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昭和19年、秋。弘幸は、急きょ帰国を命じられた。
東京で徴兵されて大陸へ出兵し、あちらの土を踏んだか踏まないかの頃だった。
たかが一兵卒の弘幸を、わざわざ名指しして東京まで戻すのは何故か?
同じ部隊の兵士たちは、不審がりながらも「いい厄介払い」だと彼を嗤った。彼の出自を漏れ聞いていたらしい上官からは、とっくの昔に縁を切られているにもかかわらず、「さすが、大財閥のお坊ちゃま。お父さまの差し金かね? 大事な息子を危険な戦場へはやれないということか?」と、嫌味を言われた。
屈辱を感じはしたが、戦闘能力のなさは、弘幸本人が一番自覚している。帰されるのは、むしろ命拾いしたと喜ぶべきだろう。日本に戻れるのであれば、次の任務につく前に妻にも会えるかもしれない。だから、悪いことばかりではない。そう思い直して、彼は船に乗った。
舞鶴の港で船を下り、汽車を乗り継いで東京に向かう。駅では、一台の車が弘幸を待っていた。
(もしや、父か?)
あの人のことだから、弘幸の動向を知るのことなど朝飯前だろう。勘当しただけでは飽き足らず、戦地の手前で戻された元不肖の息子をわざわざ嗤いにきたのかもしれない。
弘幸の卑屈な想像に反して、車の中から降りてきたのは、父ではなく軍人だった。階級は中尉。いずこかへ向けて走り出した車の中で、弘幸は、新たな命令を受けた。これから赴く人物の指示に従うようにとのこと。「くれぐれも粗相のないように」とだけは何度も念押しされたものの、それ以外のこととなると、弘幸が従うことになる人物の名前も階級も、行った先で具体的に何をするのかも、教えてもらえなかった。
釈然としないことは、他にもあった。徴兵されてから殴られることしかしていないというのに、弘幸の階級が二等兵から上等兵に格上げされたことだ。「なにゆえの昇格ですか?」という問いにも、中尉は答えてくれなかった。自分の手柄でない以上、これから仕える人物への配慮なのだろうと、弘幸は思うことにした。
走行時間と車窓から見える景色と西日の見える方向からして、八王子かその先、あるいは神奈川の相模原あたりまで行ったと思った頃、弘幸は車から降ろされた。
そこは、錆びの浮いた鉄扉が道をふさいでいなければ、武蔵野の深い山や森へと続く入り口に見えた。うっそうと天を覆う木々の上では、ねぐらに帰る烏たちが盛んに鳴きあっている。「ここからは、一人で行け」と言い残して、中尉は去って行った。
独り残された弘幸は、心細さを覚えた。勇猛さが足りない分、想像力だけは誰かと分け合っても余るほどある。そこらの藪から毛むくじゃらの化け物が出てきやしないか、そこの木の陰から恨みを残して死んだ者がこちらをうかがってやしないかと、彼がオドオドと周りを見回わしているうちにも、あたりはますます暗くなり、草陰の闇も深く濃くなるばかりである。『行け』と言われた道の先も恐ろしそうだが、このまま突っ立っていたところで、妖怪か烏の餌食になるだけのような気がしないでもない。
「逃げたら…… 銃殺だろうな」
怖いけれども、他に取るべき道がない。しかたがないので、鉄扉をきしませて前へ進んだ。
戦時下ゆえに手入れが行き届かないのか、森の奥へと続く砂利道は、枯れた枝葉が放置されるままになっていた。道なりに進むと、同じく手入れの行き届かない……というよりも現在進行形で打ち捨てられたあばら屋になりかけているとしか思えない古びた洋館があった。洋館の裏手には土蔵のようなものも見える。おそらく明治の中頃に建てられた屋敷だろうと、弘幸が推測する。洋館の建設になど携わったことのない大工を使って作らせた、偽洋風建築というやつだろう。屋根に使われているのは日本の瓦だし、正面玄関を守るのは、一対の狛犬のようにも見える。
「ガーゴイルの魔物のつもりなんだろうな。もっとも、家を守るという点では、こちらのほうがご利益がありそうだ」
弘幸は苦笑しつつ、数歩後ろに下がった。もっと詳しく見てみたくなったのだ
「材料は漆喰かな? となると鏝絵の技術を使ったということだろうか? ガーゴイル本来の雨どい目的は果たしていないようだ。狛犬の口から水が滴ってたら面白かっただろうに、惜しいな」
ぶつぶつ言いながら屋敷敷の周りを徘徊していると、背後から、「中村さんですか?」と、遠慮がちに声をかけられた。弘幸が驚いて振り返ると、だぶついた階級章のない軍服を着た老人が彼に頭を下げた。どうやら、弘幸の気が済むまで声をかけるのを待っていてくれたらしい。
「そろそろよろしいでしょうか?」
苦笑しながら、老人が、弘幸を屋敷へと招き入れる。屋敷の中は、荒れ果てた外観からは想像もつかないほど、なにもかもが美しく整えられていた。
(見た目のボロさは、カモフラージュのつもりなのかな?)
ガラスの一本一本まで念入りに磨き上げられているシャンデリアを見上げれば、外の荒廃こそが偽りであることは、弘幸でもわかる。
「なんなんですか? ここ」
「詳しいことは、これから主がお話いたします」
落ち着きなく視線をさまよわせる弘幸に老人が答える。
その直後に弘幸が引き合わされた人物の印象を一言で表すとしたら、《典雅》、だった。
整っているけれども表情に乏しい雛人形めいた彼の白い顔や、水の中を歩くような静かでゆったりとした彼の所作は、あくせくと生きている庶民には得難いものであろう。なにより、誰が着てもそれなりに恰好がつくはずの軍服が、悲しいぐらいに彼には似合っていない。
(いや、似合っていないというよりは、むしろ似合いすぎているのかな?)
弘幸は自分が得た印象を訂正した。この男は軍服は似合わないのではない。むしろ似合いすぎている。それゆえ、マネキンの上に彼の首だけが乗っかっているような、ちぐはくとした違和感を覚えずにはいられないのだ。
「ねえ?」
無遠慮に自分を見つめている弘幸を面白そうに見返しながら、男が彼に声をかけた。
「軍隊のやり方では、こういう時は直立不動で敬礼するのではないの?」
「え? あ、はいっ? 申し訳ございませんっ! 中村弘幸上等兵であります! 本日付けで、こちらに配属されました! よろしくお願いいたします」
弘幸は、跳ね上がるようにして体を起こすと、踵を鳴らして敬礼した。
「うん。よろしく。弘幸」
彼が、いきなり名前を呼び捨てにする。年齢を訊かれて「二十六」だと答えると、「じゃあ、私よりひとつ年下だ」と、案外に幼げな表情で笑った。
「私も自己紹介をしたいところだけれども、頭の固い連中がいてね。あなたが真実信用できるとわかるまで、名前を明かしてはいけないというんだ。だから、私のことは……」
「《閣下》とお呼びください。中村さん。私は、市村です」
「……だ、そうだ」
閣下が、後ろに控える老人に笑みを向ける。
互いの呼び名が確定すると、閣下は、「早速だけど、これを読んだ」と言いながら、紐で閉じられた書類を3冊と10冊ばかりのノートを机の上に並べた。
「それは……」
「そう。あなたが書いたものだ。大学の研究室から借りてきた」
パラパラとノートをめくりながら、閣下が微笑む。
「書画や蒔絵、優れた仏像や織物等々を後世に遺すべき芸術品と位置づけ、日本全国を巡って多くの作品を念入りに調査観察しながらも、あなたは、個々の作品についての美醜や芸術品としての価値には一切言及せず、ただひたすら、それぞれの作品の劣化状況と過ごしてきた年月、そしてそれらが保管されてきた場所の日当たり具合やら気温・湿度、それから、その土地の気候などを執拗に記録し続けた。そして、その調査結果に基づき、あなたは、これらの作品の価値をを千年先まで伝えるために何をなすべきかを、これらの論文にまとめた。なるほど、私たちが任務を遂行するために、あなたほどふさわしいものはいない。旭川教授が推薦するだけのことはあるね。あなたの人なりも教授が全面的に保障するとのことであるから……」
「ちょっ、ちょっと待ってください。旭川教授って……」
旭川教授は、弘幸の恩師であり、妻の伯父でもある。
「すると、閣下は、私がこれらの論文を書いたから、私をここに呼んだのですか? 父とは関係ないんですか?」
「なんで、そこで、あなたの父上が出てくる?」
閣下が、不思議そうに眉をひそめた。
「私があなたを呼んだのは、この論文を読んで、あなたが必要だと思ったからだ。でなければ、わざわざ軍に問い合わせて迎えをやったりはしない。南方に行ったと聞かされた時には、ヒヤリとするよりも呆れたよ。人的資源の浪費だとしか思えなかった。しかも、見るからに弱そうだ。こんな人まで前線に送り出さねばならないとは、いよいよ本気で危ないな」
弘幸の貧相な体躯を批評しながら、閣下が冷たい笑みを浮かべる。
「危ない?」
「この国だよ。あなただって、わかっているはずだ」
誰かに聞き耳を立てられてやしないかと周りを気にする弘幸の気持ちなどお構いなしに、閣下が続ける。
「『戦線が拡大しているというよりも、すぐに本国に取って返せないように、より遠くへ遠くへと誘き出されているようですね。もしも本国が攻撃されて、こちらへの補給が途切れたら、その時、自分たちはどうなるのでしょう?』と、持ち前の観察力と馬鹿正直さを発揮しすぎて上司に殴られた挙句、独房にぶち込まれたそうじゃないか?」
「はあ」
弘幸は、面目なさげにうつむいた。どうしてそんなことまで知っているのかは知らないが、事実である。
「でも、『危ない』などと、そのように縁起でもないことをハッキリと口になさるのは……」
「もはや、縁起が悪いのなんのと、言っている猶予はない。百発百中を誇る予言の巫女姫も、敗戦は動かしがたい未来になったと断じている。怠惰な華族の生活を満喫していた極楽男さえ、敗戦交渉のために秘密裏に動き出した」
誰のことを言っているのかまでは弘幸にはわからないが、閣下の知り合いは、戦争が終わった時のことを視野に入れて動き始めているようである。
「我々も、負けるまで手をこまねいていては、間に合わなくなる。負ければ、この国に敵の大将どもが乗り込んでくるだろう。その時、我が国の宝を、むざむざと渡してやるのは悔しいじゃないか? それに、空襲の心配もある」
『だから、疎開させることにした』と、閣下が言った。
「はい? 疎開って?」
「だから、あなたがいうところの芸術遺産を、だよ」
博物館などは既に所蔵品の移動を始めていると、閣下が教えてくれる。
ちなみに、閣下の任務とは、静岡から東にあり、かつ空襲を受ける危険がある都市部で個人が保有している宝物の中でも特に《いわくつき》の物を、この家と、この家の地下にある十畳ほどの広さの地下壕に一時的に疎開させることなのだそうだ。
「それで、いわくつき、とは」
「口では説明しづらい。だけど、おいおい弘幸にもわかると思う」
閣下が肩をすくめる。隠したいのではなく、本当に説明が難しいようだ。 「なんというか、非常に扱いに気をつけねばならぬ物があるのだ。失われるだけならば、まだいい。だが、心無い物の手に渡ると、かなり厄介なことになる。だから、なるべく人に知られぬように、少人数でことにあたりたい。畏れ多くも『くれぐれも秘密裏に。決して損なわぬように』との、御意を賜ったからには、なんとしてでも守らなければ」
顔つきを険しくして、閣下が決意を語る。それだけの使命感を閣下に植え付けたのは誰なのか、誰からの命令で閣下が動いているのか、弘幸は、たずねなかった。自分の名前さえ明かしてもらえないのだ。訊いたところで、彼が答えてくれるわけがない。
(それに……)
尊大な閣下がへりくだった様子で主語のない最上級の敬語を話すのを聞けば、たずねるまでもないほど明白なことにも思える。
「精一杯やらせていただきます」
『だから、手伝っておくれ』という閣下の言葉に対して答えると、弘幸は、深く頭を下げた。
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