第10話「VARIANT HEAD」

「それじゃあ、第一発見者の男の人は、殺された隣の部屋の人とは面識無かったってこと?」

 そう言ってから、由利は大口を開けて、包装紙を外したばかりのダブルチーズバーガーにかぶりついた。

「多分……無いと思う……この前引っ越してきたばかりの人みたいだし……」

佳子は、カフェ・ラテを少し口に含み飲み込むと、生気の抜けた声で答えた。

「この前?」

「そうなの……丁度、私が帰って来た時に、うちの部屋の手前で引っ越しの作業してたの。最初はうちの『隣の506』みたいに見えたけど、違った。『507』だった……やたらと、引っ越しが多い部屋だから、やっぱりそうだったんだなって思ったの……」

 その言葉に、毎度のごとくコーラLサイズを手にした一平太が鋭く反応した。

「え? やたらと引っ越しが多い? マジで?」

「そうなの……新しい住人が入っても、何か月も持たないの……」

「待てよ、だったら、『事故物件』って本当はそっちの事なんじゃないか? 『隣』じゃなくて」

「ああ、そうか……考えたことも無いけど、実際にどうなのかは判らない……でも、事故物件だって噂があるのは、隣の『506』で間違いないの」

 比呂は悩ましげな表情で、オーダーした食べ物に一切口をつけず、他の三人の会話に耳を傾けていた。

 意識を取り戻した時、何故か比呂は、御魂神社の境内にうつぶせに倒れていた。

 身体のあちこちがずきずきと痛んだ。しかし、どうやら外傷は何処にも無いようだった。確かに「あの者」にカッターで切り付けられたはずなのに。

 よろよろと立ち上がってから、最も肝心な佳子の事を思い出した。しかし、境内の何処を見回しても、彼女の姿は見当たらなかった。

 すぐさまスマホを出して、佳子に電話をかけた。何度かけても全く通じなかった。

 一体、どこに行ってしまったのか。そもそも、無事でいるのだろうか。

 一刻も早く、彼女の安否を確かめなければならないのだが、何をどうすればいいのか全く分からず、比呂は途方に暮れた。

 その時、天からの助けのように、携帯に着信が入った。由利からの電話だ。今すぐ佳子のマンションに直行しろ、自分でも良く判らないが、とにかくそうしろという、なかば命令のような指示だった。

 結果、それは見事に的中した。由利の霊感は、知人が危機に瀕する時に、特に鋭敏になるらしい。今回も、比呂と佳子に起こった異変を直感的に察したのだ。

 電車を乗り継いで「湘南深沢」駅につき、サンフラワーマンションまで走っていくと、比呂を待っていたのは、黒山の人だかりだった。パトカーや警官の姿も見つかった。

 何か、重大な事件が起こったのだろうか……

 比呂の脳裏には、最悪の想像までよぎった。

 しかし、少なくとも何の外傷も無く、佳子が警官に保護されていることを知って、比呂はようやく胸をなでおろしたのだった。

 事件の詳細は、殆ど判らない。しかし、佳子の自宅の隣で、男性の死体、恐らくは他殺体が発見されたこと、そして、何故かそこにいたアキラが身柄を警察に確保されたことまでは判明した。途方も無い事件が起きたことだけは間違いなかった。

 比呂は、先日由利が行った占いを思い出した。あの時の鑑定結果は「死者が一人出る」というものだった。これ以上死者が出ないなら、と仮定すればの話だが、見事に予言は的中したことになる。

 佳子や第一発見者の男性は、精神的動揺が大きく、今日の所は簡単な聞き取りが行われただけだった。後日、正式な取り調べが任意で行われるのだろう。

 そこで、佳子、比呂、一平太、由利の四人は、事件について話合いをするために、「湘南深沢」駅前のファーストフード店に場所を変えて、夕食を食べることにした。

 当分は、サンフラワーマンションからできるだけ距離を置きたい、というのが、四人の共通する心理だったのだ。

 皆の会話が途切れた時、誰に語りかける訳でもなく、比呂が口を開いた。

「アキラは、何故その部屋にいたんだろう。それに、いつからいたんだろう……」

 それに対して、しばらくは三人共が沈黙で答えた。単純にして、奇怪過ぎる謎だ。

 やはり、最初に口を開いたのは、恐らくは頭を猛回転させて仮説を組み立てていただろう、一平太だった。

「行方不明になった三日前から、その部屋にいたと考えるのが普通だよな。あいつだって、夜は眠らないといけないし、腹が空いたら食事を取らないといけないんだ。でも、どうしてそこに入れたのかは判らないな……その男は一人暮らしだったらしいから、逆ナンでもしたのか……あいつ、顔だけなら可愛いからな」

 それを聞いて、由利は何かを思いついたらしかった。口に頬張った大量のポテトを急いで飲み込むと、アイスティーを一口飲んでから、

「ちょっと待って、じゃあ?」

 と、一平太に問いかけた。

「多分そういうことになるよな……」

「想像以上に気持ち悪い奴だったのね……『キミの所に行くよ』っていうメールは、文章そのまんまの意味だったのね。髪型まで佳子ちゃんと同じにしたりして……恋愛感情を超えて、一種の崇拝の対象だったのかも……」

「それから、判らないのは第一発見者の男性が、どうしてその部屋に入れて、死体を発見出来たのかだよ。佳子の場合は、扉が開いていたから入れたわけだよな?」

 一平太から唐突に問いかけられて、佳子は面食らったようだった。

「え? ええと……私はそうだけど。その男の人がどうだったのかは判らない……」

「その前は、比呂と一緒に神社にいたんだろ。それからどうして、家まで一人で帰ることになったんだ? 比呂によれば、気が付いたら、お前の姿を見失ってたって話だよな……」

 佳子と一平太のやり取りを聞きながら、比呂は密かな罪悪感を覚えた。三人に対して、境内での出来事を打ち明けていなかったからだ。

 あれが、自分にとって恐ろしい体験だったのは確かだが、結果を見てみれば、佳子も自分も全くの五体満足で、被害者となったのは、マンションの隣室に住む面識のない男性だった。このことを、一体どのように解釈すればいいのか、判らなかったのだ。

 そして何よりも、これ以上、佳子をいたずらに怯えさせるべきではないのだ。

「それは……良く判らないの。記憶があいまいで……思い出そうとすると頭が痛くなるっていうか……」

 佳子は眉をひそめ、一層消え入りそうな声で答えた。彼女の精神状態を察した由利が、すかさず助け舟を出した。

 「ちょっとペータ! 佳子ちゃんは余りに酷い物見ちゃって、頭が混乱してるのよ。時間が経って冷静に考えれば、きっと思い出すわよ。今はそっとしておいてあげなさい。だから、あんたは駄目なのよ!」

 一平太は、不満そうな表情で口をつぐんでしまった。由利にかかったら、流石の一平太も形無しだ。

 バーガーを完食した由利は、バッグから使い古したタロットカードを取り出し、テーブルの上に広げると、両手の指で回転させるようにシャッフルさせ始めた。

「あ、これからの事件の行方を占うんですか?」

 比呂が、少し身を乗り出しながら言った。比呂は、必ずしも由利が行う占いを全て信用しているわけでは無かったが、これほど嫌な事件が起こり続けると、この先何が起こるのか、そして、自分が何をするべきなのか、何かしらの指針が欲しかったのも事実だった。

 五、六枚のカードを表にして並べ終わると、由利は腕を組み、急に怪訝な顔になった。

「それ、どういう意味なんですか? 由利さん」

 佳子が、不安げな表情で問うた。この上、さらに悪いことが起こるという鑑定でも出たのだろうか、と思ったのだ。

「う~ん……これで、終わったってことなのかしら……」

 そこで由利は一旦言葉を切った。しばらく間を置いてから、今度は、自分自身に言い聞かせるような口調で、

「そうね……文字通り、一連の事件はこれで全て終わったってこと……何だかあっけないけど。そういうことでいいのかしらね……」

 と言った。

「ええ? そうなのかよ。終わり?」

 露骨に失望の色を表に出した一平太に対し、由利はしっかりと釘を刺した。

「ちょっとペータ! 人が死んでるのよ? これ以上何も起こらないなら、万々歳じゃない! 不謹慎にもほどがあるわよ!」

「い、いや別に、事件が起こって欲しいってことじゃないよ。何だか、釈然としないだけで」

「まあ、釈然としないのは、あたしも同じだけどね」

 一平太は、残り少なくなったコーラをズルズルと飲み干すと、氷だけになった紙コップをテーブルに置いた。

「よし、これから一仕事だな! これで本当に、事件に一応ひと段落がついたんなら、早速まとめサイトの制作に取り掛かるか!」

「え? まとめサイト? 何だよそれ」

 比呂は、露骨に嫌な顔をした。一平太が何を考えているのかはお見通しだったが、一応形式的に問いただしてみた。

「そんなの決まってるだろ。一連の事件についての経緯をまとめるんだよ。お前とか、第一発見者の男性とか、関わった人物たちの聞き取り調査の結果も含めてね……何日の何時に何処で何が起こったのか、詳細な記録を作るんだ。ただ、問題は……」

 一平太は、もったいぶった動作で頬杖をつくと、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「仮説をどう組み立てるかなんだよな……」

「え? この前、ペータ自身が『全てアキラの仕業だ』って言ってただろ? それじゃいけないのか?」

 すると、一平太は途端に比呂を馬鹿にしたような口調で反論をした。

「おいおい、それはあくまでも大ざっぱな骨組みに過ぎないぞ。あるいは、一側面だ。お前の頭には、今まで起こった一連の事件のことが全く入っていないのか? どうも、すっきりしないと思わないか? パズルのピースがどうしてもうまく嵌らないんだよ。何をどう解釈しても……納得がいかないんだ……とりあえず今のところは、考えられる仮説を全て列挙しておくことにするか……」

 困っているような口ぶりとは裏腹に、どう見ても楽しそうな一平太の表情を見て、比呂はため息をついた。もう勝手にしてくれ、という心境だった。

 しかしその一方で、一平太の言い分には、比呂は大いに同意する部分もあったのだ。

 釈然としない……

 確かに、釈然としないのだ……

 そして何故だか、自分はこの事件に関して、これ以上は一切考えるべきではない、追及してはいけないという奇妙な考えが、強く付きまとって離れなかった。


☆              ☆


 例え、事件が由利の占い通り、完全に終結したのだとしても、佳子としては、とてもではないが、自分一人しかいない自宅で寝泊まりする気になれなかった。

 タイミングが悪い事に、佳子の両親は入院や仕事でのっぴきならない事情を抱えているため、こちらに戻って来られる状態では無かった。

 色々な案を検討した結果、佳子は、精神的に落ち着くまでは、比呂のアパートに同居させてもらうことになった。年頃の男女が、保護者のいない部屋で寝起きするのもどうかと思われたが、ここは紳士で鳴らす比呂を信用するしかない。

 由利と比呂の二人だけが一旦サンフラワーマンションに行き、佳子が当面必要とする生活用品や勉強道具などを取って店に戻ってきた。マンションでは未だに警察関係者が捜査をしていたようだった。

 そんなこともあって、夕食会議が解散したのは午後十一時を過ぎてからだった。

 店を出た比呂と佳子の二人は、モノレールと垂直に交差する「新川」という狭い川に沿って歩いて行った。

 外灯の間隔は広く、民家の灯は既に大半が落ちていた。一層深い夜暗に包まれた、殆ど人通りのない歩道に、二人の足音ばかりが無闇に大きく響いた。ただ、その道を歩いているだけで、未だ収まらぬ恐怖の余韻が、キリキリと佳子を苛んだ。

 比呂は、数歩遅れて自分の後をついて来てくれている。それで、彼が背後を守ってくれているとは思えるが、前方に待ち受ける闇の中へ、一人で進んで行く事もまた恐ろしかった。出来る事なら、二人の比呂が自分の前方と後方を同時に守ってくれないだろうかと、佳子は馬鹿な事も考えた。

「ねえ……頼みがあるんだけど……」

 佳子は、背後にいる比呂に向かって、前を向いたままで話しかけた。

「え? 何?」

「何だか、怖いの……手を握ってくれないかな……」

 そんなことを、ごく自然に、しかも無自覚に言ってしまったことに、佳子は自分で驚いた。

 この際、比呂がどのような反応をしようが、構うものかと思った。

「うん、いいよ」

 比呂は、何事も無くそう答えると、少し足を速めて佳子の横に並び、荷物を持っていない彼女の左手を、上からそっと右手で包み込んだ。

 初めて触れた比呂の手の平は、意外なほど暖かく大きかった。

 心に重くのしかかっていた不安が、嘘のように和らいでいく。

 比呂がどのような表情をしているのかは判らなかった。彼の方を向くのが、どうしようもなくいたたまれなくて、僅かに顔を背けて歩き続けた。

 風情もそっけもないコンクリートの川底に目を落とすと、真っ黒い水面が音も無く流れていた。

 その様を無心で目に留めながら、佳子はようやく、心の奥底で固く封じていた自身の感情を受け入れることを決めた。

 自分は比呂の事が好きなのだと。

 恐らくは、ずっと前から。

 ある日突然現れた、同い年の血の繋がっていない従兄弟は、時の流れの中で、密やかに、自分の中で一人の異性となっていた。

 母親を持たず、父とも離れて暮らしている彼は、自分よりもずっと深い孤独を抱えているに違いない。

 それなのに、寂しさをおくびにも出さず、むしろそれを飼い慣らして、しなやかに、そして力強く生きている比呂を、佳子はずっとまぶしく見つめていたのだ。

 何よりも大切なそのことに、こんな酷い事件をきっかけにして気がついた事が、佳子は無性にうらめしかった。

 やがて、夜道の奥から比呂が住む「清風荘」が近づいてきた。

 いっそこの、闇夜が覆いかぶさる家路が、この世の果てまで続いていけば良いものをと、不埒な思いが佳子の胸をかすめた。


☆                ☆


 「清風荘」に到着すると、二人は住人が共同で使う玄関で靴を脱ぎ、一階の廊下に上がった。廊下の中ほどにある木の階段を、ギシギシと軋ませながら昇って行くと、二階の廊下の突き当たりに到達した。その場所から一番近くにある部屋が比呂の住む「四号室」だった。

 彼の部屋に通されるのは二度目だったが、前回同様、隅々まで片付けられていることが、一見しただけで判った。今回は抜き打ちで訪れたわけだから、自分に見られるという理由で急遽掃除をしたわけではないと言うことだ。比呂の性格を物語っているようで、口には出さなかったが、佳子はほほえましく思った。

 部屋に入ると、左側の壁際には水槽が二つ並んでいた。これも前回と同じだった。左側は綺麗にレイアウトされた熱帯魚水槽、右側は金魚数匹だけが泳ぐ殺風景な水槽だった。どちらも手入れが行き届いていて、コケ一つ生えていない。

「佳子はその辺に座っていてよ。片付け物は僕がするから」

 比呂の言葉に甘えて、佳子は休ませて貰うことにした。荷物を畳の上に置くと、水槽の前に座り込んで、水中を優雅に泳ぎまわる魚達の様子をぼんやりと眺めた。度重なる恐怖で疲弊しきった心が、僅かだが癒された気がした。

 もうとっくに、寝る支度をしなければならない時刻になっていた。比呂は布団を敷いたり、洗い物を片付けたりと、佳子の背後でせわしなく家事をこなしていた。

「先にお風呂に入った方がいいよ。僕の方はもう少し時間がかかるから」

「お風呂は何処?」

「一階の突き当たりにあるんだ。今は誰も入っていないと思うよ」

 「清風荘」では、洗面所、トイレ、風呂を住人が共同で使うようになっていた。佳子は自宅から取ってきてもらった洗面用具と着替えとスポーツバッグを持つと、部屋を出て一階へ降りて行った。玄関とは反対の方向へ廊下を進んで行くと、突き当たりに洗面所へ入るドアがあった。一応ノックをしてからノブをひねると、ドアは開いた。比呂が言った通り、中には誰もいなかった。

 ドアと向かい合う位置に、大きな鏡が貼ってあった。その手前が洗面台だ。床には足ふきが敷いてあり、脱いだ服を入れるかごも置いてあった。右側には曇りガラスが張られたバスルームの扉がある。試しにそちらの扉を開けてみたら、想像していたよりもずっと綺麗な風呂だったので、安心した。アパートの古さから考えたら、最近改装した部分なのだろうか。

 服を脱ごうとした時、ふと、床に置いた自分のスポーツバッグが目に入った。

 同時に、制服のスカーフを外そうとしていた両手の動きが、ピタリと固まってしまった。

 まるで、動画の一時停止ボタンを押したように……

 続いて、身体の奥底からジワジワと違和感が滲み出してきた。

 それも、名状しがたい、酷くおぞましい違和感だ。佳子は我にもなく身震いをした。


(何故……)


 そして、気が付いて当然の疑問に、今更思い至った。


……)


 風呂に入るのであれば、洗面道具と着替えだけを持ってくればいいはずだった。なのに、佳子は何の疑問も持たずに、そのスポーツバッグも一緒に持ってきてしまったのだ。

 バッグの持ち手を握ると、そのまま持ち上げて、洗面台の上に乗せた。

 恐る恐る、右手でジッパーをつまんだ。

 しかし、それを引こうとする指先が震えていることに気が付いた。前腕の皮膚には、びっしりと鳥肌が立っている。

 もはや、明らかだった。

 佳子は恐れているのだ。そのバッグの中身を確かめることを。

 しかし、自分がそれを見なければならないことは判っている。間違いなく、そのつもりで、この洗面所までバッグを持ち込んだのだから。

 意を決して右手に力をこめると、ジリジリと小さな音を立てて、ジッパーが開いていく。

 両手でバッグの口を大きく開くと、最初に一番上に入っていたバスケ部のユニフォームを取り出した。続いて、その下に入れてあるコールドスプレーとスポーツタオルも取り出す。

 心臓が、爆発しそうに高鳴っている。

 恐るべき真実がすぐ「そこ」にあることを、佳子は既に知っているのだ。

 はたして、バッグの底部の隅に寄せて、「それ」は詰め込まれていた。

 紺色をした、小さく折りたたまれた布の塊。

 疑いようも無かった。

 キタ高の制服だ……

 はれ物に触るように、それを両手で取り出して、広げて見る。

 上着も……スカートも……スカーフも含めて、一式が揃っていた。

 視界がぐらりと揺らめく……

 自分が両足で床に立っている感覚さえ、あやふやになっていく。


(どういう……こと……?)


 いや、どういうことなのかは判っている。

 それは、更衣室で盗まれたと思いこんでいた、自分の制服なのだ。

 冷静に考えてみれば、簡単すぎる解答だった。更衣室で、自分がどのロッカーを使用したのかを知っている人間は、自分しかいない。だから、。ただ、それだけのことだった。

 きっと、あの時自分は、体操着に着替えたら、自分の手でこのように制服をバッグに詰め込んで他の物で隠し、更衣室を出たのだ。

 その時に、ロッカーに鍵をかけなかったのも、最後に更衣室を出る時に鍵をかけなかったのも、きっと自分なのだ。

 何者かが外側から開錠したわけでも、制服を盗んだわけでもなかった……


(でも……? だから……? どういうことなの……?)


 全く判らないのは、その先の話だ。

 何故、そんな事を自分はしたのか?

 何故、今までその事を忘れていたのか?

 何故、今になってそれを思い出したのか?

 だからと言って、この事が一体何を意味するのか?

 何から何まで、一切判らない……

 そして、それを突き詰めて考えようとすると、頭がグラグラと揺らぎ、目眩がしてくる。

 鼓動はますます激しくなり、呼吸さえ困難になる。

 やむを得ず、佳子はこの件に関して、一切の思考を停止することにした。

 由利の占いによれば、一切事件は終結したらしい。ならば、それで良いでは無いか。

 今、何よりも大切なのは、自分の平穏な日常を取り戻すことなのだ。

 佳子は、懸命に、そう自分に言い聞かせた。


☆                 ☆


 比呂が佳子と共に部屋に入った時、真っ先に目に入ったのは、机の上に一平太が残したメモだった。


「無事ファイルは復活できた。デスクトップにショートカットを置いてあるから、今度こそ読め。自分は家に持ち帰ってからじっくり読むからな」


 と書かれていた。

 しかし、佳子のいる前で『最終章』を読み始めれば、彼女を怯えさせることは必至だ。

 だから、佳子が風呂に入るために部屋を出て行くのを見届けてから、比呂はPCの電源を入れた。

 カシャカシャとHDが起動する音が鳴り、やがてモニターにデスクトップ画面が表示された。はたして、画面の片隅には「VH13へのショートカット」が作られていた。

 マウスのポインタを、それに合わせてみた。

 そのことによって、躊躇と緊張が、全く起こらなかったと言えば、嘘になる。

 しかしどういう訳か、前回のように、得体の知れぬ圧迫感を覚えることは無かった。それが、かえって不気味なことにも感じられる。由利の占いで事件の終結宣言が出たことで、無用な恐怖を感じずに済んでいるからなのだろうか。

 一つ息を大きく吸い込んでから、アイコンをダブルクリックした。直ぐにメモパッドに打たれた、見覚えのある長文が開かれた。間違いなく、前に削除したファイルと同じ物だ。

 早速、前回読んだ覚えのある個所まで画面をスクロールしてみる。

 小説の詳細を読む必要は無い。目的は、あの「御魂神社前の踏切」とそっくりの描写が存在していることを確かめることだからだ。

 比呂は文章を速読するのが得意だ。斜め読みで文意を把握するだけなら、文庫本一冊くらいの分量を、あっという間に読み終わってしまうのだ。

 「V.H.最終章」のストーリー自体は、特にどうということもない内容だった。「V.H.」を三十三人のクラスメートが読み終わった直後から、首の無い亡霊「カムロミサ」が出現し、生徒達を惨殺していく。主人公達は「カムロミサ」に関する謎を追及していくが、結局は「V.H.」を執筆したアキオまでもが犠牲者となってしまう。大まかな筋はこのようなものだった。

 細かいエピソードについては、この現実で起こった一連の事件との共通点は殆ど無かった。例えば、小説内では、大量の死者が生徒達に出ているようだ。しかし、現実における死亡者は、今の所、キタ高とは無関係の成人男性一人しかいないのだ。

 そして、何よりも重要な点として、作品内では「カムロミサ」の設定は「猟奇殺人犯に、生きたまま電動ノコギリで首を斬られた少女の亡霊」というものだった。そして、「カムロミサ」に関しては、カッターナイフこそ握っているものの「スーパーのレジ袋を頭部にすっぽり被った」という描写は一切無かった。そもそも、「カムロミサ」は一貫して「頭部が無い亡霊」として描かれているので、袋など被れるはずもないのだ。そして、「踏切」の場面も全く存在しなかった。

 見落としてしまったのだろうかと疑問に思い、比呂は二回文章に目を通した。しかし、何処をどう見ても、そのような箇所は本当に無かったのだ。

 すると、自分が見たあの「踏切の風景」は……?

 そして、「穴の開いたレジ袋を頭に被っている」という「あの者」の外観の設定は……?

 「V.H.最終章」の中に存在していないとすると……

 一体何が「元ネタ」なのだ……?

 そんな疑問が湧いた直後のことだった。

 まるで堤防が決壊するように、前回も経験したあの悪寒が臓腑の奥から広がってきた。

 猛烈な頭痛と、嘔吐感。

 心臓がちぎれそうな激しい動悸。

 堪らず、メモパッドのウィンドウを閉じてしまった。そして、再度ドキュメントフォルダから「VH13」のファイルを削除し、即座にゴミ箱をも空にした。

 既に一平太は同じファイルを手に入れているのだから、問題は無い。こんな薄気味悪い物を、自分の目に留まる場所に置いておく訳にはいかないのだ。

 一体、これは何なのだ……

 何とかして、パソコン内から完全消去できないものだろうか……

 ゆっくりと深呼吸を繰り返すうちに、少しずつ動悸が鎮まってきた。

 比呂は、メールのチェックなど、一通りの作業を消化すると、PCをシャットダウンした。その直後、背後にある部屋の入り口のドアがガチャリと鳴った。

 振り返ると、風呂上りの佳子が部屋に戻って来た所だった。

 濡れた髪と上気した肌が、妙に生めかしく見えて、比呂は思わず眼を背けた。

「おまたせ。早く入った方がいいわよ」

「あ……そうだね。もうこんな時間だしね」

 比呂は、密かに生じた罪悪感を糊塗するように、慌てて椅子から立ち上がった。

 着替えやタオルなどを急いで揃えると、ドアの外に出た。

 階段を軽快な足取りで降りて行き、すぐに一階に着いた。

 Uターンをして、廊下を歩いて行くと、突き当りに洗面所に入るドアがある。

 このアパートに引っ越して以来、一日も欠かさずに繰り返してきた行程だ。

 しかし、ドアの正面に到達し、ノブを握ろうとした時のことだった。

 比呂は、自身の中に、強烈な忌避感が生じていることに気がついた。

 右手が、石膏像のように固まって、ノブの直前で止まってしまった。

 そのドアの内側に入ってはならない……

 自己防衛本能が、そう囁いている。

 入ったら最後、恐ろしいことが待っている。


(何だ……? この感覚は……?)


 ふと、先ほど見た佳子の表情が脳裏にちらついた。

 僅かな声調の乱れ、そして表情に落ちた陰……

 間違いない……

 佳子もまた、この中に入り、何かを見て、そして知ったのだ。

 途方もない事実を……

 やがて、比呂の中に生まれた微かな予感は、完全なる確信に変わっていった。


 この中には「あの者」が息を潜めて待っている。


 中に入れば、一体「あの者」が何者なのか、全て判ってしまう。

 そうとしか思えない。

 いつしか、比呂の全身は戦慄で震えていた。

 途方も無く恐ろしかった。

 そのドアの向こう側に入ることが。


(しかし……)


 その一方で、奇妙な事だが、自分にはそのドアを開け、真実を確かめなければならないという、義務感に近い思いが、厳然と存在している。

 自分のために、そして佳子のために。

 「それ」から、逃げてはならない……

 そう決心すると、なけなしの勇気を奮い立たせて、右手でノブを握り、一気にそれを捻った。

 ドアを開け放ち、内部に入る。

 素早く後ろ手で再びドアを閉めた。背後でガチャリとノブが鳴る。

 脱衣所の中心に立ち、ゆっくりと周囲を見回した。

 比呂以外には誰一人いない、密閉された空間だ。

 このアパートに住むようになって以来、数えきれないほど利用して来た、いつもの洗面所の風景にしか見えなかった。

 ドアの向かい側に貼られた鏡、その手前に洗面所、右手にはバスルーム、衣服を入れるかご、ドライヤー……

 全ての物が、備品一つとっても、普段と全く同一だ。

 念の為、恐る恐るバスルームの扉のノブを握り、内側へそっと開けてみた。

 隅々まで見回したが、そこにもやはり誰もいなかった。

 すると、自分の気のせいだったのか?

 ここには何も無いし、何も起こらないという事なのか……?

 そう一度は思いかけた。

 しかし今、身体の内部で、そして表皮で感じ取っている「予感」は、紛れも無く本物だ。つい最近も同じような経験をしたばかりなので判る。それは、思い込みでも何でもなく、潜在的な霊感を強く持っている比呂にとって、「真の危機」が迫っている時のシグナルなのだ。

 ならば、きっと何かしら自分が見逃している物があるはずだ……

 比呂は思い直し、今一度、じっくりと室内を見回してみた。

ふと、洗面台の鏡に目が留まった。当然だが、比呂自身の姿が映っている。

 床の中央に棒立ちをして、右腕はだらんと垂らし、左手はズボンのポケットに突っこんでいる。


(何だ……?)


 その姿に、自分自身で違和感を覚えた。

 普段、比呂は右のポケットに定期入れと財布を入れ、胸のポケットにスマホを入れている。

 だから、左のポケットに何かを入れる事は滅多にない。

 しかし、今自分はそこに手を突っ込み、何かを握っているのだ。


(何だ……? これは……?)


 左の拳をゆっくりとポケットから引き抜く。

 おもむろに腕を持ち上げ、握った物体を顔の正面まで持って来る。

 肉眼でそれの正体を確認するや、余りの驚愕で、比呂の全身は総毛立った。

 

 端から端までしげしげと観察してみたが、どこをどう見ても、カッターナイフだ。

 しかも、刃の先端が不自然に折れている。


(何故……? これが……?)


 親指で刃を押し出してみる。


 キチキチキチキチ……


 何度となく聞いた、「あの金属音」が、正しく目の前で鳴った。


(あれは……この音……だったのか……)


 もちろん、佳子や菅原が聞いた音については、何だったのかは判らない。

 しかし、少なくとも比呂が聞いた「カッターの音」に関して言えば、霊能力的な「脳内に直接入り込んで来た音」では無かったのだ。自分の手で持ったカッターの刃を、実際に自分の指で押し出して鳴らした現実の音が「」に過ぎなかった。

 全く無意識のうちに、比呂はカッターを右手に持ち替えて、左手を再びズボンのポケットに突っ込んでいた。

 そして、今度は一番底に押し込められていた「もう一つの物体」を掴み、それを抜き出した。

 もはや、比呂はそれが何なのかを、本能的に予想していたのかもしれなかった。

 クシャクシャに丸められた、スーパーのレジ袋……

 やはり、そうだった……

 両手の指を使ってそれを広げてみた。

 カッターで切って作ったような、二つの穴が空いていた。

 疑惑では無く、比呂は確信した。いや思い出してしまった。

 三日前、学校の帰りに、駅前の「ユニバース」で買い物をした時のレジ袋だ。そして、その時に食料品と共に、日用品売り場でカッターナイフも買った……

 確か、そうだった……

 比呂は、レジ袋をカサカサと膨らませると、何の疑問も無く、それを頭からすっぽりと被ってみた。ちょうど自分の頭にぴったりのサイズだ。

 両目の位置に開けた穴を通して、正面の鏡に、おぞましき者が映っているのが見えた。

 右手にカッターナイフを握り、レジ袋を被った自分自身の姿が……


(すると……?)


(菅原と佳子を学校で襲ったのは僕だった……? 神社で佳子を襲ったのも、僕だった……?)


(彼らに襲い掛かった後は、? 意識が戻った時、動悸が激しかったのはそのせい……? 単に走った後だったから……?)


(あの時、僕が見たのは、彼らを襲った時の、……?)


(そして、菅原や佳子の視点を借りて見た、僕自身の姿……?)


(そう言う事だった……それが真相だった……?)


 そこまで考えた時、混乱で瓦解寸前になっている意識を懸命に支えながら、比呂はある事実に思い至った。


(いや待て……しかし……)


 それは、違うのだ……


 その解釈では、少なくとも、決定的に不可解な点が解消していない。

 何故なら、比呂が見た「あの者」は、「セーラー服を着ていた」からだ。間違いなく着ていた。

 ピッキングの技術など持っていない自分が、佳子のセーラー服を盗めたはずはない。よしんば盗めたとしても、佳子を襲った時には、カメラ以外の荷物は持っておらず、手ぶらだったのだ。

 そうなると、一体どこでどうやって制服の着替えをしたというのだ。何処かに隠してあったとしても、時間的に不可能ではないか。


(だったら……)


 比呂は、自分が見た「あの者」の姿を記憶の淵から必死に探り出した。


(一体、何だったのだ、あの姿は……)


 そして、とある「手がかり」に突き当たった。

 それは、「あの者」の姿を「見る」度に感じとり、自身の中に一貫してこびりついていた、「どうしようもない違和感」だった……


(あれか……あれのことか……)


 そこには、比呂が見落としている「何か」があるのだ。

 単純だが、決定的に重要な齟齬……そして「最後の鍵」。

 その正体を突き止めようとした。


(待てよ……?)


 ふと、頭の何処かに、微量な電流のように、一つのひらめきが走った。


(セーラー服……?)


 唐突に、それはやってきた。

 まるで、脳内にたちこめた濃霧が、つむじ風に吹き飛ばされたかのようだった。

 比呂は気が付いてしまった。

 それまで、ことを。

 フォーカスがずれていて、微妙にぼけていた「あの者の全身像」を、初めて比呂は正確に思い出すことが出来た。


(そういう……ことだったのか……?)


 余りに単純な解答。

 比呂はようやくそれに辿り着いた。


……)


 「あの者」が着ていた制服は、一見すればキタ高の物とよく似ているが、間違いなく襟のデザインが、少し異なっていた。

 となれば、あの姿は、佳子やその他の「キタ高の女子」でもなければ、「佳子の制服を着た男子」でも無かったことになる。


(すると……あの制服は……?)


 その時、鏡に映った比呂の背中越しに見えるドアノブが、ゆっくりと、音も無く回った。

 続いて、カチャリと音を立てて、静かにドアが内側に開いた。

 その向こう側に開いた、真っ暗な空間に、何者かが立っている。

 セーラー服を着た「人間の形をした者」だ。

 比呂には見覚えがあった。

 それは「湘二」の女子の制服なのだ。

 「その者」の体型は、一見女子のように見える。

 しかし、「その者」には首から上が存在していなかった。

 だから、本当の性別は確かめようがなかった。

 首の切り口から流れ出た、おびただしい鮮血の跡で、全身が赤黒く汚れていた。

 「その者」は、フラフラと左右に揺らめきながら、ぎこちない足取りで、背後から、比呂に向かって、ゆっくりと前進してきた。

 直立したまま、彫像のように硬直した比呂の背中に、その者の胴体の正面が接触した。

 そのまま、その者の身体は、ズブズブと比呂の体内にめり込んで来た。

 恐怖の余り、比呂は絶叫しようとした。しかし、全く声が出せなかった。指先一本も動かすことが出来なかった。

 続いて、猛烈な寒気が襲ってきた。血管という血管に、氷水が流し込まれたようだった。

 やがて「その者」は、比呂と全く同じ空間に重なり合うと、歩みを止めた。

 

 かくして、比呂の正面にある洗面台の鏡に「世にも奇妙な物体」が映し出された。

 「その者」は、セーラー服を着て、カッターナイフを持ち、頭部にレジ袋を被っている。

 首から下の全身は微妙にフォーカスがぼけているのに、レジ袋を被った頭部だけはくっきりと鮮明な、酷くアンバランスな「人間の形をした者」だった。


(そうか……)


……)


 しかし、レジ袋に開けた穴を通した視界では、鏡に映った「その者」の胸から下が見えなかった。

 それを見越していたように、比呂の頭部は、見えない力によって、ゆっくりと下方へ向かされていった。

 どうやら「その者の両手」は、「比呂自身の両手」と重なり合って、腹部の高さで何かの「物体」を持っているらしかった。

 比呂の視界は、ジリジリと下方へと回転して行った。

 必然、その「物体」が視界の下端から出現し、真正面へとせり上がってきた。

 切断された生首だった。

 鋭利な刃物で、無残にめった切りにされ、血にまみれた少女の頭部……

 その生首を、顔面を真上に向けて、比呂は両手で持っているのだ。

 「彼女」は、つむっていた両目を、ゆっくりと開き、ドロリと澱んだ視線を比呂に向けた。

 そして、僅かに唇を震わせて、何かを語りかけて来たようだった。

 比呂は、それで悟った。

 殆ど、何もかもが判ってしまった。


☆            ☆


 温めの湯が張られたバスタブに漬かりながら、比呂は一平太の言葉を今更のように思い出していた。

 彼によれば、比呂の脳内に時折入り込む奇妙なビジョンは、その全てが「生きた人間が肉眼で見た記憶」なのだそうだ。

 その原則に従えば、あの「線路の風景」もまた、誰かが実際に体験した物だと解釈しなければならなかったのだ。

 きっと、アキラは見てしまったのだ。

 数々の「心霊スポット」を訪れるうちに辿り着いたあの場所で、線路に横たわる「彼女」を……

 そして「彼女」に魅入られた。いや、取り憑かれた。

 それ以来、アキラは、いや比呂も佳子も、「彼女」にいいように憑依され、操られ、手の平の上で踊らされていた。

 彼女が描き出す「劇場」の為に。

 これまで起こった怪異の数々は、原作、監督、脚本、演出、キャスティング……全てが「彼女」によって手がけられた、この現実を舞台にした「ホラー作品」だった。

 恐怖のどん底に叩き落されるヒロインに選ばれたのは、佳子。

 両親が家からいなくなり、彼女が一人で寝泊まりしなければならない事態に仕向けたのも「彼女」の仕業なのだろう。

 そして、比呂もアキラも一平太も桐谷も菅原も、キャスティングされた「役者」だったのだ。

 題名はもちろん「バリアント・ヘッド」。

 「三十七人の人間が小説を読み終わると『ヒムロサナの亡霊』が解き放たれる」という、恐怖の物語……まるで、ホラーのようなミステリ……あるいは、ミステリのようなホラー……

 数々の奇怪な事件が起こり、無数の伏線が張られる。しかし、全ての謎が解き明かされることはなく、最後まで投げっぱなしのまま物語は幕を下ろす。

 そのような筋立てなのだ。

 だから、一平太が言っていたように「パズルのピースが噛み合わない」のは、当たり前の事だった。

 むしろ、それこそが「作品の趣旨」だったのだから。

 消化不良のまま訪れたラストは、観客の心に、猛烈な飢餓感を生み出す。何としても全ての謎を解明したいという闘志を掻き立てさせるのだ。


「本当に、全てはアキラの仕業だったのか」

「いや、ひょっとしたら、佳子の自作自演だったのか」

「はたまた、佳子の隣の隣の部屋に引っ越してきた、タナベが真犯人だったのか」

「しかし、ひょっとしたら、全ては本当の幽霊の仕業なのかもしれない」

……

……


 決して噛み合う事のないパズルのピースは、部分的につじつまが合い、部分的に矛盾する仮説を、無数に生み出していく。 人々は、初めからを求めて、この「ドラマ」を語り継ぐ。

 かくして、首なし幽霊「ヒムロサナ」の恐怖は、未来永劫人々の心に刻み込まれるのだ。あの永遠の未解決に終わった「切り裂きジャック事件」の伝説のように。

 ともあれ、この「作品」が結末を迎えたのは事実なのだろう。

 だからこそ、「彼女」は一部の「ネタバレ」をして見せたのだ。

 自分が仕込んだ「仕掛け」を、比呂や佳子にひけらかすために。

 結果、比呂は殆ど全ての真相に辿り着いてしまったが、「彼女」としては、それでも別にかまわないのだ。世の中全ての人間に、真相を広まることが無い限りは。

 そう考えると、「彼女」にとって、ある意味で最大の「標的」だったのは、アキラでも佳子でも無かったのかもしれない。

 むしろ、一平太だろう。

 奴のような人材が、一連の事件のまとめサイトを作り、ネットに公開し、

 そして、残された最大の謎。

 結局、「彼女」は何者だったのか……

 それについては、比呂は最後まで判らなかった。

 一つだけはっきりしていることは、「彼女」の本当の名前は「カムロミサ」でも「ヒムロサナ」でも無いという事だ。

 何故、それが判るかと言うと、「彼女」自身が、比呂にそう教えたからだ……


☆            ☆


 比呂がバスルームから部屋に戻ってくると、佳子は既に布団にもぐっていた。

「ただいま」

 と、比呂が言うと。

「おかえり」

 と、少し眠気を含んだ声で佳子がつぶやいた。

 そして、照れ隠しのような微笑みを浮かべながら、

「この布団、結構横幅あるから、こっちに眠れるよ」

 と言った。

 佳子は、座布団を二つ折りにして枕にして、布団のギリギリ端に潜っていた。もう一つの枕が彼女の頭の隣に並べて置いてある。確かに、もう一人が何とか寝られるだけのスペースはあるようだ。

 しかし、それは比呂の良識に照らし合わせると出来ない相談だった。

 布団は一人分しかないから、佳子が布団で、比呂が畳の上で眠ることにしようと、既に決めていたはずなのだ。

「何言ってんだよ。まずいだろ」

 と、渋い表情で比呂が答えると、

「だって、畳の上で眠るんじゃ疲れが取れないでしょ。いいわよ、私は気にしないから……」

 そんなことを、事もなげに言った。

「お前が気にしなくても……それはまずいだろ」

 比呂がそう繰り返すと、佳子は急に神妙な顔つきになって、

「怖いのよ……隣で寝て欲しいの……」

 と、か細い声で言った。

「比呂なら間違いは起こさないでしょ。そう思えるもの……」

 佳子の瞳の奥に、痛々しい不安の色を見出し、比呂の心は軋んだ。

 しばらくの黙思の後で、覚悟を決めると、

「判ったよ……」

 と、佳子から目を背けて、比呂は答えた。

 部屋の端まで歩いて行き、濡れたタオルや脱いだ下着類を洗濯かごに入れた。また、隠し持っていたレジ袋とカッターナイフは、こっそりとゴミ箱の底の方へ押し込んだ。

 再び部屋の中央に戻り、照明の紐を引くと、瞬時に室内が濃い闇に包まれた。

 比呂は枕の上に腰を下ろすと、佳子にかかっている布団をはがさないように、足先から遠慮がちに布団の中へ潜り込んだ。

 左隣に寝ている佳子の体温がフワリと伝わって来る。

「お休み……」

 比呂が枕に頭を落ち着けると、消え入りそうな声で、佳子が耳元で囁いた。既に目をつぶっていたので、彼女がどんな表情でそう言ったのかは、見えなかった。

「うん、お休み」

 比呂もそう答えた。

 布団の下で、佳子の右手の指が、比呂の左手を探り当て、甲を上からそっと触れて来た。

 心臓が、大きな鼓動を一つ打った。

 意識を薄く覆い始めていた眠気が消し飛んでしまった。

 しかし、佳子の華奢な指は、それきり動く気配を見せず、たわやかに比呂の手を包み込んでいるだけだった。

「ありがとう……なんだか落ち着く……」

 空気の動きが一切止まった闇の中で、佳子が再び囁く。

 その細い声色の隙間に、慟哭が微かに潜んでいた。

 それにつられ、比呂の胸に生暖かい想いがこみ上げて来る。

 少年時代、突然目の前に現れた、血の繋がっていない従姉妹のことを、比呂はずっと何でもできる優等生の姉のような存在だと捉えていたつもりだった。

 しかし、時の流れの中で、いつしか彼女は、強さと同時に、もろさも併せ持った、一人の異性になっていた。そして、逆に成長した比呂は、彼女にとって、時には頼りになる兄のような異性として存在しているのかもしれない。

 そんな命題と、思いもかけず向かい合わされても、今の忸怩たる比呂の中には、戸惑い以上の答は何処にも見いだせなかった。

 ともあれ、もしも自分が「兄」であるのなら、何としても、佳子の事を守らなければならないのだ。これからもずっと。

 ただし、今回の件については、これ以上自分が何かをしなければ、あの「彼女」はもう何も手を出してこないだろうと思える。きっと、「彼女」が想定した「美しい脚本」においては、これ以上いたずらに死者を増やすのは本意ではないのだろう。

 だから、比呂は「彼女」に約束した。

 一平太には、決して比呂が知った真相を明かさないと。それを守った上で、彼が今後作るらしい、まとめサイト作りに協力をすると。

 やがて、目覚ましがカチカチと鳴らす音に混ざって、左で寝ている佳子の寝息の音がかすかに聞こえて来た。比呂が横にいることで、安心して眠りについたのだろう。

 比呂もまた胸をなでおろし、意識を徐々に眠りの淵へと沈めて行った。

 すると、瞼に閉ざされた闇の彼方から、もう一つの小さな音が聞こえて来た。

 それは、急速に比呂に向かって近づいて来るようだった。

 明らかに「右側」から。


 カシャンカシャンカシャンカシャンカシャンカシャン……


 ふと気になって、薄目を開け、音が近づいて来る右側へ顔を向けてみた。

 眼前に「彼女」の頭部があった。

 比呂に血まみれの顔面を向け、畳の上に、それは無造作に置かれてあった。

 セーラー服を着た胴体もまた、首の切断面を頭部の切断面と向い合せて、仰向けに横たわっていた。

 その両目は虚ろに見開かれ、口は歯をむき出して、勝ち誇ったように比呂をあざ笑っていた。

 一度は消えたと思ったが、やはり、まだ近くにいたのだ。

それを確認した時には、「電車の音」は直ぐ間際まで近づいていた。

 これは脅迫なのだ。

 きっと、彼女がその気になれば、比呂や佳子の命などは、いかようにもできるのだろう。

 二人が生かされているのは、ただ単に、殺さなければならない積極的動機が「彼女」に無いからに過ぎない。

 しかし、もしも比呂が「真相」を、例えば佳子に話したりしたらどうなるだろう……


「下手な事をすると、只じゃおかない」


 きっと、そう言いたいのだ。

 随分とまた疑り深い人だと、比呂はため息をつき、改めて「彼女」に誓った。

 自分は、一平太のような好事家でもオカルトマニアでもなく、平穏な生活だけを望む、何処にでもいる少年に過ぎない。だから、余計なことは一切するつもりはないと。

 そして、心ひそかに願った。

 いつの日か、彼女が「次回作を上演」する時には、自分達とは関係ない、鎌倉からはずっと遠くの場所で行って欲しいものだと。

 その直後、比呂の身体の中を、轟音を立てて、目に見えない電車が猛スピードですり抜けて行った。


                                                       完

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