第6話「深淵」
午後七時。
比呂、佳子、一平太、由利の四人は「藤沢」駅前のファミリーレストランで夕食を取ることにした。高校生三人の食事代は、全て由利の奢りとなったが、由利の家庭は裕福で、彼女自身もかなり太っ腹なので、このようなことはしょっちゅうあるのだ。
もちろん、全員が空腹だったという事もあるが、この夕食会は、数々の判明した事実について考察する「作戦会議」も兼ねての物だった。
「でも、仕方ないわよ。あれ以上情報を教えたら、桐谷君の神経が持たないわ」
由利は、三百グラムのサーロインステーキに、豪快にナイフを入れながら言った。
「まあな、桐谷から聞きたいことはまだあったんだけどな」
一平太は、桐谷との面会を中途半端な所で切り上げた事が甚だ不満のようだった。これまでに起こった事件や、菅原から聞いた話なども伝えるつもりでいたのだが、かなり桐谷の神経がまいっていたので、流石の一平太にも仏心が働いたのだ。
「所で、比呂は『V.H.最終章』を、全体のどれ位まで読んだんだっけ?」
ドミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグセットを頬張りながら、一平太は比呂に尋ねた。比呂は、ネギトロ丼をかきこみながら、
「ええと、ごく最初の部分だけだったよ」
と答えた。
「そうか……その範囲の話でいいけど、桐谷が言った通りの内容だったのか?」
「ええと……そうだね。確かに、小説の作者は『アキオ』って名前だった。それは覚えてる。あと、舞台は鎌倉で、キャラクターが通ってる高校はキタ高だったよ」
「え? じゃあ、人物名以外は実名なのか」
由利は、今度はグラスに注がれた赤ワインを飲みながら、
「それじゃ、ますます『V.H.最終章』の小説世界は『この現実』とリンクしてるわけね」
と言った。
「で、比呂。逆に、桐谷が言ってなかったことで、お前が覚えていることってあるのか?」
「覚えていること……? もう忘れちゃったな。一度読んだだけだから」
比呂は、左手でたっぷりウーロン茶が入ったグラスを持ち、右手でスマホの画面を操作している最中だったが、そう言ったきり、ぴたりと動きが止まってしまった。
そして、突然何かを思い出したように、
「あ、そうだね……細かい部分だけど……」
と、言った。
「ああ、何でもいいよ。どんな些細な事でも、思い出したなら言ってくれ」
「確か、スマホの液晶画面がブラックアウトするって所があったよ。小説を読み終わった直後に」
「え? それって故障したってことか?」
「いや、そうじゃなくて、画面の下から『3』という数字だけの文字列がスクロールして来るんだ。その直後に、例の『カムロミサ』の亡霊が現れるんだよ」
「3だけが並んだ文字列?」
「そうだよ。『3』の文字だけが、ぎっしりと画面を埋め尽くしていくんだ」
一平太は、ハンバーグを切っていたナイフを持つ手を止めて、しばらく考え込んだ。
「3……3ね……何だろう?……『三途の川』ってことか……?」
「あ!」
ステーキを食べ終わり、食後の特大パフェが運ばれてくるのを待っていた由利が、突然声を上げた。比呂、一平太、佳子の三人が同時に彼女の方を見る。
「『3』の行列って『ミサ』ってことじゃない? 『3』『3』はカムロミサの『ミ』『サ』なんじゃ?」
「ああ!」
三人は同時に感嘆の声を上げた。しかし、
「さすがは姉ちゃんだな。思いつかなかったよ……でも……」
一平太は、由利のひらめきに感心しつつも、どこかで何かが納得しきれないような口ぶりだった。
「それで、比呂。他には何かあるか? 何でもいいんだ」
と、一平太が要請すると、比呂はその言葉でスイッチが入ったように、急に悩ましげな表情になった。
そして、少しの間を置いてから、
「ええと、そうだね……小説のことじゃないんだけど」
と、ためらいを含んだ声で切り出した。
その口調の奥に、何かしら重大な決意を感じ取って、一平太は、思わず身を乗り出した。
「気になる事があるんだ。これまでは、気のせいかもしれないから、言わないほうがいいと思ってたんだけど……」
「思ってたんだけど……何だ?」
「僕は、この二日間、佳子のマンションへ、朝登校する時に迎えに行ってるんだけど……」
ここで、比呂は一旦口ごもった。
スパゲティカルボナーラを、器用にフォークに巻き付けていた佳子の手が、ピタリと止まった。
「ああ、そうだったんだ……で?」
一平太は続きを促した。
「その時、佳子の家の『隣の部屋』の人が、窓の隙間からこっちを覗いていた様な気がするんだよ」
「ええ?」
一平太と由利が驚く声の中に、佳子が息を飲む声が重なった。
「何だよ、それ。窓の前を通り過ぎる時に?」
「そうなんだ……」
「確かなのかよ。はっきり見えたのか?」
「いや、人影のような物は、見えたような見えなかったような……」
「う~ん。それだったら、お前が神経過敏になっていて、思い過ごししただけじゃないか?」
一平太は冷静に突っ込みを入れた。重度の怪談好きで鳴らす一平太だが、一方で恐怖体験に対して、懐疑的な分析が出来る人間でもある。それも、長年にわたる「本当の怪奇現象を収集したい」という欲求が鍛えた物なのだが。
「いや、一瞬だけど、『部屋の内側から廊下を見ている視界』が、僕の中に入り込んだんだ。僕自身と佳子が歩いている姿が見えた……」
「え? またかよ。それは別人の視覚を垣間見たってことか?」
一平太の顔色が急変した。そういう事であるなら、話は違ってくるのだ。
「ちょっと待ってよ。随分気持ちの悪い話になってるわね。佳子ちゃんの隣の部屋に住んでるのって、どんな人?」
しかし、由利の言葉は、佳子の耳に全く入っていないようである。
比呂の不審なそぶりを見るにつけ、ひょっとしたら、そのような事なのではないかと、佳子は心の何処かで想像はしていた。しかし、実際に比呂の口から、予想が最悪の形で的中していたことを知らされたら、たちまち思考が麻痺してしまったのだ。
佳子の持つフォークは、半分スパゲティを絡めたままで止まってしまった。
「ちょっと、大丈夫佳子ちゃん! 隣に住んでるのは、どんな人なの?」
由利は、少し声のトーンを上げて同じ質問を繰り返した。
「あ……! ええと……確か、若い男の人がいるみたいだけど……良く……判らない……」
佳子の顔色は、一見して判るほど蒼白になっていた。
彼女の危うい精神状態に追い討ちをかけるように、一平太はある事実を思い出した。
「そう言えば……かなり前に、誰かから聞いたことがある気がするけど……確か、佳子の隣の部屋が『事故物件』だとかいう話って無かったか?」
「え? 何? それってマジなの、佳子ちゃん! 事故ってどういう関係の?」
由利は色めき立ち、更に突っ込んで尋ねた。
「え?……う、うん……よ、良く判らないけど……そんな噂なの。酷い自殺があったとか、殺人事件があったとか、何通りかあって……」
「じゃあ、幽霊騒ぎとかも、あったりするの?」
「うん……都市伝説みたいな話はあるみたい。別にうちの家族は、全くそういう経験はして無いんだけど」
「う~ん……」
特大パフェをスプーンでたっぷりと切り崩し、口に丸ごと放り込むと、ゆっくりとその味を堪能しながら、由利は熟考した。
「ねえ、ペータ。やっぱり、これって心霊的な事件だって気がしてならないのよ。だって、桐谷君は、足だけとは言え、ずばり『霊』を見てるわけじゃない? その上、佳子ちゃんの隣の家の件も絡んでいそうだし……」
「それじゃ、姉ちゃんは菅原の病室や桐谷の家で何か感じた? 俺は何も感じないんだよ」
雄弁に自説を主張した由利だったが、それを持ち出された途端に表情を濁らせた。
「う~ん。漠然とした気持ち悪さはずっとあるんだけど……正直、学校よりも強くはなかったかも……」
一平太も霊感を持っていない訳ではないが、余程の事でなければ、何も感じない程度に過ぎないと自称している。つまり、今日行った場所に、いわゆる「霊障」を起こす要素があるとしても、彼の評価では大したレベルではないという事だ。
「だったら、別に心霊的な事象として捉えるのは早計だよ。桐谷がそれを見た時は、悪夢を見た直後の寝ぼけた状態だったから、夢の延長のようなものかもしれない。それから、佳子の隣の家の件については、一連の事件と関係あるのかどうかがまず判らないだろ。それから、そもそも窓の隙間から佳子を覗いている奴がいたとしても、それは『生きた人間』だよ。何故なら、比呂がその視覚を見てるんだから」
「え? ペータ。それどういう事?」
比呂は、突然自分の名前を出されて面食らったようだった。
「お前、自分自身で判ってないのか? お前のその能力って、あくまでも生きた人間の視覚を盗んでるものだよ」
比呂は、口を半開きにし、ポカンと一平太の言葉を聞いていた。彼の話が全くピンと来ていない様子だ。
「これまでのケースをお前の口から聞いていると、どう考えてもそうなんだよ。特定の眼球の位置から、明確に肉眼で見た映像じゃないか。その辺、自分で判らないのか?」
「う……んん」
比呂は眉をひそめ、腕を組んだまま、しばらく考え込んでいたが。
「確かに……脳の中に情景が浮かぶって言うよりも、あれは自分の眼で直接見ているのと同じ感覚でもあるんだよね」
「だろだろ? だから、それは肉体的に眼球を持ち、同じ光景を見ていた存在、つまり生きた人間が存在していたってことだ。だから、仮に隣の部屋の窓の隙間から、佳子を覗いていた何者かがいたとしても、それは人間だってことだ。仮に、今回の事件に関連があるとしてもね。同じように、菅原にカッターナイフを持って襲い掛かった奴は、あくまでも生きた人間だってことだ」
二人のやり取りを悩ましげな表情で聞きながら、由利は自分のバッグの中を探っていたが、
「ああ、タロット持って来てないか……じゃあ、これで……」
そう言って取り出したのは、小さな巾着袋だった。その中に入っていた綺麗な石から、幾つかを選び出すと、右手の中でコロコロと転がした。
由利は、各種の占いの心得があり、現在でも、アルバイトとして鑑定士をやっているほどの腕前であった。卒業後の進路の第一志望はプロの霊媒師だが、それが叶わなかった時の第二志望としては、占い師を考えているらしい。由利が取り出した、所謂パワーストーンも、彼女がタロットカードと共に得意としている占い用のアイテムだった。
「お……姉ちゃん。何を占うつもりだよ」
「ううん……自分でも良く判らないんだけどね……一体何が起こるのか、漠然と読んでみようかな、と……」
そう言いながら、パワーストーンをテーブルの上に一斉に放り出した。カラカラと固い音を立てて、石が散らばった。
この占術は、比呂や佳子もこれまで何度か見たことはあったが、何故こんなことで占いが出来るのか、由利以外にはさっぱり判らないのだ。何でも、由利の師匠に当たる人のオリジナルの手法なのだそうだが。
転がった石を一つ一つ手に取って、意味深な表情をする由利を、比呂、佳子、一平太の三人は、固唾を飲んで見守っていたが、
「え? ちょっと、待って……」
由利の顔色が急変した。何やら、只事では無い結果を読み取ったようだが、それっきり、貝のように口をつぐんでしまった。
「何だよ。何かあった?」
思わせぶりな態度をする由利に痺れを切らし、一平太は鑑定結果を促したが、
「う……ん。まあ、これは違う、きっと思い過ごしだから、伏せとこうかな……」
と由利は、言葉を濁した。しかし、無論それで納得する一平太ではなかった。
「ちょ、ちょっと待てよ! そこまで言って引っ込めるのは、反則だろ。それ、絶対違わない。姉ちゃんが最初に読み取った結果が正しい。包み隠さず、どんな鑑定だったのか、情報開示してくれよ!」
実際、一平太の言い分には理があるのだった。由利は、特に悪い結果に限って占いの的中率が異常に高いので、その業界内では「死神」という有り難くない異名も与えられているらしい。
「う……ん。仕方ないな……じゃあ、話半分に聞いてね」
佳子の身体に緊張が走る。唾を一つ飲み込むと、がん検診の結果を医者から告げられる被験者のように、居住まいを正した。
しかし、由利が行った宣告は、そんな佳子の覚悟をも、たやすく打ち砕いてしまうほど、恐るべきものだった。
「どうもね、この一連の出来事に関連して、死人が出るっていうのよ。どういう形では判らないけど。それも『一名』って人数まで限定して……」
☆ ☆
佳子が「サンフラワーマンション」に到着した時には、時刻は午後九時近くになっていた。結局、ファミレスでオーダーしたスパゲティは、半分も食べられずに残してしまった。余りにも色々な事が起こりすぎて、とてもではないが食欲が湧くような精神状態ではないのだ。
比呂と共にエレベーターに乗り、自分の家がある五階まで昇った。ドアが開くと、薄暗い廊下が前方に現れた。佳子が、かごの外に足を踏み出すと、背後にいた比呂が足を速めて佳子の右側に並んだ。佳子と各部屋のドアとの間に、比呂が割って入る形だ。佳子の不安な心情を察してくれているのだろう。佳子の家に辿り着くためには、どうしたって問題の「隣の部屋」を通り過ぎなければならないのだ。あんな話を聞かされた後では、それは佳子にとって過酷すぎる試練だ。
しかし、横目でちらりと見た限りでは「隣の部屋」の窓は完全に閉まっており、内側のカーテンも閉じられていた。二人とも、そのことについては一切言及しないで、その隣にある佳子の家まで辿り着いた。佳子は、財布に下げてあるキーを使って開錠し、ドアを開けた。
「今日も送ってくれてありがとう。お休み」
「うん、お休み」
閉めたドアに隔てられる寸前に比呂が浮かべた、素っ気無くも穏やかな微笑みがまぶしかった。
この数日間は、彼の存在を何かにつけて頼もしく感じていたが、今回ほどそれを痛切に感じたことは無かった。
一人きりの家の中を奥へと進んでいく途中で、ファミレスで由利が行った占いの結果が、ふと佳子の脳裏によぎった。
「死人が一名出るかもしれない」
仮にそれが当たるとして、一体その「死者」とは誰のことなのだろう。もしも、それが今晩のうちに、自分か比呂のどちらかになるのだとしたら……
さっき、玄関で交わした変哲のない挨拶が、彼と交わす最後の会話になってしまうかもしれないのだ。そんなことを埒も無く考えると、只の挨拶だとしても、もっと気持ちを噛みしめて口にすれば良かったと、やけにセンチメンタルな後悔を覚えた。
しかし、どれほど不気味な事件が進行していようが、最低限の生活のノルマはこなさないといけない。余りに何も食べないと体力が持たないので、まずは冷蔵庫に入っていた口当たりの良いヨーグルトデザートを食べた。続いて、この前買った「清悠堂」の「雪ノ下」を食べようと思い、菓子類の倉庫になっている引き出しを開けたのだが……
そこには、無かった。
おかしい。
確か、そこに入れたはずだったのだ。
それ以外に、思い当たる場所をあちこち探したが、どこにも見つからなかった。
佳子はしばらく熟考した後、ふと思い出した。
そうだ、あれは今朝全て食べてしまったのだ。だから、箱も含めて、今日ゴミに出してしまったから、どこにも見当たらないのは当たり前なのだ。
確か、そうだった。
どうかしている。今日の記憶まで曖昧になっているのだろうか。
次に、机に向かうと英語の問題集を取り出し、明日の授業の宿題をさっさと片付けた。そして、風呂に入り、寝間着に着替え、歯を磨き、後は眠るだけとなった。
再び机に向かい、ノートパソコンを起動した。
カシャカシャと本体から音が鳴り、やがてスタート画面が表示された。
マウスのポインタを「ドキュメント」に合わせる。
佳子は、一つ深呼吸をした。
マウスを持つ右手が、僅かに震えている。
不安に押しつぶされそうになる心に鞭を打ち、アイコンをダブルクリックする。
ウインドウが開き、収納されているファイルの一覧が表示された。
二十程並ぶ宿題レポート類のファイルの末尾に「それ」はあった。
(やはり……)
桐谷の家に行き、彼の口から「カムロミサ」という名を聞いた直後に覚えた、言い知れぬ恐怖。
時間が経つにつれて、その実像は佳子の中でくっきりと顕在化していった。
まさかとは思ったが……
そのフォルダには「VH13」という名のファイルが保存されていた。
二日前の朝、徹夜で「V.H.十二章まで」を読み終わった後、家を出た時に覚えた、あの「違和感」。
あの時は、十分ほど時間の記憶が喪失していたのではないか、とも思った。
しかし同時に、自分はもっと根本的な「何か」を見落としているのではないか、という疑惑も起こったのだ。
これこそが、その答ではないか……
「VH13」というファイルにマウスのポインタを当てる。
「更新日時」は二日前の午前一時十四分となっていた。
(やはり……)
考えてみれば、「夜が明けると同時に、小説を丁度読み終わった」というのは、偶然過ぎるのだ。
実際には、あの日のずっと早い時刻に「V.H.十二章まで」を読み終わっていた……
そして、正にこの時刻にパソコンがメールを受信した。この「VH13」、すなわち「V.H.最終章」が添付されたメールを。
それを、自分はこうして保存し、読み始めた。夜が明けるまで読み続け、もう登校しなければ学校に間に合わないという時刻になって、ファイルを閉じ、パソコンもシャットアウトした……
しかし、自分はその間の記憶を失ってしまっている。
「最終章」の内容と共に。
そういうことだった……?
まるで、自分は「V.H.十二章まで」を、朝までずっと読み続けていたかのように、無意識に記憶を偽っていた……?
試しに、メールソフトの受信フォルダを開いてみた。
二日前に受信したメールに不審な物は存在していなかった。ならば、削除済みアイテムのフォルダは?
はたして、末尾には、アキラから送られたメールがあった。
間違いなく「VH13」という名の添付ファイルもついている。
佳子は、自分の中の時間を必死に巻き戻し、頭の隅々まで記憶を探っていった。
しかし、思い出せない。
あの日の夜のことは、まるで深い霧の中に沈んでいるように、焦点がぼやけているのだ。
そして「V.H.最終章」の内容も。
一体、自分はこの「最終章」を、どこまで読んだのだろうか。
それも、全く思い出せない。
しかし、自分の記憶の底には、恐らく「カムロミサ」という名前が眠っていたのだ。である以上、比呂や菅原が呼んだ部分よりは、ずっと先まで読んでしまったことだけは間違いない。
確かなことは、目の前にそのファイルは厳然と存在している、という事実だ。
一平太の仮説を信じるなら、このファイルが送られた者の元には、いずれ「カムロミサ」すなわち「首の無い女子高生の亡霊」が現れることになるのだが……
それを考えた時、佳子の中で膨れ上がった恐怖が、遂に臨界点を超えた。
堪らなくなって、右クリックで「VH13」を削除した。そして、即座にゴミ箱も空にした。アキラからのメールも削除した。
一平太が、それを読みたがっていたことは判っていたが、それでも佳子はそれを削除せずにはいられなかった。例え一秒でも、それを目に見える場所に置いておきたくなかったのだ。
右手の震えは、いつの間にか悪寒となって全身に浸透し、心臓を圧迫していた。
動悸が際限なく激しくなり、身体の危機すら覚えさせた。
比呂や桐谷が経験した恐怖は、きっとこれだったのだろう。
続いて、パソコンもシャットダウンした。
間もなく、ヒュウン……という気の抜けた音と共に、液晶画面に映る物は何一つなくなった。
ようやく、佳子は一つ大きく息を吸い込むと、深い溜息をついた。
イヤホンを耳に差し込み、スマホとつないだ。お気に入りの音楽でも聞けば、何とか気持ちを鎮めることが出来るだろうと思ったのだ。
しかしどうしたことか、賑やかなポップスの旋律の合間を縫って、自分の頭の片隅に、一つの風景が陽炎のようにちらついていることに佳子は気が付いていた。
それは、余りにも模糊としていて、細部までは判らなかったが、静止画のように、殆ど動きの無い風景であるようだった。始めの一曲が終わるころになって、ようやく佳子は、その輪郭を掴むことができた。
それは、恐らく「踏切」なのだ……
夜のとばりに沈む、周囲を鬱蒼とした木々で囲まれた無人の踏切が、ただ正面にあるだけの風景。
一体、これは何なのだろう……
あるいは「V.H.最終章」に登場するワンシーンを描き出した物なのかもしれない。
しかし、だとしても、それを確かめる術は既にない。
肝心の「VH13」はハードディスクの、目には見えない場所に、固く封印されてしまったからだ。
☆ ☆
「お前、大丈夫か? 声の感じもおかしいぞ。昨日も変なこと言ってたし」
「べ、別に何も変なこと無いよ……変なこと……? って、何の……ことだよ」
タナベが携帯を取ると、電話をかけてきたのは彼の兄だった。「昨日」というのは、雑用で電話をかけた時の事を言っているのだろう。
「例のポニーテールの女の子の事だよ。あの子に、お前が殺されるかもしれないとか言ってただろ。けど、何をどうしたら、そんなとんでもない想像が働くんだよ。俺が見た感じじゃ、ごく普通の女の子だったぞ。一体、何の根拠があってそんなこと言うんだよ!」
「ええと、俺そんなこと言ってたっけ……? ああ……そうか……そうだよな……確かに言ったかもしれない……」
「お、お前、何言ってんだよ! 昨日言ったことも忘れたのか?」
「いや……覚えてる……お、覚えてるよ……でも……あれは……忘れてくれ……そうだな……兄貴が言うように、何かの勘違いか、思い過ごしだよ……そんなはずないよな……ハハハ……」
昨晩、あの少女からもらった菓子は、今朝のゴミ出しの時に、箱も含めて全て捨ててしまった。余りに気味が悪かったので、自分の部屋に置いておくことは出来なかったのだ。少なくとも、タナベが記憶している限りでは、そうしたはずだった。
だから、あの事件の痕跡は、物理的には全く残っていない。
もしも、あれが寝ぼけている間に見た、悪夢の類であって、現実には起こっていない出来事だとすれば、兄が言うように、タナベが感じる恐怖は只の思い過ごしだという事になる。
そうであって欲しいという願望が、タナベの中に強烈に有った。だから、あの一件については、兄には話せなかった。
「オカルト的なこと言うようだけど、もう一度あの件を蒸し返すぞ。お前が今いる部屋って、やっぱり『事故物件』なんじゃないか? それで、お前おかしくなってんじゃないか? まさかとは思うけど……」
「え……違う……それは違うんだって……不動産屋は……否定してたし……」
「そのことについても、聞いたんだよ。同じゼミに怪談とかが好きな奴がいたから。事件とか自殺って、直前の住人の時に起きたことじゃなければ、不動産屋が教える義務は無いらしいんだよ。だから、その不動産屋は、絶対に知ってて隠してるんだって!」
「いや……違う……違うよ……そんなの……根拠ないよ……」
「お……おい、お前本当に大丈夫かよ。しゃべり方、本当におかしいぞ!」
「心配しないで……くれよ……僕、絶対にこの部屋から引っ越さないよ……大丈夫だよ……だって、隣にあの子がいるんだから……どこにも行かないよ……絶対、あの子の傍にいるんだ……いつもあの子の傍に……」
「ちょっと……お前……」
「だって、カコちゃんがいるんだ……僕のカコちゃんが……だから、どこにも行くもんか……絶対に……絶対に……」
☆ ☆
苦しい……
何だ、これは……苦しい……
何かが、自分の上にのしかかっている……?
誰だ……
誰かが、俺の上に馬乗りになっている……
痛い……!
痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!……
やめてくれ!
誰だ……何をしている……!
誰だ……誰なんだ、お前は……!
女……?
セーラー服を着た……女?
いや……しかし……頭が……?
頭が無い……だと!
頭の無い女が、カッターナイフで……!
カッターナイフで俺を切り刻んでいる!
首筋に……! 顔に……! 滅茶苦茶にカッターを突き立てている……!
(キンッ!)
いや……
違う……?
馬乗りになってるのは……
俺の方か……?
俺が、女に馬乗りになって、カッターナイフで切り刻んでいる……?
下になってるのは……
カコちゃん……?
何で……何でこんなことになってる……?
俺が、カコちゃんを……どうして……!
(キンッ!)
「その音」が呼び水になり、タナベは半ば無理矢理に覚醒した。
最初に見えた物は、闇に塗りつぶされた天井だった。
意識に立ち込めた濃霧を振り払って、周囲を見渡した。いつものように、ベッドの上で布団にくるまって寝ているだけのようだ。カーテンの隙間から、月明かりがうっすらと部屋の中に滲みこんでいる。上半身をのそりと起こし、目を細めて目覚ましを覗き込んだ。午前二時過ぎだった。
つまり……悪夢を見ていたのか……
恐怖の余韻が身体の中で渦巻き、頭がグツグツと煮え立っている。
それにしても、一体、今のは何だったのだろう。
悪夢だとしても意味不明だ。訳が分からない……
一体、カッターを握っていたのは誰だったのだろう……自分だったのか……それとも……
隣に住む、あの少女……?
まさか、いずれ自分は、彼女にカッターナイフで切り刻まれて、絶命してしまうという予知夢だとでも言うのだろうか。
それを考えると、身の毛がよだつほど恐ろしい。
恐ろしいはずなのだ……
しかしどうしたことか、同時に自分の中には、あの少女にいっそ「殺されたい」という願望があるように思える。
更に言えば、逆にあの少女に馬乗りになって、切り刻み、最後には生きたまま首を切断して「殺してしまいたい」という、どす黒くも甘美な欲求もあるのだ。
訳が分からない……
一体、どちらなのだろう。あるいは、それら三つの感情が全て同時に正しいのか。
今の自分は本当に自分なのか?……それとも別の誰かなのか?……
いつ、どこで何をしている何者なのか……タナベは、そもそも、そこからして判らなくなっていた。
気が付けば、ぐっしょりと寝汗をかいている。喉が焼けそうに渇きを覚える。
ベッドから降りて、ふらふらとキッチンに向かった。とにかく、水の一杯でも飲まなければ、再び眠ることは出来そうもない。
マグカップを手に取り、蛇口をひねろうとした時の事だった。
キンッ!
小さいながらも鋭利な音が、鼓膜に切り付けて来た。
タナベは、最初に奇妙な引っ掛かりを覚えた。そして、音の出所を探して、辺りを見回したが、それらしい音源は見つからなかった。
少し遅れて、先ほどの夢の中でも、同じような音が聞こえていたことを思い出した。
となると、自分は、まだあの悪夢の中にいるというのか……
いや……そうでは無い。
今の音は、室内の空気を響かせ、生々しく神経へと伝播した、現実の物だったはずだ。
タナベの足は、我知らず玄関に向かっていた。
何故だか、音はそちらの方向から響いてきたように思えたのだ。
靴箱の上にある照明スイッチを入れた。瞬時にLEDライトが点り、玄関の様子を明々と照らし出す。タナベは暗闇に慣れていた目を細めた。
辺りを見回して、音の出元を探る。
壁……靴箱……ドア……特に異常は見つからなかった。
一体、何が鳴ったのだろう……あの音には、家鳴りの類とは異なる、妙な金属的な響きがあったのだが……
今度は、何気なく床へ目を落とした。
妙な物が落ちている……?
その正体を確認するや、絶叫がタナベの喉から出かかった。
しかし、驚愕が余りに大きすぎて声帯が固まり、逆に声が出てこなかった。
サンフラワーマンションは古い建物だ。各部屋のドアには郵便受けが付いている。ドアの外側から幅三十センチほどの金属製の蓋を押すと隙間が開く仕組みだ。投入された郵便物は、容器などに受け取られることなく、そのまま床に落ちるようになっている。
その郵便受けの真下に、数枚の紙が落ちていたのだ。
どれも、歴史教科書のページを切り取った物のようだ。
ただし、それらに掲載されている人物は、頭部の部分が、鋭利な四角形の穴で切り取られていた。
坂本龍馬も、大久保利通も、織田信長も……一つ残らず、頭部だけが無くなっていたのだ。そしてまた、それらの紙の周囲には、幾つかの小さな物体が散らばっていた。
平行四辺形をした、鋭利な金属板……
それは、見間違え用も無く、折られたカッターナイフの「刃」だった。
キンッ!
再び、あの音がした。今度は、前よりもずっと大きく、鋭く、疑いようも無く目の前から響いてきた。
続いて、金属製の郵便受けのふたが、ゆっくりと開いていく。
(何だ……?)
投入口の隙間から、カッターナイフの刃をつまんだ、白い二本の指先が、ぬっと出て来た。
直後、刃は落下し、チャリンと音を立てて床に転がった。
(一体……これは……)
二本の指は、第一関節から先が露出した状態から、全く動こうとしない。
タナベは、恐る恐るしゃがみこんだ。冷静に考えれば、おぞましい行為だ。
しかし、どういう訳か「それ」がいったい何なのかを、どうしても確かめたくなったのだ。
開口部の隙間を下から覗き込もうと思ったが……
ガシャンと音を立てて、やおらに指がふたを上へ押し上げた。
横長の長方形の投入口が全開となった。
その向こう側にあった物は、青いインクで印刷が成された、白いビニール袋の表面だった。
その中央には、小さな四角い穴が開いており、さらにその向こう側には、穴とほぼ同サイズの人間の「目」が覗いていた。
一瞬の事だったが、タナベははっきりと目撃した。
黒目と白目があり、まぶたもまつ毛もある、それは間違いなく、血走った人間の眼球だったのだ。
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