第2章 運命の日

 活力あふれる夏となり、実りの多い秋が過ぎ、厳しく苦しい冬を越して、穏やかで優しい春がくる。そうして季節は巡り続け、俺にとって六回目の春が来た。春に生まれた俺からすると、生まれて五年の月日が経ち、グリフォン生活六年目に突入することになる。


 体はずいぶん大きくなった。フォンよりは小さいが、それでもフォンを5とすると俺は4といったところだ。生まれた時の四倍は大きくなったと思う。俺の体は翼が特に強いようで、体の大きさの割に俺の翼はフォンよりも大きい。そのかわり、俺は超音波の扱いが少し下手だった。もっとも、フォンが巧みなだけかもしれないが。比較対象がフォンしかいないので、俺の成長の早さは妥当なのか、いまひとつなのか、それとも優れているのかはわからない。しかし、フォンは俺の成長を見ていつも満足そうにするし、何より着実に強くなっている実感があるので、遅かろうが早かろうが特に問題はなかった。


 少し前までそう思っていた。


 フォンと一緒に狩りに出るようになって四年。俺はフォンが大森林において重要な役割を果たしていることに気づいていた。この世界、この大森林でも食物連鎖は存在する。個体数は弱い小型の草食動物ほど多く、また強い大型の肉食動物は少ない。いわゆる生態ピラミッドができているのである。そして、フォンはこの生態ピラミッドを理解しているのだ。空中からの索敵によって個体数を把握し、羽兎が増えていると羽兎を、羽熊が増えていると羽熊を食べる。個体数のバランスがいいときにはバランスよく食べる。大森林全体の生物の数が少なくなると狩りを減らし、多くなると狩りを増やす。フォンは、食物連鎖の頂点に立つ者として、大森林の生態系を意図的に管理しているのだ。フォンが存在し、また大森林の環境が急激に変化しない限り、大森林の生命の連鎖は崩れない。


 もう一つ気づいたことがある。フォンはだんだん衰えている。おそらく、俺が生まれた直後から、衰えの勢いは次第に増している。このことに気づいたのはつい最近だ。きっかけは単純。超音波で羽熊を倒すのにかかる時間がわずかに、しかしはっきりとわかる程度に増えていた。それでもフォンとの模擬戦闘では一向に敵う気配はない。多少衰えようが、それを感じさせないほどの強さであったために、五年一緒にいたにも関わらず最近になってようやく気づいたのである。


 だからこそ俺は、一刻も早く力をつけ、模擬戦闘でなるべく全盛期に近い状態のフォンに勝ちたいと思うようになった。衰えて弱くなったフォンではなく、俺の憧れた強いフォンに勝ちたい。そうすれば、きっとフォンも安心して俺に大森林の管理者を継がせられるはずだ。最近はそのことばかり考えている。鍛錬の量も増やしたし、戦術も練りに練っている。今日もこれから狩りをして、そのあとはコツコツと二年間続けているフォン対策の特別訓練だ。


 今日の獲物を決めるために、大森林の上に広がる大空を徘徊する。大森林は広いが、今の俺なら大体一時間で全域の様子を調べられる。飛行速度はフォンより俺の方が早いが、フォンの方が超音波の精度や射程は上なので、時間的にはどっこいといったところだろう。飛行できるようになってから、大森林を出ることもちらりと考えはしたが、俺にはフォンという目標や大森林の管理者を継ぐという役割がある。俺とコミュニケーションをとれるフォンがいなくなれば、さすがに寂しさから大森林の外に足を運ぶこともあるかもしれないが、少なくともそれまでは大森林を出るつもりはなかった。


 今日も大森林の生態系に異常はなかった。羽狼が少し増えた気がするので、今日は羽狼を食べようか。大森林の端の方で、羽狼の群れが何かを襲っている。羽狼は食料不足に陥った時に限り、自分たちより強い生物――羽熊や子グリフォンなど――を襲う。自分より強い個体を襲えるのは、羽狼が集団での行動のメリットを生かせる、知能の高い生物だからである。もっとも、格上の生物相手の勝率は五分といったところで、勝利したとしても群れの数は大きく減ることになる。取り敢えず、群れの存続を賭けて大物に襲いかかっている羽狼たちは放っておくことにした。


 一度巣に戻ろうか、とその場から立ち去る…直前で違和感に気づいた。


(…あれ? 羽狼が襲ってるのは…羽熊じゃないな…?)


 まず、大きさが違う。小さすぎる。よくよく気をつけると、襲われているのは複数の生物だ。羽熊の成体は交尾以外で他の個体と一緒にすごすことはないし、子熊が相手なら羽狼が群れで襲撃するまでもない。おかしい。


 と、そこで俺はフォンが全速力でこの場に向かってきていることに気づいた。明らかに異常事態が起きている。超音波を使いながら目を凝らし、改めて様子を探る。


 襲われていたのは人間だった。


(この世界にも人間はいるのか…!)


 その可能性を考えないわけではなかったが。きっといないだろう、少なくともこんな大森林が手つかずの時点で文明レベルは大したことないはずだ、と思ってそれ以上考えるのをやめてしまっていた。


 フォンが遠くからこちらに向かってくるのを感じる。全身に殺気を漲らせて。

 我が大森林に足を踏み入れた余所者は決して生かして帰さん。

 この地に災いをもたらすことは決して許さん。

 フォンは間違いなくそう考えている。


 俺は、この手で人間の命を奪う覚悟ができないまま、とにかく現場に向かった。




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 汚い身なりで悪党面の屈強な男たちが、自分たちの快楽のために羽狼たちを虐殺している、というパターンが俺にとって最高の展開だった。そうすれば、俺は躊躇いなく人間どもをなぶり殺して無事本日の食事を確保し、かつ前世の記憶のせいで俺の心に残っている人間という生物への未練も捨て去ることができるはずだった。


 最初に目に入ったのは子どもだった。十歳前後だろうか。きれいなエメラルドグリーンの髪は、坊主と言う程ではないが短く切りそろえられている。弓矢で羽狼の動きを牽制しつつ、質のよさそうな短剣を逆手にもって油断なく構えていた。服装は身軽で、革製の胸当てや小手などを身に着けている。


 次に、白髪の老人が目に入った。一本の剣を両手持ちで構えており、腰には剣をもう一本佩いている。羽狼は数で押そうとしたようだが、どうやら老人の射程に入った瞬間に次々と切り捨てられたらしく、老人の周りには片手に収まらない数の死体と折れた剣が一本転がっていた。革製の鎧を身に着けている。


 さらに、妙な生物が目に入った。二人の身を守るようにして構えているのは、なんと翼のない狼だった。翼がないなんて…と思ったが。よく考えてみれば狼にはもともと翼はなかった気がする。ただ、その狼には翼はないが、やはり前世の知識に対してどこかおかしい。

 翼と羽毛が無い代わりに鱗がある。鱗は全身にまばらについているが、しっかり覆われているのは脚と、それから尻尾だ。特に尻尾は形から違う。尻尾はロープのような細さで、胴体と同じくらいの長さだ。尻尾の先には大きな棘がついており、血が滴っている様子をみると、尻尾はこの狼の強力な武器のようだ。体も羽狼より二回りは大きい。


 人間たちは羽狼の猛攻をひとまずはしのぎ切ったようで、状況は膠着していた。


 結局、俺はどうしたいのか、どうすべきなのか、何も決められなかった。しかし、悩んでいる時間は残されていない。


(とりあえず…姿を見せてから様子見してみるか…?)


 殺気や敵意を感じさせないように、身構えることなく、俺はゆっくりと人間たちの目の前に降り立った。

 人間たちも、そして羽狼も唖然としている。


 最初に動いたのは羽狼の群れのボスだった。羽狼のボスがワオン、と鋭く吠えると、羽狼たちは一斉に撤収していった。

 俺に戦う気がないことが伝わっているなら、これで人間たちを脅かす生物はいなくなった。人間たちに戦う理由がなくなったわけだ。

 人間たちが、この大森林に二匹しかいない、グリフォンという貴重な生物の命を奪いにきたわけではないのなら。俺だって、決してその可能性を考えていないわけではない。人間との交流の可能性に希望を持ちたいだけで。


 人間たちは、こちらの様子をうかがいながら相談を始めた。声は聞こえてくるが…やはり何を話しているかはわからない。まあ日本語ではないことは予想していた。英語や、中国語や、少なくとも前世の世界にあった言語ではないだろうということもわかった。


(人間がいるとは思わなかったが…やはりここは別の世界に間違いないな)


 不意打ちを食らう可能性はあったが、それでもいい。攻撃はおろか防御の意思すら持っていないことを示したい。ここは殺気や敵意を感じさせないことに専念する。羽狼との戦闘の様子を見る限り、一瞬で俺を戦闘不能にさせる手段はないはずだ。そうでもなければ不用意に姿を現したりはしない。

 …切り札を隠していたりしないよな? とふと思ったが、もう手遅れだ。正直に言うと、人恋しさで飛び出した部分は大きいので不用意であったことは否めない。


 俺の様子をうかがいながら相談をしていた二人だが、だんだんと語気が熱を帯びていき、ついには俺から完全に目を離して言い争いを始めた。狼だけはしっかりとこちらを警戒している。


(どんな選択肢で迷ってるんだ…? この反応からして崇める、はもう考えられないし、かといって攻撃にしても逃げるにしてももう遅いだろう。言葉は通じないわけで…うーん、やっぱり子どもとか老人とかを殺したくはないし、逃げてくれれば追わないつもりだったけど…。俺やフォンを殺せるなら殺したい、って思ってるようなら、今ここで殺しといた方がいいよなあ…。)


 事ここに至ってもなお踏ん切りがつかない俺。驚くべき決断力のなさ。あと何度死にかければこの甘さは改善されるのだろうか。


(うーん…うーん…いやもういいや、このままフォンが来るのを待つか…)


 すると、子どもの方が老人を押しのけて前に出てきた。どうするつもりだ?


(この地の主とお見受けします。ボクはシノリア・エルゴイ・ミシアフォンと言います。もしよろしければ、お話を聞いてほしいのですが、いかがでしょうか…?)


 どうなっているのかわからないが…頭の中に相手の意識が流れ込んでくるような感覚がした。

 これは…さすがに予想外だ。


(待て待て待て待て…ええっと? どうなってるんだ? 目の前の子どもが…あー…言葉を使わずに思念を直接伝えてきているのか…? この世界の人間には誰でもそういうことができると…いや、でもそれだと言葉が存在する理由がないか。というかこの意思疎通の手段は一方通行なのか? どうなんだろう。おーい、もしもーし?)


 子どもは目を丸くして俺を見つめている。どうやらしこたま驚いているらしい。驚いている、ということは…俺の考えは何らかの形で届いているとみた。驚いている理由に心当たりはないが、取り敢えず再び思念を伝える努力をしてみることにする。


(えー…驚かせてしまったならごめんなさい。俺は…えーっと…そう、この大森林の主の息子です。俺の考えていることは伝わっていますか?)


 子どもがハッと我に返った。


(あっ、ご、ごめんなさい! 大丈夫、伝わってる…ますよ。今まで人間以外でこんなにも整った思考の生物は見たことなかったので、つい驚いてしまいました。大変失礼いたしました。)

(ああ、そうですか。いえいえ、お気になさらずに。)


 なるほどね…まあ中身は元人間だからなあ。


(…おっと。ええと、これは…いったいどうなっているんでしょう? もしかして、今私が考えていることは全部筒抜けだったりしますか…?)

(え、いや、はい、これはボク…私の「魂の力」です。私は自分の意識と他の生物の意識を直接交流させることができます。といっても、相手に伝えたいことを伝えることや、相手が伝えたいと思っていることを受け取ることしかできませんが。)


 なるほど…それは助かった。中身は元人間だと知られたところで、いいことが起きる気は全くしない。それどころか、よくないことが起きそうな気がする。

 しかし、そういうことならこの言葉を使わないコミュニケーションでは「嘘をつくことができる」ということだ…言葉による会話と同様に。情報は鵜呑みにせず、真偽のほどを見極める必要がある。


 で…今すごく気になることを言っていなかったか?


(そうですか、わかりました。それで、質問ばかりで申し訳ないのですが…その「魂の力」とはなんのことでしょうか?)

(ああ、それはですね。ボ…ええと、私たち人間の魂や、おそらくあなたのような強い力を持つ生物の魂には、個性があります。全員がそうだというわけではないのですが、強い魂を持つ生物の中には、精神を集中させることでその個性に応じた現象を引き起こすことができるものがいるのです。ボ、あー、私の場合はそれが)


 背筋が凍りつくような殺気を感じた。

 子どもとの距離を一気に詰める。

 子どもが短く悲鳴をあげるのと、狼が尻尾で子どもを引き寄せて俺と子どもの距離を広げるのと、老人が俺と子どもの間に割り込むのと。



 フォンの急降下からの一撃が人間たちを襲うのと。


 俺がフォンの攻撃を翼で弾くのが。ほぼ同時に行われた。


(あっっっぶねえっ!)


 今のは確実に殺すつもりの一撃だった。俺が庇いきれなかったら、そこにいた三体の生物はフォンの前脚によって一瞬で六つの肉塊になっていただろう。俺だって、うまく翼で弾けなければ、少なくともこの春の間は療養に努めることになっていたと思う。それくらいの一撃だった。


(あっ…あ…ありがとうございます…!)


 状況に気づいた子どもが思念を送ってきた。


(下がってて。たぶん大森林の主に侵入者を許す気はないから。)

(は、はい、いや、でも)

(ああ、そうそう。勝手に逃げないでね。まだまだ聞きたいことがたくさんあるから生かしたいわけで、ここで逃げ出されちゃうと俺が君たちを守る意味ってあんまりないんだよね。)


 子どもの顔が少し青ざめたのがわかった。ちょっとかわいそうな気もするが、俺の方が立場が上ってことにしといた方が後々やりやすい。あと…大森林の管理者を継ぐ者として、人間に情が移るのは困る。あくまで俺の知的欲求を満たすために生かしておくのであって、決して人間に同情しているわけではないと、そういうことにしておく。


(わ…わかりました…。)

(よしよし、話を聞かせてくれるなら危害は加えないしちゃんと帰してあげるから。)

 生かしておくことがあまりにも危険なら殺すがな。もちろん話を聞いた後で。


 もっとも、人間たちが今すぐ殺されないためには。

 目の前で殺気をまき散らしている怪物に。

 俺が、勝てないまでも、負けないことが最低条件となっているのだが。




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 なあ、俺に免じて殺すのは勘弁してやってくれないかな。ダメもとで俺の気持ちをアピールしてみる。

 フォンの表情は変わらない。大森林の平穏を乱しかねない者はすべて殺す。フォンの決意は固いようだ。だが、俺もここで引く気はない。


 睨み合っていると、フォンの表情が若干崩れた。

 わかった、そこまで言うなら好きにすればいい、と。ただし、自分の主張を通したければ、この俺を倒してからにしろ、と。そういうことらしい。ご丁寧に、場所まで移動してくれるようだ。俺が人間たちから離れた瞬間に殺しにかかるのでは? と思ったが、そこはフォンを信じることにして、フォンと一緒にすぐそこの開けた空間に移動した。


 フォンは、その中心に降り立って、こちらをじっと見つめている。

 どこからでもかかってこい、ただしこちらも本気で行かせてもらおう、と。そう言っている。

 その証拠に、殺気が消えていない。とどめまで刺す気はないが、決着がつくまでにもし間違って殺してしまっても仕方がない、そういう心構えでフォンはそこに立っていた。


 このような形でフォンと命懸けの戦闘をすることになるとは思ってもみなかった。だが、備えがないわけではない。

 幸か不幸か、こんな日に備えてこっそり行っていたフォン対策の成果を出すには絶好の機会だ。ただし、俺が必死で考えて編み出したフォン対策が、本当に通用するかはわからない。


(最初から全力でいかないと死ぬな)


 俺は深く息を吸い込んで…肺を限界の七割まで膨らませたところで止めた。これがフォン対策その一、「接近戦闘準備」だ。

 グリフォンの肺は大きく膨らむ。それこそ体型が変わってしまうくらいに。なので、限界まで息を吸うと、素早く動いたり体に力を入れたりということが困難になる。一方で、酸素を溜めて息を止めていられる時間が長ければ長いほど、全力の無酸素運動を長く続けていられる。

 そこで、俺は肺の膨らみが接近戦の邪魔にならず、かつ最も多くの酸素を溜められる息の量を模索した。人間に無酸素運動が継続可能な時間の限界は40秒前後だと言われているが、この状態の俺なら無酸素運動を最低三分は続けることができる。人間で例えるなら、三分間ぶっ続けで短距離走の速度で走り続けられるということであり、ボクシングで連打を三分間打ち続けられるということになる。


 これを思いついたのは、前世での医学生としての知識に加え、趣味でやっていたボクシングの経験に寄るところが大きい。小さなアマチュアの大会で優勝したこともあるが、いつまでも機敏に動き続ける相手が俺としては一番厄介だった。呼吸による隙を作らず全力で動き回れることは、とてつもないアドバンテージだ。グリフォンの体でボクシングの技術が役立つことは当然一切なかったが、まさかこのような形で役立つ日がこようとは。人生、何が役立つかわかったもんじゃない。


 準備が整い次第、全力で駆け出し距離を詰める。勢いをつけて翼による一撃を繰り出した。体重と速度を乗せた、俺が地上で繰り出せる攻撃の中でも最高級の一撃だ。それをフォンは翼であっさりと受け止める。


(まだまだこれからだっ!)


 接近戦闘準備の優れた点は、一撃一撃を全力で繰り出し続けられるところにある。俺の渾身の一撃は、確かにことごとく阻まれてはいるが、俺が全力で攻撃しているのと同じように、フォンも全力で防御している。攻撃するよりも防御するほうが難しく、防御側の方が神経と体力が擦り減っていくのは当然のことだ。しかも、俺は全力の攻撃を三分間繰り出し続けられる。自信を持って繰り出した攻撃が何度も何度も完全に防御される様は、正直精神的にきついが、それでも休むことなく攻撃を繰り返していく。


 何十回目かの防御の後、フォンが短く息を吐いた。


(今だっ!!!)


 全力で翼を叩きつけた。フォンは防御の体勢をとったが、生物は息を吐き出した状態で体に十分な力を込めることはできない。俺の攻撃でフォンが吹き飛んだ。

俺の攻撃で。あのフォンが。


(いける…! 通用するぞ!)


 策が見事にハマっていることを感じながらも、俺は気を緩めない。呼吸を整え、改めて接近戦準備を行ってからフォンに詰め寄る。


 フォンは俺が呼吸を整える間に、きっちりと体勢を立て直していた。

 フォンと一瞬目が合った。


 フォンの目から怒りや殺意は既に消えていた。

 あんなに驚いて、若干焦り、かつ楽しそうなフォンの目を。俺は初めて見た。


 フォンとの距離を詰め、俺の翼の射程にフォンが入った瞬間、フォンはギラギラと目を輝かせながら俺の懐に突っ込んできた。その目に浮かぶのは俺への期待と、全力で俺を倒したいという勝利への欲求。フォンはそのまま俺に飛びかかってきた。


(翼で防御…は間に合わない! 前脚の攻撃を食らうのはまずい!)


 俺は翼をグリフォンの最強の武器だと思っている。ただし、それは使い勝手も込みでの話だ。届く範囲はごく短いが、殺傷力だけなら前脚が最も高い。かつての俺の前脚は、せいぜい捕まえた獲物の肉を握力で四散させられる程度の力しか出せなかったが、今の俺やフォンの前脚は易々と岩を抉り取ることができる。前脚に捕まったら終わりだと思ったほうがいい。それはお互いよくわかっている。

 フォンは、俺がお互いの前脚の届く範囲で戦いたくないと思っていることを見越して突っ込んできたのだ。


 神経を集中させる。


(まだ…まだだ…ここだっ!)


 フォンが掴みかかってきた瞬間、フォンの足部に対して俺の足部を繰り出した。タイミングを間違えると抵抗できない脚部を掴まれ、そのまま握りつぶされることになるところだったが、何とか足部で受けることができた。

 問題は次だ。握力勝負だと分が悪い。俺はフォンの足部を軽く掴みながら、翼を使って後ろに跳びつつ、飛び込んできたフォンの勢いを利用して仰向けにすっころんだ。なんちゃって巴投げの完成である。フォンは勢いのままに俺の後方へ飛んでいった。


(今のは危なかった…。)


 足をがっちり掴まれる前だったからよかったものの、今の攻防は紙一重もいいところだ。純粋な力比べになってしまえば俺の勝ち目は薄い。体勢を整えつつフォンの方を見ると。


 フォンは空中に飛びあがっていた。


 肺に限界まで空気を溜めて。


(超音波がくる!)


 接近戦闘準備が完了して俺が駆け出す方が、フォンの口から超音波が放たれるよりも若干早かった。的を散らすためにジグザグに走りながらフォンへの接近を試みる。

 グリフォンの体には超音波は効かない、なんてことはない。既に音の反響しやすい洞窟で自分自身に試してある。超音波もグリフォンの強力な武器だ。もちろん浴びせ続けた時の破壊力も優れてはいるのだが、最も恐ろしいのは一瞬浴びただけでも平衡感覚に支障が出ることだ。音の速度で飛んでくる攻撃を躱しましょう、かするとクラッときて立てなくなります、立てなくなりますが五秒動きを止めると死にますので気をつけてください。こういうことなのである。どんなに素早く動いても、あちらは首を動かすだけで好きなところに超音波を飛ばせるわけだから、完全に避けることなど不可能だ。



 フォン対策その二は、躱しきれないからこその逆転の発想である。


(三半規管を鍛えておいてよかった!!!)


 そう、俺は前世の医学的な知識を生かし、また自身の超音波をも活用して、三半規管を鍛えておいたのである。これぞフォン対策その二、「強い三半規管」だ。先程から何度か超音波をあびてはいるが、走り続けることに支障は出ていない。


 接近戦闘準備は非常に汎用性の高い技術だ。フォンの見ていないときには狩りでもだいぶお世話になった。強い三半規管だって、一見ただのメタ読みにしか見えないが、平衡感覚が向上したことによって飛行中の動きのコントロールが劇的にうまくなった。裏を返せば、空を自在に駆けるフォンの三半規管は最強で、超音波で揺さぶったところで大した効果はないということでもある。


 だから俺の中途半端な効果しかない超音波は防御にしか使わないつもりで戦略を立てた。

 今のところうまくいっている。


 俺は手ごたえを感じるとともに、なにか重大な見落としをしているのではないかと、どこか不安を覚えてもいた。


 接近戦闘準備と強い三半規管。呼び名はともかく、この二つのフォン対策は、俺の地力を確実に伸ばした。しかし、フォン対策その三に関しては、地力の向上には何の役にも立っていない。

 フォン対策その三、「音波相殺」。俺はこの優れた聴覚でもって、フォンが繰り出す音波の波形がどんなものか調べておいた。波形さえわかれば、音波は逆位層の…つまり真逆の振動を持つ音波をぶつけて相殺することができる。


 正直これに一番時間を取られた。まず、専用の機械もなしに波形を調べようとしたのが無謀だった。それでも色々と試してみたらなんとなくわかってきた。これに半年かかったが、この体のスペックは高すぎるとつくづく思う。

 聴覚によって波形が奇跡的にわかったのはいいが、今度は逆位層の波形の超音波を出せるように調整するのに一年かかった。さらに、音波に音波をぶつけて相殺する感覚を掴むのに半年かかった。

 フォンと一緒に狩りをしている最中にこっそり音波相殺を試して成功したときには、思わず涙を流しながら叫びそうになってしまった。その後、何食わぬ顔で狩りに復帰したため、俺がフォンの超音波を相殺できることはばれていない。

 もっとも、フォンの出す超音波を打ち消すだけの超音波は、俺にはほんの数秒ずつしか出せない。だが、それで十分なのだ。


 音波相殺はフォンの超音波にしか効果のない技術だ。フォンの使う超音波の波形に合わせて習得したのだから当然だ。途中であまりの無意味さに虚しくなり、練習をやめたいと思ったこともある。しかし今、俺は二年がかりで練習を重ねていて本当によかったと思っている。

 フォンとの距離を詰めれば詰めるほど、超音波を浴びる時間も延びていく。フォンの超音波は五秒浴びると死に至る。しかし、二、三秒浴びるだけなら三半規管さえ鍛えていればそこまでの効果はない。フォンの超音波を五秒浴びるのと、一秒間の音波相殺を挟んで二秒ずつ浴びるのでは、その効果は天地の差だ。

 音波相殺で超音波を浴びる時間を調整できたからこそ、肺の空気を使い切ってフォンの体型が元に戻るタイミングを見計らったうえで、フォンの真下まで接近することができた。


(ここだ! 勝機があるならここしかない!)


 全力で飛びあがる。フォンは超音波で俺を迎撃すべく、大きく息を吸いこんだ。超音波は音波相殺でしのげる。こちらも音波を相殺するために息を吸う。フォンの超音波を相殺しながら距離を詰め、超音波が出せないようにフォンの首元を前脚で掴めば俺の勝ちだ。


 俺の勝ちなのに。


 フォンの目がフォンの勝ちを確信している。


 そのことに俺は強い違和感を抱く。

 フォンが勝ちを確信した根拠がわからないのだ。

 自分の超音波の威力への信頼からくる確信なのか?


(それっておかしいよな…?)


 冷静に考えてみれば。音波相殺がなければ危ない場面は多々あった。

 ということは、フォンからすれば手ごたえがあったはずなのに俺にダメージがなかったということになる。


 なぜフォンは不自然なほどに超音波のダメージがないことに動揺していないのか。

 なぜフォンは思い通りの成果をあげられていないはずの超音波を再び使おうとしているのか。

 なぜフォンは次の超音波で勝負を決められると思っているのだろうか。


 一つの可能性に思い至る。

 もしも、フォンが超音波のダメージが少ない理由をわかっていたとしたら。

 もしも、フォンが意識的に波形の違う超音波を繰り出すことができるとしたら。

 もしも、フォンが相殺されているとわかっていてあえて同じ波形の超音波を繰り出していたとしたら。


(…罠か!? 全部わかったうえで…このタイミングで相殺できない波形の超音波を放とうとしている!?)


 やっとの思いでフォンの真下にもぐりこんだわけだが、ここから空中にいるフォンまでの距離を詰める間にずっとフォンの超音波を浴び続けるとなると、俺の攻撃が届くよりも戦闘不能になる方がかろうじて早い。それくらいの距離だ。今すぐ超音波を避けようとしても、音波相殺ができないのにこの距離で回避しきるのは不可能だ。

 絶望感が目の前を黒く染めあげていく。心が折れてしまっていた、かもしれない。

 相手がフォンでなければ。


(らあああああああああああああっ!)


 もはや策はない。完全に罠にはまり、勝利は絶望的。それでもフォンに勝ちたかった。ここまできて、理性的な判断によって勝ちを諦めることなどできなかった。

 過程はどうでもいい、フォンに勝ったという結果が欲しい。獣の衝動に身を委ね、俺は超音波を相殺する準備をやめて最短距離でフォンへと襲いかかった。


 フォンの初動が遅れた。俺が超音波の相殺を放棄し、全速力で突撃してきたことに虚を突かれたようだ。俺はとにかく距離を詰める。


 一秒。

 フォンが超音波を放つ。思った通り、それまでとは波形の違う超音波だ。俺にわかるのだから、フォンも音に波形があることは理解していたのだろう。


 二秒。

 フォンの音への理解を甘く見ていた。前世の科学にフォンの経験は到達していないだろうとたかをくくっていた。それでも俺はフォンをここまで追い詰めた。お互いの翼の届く距離だ。


 三秒。

 体が熱い。全身から悲鳴が聞こえる。軽く吐血した。お互いの前脚の届く距離。フォンが超音波を放ちながら掴みかかってきた。フォンの足部は翼で受けた。弾けるだけの余裕はなかった。


 四秒。

 翼が握りつぶされ、空中での推進力がなくなる。だが、この距離なら推進力の有無は関係ない。痛みに耐えて翼を大きく振るうと、翼を掴むフォンの前脚がフォンの意図しない方向へ流れた。


 五秒。

 がら空きのフォンの喉に、俺の前脚が届いた。




****************************




 翼を負傷して飛べなくなった俺を、フォンはゆっくりと地上に下ろしてくれた。その表情からは、負けた悔しさと、子どもの成長を見届けた満足感と、それから若干の寂しさが読み取れた。俺には子どもがいたことがないから親の気持ちはよくわからないが、少なくとも悪い気分ではないということはわかった。


(フォンが親だったからここまでこれたよ。 ありがとう、フォン。)


 俺の気持ちはちゃんと届いたのだろうか。フォンの眼差しは温かい。


 と、急にフォンの顔が、親の顔から大森林の管理者の顔に変わった。

 フォンは、俺に正対して、頭を下げた。


 今日からお前が大森林の管理者だ。

 こちらとしても今まで通りの暮らしを続けるつもりではあるが、何かあったらお前の判断に従うことにしよう。

 フォンはそう言っている。


 大森林の管理者。責任は重大である。しかし、そんなことよりも。

 俺はフォンに自分の力を認められたことが嬉しくて仕方なかった。

 完全に地力で勝利したわけではないし、再戦したら確実に負けるとは思うが。

 それでもフォンは俺を認めてくれた。

 愛する相手に自分を認めてもらうことが、こんなにも幸福なことだとは知らなかった。


 溢れ出る多幸感に浸りっぱなしの俺。

 フォンは怪訝な顔でこちらを見ている。

 それで、あいつらのことはどうするんだ? と。


 何の話だ…? と思ったが、ふと思い出す。なぜフォンと戦うことになったのか。


(そうだ、人間がきたんだっけ…)


 完全に忘れていた。戦闘中はそれどころではなかったし、戦闘後もある意味それどころではなかった。幸せを噛みしめるのに忙しかった。


 いいか、あのなあ。お前の決定には従うがな、忠告だけはしておくぞ。

 外の連中と関わるのはなるべくやめておくことだ、大森林を守りたいならな。

 そのような、軽く咎めはするがもう止めることはしない、といった表情を俺に投げかけて、フォンは軽やかにどこかに飛び去って行った。

 勝負には確かに勝ったのだが、結果としてフォンはほぼ無傷だった。残ったダメージはせいぜい俺の翼での一撃を防御しきれなかった時のダメージぐらいで、それ以外には特に目立った傷もない。

 それに比べて俺は満身創痍だ。無酸素運動に次ぐ無酸素運動で酷使された全身の筋肉。戦闘不能になる寸前まで超音波を浴びた体。フォンの前足で握りつぶされた片翼。命の取り合いであれば相手をしとめていたのは俺の方だったが、見た目だけで言えば俺が負けたようにしか見えないだろう。


 フォンは俺のことを咎めた。フォンの言うことは正しいと思う。少なくとも俺自身、人間には関わるべきではないと強く思っている。前世の記憶がそう言っている。人間に関わったところでろくな目に合わないのは目に見えている。


 しかし、前世の記憶はこうも言っている。俺の心の一部はまだ人間なのだ。人間と関わりたい。この世界のいろいろなことが知りたい。俺と意思疎通できる人間なんてあの子ども以外にはいないかもしれない。この機会を逃したくない。


 大森林の管理者として、少しだけ迷った。


(…俺の力が人間の力を凌駕しているうちは、人間の好きにはさせずに済む、はず。人間に利用されることなく、蹂躙されることなく、かといってできれば敵対したくもない。一部の人間との…彼らとだけの、協力関係なら大丈夫かもしれない。)


 結局、俺は知的好奇心と人間への未練に打ち克つことができなかった。


 だいぶ先の話にはなるが、俺はこの選択を果てしなく後悔することになる。




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 人間たちのいたところに歩いて移動しようとしたら、人間たちが木の影から出てきた。俺としては、人間たちに被害が及ぶと困るので場所を移動したつもりだったのだが、人間たちも移動して俺とフォンとの戦闘を見ていたらしい。まあ戦い方なんかを見られたからといって即対策できるものでもないし、他の人間に報告させる気もないから別に困ることはないだろう。無事ならよしとする。


(お待たせしました。えーと、それでなんだっけ? シノ…?)

(あっ、シノリアです。この度は私たちの命を救ってくださいまして本当にありがとうございました、…ええと。主のご子息様には、お名前はございますか?)


 子どもと老人は深々と頭を下げた。心なしか…シノリア? の目が輝いている気がする。結構脅したつもりだったんだが…。

 そう言えば、敬語でやり取りしてたんだったか。フォンの襲撃でうやむやになったけど。敬語はあまり好きではないので、このまま崩していくことにする。


(そうそう、シノリアさんだったね。別にお礼はいいよ、俺が自分のためにやったことだ。それと、今の戦闘で俺が大森林の主になったのでよろしくね。名前…名前かあ…。)


 グリフォンは超音波を出せても言葉を発する構造は持っていない。なので、グリフォンとしての俺に名前はない。フォンだって俺が勝手にそう呼んでいるだけだし。

 ただ、名前がないわけではないのだ。俺自身の感覚としては。この世界では誰にも呼ばれなかったが、俺には二十数年間を共にした名前があった。


(いや、さんは要らな…ません。是非シノリアと、気軽に呼び捨てでお願いします。あと、なんだか親子喧嘩の原因を作ってしまったようで本当に申し訳ありません…。)


 名乗るかどうか迷っていると、シノリアに謝られた。確かにおかげさまでこのありさまだが、結果としてはむしろいい機会をもらえて幸運だったと思う。


(いや、そこは気にしなくて大丈夫だよ。いずれ本気で戦うことにはなってたと思うし。そういうことなら呼び捨てにするけど、できればそっちもかしこまるのはやめてほしいかな。敬語は苦手でしょ?)


 敬語が時々崩れて言い直すのは気になっていた。まあ子どもだし仕方ないだろう。敬語が下手なのを指摘されると、子どもの顔は真っ赤になった。失敗したかな…?


(ええと…いや、そういうわけには…)

(じゃあせめて楽に話してよ、無理してものすごく丁寧にしなくてもいいからさ。)

(うーん…わかりました。)

(よしよし。あと、俺の名前ね。俺は音羽 明楽。明楽って呼んで。)

(アキラ・オトワ様ですね。アキラ様…ぴったりの名前だね! …ですね!)


 何がどうぴったりの名前なのかはわからないが、五年ぶりに名前を呼ばれ、褒められて、悪い気にはならない。あと、俺は音羽明楽という名前をイメージしたのだが、あちらにはアキラ・オトワというイメージとして届いたらしい。どうもこの世界では名前・苗字のようだ。


 人間と交流できて嬉しかったのだ。まさか人間がいるなんて、しかもこうしてコミュニケーションがとれるなんて、夢にも思わなくて。感情に身を任せて、俺は前世の、人間としての名前を名乗った。名乗ってしまった。

 生まれて五年。「俺は人間だ」という意識は時間とともに次第に薄れ、どんどんグリフォンらしく…大森林の管理者としてふさわしい存在になりつつあった。しかし、人間としての名前を名乗ったことで「人間としての俺」が一気に蘇り始めてしまった。そのことに、この時の俺は気づかない。


(ありがとう、シノリア。改めて自己紹介するね。できればそっちの人たちにも伝えてくれると嬉しいな。俺の名前はアキラ・オトワ。この大森林で生まれ育ったグリフォンで、大森林をここに住まう生物にとって暮らしやすい場所にするために、生物を狩ったり守ったりしてる。実は人間に興味があって、親には大森林のためにならないから外からきた者は殺せって言われたんだけど、どうしても君たちの話を聞いてみたかったから取り敢えず親を倒してでも守ることにした。いろいろ教えてくれるとありがたい、よろしくね!)


 シノリアが後ろの一人と一匹――こいつ、言葉わかるのか?――に言葉で説明する。

 自己紹介の裏の「大森林の秩序を乱す奴は殺すよ」「今君たちを生かしているのは『取り敢えず』でしかないよ」「大森林で最強(仮)の俺は今のところ人間に好意的だよ」というメッセージはどれほど伝わっただろうか。人間たちの反応を見る。

 シノリアは俺の自己紹介を、目を輝かせながら聞いていた。一方で、シノリアの口から自己紹介の内容を聞いた老人の顔は少し青ざめる。狼はわからない。

 ぱっと思いつく可能性は二つだ。シノリアは気づかずに老人だけが「軽い脅しをかけられている」ということに気づいた可能性。あるいは、シノリアと老人の目的は違っていて、老人にだけ後ろめたいことがある可能性。


 もっと情報が欲しいな。


(というわけで、そちらにも改めて自己紹介を頼めるかな? そっちの人たちの分も。)


 さて、どうくるか。


(自己紹介ありがとうございました! じゃあ、こっちもちゃんと自己紹介します。ボクはシノリア・エルゴイ・ミシアフォンっていいます。ええと、もしかしてミシアフォン王国のことは知ってますか?)

(ええと…ごめん、わからないな。)


 わからないがわかった。この世界には人間の国がある。そのうち最低でも一つは王国だ。


(そ、そうですか…じゃあ黙ってればよかったかな。もう言うしかないから言うけど、ボクはミシアフォン王国の第11王女です。こんな見た目ですが…一応紋章も持ってて…。)


 こんな見た目とは言うが、別に顔が悪いとか服装が酷いとか、そういうわけではない。髪は男の子と見間違うくらいに短いが(というか一人称もあいまって男の子だと思っていた)、手入れはされていてきれいだし。服は完全に戦闘用だがちゃんとしたものを身に着けている。目はかなり細くてたれ目なので、ぱっちりおめめの美人ではないかもしれないが、目鼻立ちも輪郭も整っていて愛嬌がある。体型は…まだ子どもなのでノーコメントでいく(俺は男の子だと思っていた、別に他意はないがもう一度言っておくことにしよう)。


 問題は、目と鼻の間に横一線に刻み込まれた、大きな切り傷の痕だった。

王族の…しかも王子ではなく王女の顔にあるべき傷だとは思えなかったが、シノリアが紋章だと言って差し出した、幾何学模様が刻まれたものすごく高価なそうなメダルは、庶民が持っていていいものではないと感じた。シノリアが王女だということは信じておくことにする。


 であるならば。王女の顔にこんな傷痕があること。一人と一匹の護衛を連れてこんなところにいること。王女自身が弓を持って戦っていたこと。その裏にはどう考えても複雑な事情がある。知りたい。面倒はごめんだが知りたい。俺は人間ドラマは好きな方だ。


(王女様だったのか! これはとんだ失礼を。 …敬語を使った方がいい?)

(や、やめてください! 王女扱いされるのはあんまり好きじゃなくて…)

(いいよ、嫌ならやめとこう。こっちもその方が気楽でいいや。で、シノリアは王女様で…そっちは?)


 シノリアが抱えているであろう複雑な事情を聞き出したくて仕方ないが、ここは我慢する。まずは自己紹介を済ませてもらって、そこから聞き方なり聞くことなりを考えよう。


(はい、このおじいちゃんはゼリュトック・ムカインといって、私の唯一の家臣です。)


 シノリアが老人と目を合わせると、老人は俺と目を合わせて一礼した。紳士的な身のこなしで、若い頃にはそれはもうモテまくっただろうと確信できるほど顔の整った、彫りの深いダンディなふさふさ白髪の老人だ。どんな人にも漏れなく好印象を持たれそうな見た目であるが、先程から全く隙がない。例えば、今俺がシノリアに襲いかかったなら、老人は俺がシノリアとの距離を詰める前に俺とシノリアの間に割って入り、俺の攻撃を体で受け止めながら俺と刺し違えるための一撃を繰り出すだろう。彼は間違いなく歴戦の戦士であり、武芸の達人だ。弱肉強食の世界で五年生きた俺の勘がそう言っている。


(ゼリュトックは昔、王国で一番強い戦士として表彰された人なんですよ! 得意なのは剣ですが、どんな武器でも一通りは扱えます。ボクの弓もゼリュトックに教えてもらいました。ちょっと小言が多いのが玉に瑕ですが、とってもすごい人なんです!)


 元王国最強の戦士で、今は顔に傷のある王女の唯一の家臣。王女の弓の指導者で…小言が多い、と。なんとなく関係性が見えてきたな。ポジションとしては育ての親といったところか。「戦闘できるレベルで弓の扱いを教えた」「小言が多い」「しかし敬語が甘い」ということは…シノリアは既に国内で王女扱いされていないとみた。顔の傷のせい…かな? それを踏まえて彼は「王女として」ではなく「一武人として」生きる道を指し示そうとしている。大体こういうことだろう。


(ああ、彼の戦っている様子は少しだけ見たよ。すさまじい達人だね。)


 構えを見ただけだが一応「戦っている様子」は見た。嘘は言っていない。シノリアはゼリュトックのことを褒められると心底嬉しそうにしている。よしよし、こんな感じで細かく好印象を与えていくぞ。


(それで、こっちがドラゴンウルフのディナ―です。見ての通り、ドラゴンの眷属の狼なんだけど、この子には角が生えなかったみたいで…。それで虐められて群れから追い出されたところにたまたまボクが通りかかって。以来、ずっと一緒にいるんです。)


 まずい。

 まったくわからない。

 ええと…ドラゴンが狼でウルフのディナ―は眷属…?

 初めて聞く言葉を消化しきれなくて内容が全然頭に入ってこなかった。


(そうなんだ、その子もとても強そうだね。見た目もかっこいいし。)


 言葉を精一杯絞り出したがこのざまだ。小学生でももう少しましな感想を言うだろう。

 シノリアが嬉しそうにしているので、取り敢えずよしとしておこう。


 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥という言葉がある。この言葉は真理だと思う。ここで知ったかぶりをしてもいいが、今このタイミングを逃してしまえば正しい情報を得られる機会は一生訪れないかもしれない。思い切って聞いてみることにする。たとえ多少怪しまれることになったとしても。


(ええと…ごめん、ちょっといいかな?)

(はい? なんでしょう?)

(その子のことなんだけど…俺、ここから出たことないからよくわからなくって。もうちょっと詳しく説明してもらえるかな…?)

(はい、いいですよ。 ディナーはですね、ドラゴンの眷属でいわゆるドラゴンウルフです。)


 よし…ディナーが名前だということはわかった。うっかりドラゴンの食事か何かのことを指してるのかと思った。前世の記憶が理解の足を引っ張ることになるとは。


(ふむふむ、それで眷属っていうのは…?)

(え…?)


 シノリアの頭に疑問符が浮かんでいる。まずい。眷属という言葉は常識なのか。なんとか不信感を解消したい。


(あー…ごめんね、俺の親はあんまり物を教えてくれなかったもんだから…。)

(あっ、いえいえ、大丈夫! そうか、さっき主になったばっかりだもんね。)


 うまいこと納得してくれた…のか…?


(ええとね、まず魔物がいるでしょ?)


 魔物の定義がわからない。聞き返しづらい。ど…どうする…?


(あ、待って待って。俺、人間がどういう生物を魔物って呼んでるのかわからなくて…。)

(そ、そっか。人間がそう呼んでるだけだもんね。)


 おお、なんか勝手に納得していってくれている。ありがたい。


(魔物っていうのはすごい力を持った生物のことです。今確認されてるのは12種…だったはず。えーっと、それで、この世に初めて現れる種類の魔物は突然現れます。原因とか条件とかはちょっとよくわかってないんだけど。でもアキラ様にはお父さんもいるから、グリフォンはかなり前からここにいたんだね。魔物は自分の領土を作って、領土の中の生物を眷属にしちゃうんだよね。眷属になるとどうなるかっていうと、身体能力や知能があがって、魔物の特徴が一部体に出るんだよ。でも人間だけはなぜか眷属にはならないんだよねえ。でね、魔物は代替わりするのね。あ、魔物には雄しかいなくて、ある程度大きな生物とならどんな生物とでも子どもが作れるの。)


 一気に説明してもらったためか、口調がボロボロと崩れていったようだが、それを気にしていられるほどの余裕はなかった。頭が追い付かない。いや、理解はしたのだが…色々と衝撃的すぎる。


 俺は魔物と呼ばれる存在だったようだ。グリフォン、12種の一種、大森林を領土とする魔物。その眷属は翼と羽毛を持ち、空を飛ぶことができる。こういうことか。というか我ながら羽狼って酷いネーミングセンスだな…人間の呼び方だとグリフォンウルフってことになるのだろう。まあそれもそれで短絡的か。

 そして、俺とフォン以外にグリフォンはいない。二匹とも雄で雌はいない。なぜなら大きささえ何とかなればどんな生物でも孕ませられるから。そういえば、俺が生まれた時もフォンの体から生まれた感じではなかった。おそらく、俺をお腹の中で育ててくれた生物は、俺が生まれた時にそのまま死んでしまったのだろう。本来お腹で育てられないような大きさの俺が、無理やり腹を破って生まれてきたばっかりに。これはショックだった。

 子どもにそれを説明させたことにも罪悪感を覚える。シノリアお前、ケロッとしてるけど今すごいこと言ったからな。どんな生物とでも子どもを作るって絶対意味わかってないだろお前。俺が女の子だったら絶対魔物には近づかない。


 もっとも、俺はこの時点で妻を作り子どもを作ることを諦めたので、完全に無害ではある。

 同種はいないわけだし、グリフォンに生まれてから今まで性欲が湧いてきて困ったことはないし。

 それに…俺のように母体を殺して生まれる子どもを作るのは、どうしても気が引けた。


 人間たちの知識を教えてもらい、今の俺がどのような存在なのかを理解することができた。とても有意義な情報だったが、俺としてはそろそろ本命の話を聞きたい。


(なるほど…そうだったのか。俺は今まで大森林を一歩も出ずに生きてきたし、父は狩りの方法しか教えてくれなかったからすごく勉強になったよ。ありがとう、シノリア。)

(いやいや、そんな! ボクだってこんなにスラスラやりとりできる生物に会ったのは初めてで…とっても楽しい!)


 顔をくしゃっと歪めて、はじけるような笑顔を浮かべるシノリア。天使の笑顔ってこういうのを言うのかな、と思う人間の俺は確かにいた。しかし、だいぶ好感度稼いだよな、そろそろ大森林に何しに来たのか聞き出して殺すかどうか決めなきゃな、と思うグリフォンの俺もいる。そして、人間としての俺はあくまで前世の残滓であり、今の俺はグリフォンだ。少しずつ、揺らいではいるが。


(そうか、そう言ってもらえると俺も嬉しいな。でも、シノリアはなんでこんな危ないところに? さっきだって危うく死ぬところだったんじゃないの?)

(あのね、いつもロファセットの森…あ、王国の南の森で狩りをしてて。で、だんだん修業の成果が出てきて、ゼリュトックとディナーと一緒に少しずつ森の奥にいけるようになってきたのね。今日は今までで一番奥にきたんだけど、見たことない眷属がいたからびっくりして。襲いかかってきたから何体か倒して様子を見てたら、気づいたときには囲まれてて…もうだめかと思った。アキラ様、本当にありがとうございました。)


 囲まれた時のことを思い出したのか、少し泣きそうな表情で改めてお礼を言ってきた。


 さあ、困ったことになった。どうもフォンの…いや、俺の領土である大森林は、ロファセットの森という深い森の先にあるらしい。そして、ロファセットの森を踏破するにはある程度の実力が必要だが、実力のある者なら王国から大森林までは徒歩でもたどり着けるわけだ。つまり、準備をすれば大人数で大森林に押しかけることも、人間にはできるということだ…押しかける理由があるのなら。


(お礼はいいよ、こうしていろいろ聞かせてもらってるしさ。でも、いきなり襲われるとは大変だったね。眷属って普通の生物より強い…よね? 眷属と戦ったのは初めてかな?)


 「戦ったことがある」と返してくるようであれば、それは「眷属と戦う必要があった」ということであり、そこから人間と眷属、ひいては人間と魔物との関係性について問い詰める。「戦ったことはない」と返してくるようであれば、そのドラゴンウルフとはどこで出会ったのか、人間と眷属と魔物が君とその子のようないい関係を築くのが当たり前のことなら君たちがこの状況に陥っていること自体がおかしいのではないか、といった文脈で問い詰める。そのつもりだった。


(いや、ドラゴン狩りに参加した時にドラゴンウルフと戦ったことがあるよ。でもグリフォンウルフの方が強かったかも…。あの時は結局ドラゴンを倒すことはできなかったけど、眷属は結構狩れたからいい素材が出回って、王国が…にぎわ、って…。)


 いきなり口を滑らせてくれるとは思わなかった。命を救ったためか、好印象を与えたためかはわからないが、完全に俺に心を許してしまっていたようだ。

 途中で、「誰に」「何を」言ったのか、言ってしまったのかに気づいたのだろう。あるいは、俺が魔物であるということを思い出したのか。シノリアの顔から、一気に血の気が引いた。

 直球で答えが返ってくるのは予想外だったが、話の内容自体はだいたい予想通りだ。きっとそうだろうと思っていた。

 人間にとって、眷属や魔物は、殺す価値がある。確認しなければならない。


(ドラゴンは、魔物の1種、だよな。 …シノリア。人間にとっての、魔物の…俺の、獲物としての価値を聞きたい。 …聞かせてもらえるかな?)


 あくまで穏やかに、しかし絶対に断らせないという威圧感を醸し出しながら、尋ねた。


(あ…あ…う…。)


 シノリアは泣き出してしまった。その様子を見て、ゼリュトックとディナーが臨戦態勢に入る。フォンとの死闘の直後ではあるが、一人と一匹が命を懸けても俺には及ばないことはわかっていたので、彼らのことはおいておく。ゼリュトックもさすが達人といったところか、実力の差はよくわかっているようで、彼から切りかかってくることはなかった。ただし、俺がシノリアに危害を加える素振りを見せようものなら、実力差など度外視して全力全霊で俺を殺しにかかる、そういう覚悟が全身からにじみ出ていた。


 シノリアを泣かせたことに罪悪感がないわけではなかった。が、このままだと大森林が大きな被害を受けかねないということがわかった今、俺は大森林の管理者として、ここを譲るわけにはいかなかった。


(今すぐ君たちをどうこうしようというわけではないんだ。でも、もし大森林に危険が迫っているのなら、俺は対策を考えなければならないんだ、わかるよね? 頼むシノリア、教えてくれ。俺を殺すと…人間にとってどんないいことがあるんだ?)


 シノリアは泣き止まない。が、泣きながら顔をあげて俺の方を見る。怯え、ではないと思う。悲しんでいるように見える。


(眷属の体は、何を作るにしても良質な素材になる。魔物の体は、最高の素材。)


 ゆっくり、語りだした。


(でも眷属は強い。魔物はもっと強い。人間は魔物の領土をなかなか荒らせない。)


  一言一言を噛みしめるように。


(魔物を殺せば、殺した人間のいる国は、眷属と魔物の体、それに魔物に支配されていた領土を手に入れて栄える。…だから。)


 少しだけ間が空いて。


(…魔物殺しは最高の栄誉、全ての武に生きる者の夢。これが人間の、常識、です。)


 シノリアははっきりとそう言った。


 さて。

 彼らを殺す明確な理由ができてしまった。




****************************




(お願いがあります、アキラ様。)


 泣き止むまでには少し時間がかかったが、シノリアは気丈だった。泣き止んでからすぐに老人と何度か言葉を交わして、自分の考えを提案してきた。俺をまっすぐ見据えて。


(正直に言うけど、ボクたちはまだ死にたくない。ボクたちはアキラ様に敵対するつもりはありません。でも、この場所のことが他の人に知られたら王国がどうするかはわからないし、そうならないためにはアキラ様がボクたちを見逃すわけにはいかないということはわかってます。だから、ボクたちをここに住ませてください。ダメならアキラ様の領土の外で暮らすよ。そして様子を見にきてくれればいい。ボクたちがここにアキラ様がいるってことを誰にも伝えられなければ問題はないと思う…です。)


 確かに、他の人間に情報が伝わらなければそれでいい。恐ろしいのは数で攻めてこられることであって、シノリア御一行様だけではまったくもって脅威にはなりえない。また、数だけ多くても、武装は剣や弓ばかり、銃もなければ大火力も出せないといった程度の発展具合であれば、何千人何万人で来られようともお話にならない。俺とフォンの超音波で全員立てなくしてからなぶり殺しにしてやれる。


 …いや、わかってはいるのだ。彼らが何を言おうがベストは今すぐ彼らを殺すことだ、そうすれば人間に大森林や俺がここにいることを知られることはない、と。シノリアやゼリュトックが、実は王国との連絡手段を隠し持っている可能性だってある。携帯電話はないと思うが、例の「魂の力」というやつがどのようなものかわからないので、やはり殺しておくべきなのだ。

 ただ、彼らを殺したくない人間としての俺が、必死に殺さない理由を探している。


(…あの、どうでしょうか?)


 黙ってしまった俺に、シノリアが問いかけてくる。


(ええと、王女がいなくなったら大騒ぎになるんじゃないかとお考えでしたら、それについては大丈夫だと思います…たぶん。ボクは…その…もう王女としての価値はないって、結婚も勉強もしなくていいって、そう言われてるし…民にだって嫌われてて…ボクを気にしてくれる人は、ゼリュトックしかいないから…。)


 シノリアはまた少し泣きそうになった。頭のいい子だとは思うが、どうやら彼女は泣き虫みたいだ。


(そ、そうか…いろいろ大変だったんだね。それも踏まえてちょっと考えてみるよ。)


 やはりシノリアの境遇は複雑のようだ。顔が傷ついたので王女の政治的価値が失われたということだろうな。ということは、この世界の政治の中心は男…か? 少なくとも王国はそうなんだろう。そんな環境でよくあるような政略結婚をさせるにしても、王女は最低11人いるわけで、わざわざ顔に傷のある王女を出さなくてもいい。であれば、役に立たない王女にきちんとした教育を施す必要は特にない。王女の敬語がガタガタなのはこのためだろう。


 シノリアが消えても王国が国を挙げて捜索に繰り出すことはない。シノリアには悪いが、これはいい情報だ。そして、やはりシノリアには悪いが、これは別にシノリアを殺さない理由にはならない。むしろ、「シノリアを殺したことが知れたら報復があるかもしれない」という、シノリアを殺さない言い訳が一つ消えてしまった。


 大森林の管理者としては完全に失格なのだが、シノリアがかわいそうに思えてきてしまった俺は、ついにシノリアを生かしておく理由を積極的に考え始めた。しかし、それでも自分を納得させられる理由が浮かんでこない。


 だいぶ迷って…一つだけいい考えが浮かんだ。かなり酷ではあるが。


(ねえ、シノリア。)

(は、はい。なんでしょうか…?)


 不安げに聞き返してくるシノリア。悪いなあ、とは思ったが、何も思いつかないからもうこれしかない。


(今のところ、人間たちに大森林や眷属、それに俺の命を狙われないようにするためには、君たちをここで殺してこの場所のことを誰にも知られないようにするのが一番なんだよね…それはわかる? でも、できれば俺は君たちを殺したくはない。そこでなんだけど…君たちをあえて殺さないことで、俺にどんないいことがあると思うか、考えてみてほしいんだ。)


 俺の考えを正直に打ち明け、俺がシノリアたちを殺さない理由をシノリアたち自身に考えてもらうことにした。例によって、相手の出方をみてから決めるという優柔不断な俺のいつもの手だ。これでダメなら諦めて死んでもらうしかない。申し訳ないが頑張ってほしい。


 シノリアは俺の目を見ながら話をじっと聞いていた。

 話を聞き終えると、ちょっと待っててください、といってゼリュトックと相談を始めた。泣いて命乞いをしてくるようなら望み薄だったが…やはりこの子は頭がいい。ただの泣き虫というわけではなさそうだ。


 彼らをどんどん殺したくなくなってきた俺は、彼らが話し合っている間に自分でも改めて理由を探すことにした。




****************************




(アキラ様、聞いてくれますか?)


 話し合いの結果が出たらしい。


(是非、聞かせてください。)


 心して聞かせてもらおう。魔物に魔物殺しの意義を教えてしまったり、自分を殺しても問題ないことを話してしまったりと、頭はいいが甘いところがあるシノリアはともかくとして。百戦錬磨の戦士だというゼリュトックなら、その人生経験から俺が彼らを殺さない理由を思いついてくれるかもしれない。


(ゼリュトックと話し合って、ボクたちを生かしておいてくれた時に、ボクたちにできることをいくつか考えてみました。まず、ボクたちはこう見えても結構強いです。グリフォンウルフの群れには殺されかけたけど、あのままいくと相打ち…あっちが何匹か生き残る、くらいの結果だったと思う。ボクとゼリュトックとディナーでグリフォンウルフ三十匹分の戦闘力がある。もしボクたちを生かしておいてくれるなら、これからアキラ様のためにこの力を使おうと思う…ます。これが一つ目です。)


 うーむ。まあ確かに戦力としては悪くない。生後一年の俺がグリフォンウルフ二十匹にあっさり殺されかけたことを考えると、人間やただの眷属程度のスペックの体で三十匹と張り合えるのは素晴らしい実力だ。だが、今の俺には眷属何匹分などという基準で測りきれないほどの圧倒的な力がある。大森林の生態を守るには十分な力だ。それに、もし人間が襲ってきた場合、彼らが人間側につかないとは限らない。あまり魅力的な申し出ではないな。


(次に、ボクたちは…というかゼリュトックは、人間の戦力や戦い方、指揮系統などを熟知しています。確かに今はボクたちを殺すのが手っ取り早いとは思うけど、この領土が王国の人間に永遠に見つからずに済むということは、位置的にはありえないと思います。迷い込んだ者を全員殺していっても、行方不明者が増えればここに何かがいると疑われることは間違いない。だから、いずれ訪れる人間との戦闘に備えて、人間の戦闘について自分が知っていることをすべて教えよう。と、ゼリュトックがそう言ってくれました。)


 おお…おお! 今のは説得力があった。全くその通りだ。今回彼らがやってきたということは、いつか別の誰かがやってくる可能性は高い。人が自力でこられる位置ならいずれ見つかる。その時に備えて情報収集。己を知り相手を知って百戦危うからず、というわけだ。さすがゼリュトック、願ってもない話だ。

 ただ、王国に思いっきり不利になるような情報を流そうとしているわけで、それを自ら言い出したのが若干腑に落ちない。もっとも、ゼリュトックにとっては王国の利益や繁栄よりもシノリアの将来の方が大事だったというだけかもしれないが。


(そして、これはボクからだけど、戦い方だけじゃなくて人間の文化や知識…そういったものについても教えられます。ゼリュトックは魔物が下等な人間の文化なんか知りたがるとは思わないって言ってたけど、ボクにはなんだかアキラ様はそういうのにも興味がありそうに思えたから…。それに、例えば人間の言葉がわかれば目の前の人間同士が何を話してるかわかるし、人間の知識は人間を理解するのには役に立つ…かも。)


 自信なさげに話しているが、大当たりだ。大森林を守るのに役立つ知識だとははっきり言って思えないが、意思疎通ができる相手だとわかった時点で、俺の知的好奇心はこの世界の人間の情報やこの世界そのものについての情報を求めてうずうずしていた。聴力はいいのだし言葉だって覚えられるはずだ。言葉、覚えたい。体の構造のせいで話すことはできないまでも、聞いて理解することはできるだろう。

 なに、役に立たないことはない。こっちが言葉を理解できないと思った人間が、戦闘中に目の前で「ジョニー、背後に回り込め! 俺は右から行くぜ!」「わかったよマイケル!」などと言葉で連携をとるという間抜けを晒してくれる可能性だって十分あるだろう? …ないかな?


(ええと…どうでしょうか…?)

(いや、素晴らしい。君たちがそこまで全面的に俺の味方になってくれるなら、殺す必要はないと思う。)


 シノリアの表情が明るくなる。

 そう、本当に味方になってくれるなら何の心配もいらない。

 だが…ここまできても彼らの言うことを心から信用できないのは、俺が臆病だからだろうか。


(ええと…アキラ様? どうかしましたか…? やっぱりお気に召さない点が…?)


 黙ってしまった俺の様子を見てシノリアが心配そうに俺の顔を覗き込む。


(いや、協力の内容は願ってもないことばかりだったし、是非お願いしたいんだ。あとは、まあ、俺の心の問題かな…。君たちが俺を裏切ることはないだろうとは思ってるんだけど、どうにも完全には信じきれなくてね…ってそんなこと言われても困るよね、ごめんごめん。)


 生まれ変わって五年が経っても、どれだけ強くなっても、やっぱり俺は優柔不断で決断ができない。裏切らない保証なんてことは誰にもできないというのに。大森林の管理者を継いでも、俺には勇気も決意も足りないままだった。前世でも、俺のこういう性格は色々な人に迷惑をかけた。いつも悪い悪いと思っていたが、それでもどうしても改善できなかったあたり、筋金入りということなのだろう。

 せっかくいい提案をしてくれたのに、彼らにも申し訳ない…と思いながらシノリアの顔を見ると。なぜか、シノリアの顔は明るい。


(ああ、それなら大丈夫! そう、人間は簡単に裏切る。…さっきから思ってたんだけど、アキラ様って人間に詳しいよね? 王国とか王女とか、話したあとに、もしかしたら意味わからないかな、って思ったんだけど、聞き返してこなかったし。魔物のことは知らなかったけど。)


 しまった…。知らず知らずのうちに致命的なミスをしていた。初めて人間と会う生物が知っているはずのない情報を持っている、ということをまったく意識せずに話を進めてしまっていた。

 「俺は何でも知っている、そう人間の常識すらもね!」といった感じで誤魔化そうかと思ったが、魔物や眷属についてとんでもない無知を晒した直後では不可能だ。どうするんだこれ。フォローできないぞ。


(あっ…あー…う、あー…)

(はっきり言ってくれていいんだよ、ボクだって裏切られたから。そう、人間は嘘つきだし裏切るんだ。)


 俺の知識の不自然さは、シノリアにとっては些細なことだったらしい。助かった。冷汗が止まらない。前世の記憶のせいで色々と台無しになるところだった。次はもう少し慎重にいこう…。


(だから、王族はこれを使うんだ。王族が持っている、ミシアフォンの紋章。)


 さっき見た高価そうなメダルが出てきた。


(これは昔々、すごい「魂の力」を持っていた偉い人が作ったっていう、すごい力のある道具でね。相手に約束をさせることができるの。はい、これ持ってて。)


 そんな便利なものがあるのか。なるほど、謀略渦巻く王宮で誓約によって裏切りを防止できるなら非常に有用だ。この世界で前世の道具よりも便利な道具は初めて見た。さっそく差し出されたメダルを嘴でくわえる。


 シノリアはディナーと目を合わせた。おそらく思念を送ったのだろう、直後にディナーの尻尾がゼリュトックを拘束する。ゼリュトックは何が起こったかわからない様子だ。俺と目が合うが、すまんゼリュトック。俺にも何が起きているかまるでわからない。ディナーにゼリュトックを拘束させておく必要があるのか? 俺は少し身構えた。


(じゃあ、いくよ。紋章に誓うには言葉が必要なんだけど、何を言ってるかわからないと思うから、同時に何言ってるかも伝えるね。)

(ああ、お願いするよ。)


 一呼吸おいて、シノリアの誓約が始まった。


(シノリア・エルゴイ・ミシアフォンが、アキラ・オトワに誓い申し上げる。シノリアはアキラに敵対しない。心臓を賭けてここに誓う。シノリアはアキラを欺かない。心臓を賭けてここに誓う。シノリアの全てはアキラのために。心臓を賭けてここに誓う。)


 メダルが一瞬強く輝いた。その様子を見ながら。でもこれもしかして実際の誓約と送られてきた思念の内容が違っているなんてこともあるかも? あるいは俺がすぐ気づけないような何かしらの時間差攻撃を設定した可能性もあったか? やはり早計だったか…? などと、生来の疑り深さを発揮していた、のだが。その懸念はすぐ消え失せた。


 ゼリュトックの顔がすごいことになっている。目は見開かれ、口をあんぐり開け、全身をわなわなと震わせている。せっかくのダンディフェイスが台無しだ。何かとんでもないことをシノリアはやらかしたらしい。そのコミカルな表情を見て、少なくともシノリアが俺に不利なことをしたわけではないということはわかった。と同時に、少し不安になる。俺は、罠じゃないなら、これを使えばシノリアは不思議な力で俺を裏切れなくなるってことなのかな、くらいに軽く考えていたのだが。


(…シノリア、これでいったい何がどうなったんだ?)

(はい、紋章には約束とそれを破った時の罰を決められる力があります。たとえば今ボクが意図的にアキラ様を殴ろうとすると、一度頭の中に警告が浮かびます。それでもアキラ様を殴ると、今回は心臓を賭けたので心臓が潰れます。あ、約束が破られた時はアキラ様にもわかるようになってるよ!)


 確かに、これで裏切りの心配はなくなった。なくなった、が。

 なんだこれは。想像以上に重いぞ。


(おい…何賭けるか選べたのにわざわざ心臓を賭けたのか…。そんなことしてよかったのか? ゼリュトックがすごい顔してるぞ?)

(うん、命を賭けなきゃ信用してもらえないかなと思ったし、そもそもボク、アキラ様のことすっごく好きになっちゃったから裏切る気はないしね。あ、ゼリュトックがすごい顔してるのは、心臓を賭けたからじゃないと思うんだよね…たぶん。)

(じゃあ理由はなんだ…?)


 嫌な予感がする。


(誰々の全ては誰々のために、って約束は、ものすごく信頼しあっている人同士がお互いの信頼を永遠のものだと他人に示す時にしか普通しないから。たとえば…王族が誰かと結婚するときとか。)


 顔を真っ赤にしてはにかむシノリア。


 なんだこれ。



 …なんだこれ。




****************************




 「異世界で」「グリフォンに転生したのに」「顔に傷のある」「まだ子どもの」「お姫様から」「あったその日に」「突然求婚された」。ざっと7つはツッコミどころがある。しかも「相手は俺を裏切ると死ぬ」。ツッコミどころがもう1つ増えた。なんだこれ。なんでだ。どうしてこうなった。理解が追いついていない。取り敢えずもう一度確認しておくと、俺はロリコンではない。


(待って待って! 違うの、アキラ様違うの! 別に奥さんにしてくださいとかそういうことを言うつもりじゃなくってね!?)


 シノリアが弁解を始めたあたりで、ゼリュトックがディナーの拘束を振り払ってものすごい勢いでシノリアに詰め寄った。最初はなんやかんや言い合っていた様子だったが、すぐにゼリュトックが優勢になり、ゼリュトックのスペシャル説教タイムが始まった。文字通り、日が暮れるまで、たっぷりと。


 その間、俺は薬草や肉を確保して体調を整えた。心もばっちり落ち着かせておいた。薬草の効果は相変わらず高く、フォンに握りつぶされた翼も、ものの一~二時間くらいでなんとか飛べる程度には回復した。彼らにも薬草や肉を渡したのだが、ゼリュトックは爽やかな老紳士スマイルで俺に応対しながらも口から流れる説教が止めることはなかった。小言が多い、なんてもんじゃない。あれは説教の鬼だ。何を言っていたかはわからないが、今後ゼリュトックは怒らせないように気をつけようと思う。


 日が暮れてきたので、彼らを巣に移動させようとして、少し悩んだ。大樹の上の巣は人間には寒すぎるかな、と。そこで、大森林のなかにいくつかある洞窟の一つを仮の住居としてもらうことにする。彼らを背に乗せて近場の洞窟に向かった。


(あの…アキラ様? 今お話ししても大丈夫?)


 移動中、シノリアが声をかけてきた。かなり疲弊しているようだったが、まあ無理もない。グリフォンウルフの襲撃、グリフォンとの邂逅、グリフォンとの誓約、そして極めつけは半日がかりの説教。これでピンピンしているやつがいたらそいつは化け物だ。


(ああ、大丈夫だよ。大変だったね、色々と。特にゼリュトックが…)

(うん…まあ今日はうかつな行動が多かったからね…こういう日もあるよね、仕方ないね。)


 結構平気そうだ。化け物かもしれない。


(ええと…さっきの言い訳を続けてもいい? 結婚の誓いの文句を言っちゃった話。)

(あ、ああー…じゃあどういうつもりだったか聞かせてもらってもいいかな…?)


 蒸し返すつもりらしい。正直ノータッチでお願いしたいが、話したそうなので聞いてみる。


(そもそもボクは…ええと、いろいろあって人間のことはあんまり好きじゃないんだ。ボクは「魂の力」で他の生物の魂とやりとりできるんだけど、人間の魂ってあんまりいい感じしないのね。特に、偉い人の魂はこう…頭はいい感じはするんだけど気持ち悪くて。でも、アキラ様の魂は今まで見たどの生物よりも人間よりも思考が複雑で、なのにきちんと整ってて、それでいて嫌な感じが全然しないの。とにかくすごく素敵なのね。だから、アキラ様のことは本当に好きだよ。)


 言い訳と思わせておいて愛の告白が始まるとは思わなかった。違うの!とか言ってたが何も違わないよな。


(でも、奥さんにしてくださいとかじゃなくってね。ボクには生まれた時から結婚する人が決まってたんだけど、顔がこんなになっちゃったらその約束がなくなってね。お嫁さんとかいいなあって思ってたんだけど、もうボクには結婚はできないんだなあって諦めてたの。でね、アキラ様。ボクはもうアキラ様の側で生きるって決めたんだよ。どんな立場でもいいけど、できる限りあなたの役に立ちたいの。あなたはボクの命を救ってくれたし、殺せばいいのに生かそうとしてくれたし、とってもきれいだから。)


 うーん、この子は本当に健気だなあ…。顔に大きな傷をつけても明るさを失っていないし。とてもいい子だ。でも、なんというか。


(そっか、たくさん褒めてくれてありがとう…すごく照れるけど。うん、それで、どうして約束の時に結婚する時の約束を…?)


 そう、何の説明にも言い訳にもなっていない。


(あ、ごめんね。ええと、一回言ってみたかったの。アキラ様と一緒にここで暮らすなら、もう他に言う機会は二度とないだろうし。)


 一回言ってみたかったから。なるほど、シンプルでわかりやすい完璧な回答だ。


(まあ、自分の命をあなたに永遠に預けます、それくらい信頼しているよ、ってことだから。結婚の時によく使われるけど、別にそれだけの意味じゃないから。貰ってくれるならそれでもいいけどね! そういうことでした! これからよろしくね、アキラ様!)

(うん、よくわかったよ。こちらこそよろしくね、シノリア。)


 笑うシノリアはかわいい。しかし、どんなに本気で好かれていても、シノリアをパートナーにはできない。

 …違うぞ? 俺がロリコンではないとか好みではないとかそういう問題では断じてない。むしろかわいいとは思っている…ロリコンではないが。そういう話ではない。たとえ俺がシノリアに惚れるようなことがあっても、妻にはできないのだ。


 シノリアは、「魔物はどんな生物とでも子どもが作れる」から「魔物の妻にはなれるはず」と考えているようだ。だが、この子の体ではグリフォンは産めない。そんなことをして無事でいられるはずがない。シノリアがグリフォンの子を授かったなら、その子は間違いなくシノリアの命と引き換えに誕生することになるだろう…俺のように。

 どんなに望まれても、俺以外に選択肢がないと言われようとも、俺の気持ちが彼女に傾いたって、シノリアを妻にはできないと思った。


 この健気な女の子には、どうか人並みに幸せになってほしいと願っていた。


 グリフォンである俺が、大森林を守るためにシノリアの人生をめちゃくちゃにしたくせに。

 人間としての俺が急に大きくなり始めて、シノリアの人生を心配し始めるという矛盾。

 この時の俺は、やはりこの矛盾に気づかない。

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