

 閣下が弘幸の問いを肯定する。 

「戦争が終われば、他国との交渉事が増える。そんな時に、この茶入に操られた者が現れたら、どうなると思う? 例えばそれが、国の大事より自分の栄達を第一とする政治家や官吏であったとしたら? 」

「……。つまり、私たちは、これらの宝物を敵に渡さぬようにするだけでなく、味方からも守らなければ、ならないというわけですか」

 弘幸はため息をついた。 自分たちは、どうやら、この任務をやりとおすしかないようである。


「ところで、危ないものならば、いっそ壊してしまことはできないのですか? 封じてしまうことは?」

「できるなら、とうにやっている。できないから、守り人がいる」

 稚拙な弘幸の問いに、閣下が、ますます不機嫌になる。

「《いわくつき》というが、これらを厄介な物にしてしまったのは人間だ。消してしまうことも放置もできないとなれば、誰かが引き受けねばなるまい? 長い時が、これらの物に宿った恨みや憎悪を洗い流してくれるまでな」

「では、もしも、守り人たちが、戻ってこなかったら?」

「その時は、新しい守り人に託すしかないな。見つかれば……の話だが」

 心底気が重そうに閣下がため息をつき、「だから、戦争は嫌いなんだ」と吐き捨てた。



「とはいえ、宝物を託するに値する資質を持ち、かつ、厄介だと承知の上で引き受けてくれる奇特な人なんて、そうそう見つからないだろうな」

「そうでしょうね」

 その晩。閣下の気苦労を察してため息をつく弘幸を、妻の静江が同情を込めて見つめた。


 部屋の奥まで差し込んでいる満月の灯りが、日に日に丸みを帯びていく彼女の腹の形を浮かび上がらせる。どこかから微かに聴こえる琵琶の音色が、月の光のように冴え冴えと夜気に溶け込んでいく。彼女と閣下の奥方が毎日おだてているせいで、例の琵琶は、ますますその技を極めているようだった。

「お茶入の守り人さん。無事に帰っていらっしゃるといいですね」

 弘幸の思考を先回りするように静江が言う。 

「うん。でも、『守り人など金輪際御免だ』と、返却を断られてしまったりしてね」

「それは、ないですよ」

「なんで、わかるの?」

「そういう方だからこそ、守り人なのだろうと思うからですわ。それに、奥さまが、たいそう旦那さまを頼りにされているようでしたから」

 静江が笑う。

「その方。旦那さまさえ戻ってこられれば、物言う茶入なんて恐くない。茶入れがどんな悪さをしでかそうが、旦那さまが、どうとでもしてくれると思ってらっしゃるのですわ。だからこそ、『帰ってきたら、きっと戻してくれ』って言えるんですよ」 

「そういうものかな」

 弘幸は、いまひとつピンとこない。

「あの奥さんが怖がりなだけじゃないの? それに、君は、この家が怖いものだらけでも、まったく平気そうじゃないか」

「だって、ここには、あなたがいますもの」

 静江が弘幸の肩にそっと頬を寄せた。

「化け物じみた物なんて周りになかったけれども、あなたが出征してしまって独りだった時は本当に心細かったですよ。閣下の奥方だってそうです。閣下がお傍にいらっしゃるから、あんなに泰然としてらっしゃるんです」

「僕なんて、閣下や茶入の主人に比べたら、なんの頼りにもならないと思うけどね」 

「そんなふうに、ご自分を卑下することなんて、ありません」

 大真面目な顔で、静江が否定する。 

「閣下が、あなたを巻き込むことにしたのは、論文の出来が良かったからいう理由ではないと思います。もしかしたら、この先、あなたも宝物の守り人に任命されるかもしれませんね」

「それだけは、勘弁してほしい」

 弘幸は顔をしかめた。彼と閣下が預かっているものは、どれも厄介なモノばかり。その中のどれであろうと、一生かけて守らなければならないなんて、ごめんである。だが、数か月後、彼の心配は現実のものになる。


 その前に、戦争が終わった。




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