第4話「拡散」
頭部を失ったにも関わらず、その裸体は、エリノアの正面に変わらず立ちはだかっていた。
だらりと下げた左手の五本の指が、奇妙な「物体」をつかんでいる。その者は、それをゆっくりと、胸の高さまで持ち上げて、恐るべき解答を明らかにした。
それは「もう一つの人間の頭部」だった。
「その者」は、昨日殺されたはずの、生々しいダグラスの頭部を、頭髪をわしづかみにしてエリノアに見せつけているのだった。
やがて、両手でつかまれたダグラスの頭部は、その者の首の切断面に載せられると、ゆっくりと正面を向けて、胴体に「接続」された。
かくして、全裸の女性の肉体に、全く「異なる頭部」を乗せた、奇妙な「人間のような者」が完成した。
「ダグラスの顔面」のあちこちが、小さくけいれんを始めた。両目がうっすらと開くと、焦点の定まらない瞳が露わになった。
口元が、何かを言いたげに震える。
「エエエエ……リイイイイ……ノオオオオ……」
かすれた不協和音が、だらしなく開かれたダグラスの口の奥から絞り出された。
ここに至り、理性のたがが、遂に消し飛んだ。
今度こそ本当に、エリノアの金切り声が室内を揺るがせた。
☆ ☆
そして、藤岡悠美は現実世界へと戻って来た。
当然だが、彼女がいる場所は「マサチューセッツ郊外」などではなく、鎌倉市にあるマンションの自室である。
机の上に置かれた原稿は、それが最後の一ページだった。ラストに「完」の一文字は書いていないが、これで小説は完結だったのだろう。ストーリー的にも明らかに締めくくりの展開だった。
悠美は、北鎌倉高校、通称「キタ高」の二年生である。たった今読んだ小説は、クラスメートの男子である「田代昭雄」が書いたオリジナルのホラー小説「バリアント・ヘッド」だ。
アキオはクラブこそ柔道部所属で体格も良く、第一印象では全く健全な体育会系の人物に見えるだろう。しかし、その実態は極めて特殊な嗜好を持った、学年随一の変人として知られている。
怪談、オカルトにとどまらず、アキオの興味は、世界の未解決事件、猟奇殺人事件、死刑の歴史、拷問方法など、ありとあらゆる悪趣味な物に及んでいる。暇さえあればネットを使ってその手の物を調べまくっているような人間で、当然だが女子からも男子からも「キモ」がられている。
そんなアキオが、いきなり小説を書いた。「バリアント・ヘッド」という題名のホラー小説は、読みやすくするためにプリントアウトされ、クラスメートたちに回し読みをされていた。作者であるアキオに対して「キモイ」という印象しか持っていなかった悠美は、最初は小説を読むことにも抵抗があった。しかし、女子を含むクラスメート達の読後の評判が余りに良かったので、遅ればせながら彼女も読むことになったのだ。
原稿と共に渡された、クラスメートの名前リストを机の上に広げると、悠美は自分の名前をボールペンで横ラインを引いて消した。改めてリストを見てみると、随分と沢山名前が消えているようだ。何気なく、これまで読了した人数を数えてみると「三十三人」もいた。するとクラスの大半が読んだことになるのだ。
悠美は、アキオに感想のメールを送ってやろうと思いついた。確かに、予想以上に面白かったし、怖かったのだから、「良かった」の一言でも送ってあげるのが礼儀だろう。
しかし、机の上に置いてあったスマホを手に取った時の事だった。
スマホの液晶画面が突然暗転した。
悠美は首をかしげた。電源を消したわけではないのだ。
あちこちを色々と操作したが、画面はうんともすんとも言わない。これは、故障してしまったのだろうかと思ったが……
真っ黒な画面の一番下から、文字列が勝手にスクロールして来た。
いや、それは一般的な意味での「文字列」とは言えない、異様な「物」だった。
無数の「3」の文字だけがびっしりと敷き詰められた固まりが、見る見るうちに画面を端から端まで埋め尽くして行ったのだ。
333333333333333333
333333333333333333
333333333333333333
333333333333333333
333333333333333333
333333333333333333
333333………………………………
(な……なんなの……?)
予想だにしていなかった事態……
(一体……なんなの……?)
繰り返し、そう思った。
気味が悪くなって、スマホを咄嗟に手放すと、コトンと乾いた音を立てて、それは机上に転がった。
その直後のことだった。
背後から、金属的な異音が響いてきた。
キチキチキチキチキチ……
驚いた悠美は、チェアを半回転させて、身体ごと後ろへ振り向いた。
しかし、目の前にあった光景に対し、悠美の思考は完全に凍り付いてしまった。
自室の真ん中で、「その者」は悠美と対峙していた。
「その者」は、少なくとも人間の肉体を持った「何か」だ。
セーラー服を着て、二本の足を肩幅と同じ位に広げて直立し、両腕をぶらりと下げている。
それは、殆ど全ての点で、全く普通の女子高生の姿に見える。
ただし「その物」には、頭部が存在していなかった。
乱暴な切り口で、頭部がばっさりと首の根元から切断され、白い骨と赤黒い肉が露出していた。
切断面からはだらだらと血が流れ出し、白いセーラー服の胸元が赤黒く汚れていた。
キチ……
金属音が、また一つ鳴った。
悠美はようやく、戦慄すべき、さらなる事実に気が付いた。
「その者」は右手で大型のカッターナイフを握っていた。
その刃は、既に限界近くまで、親指で長く押し出されている。
キチキチキチ……
その音が引き金になり、膨れ上がった恐怖が遂に臨界点を超えた。
悠美の喉から、夜気を斬り裂くような絶叫がほとばしった。
☆ ☆
(何だ……これは……?)
マウスを握る比呂の指が、凍てついたように震え始めた。
(一体……これは……?)
「無言メール」に添付されていたファイルの「名前」を、改めて確かめた。その 「四文字」を見たと同時に、比呂の頭にひらめきが一つ起こる。
即座に、床に置いてあったカバンを再び持ち上げ、中身を開いた。
「バリアント・ヘッド」の原稿は、今朝教室で読み終わった後、そのままカバンに入れたままになっていたのだ。それを取り出して、パラパラと原稿の中身を確認した。
(つまり……これは……?)
やはり間違いなかった。
添付されたテキストファイルの名前は「VH13」となっている。そして、比呂の手元にある「バリアント・ヘッド」の原稿は、数えてみれば「十二章」までしかない。
次に、比呂は今画面上で開いている「VH13」を「最終行」までスクロールした。
案の定、小説の最後には「完」の一文字が打たれてあった。
つまり……
(これは……「最終章」……なのか……?)
添付ファイル名の「VH13」とは、「V.H.最終章」のことだったのだ。ホラー小説に相応しく「13」という数字にした上に、それまでの原稿のラストの頁には何故か入っていなかった「完」の文字が、こちらには入っているのだから間違いない。
比呂はテキストを序盤まで読んで、そのことに気が付いた。
その「最終章」は恐ろしく長編だった。あるいは、それまでの「十二章」を全て合わせた分量よりも長いかもしれない。
そして、内容も、それまでの章とは根本的に異なっていた。
舞台はアメリカではなく日本の鎌倉。そして、一章から十二章までのストーリーは、「最終章」の中に存在する「小説内小説」だった、という設定になっているのだ。
「V.H.最終章」冒頭に登場するのは、北鎌倉高校、正に実在の「キタ高」に通う、藤岡悠美という名の、恐らくは架空の人物だ。彼女は、三十三番目の読者として、小説「バリアント・ヘッド」を読み終わる。それは、正しく比呂達キタ高の生徒達が回し読みしてきた「V.H.十二章まで」と同じ物らしい。
その直後、悠美の背後に、頭部のない女子高生の亡霊が出現するのだ。そして、「その者」は大型のカッターナイフで、悠美の身体をめった切りにして惨殺する。とりわけ、顔面と首の周囲を徹底的に切り刻むのだ。
比呂が読んだのは、冒頭部分のそこまでだった……
(それで……? だから……? これは……一体……?)
比呂は完全に凍り付いてしまった思考を、何とかして巡らせる。
失踪しているアキラのメアドから、こんな物突然が送られてきた。しかし……
何故、自分に……?
何のために……?
これが、一体どういう意味を持つ……?
何もかもがさっぱり判らなかった。ともあれ、この「V.H.最終章」は最後まで読んでみなければならない。それで何かが判るかもしれない。
そう考え、一度は最終行までスクロールしたファイルを、読んだ箇所まで戻すためにマウスを手にしたのだが……
突然、比呂の脳に鈍器で殴られたような衝撃が走る。
五感の全てと、平衡感覚が同時に失われた。
(これは……?)
(あの時と……今朝起こったあれと全く同じ……?)
(走っている……)
(誰かが、学校の廊下を走っている……)
(階段が近づいてくる……)
(誰かが下の階から昇って来る……)
(そうだ……この後、確か菅原が階段から昇って来るのだ……)
今朝、「あの時」に見たものと全く同じ「ビジョン」が、全く同じ感覚で、頭の中に再生されている。まるで、保存した動画ファイルを繰り返し再生したように、「同一の映像」だった。
やはり、菅原の驚愕の表情が視界一杯に広がる。
しかし、そこから先は、前回とは全く違っていた。
菅原が階段から転落する直前、そのビジョンは「菅原の目から見た主観映像」に、いきなり切り替わったのだ。
比呂は、菅原の目を借りて、一瞬だけ「その者」を目撃した。
しかしその直後、比呂の視界は、再びパソコンの画面に戻ってしまった。
目まぐるしく視界が変化したので、グラグラと頭が揺れている。まるで脳震盪だ。
少し遅れて、猛烈な頭痛と動悸が起こり、さらにその後から嘔吐感が、腹の奥からムカムカとせり上がってくる。
比呂の本能は、身体的危険を察知した。慌ててマウスを操作して、テキストファイルを閉じる。即座にそのファイルとメールを「削除」した。
しかし、このままでは、少なくとも「削除済みフォルダ」や「ゴミ箱」にはファイルが残っている。それに気が付いた比呂は、即座にゴミ箱にカーソルを合わせ、右クリックをして「ゴミ箱を空にする」を選択した。「これらの項目を完全に削除しますか?」に対して、迷わず「はい」を選択する。
直後、あっという間にファイル削除は完了した。続いて、メールも完全に削除した。
これで、少なくも目に見える範囲からは、ファイルを消し去ったことになる。
比呂は、PCの画面から離れると、目をつぶり、深呼吸を何度も行った。気が付けば、まるで酸欠にかかったように、呼吸が荒くなっている。
数分後、ようやく鼓動と呼吸が落ち着いてきた。握りしめた拳の中は、じっとりと脂汗をかいていた。
(一体……あれは何だった……?)
比呂は混乱していた。しかし、彼の残された理性は、どうやら自分だけでは対処しきれない事態が進行していることを、認めざるを得なかった。
意を決し、キーボードの横に置いてあったスマホを手に取ると、発信履歴を開いた。
「ペータ」つまり一平太を選んで発信した。この時間なら、まだ奴は起きているはずだ。
いささか気が進まないことではあるが、きっと、あの厄介で風変わりな知人の力を借りなければならないのだ。正確には、当てになるのは彼の従姉である由利さんなのだが……
何回かの着信音の後で、電話が取られた。
「比呂か? どうしたんだよ。珍しいな」
一平太の第一声は、心なしか眠そうだった。そろそろ寝床に着く時間帯なのだろう。比呂は一つ深く息を吸ってから話を切り出した。
「ええと……例の件だよ。重要な事なんだ。思い出したんだよ」
「重要な事? 何だって? 思い出した?」
一平太の声から、にわかに期待感が溢れ出ていた。例の件と聞いて、一気に眠気が吹っ飛んだのだろう。比呂はこの際、アキラから「最終章」が送られてきたことを、その内容も含めて、全て一平太に話そうと思っていた。しかし、まずはたった今自分が幻視した光景を教えないといけないのだ。
「今朝、菅原が階段から転落したろ? その直前に彼が見た物を、同時に僕も見ていたんだ。幻視したんだよ。それを思い出したんだ」
「何いいっ? どんなものだよ!」
「菅原は、見たんだよ。自分に向かって走って来る、大型のカッターナイフを握った女子生徒を……」
「え……? マジ?」
「ふざけてないよ。大真面目だよ。菅原の目線で見た『それ』を、僕も垣間見たんだ。それで、彼は階段から転落したんだ!」
「マジ……で?」
本来、一平太にしてみたら、これ以上ないほどに心躍る話のはずだ。しかし、それが余りに想定を超える話だったためか、かえって彼の方が半信半疑のような口調になってしまっている。
「比呂、待てよ……じゃあその女子って誰だよ! そいつの顔も見たのかよ!」
「え……顔……?」
今度は、呆けた声を出したのは、比呂の方だった。「顔」と言われた途端、目の前にいきなり巨大なバリケードが出現したように、思考が行き詰ってしまった。
「顔……ええと顔……?」
「見たんじゃないのか?」
比呂は、再度深呼吸し、目をつぶって自問した。先ほど、一瞬だけ幻視したビジョンを、記憶の淵から探り出し、そのディテールを詳細になぞってみた。
一度は収まった胸のむかつきが、再びムラムラとぶり返してくる。
「いや……見てない……僕は見てない……顔は……顔は無かった……無かったんだ……あいつは、顔……というか『頭部』そのものが無かった……のか?」
比呂の中で、「最終章」冒頭に登場した「首なし女子高生」のイメージと、先ほど垣間見た映像とが重なった。
「頭が無い? ほんとかよ! それじゃまるで『バリアント・ヘッド』じゃねえかよ!」
一平太の興奮は最高潮に達していた。
しかし、その次に比呂が口にした言葉こそ、彼の期待と想定を大きく外れた物だったのだ。
「いやいやいや!……そうじゃない、それとも違う……『頭部』はあるんだ……でも僕は見れなかった……そうだよ……あいつは、被っていたんだ。白い……白っぽい……そうだ、あいつは『袋』を頭からすっぽり被ってた……両目の所だけ小さく穴が二つ開いている、スーパーのレジ袋みたいなものを被ってたんだ……」
☆ ☆
(そうだ……あの男は、家族だ……きっと同居している兄に違いない……)
(彼女に男がいるなんて……そんなことがあるはずが無い……)
(そうだ……あの男は、家族だ……きっと同居している兄に違いない……)
(彼女に男がいるなんて……そんなことがあるはずが無い……)
(そうだ……あの男は、家族だ……きっと同居している兄に違いない……)
(彼女に男がいるなんて……そんなことがあるはずが無い……)
PCに向かい、課題となっているレポートを作成している最中も、タナベの頭の片隅には、同じ言葉が延々とリフレインしていた。
どうにかして振り払おうとすればするほど、あのポニーテールの少女の影は、意識の端に、甘美な悪夢のようにちらつくのだ。
ネットで検索したページを丸写しして、何とかそれらしいレポートをでっちあげようとしてみるが、内容と無関係の焦燥が心に渦巻いて、全く頭が働かない。
目覚ましを見ると、時間は午後十一時。このままでは神経が持たない。レポートの提出期限は少し先なのだから、普段よりは早いが、もう寝てしまおうとタナベは思った。
レポートのファイルを閉じ、続いてPCをシャットダウンした。
液晶モニターの画面が暗転したのと、ほぼ同時の事だった。
隣の部屋の方向から、玄関のドアを開け、そして締める音が響いて来た。
壁を通しているので、ごく小さい音だったが、それは過敏になっているタナベの鼓膜を鋭く突いた。
それに続き、チャイムがタナベの部屋に鳴り響いた。
(何だ……?)
ほどなくして、再度チャイムの音がした。
ようやくタナベは、それが自分の室内で鳴っていることを理解した。つまり、至極当然のことではあるが、これは誰かが自分の部屋の玄関のブザーを押していることを意味しているのだ。
タナベは椅子から立ち上がると、ふらふらと泥酔者のような足取りで、玄関に向かって歩いて行った。
その過程で、三度目のチャイムの音が鳴り響く。
タナベは玄関に着いた。ドアスコープを覗くこともなく、何の躊躇も無く、鍵を開錠しノブをひねった。
扉を外側に開け放つと、蝶番が軋む音と共に、玄関と外の通路が一続きの空間となった。
薄闇の中、おぼろな照明をまとって、あの少女が立っていた。
夕方に見かけた時と同じく、セーラー服を着ている。
左手で紙の手提げ袋を持ち、右手は背中の後ろに回している。
ポニーテールの髪型も、背丈も、顔立ちも、疑いようも無くあの少女だ。
タナベは、自分は夢を見ているのかと疑った。
たった二回、それも窓の隙間から一瞬しか見たことのなかった彼女が、彼が求めて止まなかった彼女が目の前にいる……
それも、真正面からタナベの顔を見据え、たおやかな笑顔をたたえて。
一瞬の、しかし永遠にも感じられる静謐が、タナベの世界を停止させた。
「ええと……」
それを打ち破らんとして、タナベはどんな言葉でもいいから口にしようとしたが、
「私、隣に住んでいる者です。昨日引っ越してこられた方ですよね。つまらない物ですが、これを……」
彼女の方からそう言って、左手で持っていた紙袋をすっと前方に差し出した。右手は背中に回した状態のままで、どこかちぐはぐな動作だった。
タナベもまた、からくり人形のように、ぎこちなくその袋を右手で受け取った。
手提げ紐にかけた指に、袋の重量が食い込む。その肉体的感覚によって、タナベはようやく、目の前の光景が現実世界で起こっている物だと実感できた。
その直後……
(キチ……)
前方から、かすかな異音がした。
タナベの心の片隅で、にわかに不穏な波紋が起こる。
「ええと……わざわざご丁寧に……気を使っていただいて有難うございます……」
それを糊塗するように、通り一遍の社交辞令がタナベの口を突いて出た。
少女は、朗らかな表情を崩さないままで、それに応える。
「いえ、どういたしまして。これからもよろしくお願いします」
(キチキチ……)
再び音がした。
チリチリと、妙に耳に障る、金属的な響きを持った音だ。
ようやくタナベは気が付いた。それは、少女が背中に回したまま、一度も見せていない右手の辺りから、聞こえてくることを。
「ええと、私はタナベと申しますが……失礼ですが、お名前は……」
「え? 私ですか? 私は、タテシマ カコと申します……」
「カ……カコさんですか……」
(キチキチキチキチキチ……)
そしてまた、タナベは気が付いた。一見穏やかに映る少女の笑顔は、全てが口元だけで形作られている。顔の造形のそれ以外の部分、特に目元は、まるで石膏像にも似て無表情なのだ。
そして、表面上は丁寧な言葉にも、淑やかな声色にも、生気が全く感じ取れない。
全てが、プラスティックで出来た造花のように、まがい物なのだ。
「それでは……失礼いたします……」
少女は、最後まで右手を背中に回したまま、左手だけを使ってドアを閉めた。
窓の曇りガラスを通して、少女のシルエットがするりと横切るのが見えた。続いて、隣の玄関のドアが開けられる音、そして閉められる音が響いてくる。
その後にやって来たのは、完全なる静寂だった。
タナベは、悄然と直立したまま、真っ暗な玄関に一人取り残されていた。
しばらくして、ふと我に返り、茫漠な胸騒ぎを抱え込んだまま、キッチンに戻った。
照明のスイッチの紐を引くと、室内がチカチカと明るく照らされる。少女から渡された手提げ袋をテーブルの上に置き、中に入っている物を取り出してみた。
それは特に変哲もない和菓子の折詰のようだった。紙袋にも包装紙にも「清悠堂」と印刷されてある。鎌倉でも有名な老舗和菓子店だ。
早速、箱を裏返して紙の包装を外そうとしたのだが……
(ん……?)
タナベは、たまたま気が付いた、とある事実に小さなひっかかりを覚えた。包装紙に張ってあるテープの周りが、明らかに少し破れているのだ。そこに爪を立てて少しずつ剥がしてみると、その疑惑はすぐに確信に変わった。
やはり、そうだ。
間違いなく、その包装紙は「一度ほどかれた後で包み直されている」のだ。
(なんだ……?)
紙をほどこうとするタナベの指の動きがピタリと止まってしまった。彼の直観が、その中身を見ることを妨げている。
しかし同時に、それを根拠のない怖れだと否定したいもう一つの願望も、タナベの中には存在していた。
縮み上がる心に鞭を打ち、努めて何も考えずに、包装紙を一気に取り払ったが……
「うあっ!」
直後、タナベは身をのけぞらせ、かすれた声を吐き出した。
中から出て来たのは、「雪ノ下」という商品名の、着物を着た日本美人のイラストで有名な、もなかの箱だった。
ただ一つの点を除けば、それは全く正常な和菓子の箱に過ぎなかった。
日本美人のイラストの「頭部」だけが、刃物で四角形に切り取られていることを除いては……
(何だ……? これは……?)
タナベは、小刻みに震える手で、恐る恐る上箱を持ち上げて開けてみた。
果たして、露わになった物は、仕切りによって整然と並べられた、合計二十個の、個別包装された菓子群だった。
それぞれの包装紙には、外箱と同じ着物美人のイラストが印刷されている。
そして、それらもまた、首から上の部分だけが、一つ残らず鋭利な四角形に切り取られていた。
☆ ☆
壁掛け時計を見ると、時刻は五時四十五分だった。
いつもよりもかなり早めに、登校の準備が終わってしまった。理由は判っている。全く食欲が無いので、ヨーグルトと果物だけで朝食を済ませたからだ。
佳子は、身支度を済ませた自分を改めて姿見で確認した。ほんの二日間で、随分とやつれたように見える。きっと、体重も減っていることだろう。増えるよりはいいのかもしれないが、こんな形で急に痩せることを望んではいなかった。
そう言えば、今日までの物理の宿題は済ませたのだろうか。ふと不安になって、カバンを開け、提出用のノートを取り出してみると、やはり終わっていた。昨晩、夕食を食べた後で机に向かったことを、ようやくはっきりと思い出した。
どうかしている。
自分がいつ何をしたのか、記憶すら曖昧になっているようだ。
時計を再び確認する。比呂はまだ来てくれないのだろうか。
特に、昨日の「定例会」以降、常に正体の見えない敵の存在に脅かされているように感じられて、一時たりとも心が休まる暇が無いのだ。
こんな状態なのに、昨日部屋の前で別れて以来、比呂は一通のメールも送ってくれないし、こちらが支度を終えているのに、一刻も早く迎えに来てはくれない。
もちろん、それが全く手前勝手な考えだと判っていながらも、佳子は彼に対して苛立たしさを感じてしまうのだ。
チャイムの音が鳴った。
カバンと燃えるゴミをたんまりと詰め込んだ七十リットル入りのゴミ袋を持って、玄関に向かった。念の為ドアスコープを覗くと、やはり比呂だった。
ようやく半日ぶりに訪れた安堵感と共にドアを開く。それまで巣食っていた不安を務めて表に出さないように、空元気を出して「お早う」と言った。
比呂も「お早う」と言い返すと、何も言わずに佳子が持っていたゴミ袋を左手で掴んで取り上げた。
「あ、いいの?」
と思わず佳子が言うと。比呂は、
「うん」
とだけ答えて、さっさと廊下を歩いて行ってしまった。慌てて佳子はその後をついて行った。
本来なら、自分のことは何でも自分で処理するという自分のポリシーに従い、「大丈夫、自分で持つから」と言うべきだったのだ。しかし、今日の佳子は、比呂のさりげない優しさに甘えてしまった。佳子は軽快な足取りで比呂を追いかけて、いつになく広く見える比呂の背中を追い越して行った。
その直前、今日も比呂が、隙間が少しだけ開いた「隣の部屋」の窓の方を一瞥していたことを、佳子は見逃さなかった。
佳子が見る限り、暗い部屋の内部に人の気配は無さそうだったが。
☆ ☆
この日も、佳子の朝練の力の入り具合は異常だった。元々彼女はバスケ部でも一、二を争う練習熱心な部員だったが、この二日間は、とりわけ基礎トレを中心に、他の部員が目を丸くするほどハードな練習を行った。その理由は、佳子本人だけは自覚していた。
とにかく身体を動かして汗をかき、血流を激しくすることによって、自分を脅かしている不安を紛らわせようとしているのだ。
結局、始業時間に間に合うギリギリの時間まで練習は続いた。制服に着替えて教室に向かう時には、階段を昇る足も重く感じられるほど、疲労困ぱいになっていた。
「あ、お早う佳子! ずいぶん遅いね」
「あ、お早う! ギリギリまで自主練してたから」
しかし、それはまた心地良い疲労でもあった。屈託なく挨拶の声をかけてくれる友人達の笑顔がまぶしい。運動のおかげで、この数日間の気味の悪い事件の事を忘れられ、本来の自分に戻れたように感じた。
自分の席に座ると、カバンを開け一時間目の歴史の教科書とノートとペンケースを取り出した。あとは歴史の資料集だ。こちらは、学校に置きっぱなしにしてある「待機組」なので、机の中に手を入れた。数冊の本をまとめてつかみ、半分ほど引き出した所で、佳子は小さな異変に気が付いた。
一番上の本の上に、紙が一枚乗っている。
普段、佳子は机の中には決してプリント類は入れないから、どんな物であれ、一枚物の紙が机の中に入っているはずはないのだが……
「キャアアアアッ!」
突然、佳子が金切り声を上げて、椅子から飛び上がった。既に登校しているクラスメート全員の視線が、一斉に佳子へ集中した。
数人の女子生徒が、何事かと佳子の傍にかけよった。
「どうしたの佳子!」
「何かあったの?」
わなわなと震える右手で、床に落ちた紙切れを指さしながら、涙声で佳子は叫んだ。
「あ、あれ……あれが机の中に……!」
周囲を取り囲んだ生徒たちが、彼女の指先が向かう先へと視線を移した。
「キャアアアアッ!」
「ウアアアアッ!」
男子と女子達の悲鳴が混じり合って教室内に轟いた。
彼らは、それが「どのような物か」を瞬時に理解した。しかし、それが「意味する」所は、誰一人理解できなかった。全く意味不明の物体だった。
床に落ちているのは、社会科の資料集の中の一ページを切り取った物だった。そこには、興福寺の阿修羅像をはじめとする日本の文化財の写真と、それについての解説が印刷されていた。
ただし、それらの仏像は、全て「頭部」の部分が無くなっていた。鋭利な刃物で、綺麗な長方形に切り取られていたのだった。それらの写真は、まるで「首なし地蔵」のようにも見えた。
「な、なんだよ、これ! やべえよっ!」
「気持ちわりいっ!」
たちまち、クラスは軽いパニック状態となった。本来ならば、同じ事が起こったとしても、これほどまでの騒ぎにはならなかったであろう。
しかし、このクラスは、既に他の幾つかの奇妙な事件に見舞われていた。佳子の制服が更衣室から盗まれ、菅原が階段から転落して半狂乱になり、アキラが完全に行方不明となっているのだ。クラスメート全員に、漠然とした恐怖と不安の影が降りていた所へ持ってきて、この事件が起こった。
さらに言えば、大半の生徒は「V.H.」を読み終わっていた。被害者の首を斬る殺人鬼が出没するホラー小説の内容と、頭部を切り取られた仏像の写真は、否が応でもオーバーラップした。恐怖が恐怖を誘引し、全員が恐慌状態となったのも無理からぬことだった。
「ちょ……ちょっと待って! 誰よ、こんないたずらしたの! これ、資料集のページでしょ?」
女子の中でもリーダー格の吉村が、事態の収拾役を買って出た。普段から何事にも動じない彼女は、声に多少の高揚がにじみ出てはいるが、他の女子に比べれば遥かに冷静だった。吉村は一切躊躇せずに、床に手を伸ばしてページを拾い上げた。
「何よ、こんな物ただの紙切れじゃない。佳子、これってあなたの資料集のページ?」
「え?」
自分の席から離れ、すっかり縮み上がっていた佳子は、吉村から言われて、初めてその可能性に思い至った。
恐る恐る机に近づくと、手を伸ばして資料集を取り出した。ぺらぺらとページをめくり、すぐに同じ写真が印刷されたページを見つけると、みなに開いて見せた。当然だが、百済観音像も阿修羅像も、頭部が切り取られてはいなかった。
「違うみたい……」
「じゃあ、誰のページだよ! みんな資料集開いてみろ。三四ページだ!」
突然、横から口を出したのは一平太だった。
「次の時間は歴史なんだから、みんな手元にあるだろ? 早く開けよ! 重要な事なんだから」
彼の場合は、吉村のように冷静でも、他の生徒のように怯えているわけでもなかった。むしろ、この非常事態に心底興奮しているのだ。一平太の剣幕につられて、男子も女子も、みなが資料集の該当ページを開いていった。吉村がそれを端から確認していくと、ページが切り取られた本は一冊も無いことがすぐに判った。
「じゃあ……どういうことなの……?」
吉村は途方に暮れたような口調で、佳子の顔を見やりながら言った。
それを受けて、少しは冷静さを取り戻した佳子は、
「他のクラスの人の本から切り取ったってこと?」
と、至極当然の分析をした。
しかし、一平太はそれを待ち構えていたかのように、得心した表情で二人が見落としているファクターを指摘した。
「いや、待てよ。大事なことを忘れてるぞ。アキラは行方不明だ。それから昨日の転落事故で骨折した菅原は入院してる。二人の資料集は見てないだろ」
「あ……」
佳子は思わず両目を大きく見開いた。
「あと、気が付いてるか? まだ、桐谷が来てない」
「え?……」
佳子は、そのように言われて反射的に教室内を見回した。ホラー四天王の一人であり、昨日菅原の事故現場に居合わせた桐谷の姿は教室内には見当たらず、彼の机にカバンはかかっていなかった。
正義感の強い吉村は、苛立ちを隠すことなく声を張り上げた。
「まずは先生に報告した方がいいわ! いたずらにしても、悪趣味すぎるわ!」
「ちょ……ちょっと待ってくれ! それは一日待ってくれ! 俺に考えがある」
一平太は、常識的な吉村の発案を制した。今の彼の頭脳は、シャーロックホームズか金田一耕助のごとく、猛烈な勢いで回転しているのだった。佳子の顔を見やりながら、一平太は切羽詰まったような、しかし嬉しさを隠しきれない表情で言った。
「先ずは、由利姉ちゃんにこれを見せてみる。何か判るかもしれないからな。吉村さん、先生に報告するのは、その後にしてくれないか?」
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