第2部 姫は野獣
第1章 第11王女
私の名前はシノリア・エルゴイ・ミシアフォン。ミシアフォン王国第11王女。
父は第14代国王、アーヴェロイ・ウーデオス・ミシアフォン。母は王の第一夫人、シャルマ・エルゴイ・ミシアフォン。ウーデオスは王だけが、ミシアフォンは王族全員が名乗っていい名前なのね。私のエルゴイって名前は母の家名なの。だから、別に自分の名前は嫌いじゃないんだけど、母と同じ家名が入っていることを考えると、少しだけもやもやするんだよねえ。
いい思い出がないわけじゃないの。私は母の五人目の子どもだったけど、母は私のことを結構かわいがってくれた。父には全部で四人の奥さんがいたんだけどね、母が一番きれいだった。大好きだったよ。ずっと憧れてた。母みたいにきれいになりたい、母みたいなお嫁さんになりたい、って。一度母に言ったら「あなたならできるわ、頑張りなさい。私の子だもの、絶対にきれいになるわ。素敵なお嫁さんになりたいなら、たくさん勉強しなくちゃね。」って。すっごく嬉しかったんだよねえ。
それで張り切っちゃってさ、五歳の時には二つ上の姉より勉強ができるくらいになってて、第11王女は王女の中で一番頭がいい、なんて言われてて。母は私を自慢の種にしてたし、私はそれが嬉しかった。母は優しかったよ。優しかったんだ。
今思えば、私はちょっと目立ちすぎちゃったのかもしれないね。
私はこれでも王女で、第一夫人の子だったからさ。万が一のことがないように、すっごく厳重に守られてたんだよね。私は生まれた時に、貴族の中でも特に強い権力を持つボンデルテン家に嫁ぐことが決まってたから、なおさら大事にされたみたい。だから、私はずっと母の住んでるお屋敷から出たことがなくて、外の世界は私の憧れだった。憧れだったけど、母への憧れと違って、こっちはそんなに強い気持ちじゃなかったかな。皆優しかったし、勉強は楽しかったし。母が私に付けてくれた三人の家臣のことも好きだった。
かっこいいって評判だったけど、おっちょこちょいだった執事のイーゴア。いつもはきちっとしてて近寄りがたい雰囲気だったけど、実はすっごく優しい乳母のヤヌファ。そして強くて頼もしくて物知りな、でも小言が多くて少し厳しい教育係のゼリュトック。
大きなお屋敷と、母と、三人の家臣と、それからお勉強。これが私の世界の全てだった。
全部めちゃくちゃになったのはね、五歳の春の71日から。日付? 覚えてるよ、忘れられるわけないって。
私が生まれたのは夏の12日だから、そろそろ六歳のお祝いも近いね、ってくらいだった。
きっかけは、イーゴアの提案だった。
「シノリア様、そろそろ六歳のお祝いじゃないですか。その時に、お母様にお花など贈られてみてはいかがでしょう。いいですか、シノリア様。これは秘密なのですが、実はこのお屋敷、誰にも見られずに外に出られる道があるんです。俺と一緒に、こっそりお花を摘みに行きませんか。いい場所を知ってるんです。俺がとってきてもいいですが、シノリア様がご自分で摘まれたお花を差し上げた方が、お母様も絶対に喜ばれますって!」
イーゴアの砕けた言葉遣いが好きだった。イーゴアは目をキラキラさせながら、執事の中でも一番砕けたいつもの口調で、すっごく素敵な提案をしてきてね。私、勉強できたのに頭が回らなかったんだねえ。お母様、絶対喜んでくれる!って思ったのね。それで、イーゴアと一緒に少しずつ計画を立てて。提案の10日後に、お屋敷の高い塀の隠された隙間からイーゴアと一緒に出かけたの。
私の初めての外出、それが五歳の春の71日。
外の世界は、想像以上に初めてのもので溢れててね。私が王女だってばれないように、外に出た時点でイーゴアの用意していたローブを着てたんだけど、ずっときょろきょろしてたから、その様子を見れば普通の人じゃないことはすぐわかっちゃっただろうな。イーゴアは「シノリア様、時間がないんですから! 早く早く!」なんて言って手をひいてたけど、私はいちいち立ち止まって周りを見渡そうとするものだから、全然前に進まなかった。
周りを見てひたすらきょろきょろしてたら、イーゴアが急に立ち止まったのね。
「どうしたの、イーゴア?」
返事がなくて。見まわしたら、いつの間にか細い道の奥、人気のない路地裏にいて。
何が起きたかわからなくて。いや、違うね。考えたくなくて。
「てめえ、遅かったじゃねえか。」
「うるせえな、ここまで連れ出してこられただけありがたく思えや。」
奥から急に出てきた怖い顔のおじさんと、イーゴアが話し始めて。何が何だかわからなくて、全身から力が抜けて。立てなくなっちゃったの。
「おい、いいか、約束は守ったからな。金はちゃんと…」
そこまで言って、イーゴアが急に血を吐き出した。今ならわかるよ。イーゴアは母との約束を破った。ミシアフォンの紋章に誓った約束を。
「金は…俺の家に…。俺の子どもが…薬を…待っ、て…」
イーゴアは動かなくなった。怖い顔のおじさんは、そんなイーゴアを蹴り飛ばした。
「ばかめ、んなことして足がついたらどうすんだ。俺はてめえのような裏切り者じゃねえ、俺は奥様のために奥様の望む殺しをするんだ。さっさと死んでくれ。胸糞悪ぃぜ。」
全然わけがわからなかった。たぶん第二夫人あたりが送り込んだ暗殺者だったんじゃないかなって思うんだけど、今になっても証拠は挙がってないし、当時の私にはそんなこと知る由もない。でも、自分がこれからどうなるのかだけはわかった。
「とまあ、そういうわけだ王女様。悪いがあんたにゃ死んでもらう。恨むならそこに転がってるバカを恨んでくれや。」
おじさんは、懐から大きなナイフを抜いた。体は動かなくて。おじさんがナイフを振り上げるのが見えた。体は動かなくて。
突然、誰かに抱きかかえられた。気づくとそこにヤヌファがいて。私を抱いて、おじさんをにらみつけてた。
「不届きものめ。今に人が来ますよ。これ以上の狼藉を働くのはおやめなさい。」
ヤヌファの声は震えてた。何を言ってもおじさんが引き下がるわけがないってわかってたんだろうね。でも、私はヤヌファがきてくれて、少しだけ安心したの。
ヤヌファが私を抱いて後ずさる。おじさんは明らかに苛立ちながら、こちらに詰め寄ってくる。ヤヌファはおじさんに背を向け、私と向き合ってこう言った。
「いいですか、あと少しだけ待っていれば、きっとゼリュトック様が助けにきてくださいます。それまで、決して諦めないで。 …シノリア様、大きくなられましたね。大好きですよ。」
ヤヌファは私をきつく抱きしめた。震える手で。その直後に、ヤヌファの背中の方から、おじさんの怒号と、ザク、グチャ、っていう嫌な音が何回も聞こえてきた。ヤヌファは、たぶん私を怖がらせたくなかったんだね。一回も悲鳴をあげなかった。そのうち、ヤヌファの震えが止まった。ヤヌファはもう二度と動かなくなった。
「くそが…余計な手間をかけさせやがって…」
イーゴアが死んだ。ヤヌファが死んだ。私が外に出たから。もう何も考えたくなかった。早く殺してほしかった。
でも、ヤヌファは諦めるなって言ったのね。気づいたら、私は叫びながら走り出してた。おじさんから逃げなきゃって思って、一生懸命走った。すぐに捕まったけど、それでも私は力いっぱいもがいた。
「ああもうまどろっこしい! さっさと死ね!」
必死にもがいたからか、おじさんのナイフはかすっただけだったのね。そう、顔に。これがその時の傷なの。たぶん、暗殺ばかりで動く人を殺した経験の少ない人だったのね。おかげで死なずに済んだけど、すっごく痛かった。
「ああああああああああああああっ!」
おじさんが舌打ちしながらもう一回ナイフを振り上げたんだけど、ピタッと動きが止まって。次の瞬間、おじさんの頭が落ちたの。ゼリュトックが間に合ったのね。ゼリュトックが「シノリア様! ご無事ですか!?」って言ってたのは聞こえてたけど、私はそこで限界がきて倒れちゃったの。
後からゼリュトックに聞いた話だけど。ヤヌファは私とイーゴアがなんとなく隠し事をしているのには気づいてたみたいで。でも、イーゴアとゼリュトックとその話をしたら、「六歳のお祝いに向けてこっそり準備してることがあるんです、お二人も楽しみにしていてくださいよ!」って言われたから、取り敢えず放っておいたんだって。
でも、あの日、ヤヌファは私がイーゴアと出ていくところをたまたま見かけて。ゼリュトックを呼ぶように他のメイドに頼んで、ヤヌファだけ私たちの跡をつけていたんだって。お屋敷から王女を勝手に連れ出すとは浅慮も甚だしい、いざという時のために最悪でも私とゼリュトック様はついていかねばならないでしょう、でもせっかく隠れて準備しているのに台無しにしてしまうのも気が引けますから取り敢えず跡を追います、って。
だけど、ヤヌファだってまさかイーゴアが私を殺そうとしているなんてことには気づけなくて。細い路地に入って行った辺りで嫌な予感がしたみたいで、辺りを通る人に片っ端から声をかけたんだって。「これは王族からのお願いです。今からこの辺りにあの伝説の五剣王、ゼリュトック様がいらっしゃるはずです。ゼリュトック様をお見かけした方は、ヤヌファというメイドが人を追ってこの裏路地に入っていったということをお伝えください。」って。
そして、少し遅れて駆けつけた時に、ちょうどイーゴアが死んだみたい。ヤヌファが時間を稼いでくれているうちに、お屋敷から慌てて出てきたゼリュトックが人に話を聞いて駆けつけてくれたの。
これがこの日起きたことの全て。
そして、私の人生の終わりだった。
なんて、そう思ったこともあったんだけどね。
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大きなお屋敷と、母と、三人の家臣と、それからお勉強。私の世界の全て。
最初に壊れたのはイーゴアだった。次にヤヌファ。その次は、母だった。
一命を取り留めた私を見て、母はこう言った。
「シノリア、あなた顔が酷いことになってしまったわね。これでは結婚は無理ね。シノリア、もう勉強はしなくていいわ。知識も、教養も、お作法も、全部いらない。顔にそんなに大きな傷のある娘なんて、他の王族や貴族に紹介できないわ。一応生活はさせてあげるけど、恥ずかしいからあまり人と関わっちゃだめよ。ああそうだ、許嫁のことだけど。ボンデルテン家には別の娘を嫁がせるから。あなたは好きな人を自分で選んで結婚なさい。自分で相手を決められるって素敵なことよ。」
母の言葉を聞いたのはこれが最後。これ以降、母は私に話しかけなくなった。視界に入っていても、まるで見えてないかのように振る舞うの。結局、母は私のことを政略結婚のための道具としてかわいがってたんだねえ。使えなくなった道具はいらないんだって。これが私の母。私をかわいがってくれた母。私の憧れ、だった母。
それでもお勉強は続けてた。私がお勉強できることをみんなは喜んでくれたから、顔に傷がついてもお勉強をもっと頑張ればみんな喜んでくれるかもって。そうすればいらない子じゃなくなるかもって。そう思ったのね。
でも、そしたら今度は姉たちが私の邪魔をしてくるようになった。本のある部屋にいれてもらえなかったり、お勉強してたら追い出されたり、酷いときは私の読んでいた本が破られてたりとか。それでもお勉強はやめられなかった。でね、ある日、母の付き人がきてこう言うの。
「シノリア様、あなたのせいで勉強に集中できないとお姉さま方から苦情が殺到しております。さらに、シノリア様は本の扱いが悪く、本を破損させてしまうこともしばしばあると聞き及んでおります。お母様は、これでは家族の仲に支障が出てしまうと判断し、シノリア様には特別に別のお屋敷に住んでいただくことを決定いたしました。また、五剣王のお一人であられるゼリュトック・ムカイン様はお母様の護衛の任もございますので、このお屋敷から離れることはできません。ですので、教育係には別の者を用意いたします。」
お勉強ができなくなって、お屋敷を追い出されて、ゼリュトックがいなくなって。私には何もなくなった。
でも、ゼリュトックだけは帰ってきてくれた。父と母に直接交渉したんだって。
「お願いがございます。この度、私は五剣王を辞退させていただこうと思います。私より弱い者にこの由緒正しき称号を与えたくありませんでしたので、正式な果し合いに敗れるまでは五剣王を名乗り続けるつもりでいました。しかし、そうして早30年。私もすっかり老いました。そろそろ若い才能に期待してもよいかと思いまして、辞退に踏み切った次第でございます。」
五剣王は王国最強の戦士に与えられる称号で、王族に準ずる権力を持つ上に王族から命令を受けない限りはどこで何をしていてもいいのね。五剣王は全ての戦士にとっての憧れであり目標なんだけど、王族や貴族にとっては自分たちの権力を誇示する道具でしかなくて、自分の血族や派閥の者を何とか五剣王にしたいって常に考えてる。だから、五剣王のなかで一人だけ平民出身で、実力だけで五剣王になって、王族や貴族じゃなくて庶民の味方であろうとしたゼリュトックが、いつまでも五剣王の称号を持ち続けていたことには不満の声が上がってたの。もちろん、表立ってじゃなくて裏でね。
それで、ここ数年は母のお屋敷に護衛として縛りつけられて、自由になりたければ五剣王をやめろ、っていう圧力を暗にかけられてたみたい。そんな中で私の教育係としての仕事を命じられていたのね。
「五剣王を辞したあかつきには、シノリア様の教育係を続けたいと思っております。シノリア様には文武の才能がございますゆえ、伸ばしてみたくなったのでございます。奥様、いかがでしょうか。結婚のできない娘を死ぬまで養い続けるのも大変でございましょう。私にシノリア様の今後をすべてお任せいただけるのであれば、金銭をはじめとするあらゆる面倒を私がお引き受けいたしましょう。どうか、シノリア様の教育係を、引き続きこのゼリュトックにお命じください。」
ゼリュトックは最後に、次の五剣王に母の弟を推薦するつもりでいることをつけ加えた。母の弟は…私の叔父は、実力はあるんだけど、どうしてもゼリュトックに勝てなかったからずっと五剣王になれなかったのね。つまり、ゼリュトックが言ったのはこういうこと。私の持っている権力や身分は全て国王様と第一夫人様に差し上げます、だからシノリア様の今後のことはすべて私に任せてください、って。
父も母も大喜びで了承したみたい。
一人ぼっちでお屋敷から出る準備をしていた私の前に、元五剣王になったゼリュトックがやってきて、話し始めた。ボロボロ涙を流しながら。あれが男泣きっていうのね。
「シノリア様、あなたは悔しくはありませんか。私は悔しい。あなたは私が今まで見てきた誰よりも才能があり、かつお優しくていらっしゃる。どんなところでもうまくやれるでしょう。だから、名家に嫁がれてそこで幸せになられるのであれば私はそれでもよかった。しかし今、奥様は自分の野望の役に立たなくなったあなたを切り捨ててしまおうとしている。私にはそれが許せない。あなたは武人としても、文官としても、なにより一人の人間として、大成できるだけの器をお持ちだ。私とともに、武によって名を挙げませんか。あなたという存在を、恥ずかしいなどと言って闇に葬ろうとした奥様に、その判断は間違いだったと私は教えてやりたいのです。どうかシノリア様、あなたの成長を残り少ない我が余生の唯一の生きがいとすることをお許しください。」
強くて頼もしくて物知りで、でも小言が多くて少し厳しいゼリュトック。彼が私のことをそんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。ゼリュトックが私のことをあんなに褒めてくれたのも、ゼリュトックがあれだけ泣いたのも、あの時が最初で最後だったね。
ゼリュトックにつられるようにして、私は泣いた。母にいらないって言われて以来、初めて泣いた。嬉しさや悲しさ、喜びや悔しさ、色々な感情が一気に溢れてきて、わけがわからなくなって。あの時の気持ちはちょっと説明できないな。でも、一番大きかったのは安心感だった。それだけは覚えてるよ。いらなくなった私を、ゼリュトックは認めてくれた。私を必要だって言ってくれた。大切な人が必要だって言ってくれるだけで、人はあんなに元気になれるのね。私はうなずいた。ゼリュトックと一緒に泣きながら、何度も何度もうなずいた。
私の新しい世界を作ってくれたのはゼリュトック。
私の人生は、ここから始まった。
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