第3話「隣人」


 一時限目の終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。

 比呂にとって、只でさえ苦手な英語の授業だった上に、朝の事件の余波が頭の中でグラグラと渦巻いていて、まるで身に入らなかった。

 あの後、比呂が菅原の様子を見ている間に、桐谷は保健の先生を呼びに行った。

結果、菅原は骨折の疑いがあるということで、救急車が呼ばれる事態となった。頭部を打っている可能性もあるから、恐らくは検査のために入院することになるのだろう。

 一体、菅原の身に何が起こったのだろう。授業中、何度となく同じ問いを繰り返した。

 直前に自分が幻視した、あの光景に何か関係があるのだろうか。何者かが廊下を走り、階段を昇って来る菅原に肉薄していく一人称の映像。そして、驚愕する菅原。

 あれが、校舎内の別の場所で実際に起こったことを、リアルタイムに垣間見たビジョンだとすれば……あの直後、菅原が階段から転げ落ちたのだとすれば……

 菅原は一体何を見たのだろうか。

 そして彼が口にした「カッター」とは……

 いくら考えた所で、手掛かりは全くつかめないのだが。

 メールをチェックしようとして、ポケットからスマホを取り出そうとしたら、右の方向から、聞きなれた声が飛び込んで来た。

「おい比呂! 大変だ! 知ってたか?」

 最初の一声を聞いた瞬間に、軽く寒気がした。明らかに、一平太が興奮した時の独特のトーンだ。こういう時は、どういう形であるにせよ、間違いなくその後でろくな事態にならないことを、比呂は経験で知っていた。

 声の方向を向くと、ただでさえアクの強い顔を一層たぎらせて、一平太がずかずかと大股で教室内に入り込んで来た。

「アキラが行方不明らしいんだよ! 家族から捜索願が出されたらしい!」

「え……?」

 悪い予感が当たった。

「ええと……」

 そこまで言ったものの、一体何を質問するべきなのか判らず、その後の言葉がすぐには出てこなかった。それほどまでに、一平太が持ってきた情報の破壊力は大きかった。

「ええと……それは、家に帰ってないってこと?」

「そうなんだよ! 昨日あいつは登校してなかったんだけど、その時からいなくなってるんだよ! 携帯の電源も切られてるらしい!」

「昨日……から……?」

「そうなんだ。あいつ、『心霊スポット』とかに行って、親に無断でそのまま野宿するなんてこともしょっちゅうらしいから、今回もそういうことかもしれないんだけど……お前何か知ってないのか?」

「ちょ……何で僕なんだよ!」

「だってお前、朝の菅原の事故現場に居合わせたんだろ? その時のことも詳しく聞かせろよ!」

「え、え……? 何でそれが出てくるんだよ! だって、あの事故はアキラの行方不明とは全く関係ないだろ!」

 頭がくらくらした。一平太独特の、何から何がどう繋がっているのか、まるで分らない「超思考」が始まったらしい。

「関係ない訳ないだろ! 昨日は佳子の制服が盗まれて、アキラが行方不明になって、今日は菅原が階段から転落して半狂乱になった! これが偶然だっていうのか?」

 比呂は言葉に詰まった。確かにそのように列挙されれば、幾らなんでも物騒な事件が続き過ぎていると感じざるを得なかった。

「で、どうなんだよ! 菅原の事故の時に、何か妙なことは起こってなかったのか?」

「そ……そう言えば……」

「そう言えば?」

「菅原は妙な事を叫んでた。カッターがどうのとか……」

「カッタアアアア? 何だそりゃあああ!」

 一平太が余りに大きな声で叫んだので、教室内の生徒が一斉に二人の方へ振り向いた。一平太はまるで意に介していないが、比呂の方が赤面してしまった。

「い……いや……判らない……それっきり意味のあることはしゃべらなかったよ」

 思わず口が滑った。とんでもないミステイクをしてしまったと比呂は思った。一平太の奴に、「極上の餌」を与えてしまったのだ。

「で? 他には何か?」

「いや……それだけだよ。足を抑えて呻いてただけで。単に、階段で足を滑らせて転落しただけだろ?」

 比呂は、慌てて「火消し」にかかった。とにかく、何でもかんでも怪奇現象として曲解し、結びつけたがる一平太の興奮を鎮めなければならない。

 その時、比呂に助け船を出すように、二時限目の開始を告げるチャイムが鳴った。流石の一平太もしぶしぶA組へと退散していった。

 とりあえず、鬱陶しいオカルト馬鹿から解放されて、比呂はひと息つくことができた。

 しかし、懸案事項が無くなったわけではない。むやみに一平太に騒がれたくないのは確かだが、漠然とした不安を感じているのは比呂も同じ事だった。

 そして、最も気になるのは、この事態において、事件の当事者の一人である佳子が、今何を感じているのかだった。


☆               ☆


 アキラが失踪していることを担任が告げた時、二年A組の教室内には、重いどよめきが起こった。その一部には、佳子が思わず息を飲む声も混ざっていた。

 菅原の転落事故に続いて、さらなる事件が起こった。

 佳子の握りしめた両手の平の中に、脂汗が滲んだ。昨日から漠然と抱いていた不安感が、この情報によって更に増幅してしまった。

 思い返せば、昨日アキラが欠席していると知った時から、かすかな胸騒ぎを覚えていたのかもしれない。しかし、まさか失踪しているとは……

 一時限目が終わると、一平太は比呂に会うために教室を飛び出していったが、二時限目の始業のチャイムが鳴った後で、やけに興奮して帰って来た。その様子から見るに、何かしら収穫があったのだろうと佳子は感じた。

 二時限目が終わると、一平太はその前のハイテンションそのままに、今日は放課後に「定例会」を開こうと佳子に提案してきた。ここで言う「定例会」とは、一平太と彼の友人達で行うオカルト談義、怪談会のことである。水曜日は、本来なら部活があるので、佳子は参加出来ない曜日だ。しかし、今日という今日は一平太の提案は渡りに船だった。この状態で一人きりで帰宅するのは、余りにも不安だった。体調不良を理由に部活を休んで、比呂と共に「定例会」に参加すれば、そのまま自然に家まで比呂に付き添ってもらうことが出来るだろう。

 これまでの佳子にとって、比呂は同年齢であるものの、きっと弟のような存在であったのだ。そのせいか、彼に対して弱気な一面を見せることには、多少なりとも抵抗を覚えるのだ。

 そして、放課後。

 佳子と一平太は校門近くのバス停で比呂と待ち合わせをして、「大船」駅行きのバスに一緒に乗った。一平太と比呂の帰路は大船駅から先は別々になるため、いつも駅前のファーストフード店を「定例会」の会場にしているのだ。

 店に着くと、いつも指定席のようにしている道路に面したテーブルに三人は陣取った。佳子の真正面に席に座った一平太は、Lサイズのコーラをストローで一気に飲み干すと、早速本題に入った。

「で、改めて説明してもらおうか、比呂。その時の状況を!」

「せ……説明なんて、別にすることないよ!」

 佳子の隣の席に座っている比呂が、投げやり気味に言った。半ば無理矢理に定例会に引っ張り出されたことが不満なのだろう。

「いいや、そんなことないだろ! 何が起こったのか、どういう行動取ったのか、単純に説明すればいいんだよ」

「う~ん……」

 手にしたストレートのアイスティーを一口飲みこんでから、比呂は菅原の事故に居合わせた時の状況をしぶしぶ説明し始めた。

 佳子に付き合って早朝から登校したこと。教室内で小説を読み終わった事。その後で悲鳴が聞こえ、駆けつけたら菅原が倒れていたこと…… 比呂の口調はいつにもまして淡々としていて、本当に単純な事実関係を語っただけだった。

 佳子は、内心で胸をなでおろしていた。アキラの失踪の件もそうだが、菅原の転落事故を知った時にも、佳子は言い知れぬ不安を覚えた。また、他でもない比呂がその現場に居合わせていたという事実が、どういうわけかそれに拍車をかけているようだった。

 しかし、比呂が語ったことの中身には、何ら不審な情報が無かった。単に、菅原が足を滑らせて階段から落ちただけの事故であるなら、佳子が過剰な恐れを抱く必要は無いのだ。

 ところが、一平太は次なる一言で、そんな希望的観測をいとも簡単に覆してしまった。

「で……菅原が『カッター』って叫んでたっていうのは?」

「え……!」

 比呂よりも先に、佳子が声を上げた。

「い……いや、叫んでたってのは間違いだよ。普通の声でそんなことを呻いてたってだけで。それだけのことだよ……」

「いいや、それおかしいだろ! 何で、そのシチュエーションで、そんなことを言うんだよ! どう考えたっておかしいだろ!」

 比呂の弁明ごときで口をつむぐ一平太では無い。彼の追及の刃は一段と鋭くなった。

「いや……そんなこと判らないけど、多分、菅原は錯乱してただけじゃないかな?」

 比呂の僅かに乱れた口調の奥に、動揺の色が見え隠れしていた。

 佳子は確信した。比呂は「何かを隠している」と。

 カップに注がれたホットのストレートティーを一口飲んだものの、佳子の胸の内には、逆に悪寒がじわじわと広がっていた。

「あ? どうした佳子。変な顔して?」

 妙な所で勘が鋭い一平太は、佳子の顔色の変化を見落とさなかった。

「え? べ、別に。なんだか、気持ち悪いなって思っただけだけど……」

「だろだろだろ? おかしいと思うだろ?」

 そう言うと、一平太はそそくさと席を立って、カウンターに追加のオーダーを取りに行った。しばらくすると、二杯目のコーラLサイズとアップルパイを手に持って席に帰って来た。こんな調子だから、彼は適正体重をギリギリでオーバーしてしまっているのだ。

「だから、この一連の事件は偶然に起こったわけじゃないんだよ! 何か、とんでもない事が起こってるんだよ!」

 一平太のテンションは明らかに上がっていた。佳子の直前の発言が彼の妄想にお墨付きを与え、拍車をかけてしまったのだろう。

「ち、違うよ。単なる偶然だよ。だって、それぞれの事件の中身には、全然関連性が無いじゃないか」

 比呂は、あくまでも一平太の見解に抵抗した。彼は、オカルトには全く興味を持っていないにも関わらず、人の提案を断ることが出来ない性格が災いして、無理矢理定例会に付き合わされている「常連メンバー」なのだ。こうして、一平太のオカルト的解釈を否定するのは、比呂のせめてもの抵抗だった。

「何言ってんだよ。昨日は佳子が『バリアント・ヘッド』を読み終わった日だったろ」

「あ……」

 比呂はそれきり言葉に詰まった。彼が、その事実を見落としていたことは明らかだった。

「佳子は、その日に制服を盗まれたんだぞ。そして、作者であるアキラが失踪した。関連性は大有りだろ?」

「で、でも菅原が転落した事故は? あれは、全く関連が無いだろ?」

「しかし、ただの事故じゃないぞ。単に転落したなら、なんで『カッター』なんて口にするんだよ。菅原は半狂乱だったんだろ? 菅原の身には何かが起こったんだよ!」

「で……でも、それがおかしいとしても、少なくとも『バリアント・ヘッド』の内容に『カッター』は全く関係ないじゃないか。そんな単語は一回も出てこないだろ? ペータも読んだから覚えてるだろうけど」

「まあ……な。それはそうだけど、まだ判らないぞ~ 単にパズルのピースが揃っていないだけだから、関連が無いように見えるだけだと俺は思ってるんだよ」

 佳子は両手で、アールグレイが注がれたティーカップを包み込んだ。手の平だけは熱くなったが、身体の内部でどんどん怖気が増幅しているのを感じる。

 それは、「カッター」という単語を耳にした直後からだ。

 一平太が知らないだけで、確かに少なくとも一つの「関連」はあるのだ。


(カッター……?)


 昨日の朝、徹夜で「バリアント・ヘッド」を読み終わってから家を出ようとした時、頭の中に突然響いた「キチキチキチキチ……」という音。

 あれは、ひょっとすると「カッターナイフ」の刃を押し出した時の金属音だったのではなかったか?

 佳子は、その「音」の事を余程一平太に告げようかと思ったが、結局それは出来なかった。より飛躍した、より恐ろしい仮説を一平太が提示することが怖ろしかったのだ。

 その時、机の上に置いてある一平太のスマホがビリビリと振動し、メールを着信したことを告げた。

「あ、由利姉ちゃんからだ。どれどれ」

 一平太は、スマホを手に取ると、メールの内容を確認した。

「……ええと、今日は来れないってさ。残念だな~ 姉ちゃんも興味津々だったのにな」

 「由利姉ちゃん」とは、楠木由利という一平太の従姉で、鎌倉文化大学に通う女子学生だ。彼女もまた、強力な霊感の持ち主であり、何と将来はプロの霊能力者を目指しているらしい。オカルトとの関わりの深さという点では、趣味の領域を超えており、ある意味一平太の上を行っているのだ。

 彼女もまた、「定例会」の準レギュラーで、今回の件については、既に一平太から一通りの事情をメールで知らされているらしかった。

 結局、その後の「定例会」は、一平太が仕入れた新作の怪談独演会となって終わった。

 解散後、一平太はJRで横浜方面に帰ったが、比呂と佳子は一緒に「大船」駅からモノレールに乗り、「湘南深沢」駅で下車した。二人にとっては、普段通りの帰路だ。

 ホームから階段を下りる途中、そこから先も帰路を共にして欲しいと比呂に頼むべきかどうか、佳子は逡巡した。比呂の普段の帰り道は、駅を降りた後は佳子とは正反対の方向だからだ。

 しかし、駅の外に出ると、比呂は何も言わずに、佳子のマンションへと向かう北の道をスタスタと進んでいった。

 佳子は少し足を速めて、比呂を追い越して行った。前方には殆ど通行人がおらず、少し後ろから、比呂が佳子の背後を守るように付いてくる形となった。

 佳子の冷え切った胸の内から、心地よい温もりがこみ上げて来た。彼が、自分が望むことを察してくれたことが嬉しかったのだ。

 やがて、二人は「サンフラワーマンション」に到着し、玄関ホールを横切った。佳子がボタンを押し、エレベーターのドアを開けると、二人はかごの中に乗り込んだ。

 五階まで昇ってエレベーターは停止し、扉が開いた。比呂が初めにエレベーターの外に出て、その直後に佳子も廊下に出て行った。

 前方を先導して歩いている比呂が、佳子の部屋の手前にある玄関ドアの前を通過する時の事だった。

 比呂の視線が、一瞬チラと横に流れた。それが向かう先には、ドアの隣にあるガラス窓があった。

 窓は曇りガラスがはまっていて、五センチほど開いていた。内側にはカーテンがかかっており、窓と同じ幅で隙間が空いていた。

 佳子は、彼の一見何気ない仕草に、かすかな、そして不穏な既視感を覚えた。

 その直後に、二人は佳子の家の玄関ドアに到着し、佳子がキーを差し込んで開錠した。

 ドアを開けると、

「ありがとう。ついて来てくれて」

 と、佳子は努めてさりげなく言った。比呂は、穏やかに微笑んで、

「うん」

 とだけ答えた。

 佳子がドアを閉めると比呂の姿は消えた。内側からドアの鍵をかけ、ドアチェーンもかけた。

 靴を脱ぎ、台所を通り抜けるころになって、ようやく、先ほど覚えた僅かな「既視感」の正体に思い当たった。

(そういえば……今朝登校する時にも……)

 比呂は、「隣に住んでいるのは、どういう人か」と聞いていたはずだ……

 あの時。そしてさっき……

 彼は一体「何を」気にしたのだろう……

 佳子は、小さく身震いをした。一度は納まっていたはずの、定例会の時に覚えた寒気が、ジワジワとぶり返しているようだった。


☆         ☆


 は、鎌倉文化大学に今年入学したばかりの大学一年生である。

 彼は群馬県出身だが、今月までは横浜市にあるマンションで一人暮らしをしていた。しかし、横浜の家賃の相場では、彼が望むような広さの部屋を借りることは困難だった。そこで、より大学にも近く、家賃も安く、部屋も広い物件は無い物かと思い、検索をかけてみた。そんな都合の良い話があるはずは無いと思いながら、駄目元で調べただけだったが、予想に反して「それ」は見つかった。

 最初、タナベは我が目を疑った。幾らなんでも家賃が安すぎる。何かの間違いかとも思った。しかし、不動産屋に問い合わせると、その家賃で全く正しいのだという。

 早速、タナベは引っ越しの手続きを取ることにした。大喜びで、友人などにその物件の事を触れ回ったが、同じく東京で一人暮らしをしている兄から、気になることを言われた。その家賃は、どう考えてもおかしい、「事故物件」に違いないというのだ。恥ずかしながら、タナベはこの時に初めて「事故物件」なる言葉を知った。更に、下手をするとその部屋は、幽霊が出現するなどで、短期間で次々に住人が引っ越していて、誰も借り手が無いから、ここまで家賃が安いのではないか、とまで兄は言い始めた。幽霊などという物を、生まれてこの方一度も信じたことの無いタナベにしてみれば、全くリアリティが無い話だった。

 しかし、兄にそこまで言われると、タナベも多少は気になってきたので、不動産屋に直接会って問い合わせることにした。まず、このマンションは他の部屋も同じ値段なのかと質問したら、そうではないという答だった。ならば、その部屋だけが格段に安い理由を追及すると、不動産屋は渋々これにも答えた。その部屋は、どういうわけか、住人が短期間で引っ越してしまうのだという。

 兄の推理が当たった形だ。しかし、怪談めいた騒動があるかどうかについては、頑なに「判らない」という答を繰り返すだけだった。そこで、タナベは単刀直入に、この部屋は「事故物件」なのかと聞いてみた。すると、不動産屋はあからさまに表情をひきつらせた。しかし、決して自殺者が出たとか、殺人事件が起こったことは無いと、少し上ずった声で断言したのだ。

 幽霊云々は信じないタナベだが、何らかの陰惨な事件が起こった部屋だとでもいうのなら、住むことに抵抗を感じたかもしれない。しかし、不動産屋の言葉を信じるならば、引っ越しを中止するという選択肢は無かった。何よりも、家賃の安さという魅力には抗しきれなかった。

 タナベは契約を済ませると、引っ越しの作業に取り掛かった。

 費用を節約するため、引っ越しトラックは兄のつてで借りることとなった。その関係で、家財道具を積んだトラックは、平日の夕刻に「サンフラワーマンション」に到着した。兄と友人達の手伝いもあって、夕食時には何とか作業の山を越えた。

タナベ達はコンビニで食料とビールを調達し、まだ片付けの終わっていない部屋で打ち上げを行った。その際に、裂きイカを噛みながら、タナベの兄がふとこんなことを口にした。

「そう言えば、そこの廊下に出た後で、凄く可愛い女の子とすれ違ったな~ あんな子と一緒のフロアなんてラッキーだな、お前」

 ただ、それだけのことだった。

 タナベは一応、

「同じフロアだってだけじゃ、出会いのきっかけにはならないよ」

 と、あえて興味なさげに答えたが、その言葉とは裏腹に、その情報はタナベの心を激しく揺り動かしていた。彼自身にとっても不思議なほどに。

 努めてさりげなく、その少女のことについて、さらなる情報を兄から聞きだしてみた。すると、髪型がポニーテールであること、ジャージを着ていたので女子高生であろうこと、一目見ただけでは、それ位のことしか判らないとのことだった。

 やがて打ち上げは終了し、兄と友人達は部屋を去って行ったが、タナベが一人で部屋に取り残された後も、その少女への思いは膨らむ一方だった。

 そして、それは疑いようも無く、恋愛感情の色を帯びていた。

 一目惚れどころではない。タナベは、一度も会わないうちから、同じ階に住んでいるらしい、名前も知らない「ポニーテールの美少女」に対する、熱烈なる幻想に取り憑かれてしまっていた。


(どんな娘なんだろう……一目でいいから見たい……)


(どんな娘なんだろう……一目でいいから見たい……)


(どんな娘なんだろう……一目でいいから見たい……)


 深夜、そんな思いをグラグラと焦がしながら、荷物の整理をしていた時の事だった。どこかで玄関のドアが開く音がした。続いて、廊下を誰かが歩いている気配がする。無意識のうちに、タナベの身体は玄関に向かっていた。ドアの横にある窓とカーテンを少し開いて、その人物を確かめようとした。しかし、既に住人は通り過ぎてしまったらしく、どんな人物だったかは判らなかった。

 その後も、同じようなことを何度か繰り返したが、サラリーマン風の男性の後姿が一度きり確認できただけで、問題の「ポニーテールの美少女」を見ることは叶わなかった。

 しかし、翌日の朝の事だった。再び玄関が開く音を聞きつけた。続いて、会話らしきものも聞こえてきた。丁度歯を磨いていたタナベは、慌てて玄関にかけつけ、外を覗いた。今回は、あらかじめ自分が覗けるように、窓に僅かな隙間を開けてスタンバイしておいたのだ。

 ほんの一瞬だけれども、見ることが出来た。セーラー服に身を包んだ、ポニーテールの少女だ。

 間違いない。兄が言っていたのは、あの彼女の事だったのだ。

 想像通り、いや想像以上に可愛かった。清楚で健康的な、いかにも育ちの良さそうな美少女だった。タナベにとって、それはある意味で誤算だった。彼女に対して抱いていた幻想は、実物を見ることによって、打ち砕かれるどころか、尚更膨張してしまった。

 そして、ドアが開く音は間違いなく隣から聞こえて来た。会話もすぐ隣の距離だった。

 つまり、彼女は「隣の部屋」に住んでいるのだ。

 よりによって「隣」に……

 しかし同時に、別の事実が思いもかけない形でタナベに衝撃を与えた。少女は、もう一人の若い男子と共に歩いていたのだ。

(誰だった……あれは……?)

 それ以来、通学途中も、食事をしている最中も、大学で講義を受けている時も、一秒たりとも少女と男子のことがタナベの頭から離れなかった。

 そして、夕刻。

 大学からマンションに帰って来て、食事の支度をしていた時の事だ。エレベーターが開く音が聞こえて来たので、再度急いで窓際に駆け寄った。

 今回も間に合った。

 すぐに顔を引っ込めたので、殆ど一瞬しか見えなかったが、またしても、あのポニーテールの少女だった。そして、あの男子も一緒だった。


(一体、あいつは誰なんだ……?)

(一体、あいつは誰なんだ……?)

(一体、あいつは誰なんだ……?)


 突然、爆発的な動悸が沸き起こった。その後を追うように、臓腑の奥から吐き気がせり上がって来た。

 実際に、タナベは足元がふらつき、危うく倒れそうになった。

(一体、どうしたんだ……俺は……?)


 タナベは、自分の精神状態が普通でないことを、おぼつかない理性の中でも自覚していた。これまでの短い人生において、何度も恋愛感情を抱いたことはあるし、高二の頃には短い期間ながら彼女がいたこともあった。しかし、あの少女に一目ぼれをしたとしても、身体がこんな状態になった事は一度も無かった。

 どう考えてもおかしい。

 動悸は一向に収まらず、嵐のような焦燥感が体内で渦巻いている。

 彼女の姿を見る度にこんな苦しい思いをするのでは、身体が持たない。できるだけ彼女の事を頭から排除した方がいい。タナベはリモコンを手にして、今日になってようやく配線をセットしたTVのスイッチを入れた。近所迷惑にならない範囲で、少し音声を大きめにした。これで、誰かが廊下を歩く音やドアが開く音に気付きにくくなるだろう。

 座椅子に座って、他愛もないバラエティー番組を見ているうちに、次第に動悸は収まっていった。しかし、頭の片隅に、あの少女の可憐な顔立ちが強固な残像となってこびりついている。

 そして、


(そうだ……あの男は、家族だ……きっと同居している兄に違いない……)

(彼女に男がいるなんて……そんなことがあるはずが無い……)

(そうだ……あの男は、家族だ……きっと同居している兄に違いない……)

(彼女に男がいるなんて……そんなことがあるはずが無い……)

(そうだ……あの男は、家族だ……きっと同居している兄に違いない……)

(彼女に男がいるなんて……そんなことがあるはずが無い……)

……

……


 食事を取っている時も、風呂に入っている時も、タナベはそんな自問自答を何百何千回と、頭の中でリフレインさせ続けた。

 それが異常なことだと自覚していながら、どうしても止めることが出来なかった。


☆                ☆


 散々迷った挙句、夕食はどんぶりに山盛りにした「トロロごはん」で済ますことにした。

 これは、食欲が湧かない時に時々作る、スペシャルメニューなのだ。それをさっさと平らげると、比呂は食器類をまとめて流しに持って行った。

 正直な話、何を食べたのか、さっぱり判らなかった。

 今朝の事故に出くわして以来、比呂の頭の中は一連の事件のことが一秒たりとも張り付いて離れないのだ。

 開けられた更衣室のドアの鍵。佳子の制服の盗難。小説の作者であるアキラの失踪。そして、菅原の転落事故。彼が叫んだ「カッター」という言葉。

 そして、一平太には黙っていたことだが、何より比呂自身の身にも、幾つも小さな異変が起こったのだ。

 「バリアント・ヘッド」を読み始めた時に聞いた「カッターの音」。その後に起こった「数十分間の記憶消失」。そして、菅原の転落の直前に見た「幻視」。

 一平太の言う通り、これらは「バリアント・ヘッド」を起点にした、一つの大きな怪異の構成要素なのだろうか。それぞれの中身を考えると、どう考えても、とりとめのない事件の集合体にしか思えないのだが。

 さらに、比呂にとっては、もう一つ気になる要素が加わった。

 佳子の隣の部屋に住んでいる住人だ。

 今朝、佳子の部屋を出て隣の部屋を通り過ぎる時に、少し開いた窓の隙間から、明らかに室内にいる誰かがこちらを伺っているように見えた。比呂が目を向けると、人影はすぐに姿を消してしまったので、どんな人物かは見えなかった。これが、その時一回だけの事だったら、気にする必要も無いのかもしれない。しかし、先ほど佳子とマンションに帰宅した時にも、人影が一瞬だけ窓の隙間に見えた気がしたのだ。

 一度ならず二度までも……

 比呂は背筋に冷たい物が走るのを感じた。余程、佳子に教えようとも思ったが、むやみに怖がらせるのもまずいと思い、あの時点では黙っておくことにした。そもそも、これは万事に過敏になっている比呂の勘違いかもしれないのだ。

 食器類を洗い終わると、それらを水切りトレイに並べ、夕食の手順はすべて終了した。

 その次のノルマは勉強だ。どんな奇怪な事件が起ころうと、最低限授業の課題だけはこなさないといけない。

 椅子に座ると、デスクトップパソコンの起動スイッチを押した。比呂は、宿題をする時に、判らない部分を検索で調べるために、常にパソコンを起動させておくことにしているのだ。起動音がカシャカシャと鳴る。画面が立ち上がるまでの間に、学生カバンから英語のテキストと課題ノートを取り出して机に広げた。

 間もなく、液晶モニターにデスクトップ画面が表示された。宿題をやる前に、一応メールソフトを開いて受信トレイを確認することにした。

 元々、比呂はネットでメッセージをやり取りする頻度が極端に少ない人間だ。スマホを使う時間が増えた今は、特にPCに送られるメールは、ほぼ皆無になったと言ってもよい。しかし、唯一父からの連絡事項は、大抵パソコンの方に送られるので、一日一回はチェックすることにしているのだ。

 数秒してから、メールソフトが開いた。

 「受信トレイ」に一通の未開封のメッセージが届いている。

 早速そのメールを開いてみた。

 画面は空白だった。

 何かのエラーが起こったのだろうか……

 そう思って、試しに一つ上にある父から受信したメールに移動すると、こちらは通常通り文面が表示された。

 すると、さっき開封したメールは、そもそも文字が打っていない、いわば「無言メール」だったのだろうか。

 再び、新着のメールに移動すると、やはり文面は空白だった。


(一体、どこからこんなメールが……)


 比呂は、まず、そんな当然の疑問を抱いた。

 差出人の表示はメアドになっているが……


 AKIRA0562 @ ……


 その「つづり」を読み取った刹那、電流のような衝撃が網膜を突き抜けた。


「何故……?」


 熱帯魚水槽が奏でる水流のかすかな音と重なって、比呂の虚ろな一言が、独りきりの室内に、やけに大きく響き渡った。

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