第1章(1) ふたりの少女


 岩だらけの荒野にて、冒険者たちが火を囲みながら暖を取っていた。

 辺りに点在するのは、下品な笑い声。火の爆ぜる音が交じり、風を乾かす。星が降り、闇が覆った。

 なにかが始まろうとも、終わろうともしているそんな宵の口。

 二輪の花が咲いていた。金銀の花弁を優雅に広げ、夜を彩る。それはふたりの少女だった。

 ひとりは銀髪の、もうひとりは金髪の。華やかな王宮で臣下にかしずかれている姿こそがふさわしいと思えるような、そんな美しき少女たちである。

 なによりも器量が図抜けている。たったの一度も日に当たったことがないのではないかというほどに白く透き通るような肌は瑞々しく。目鼻立ちは神の造り出した芸術品のようだ。

 それぞれの品種は違えども、絶美を体現する少女がふたり。

 誰もが疑問を抱かずにはいられない。

 ――曰く、彼女たちはなぜこのようなところにいるのか。

 なんといっても国から国への旅は、危険極まりない。なけなしの命を売り物にするような馬鹿者だけが、いまどき冒険者などというものになる。

 商隊の護衛についたのは、二十三名の選りすぐりの冒険者たち。火を焚き、テントを張る男たちに紛れきれず、彼女たちはいた。

 人を寄せつけようしないその有様から、恐らくたったふたりのギルドだろう。

 実体がなければ男を誘う類の妖精にすらも見えてしまうほどに儚き少女たちは、こんな荒野にはあまりにも不釣り合いな存在であった。

 だがそれは自分も似たようなものか、と青年は思う。

 アベルはまだ十九歳の青年だ。

 周りのいかめしい男たちに比べれば、彼の扱いも少女と変わるまい。目にかかるような長さの栗色の髪も、均整の取れたしなやかな肉体も、中性的な印象を醸し出す。

 唇を緩めれば顔には愛嬌が浮かび、大人たちは決まって「子供が持ち場を荒らすな」と嫌な顔をする。――だが、アベルがこれまでに請け負った仕事の量はすでに中堅の域に達している。

 ギルドのメンバーに一声をかけて、アベルはテントを離れた。下心はなかったと言えば嘘になるだろうが、それよりは好奇心が勝った。

 冒険者は楽な商売ではない。彼女たちほどに若く、そして類まれなる美貌をもつ少女ならば、同じだけ稼げる仕事の数は両手の指に余るだろう。王に見初められれば妃にもなれる。それは冒険者より遥かに安全で、冒険者よりも求められる資質は少なくて済む仕事だ。

 近くに寄れば、彼女たちの衣装がそれなりに旅慣れていることがわかる。ゆったりとしたローブの中に、部分鎧ポイントアーマーの金属的な光沢が見え隠れする。

 河原に落ちた石ころの中から宝石をつまみあげる気持ちで、アベルは声をかけた。

「なんでまた、こんな仕事を?」

 世間話のような口振りだが、それはずいぶんと深入りした問いだ。そう感じさせないのがアベルの軽薄な笑顔である。

 銀髪の少女がこちらを見た。

 値踏みするような視線とも違う。雑貨屋の受付が入ってきた客を見るような、自然体であった。

「隣の国に、行きかったから、かな」

 よどみのない、綺麗な声をしている。

 その声を聞けただけでアベルは、話しかけてよかった、と思った。

 気分の高揚を内心に隠しながら、さらに口を開く。

「へえ、冒険家か。物珍しい。それとも前の国にいられなくなったのかい?」

「そういうわけじゃあ、ないんだけど」

 彼女は苦笑した。あまりの可憐さに、頬がむずがゆくなる。

 それとは一方に、アベルは言外に隠された事情を慮った。

 なるほど、元の国で罪を犯して流れ着いてきたわけではないのだな、と。

 絶世とも言えるほどの美しさだ。彼女を取り合って男たちが争いを起こし、その結果国にいられなくなったとしてもおかしくはない。だが彼女には逃げてゆく者特有の弱さと後ろめたさがない。

 そう考えれば、冒険者の集団というものは皆、ひどく理性深いものだ。慎重なのかはたまた臆病なのか。これほどの美しい少女たちを前に三日間、誰もが声をかけずにいたのだから。

 が、こちらの銀髪の少女はそうだとしても、向こうの金髪の娘はどうかわからない。

 あちらが罪人ではない保証はないのだ。美しき少女が罪人ならばそこに付け込んで、退屈で危険なこの護衛仕事を華やかな蜜月に変えることができるかもしれない。

 声を聞き、微笑みを前にしたことで欲が出てしまった。

 アベルはさらに距離を詰めながら、押しの強い男を演じた。

「じゃあ、あっちのツレとはどういう関係だい? そんなに綺麗なのに男っ気がないなんて、もったいないじゃないか」

 片眉を吊り上げ、言う。

 その途端、銀髪の少女は笑みの質を変容させた。変わったことはわかったのだが、その正体まではアベルには掴めない。所詮十九の青年だ。女の機微などわかるはずもない。

 あらゆる感情を微笑みひとつで美の天幕に隠してしまえるような少女ならば、なおさら。

「なあ、まさか恋人同士ってわけじゃあるまいし」

 少女は蕾のような唇を可愛らしく開き、所有権を主張するように言った。

「そのまさかよ」

 真偽はともかくとして――。

 鈍感なアベルにも、そこに込められた拒絶の意思だけは確かに感じ取れた。


 銀髪の少女をリリス。金髪の少女をサラという。

 アベル青年が去っていったあと、リリスは自らが建てた丈夫なテントを眺め、自慢の細工にうぬぼれる芸術家のようにうなずいた。

「うん、これならよく眠れそうだわ」

「……そうかな」

 より暗がりに近いほうに身をうずめていた金髪の少女は、鈴のような声でつぶやいた。

 陽麦に似た明るい金髪を伸ばしていながら、その表情は湖面に映った月のように儚い。病的なほどに美しく、しかしそれは愛玩的なひとりでは生きられない鉢植えの美だ。

 ただひとりで光を発するリリスとはまるで対照的な印象。

 サラはつまり、そういった少女であった。

 自らの腕で自らを抱き、少女は世を憎むような顔をした。

「知らない男の人ばかりで、こわいよ。わたしたちずっとじろじろ見られている。これだったらふたりきりの方がよかった」

 無意識だろうが、ぷくうとわずかに頬を膨らませている。

 リリスは我が子に言い聞かせるよう、優しく説いた。

「ふたりで国から国に行くのは大変よ。迷うし、お腹がすくし、夜の見張りにどちらかが起きていなくっちゃいけないし。人に見られるのも厄介だわ。ちょうどいい商隊があるときぐらい便乗しなくっちゃ。これもお仕事だと思って、ね」

 限りなく理性的に説明したつもりではあったが、サラは不満げだ。

 そんなことは当然わかっている、とでも言いたげな顔をしている。

 もぞもぞと立ち上がった彼女は、その頬のように膨らませた寝袋に潜っていった。

 テントの前に立ってサラの様子を見守るリリスに、死にかけのヤギのようなよわよわしい声が届く。

「……リリは、いじわる」

 リリスは頬をかく。

 わずかに間を取ってから、聞き返した。

「どうしてよ」

「わかっているくせに。わたしの言いたいことなんて全部。リリなんてだいきらい」

 そう言われてもね。リリスはくしゃりと自らの髪を摑む。

 ワガママで、文句ばっかり。鬱々としていて、すぐに拗ねてしまう。

 そんな、世界で一番愛している彼女に、リリスは微笑みかけた。

「あたしのお姫様は、ご立腹ね」

 リリスもまたテントの中に入ると、入口をくくっていた紐をほどく。

 ぱさりと幕を閉ざし、ひとときの、ふたりだけの世界が生まれた。



 商隊キャラバンがたどっているルートは、もっとも魔物との遭遇率が低い安全なルートだと信じられていた。その上で商人たちが冒険者の護衛をつけたのは、積荷をより確率の高い方法で運ぶためである。

 国と国を往復するような商人は、命知らずだ。今や大陸は海洋よりも遥かに危険である。城塞の外に出ることなど、普通に生きていて味わえる経験でも、味わいたい経験でもないだろう。

 そういう意味で、この商隊を率いているのは大層な傑物であったと思われる。

 運んでいる積荷がなにかまでは、冒険者たちが知ることはない。商隊は信頼のおける十数人の冒険者をすでに抱えており、彼ら自身も武装していたからだ。

 経験豊富な冒険者たちは積荷の正体がなんらかの非合法な品であるとアタリをつけていただろうし、事実、危険を冒してまで隣国にまで輸出する価値があるのは、そういった少量で莫大な利益を生み出すものだ。

 違法薬物、反射加速剤、あるいは武器、兵器。なんだって構わない。せめて手間のかかる奴隷でさえなければ。

 奴隷は最悪だ。泣き叫ぶし、臭い。煮炊きの手間も数倍になり、あまつさえここがもっとも最悪なところだが――人の塊は狩人を引き寄せるのだ。

 匂いか音か、火かあるいは生命エネルギーのような不可視の光によってか。

 花の香りに誘われる虫のように現れた狩人は、人間を餌と断定し、捕食する。まるで肉のる草木を食い荒らす有様。

 一目見たものは不快に溺れ、二度と高い壁の外に出ようとは思えないだろう。ここにいるのは皆、どこか心が壊れた奇人の集まりだ。

 商隊が差しかかったのは、大きく曲がりくねった渓谷を切り拓くような荒野。ここを過ぎれば次なる街まではあと少し。

 綿密に建てられた計画だった。計算の上では、成功率は九割を超えていた。リスクとリターンを天秤にかけて、自らの命を分銅としても良い勝算を得て、商人は旅立ったはずだ。

 たどり着けば、国にとって英雄視されたであろう。

 ――成功していたら、の話だ。

 その夜、商隊は夜襲を受けた。

 狩人の来訪である。



 鋭い剣戟の音で、アベルは目を覚ました。

 このときの若者の行動は素早かった。つい先ほどまで美少女と言葉を交わしたことによる浮ついた気持ちなど、微塵も残らず吹き飛ぶ。

 枕元に置いた愛剣を摑むと、く手間も惜しみ、着の身着のままテントを飛び出した。

 林のようにテントが立ち並ぶ中、アベルは遠くに浮かぶ真っ赤な光を見出す。

 双子星のように寄り添う赤い光点。それは揺らめきながら瞬いている。

 火よりも紅く、血よりも鮮やかに。

 根源的な恐怖に魂を握られながらも、アベルは己を御した。

 これが初陣ではない。アベルは今までに何度も窮地を乗り越えた。

 その経験にすがることにより、一時的な怯懦きょうだを打開する。

「おいでなすったか」

 ――そう、魔物だ。

 苦味が混じる唾液を飲み下し、息をつく。

「できればもう二度と会いたくなかったんだけどさ」

 軽口で自らの気持ちを落ち着かせ、アベルは呼吸を整えた。

 この暗闇では視覚より頼るべきは聴覚だ。全神経を音に傾け、現状の把握に努める。

 まず、悲鳴はない。うめき声も聞こえてはこない。冒険者の境遇がさまざまであるように、魔物の種類も多岐にわたる。中には獲物をなぶるように弄ぶ種もいて、そういった相手が現れると辺りには阿鼻叫喚の大合唱が響く。少なくとも今回は違うようだ。

 アベルは姿勢を低くし、キャンプの中心部――、商隊の馬車が止まっているほうへと目を向けた。

 今一番危惧しなければならないのは、この場に置き去りにされてしまうことだ。

 魔物を振り切るほど速度を上げた馬車に追いつくなど、人の足ではまず不可能である。乗り込まなければならない。闇夜での逃亡は暴走に近いだろうが、見捨てられた荒野で魔物に喰われて死ぬよりは幾分もマシだし、運が良ければ生き延びられる。

 息をひそめ、剣山に足を踏み出すような慎重さで、歩き出す。

 アベルは冷静だ。

 同時に厚手のズボンのポケットから小瓶を取り出し、親指で蓋を開けた。タレントの花をすり潰した香料である。これを使えば魔物の嗅覚を惑わすことができると言われていた。

 ほとんどジンクスのようなものであったが、これまで生き延びて来られたのがこのおかげではないと断定はできない。そして一度でも欠かせば次に失うのは自分の命かもしれない。

 剣が鳴らないように、しっかりと握りしめる。

 ――剣戟の響きがした。

 アベルは一瞬身を硬直させ、慎重に振り返る。

 光が瞬いたようにも思えたが、それは音から得た印象によるものだと判断を下す。大切なのは音だ。

 金属音は商隊とは逆方向から響いてきた。あちら側で襲われている者がいるのだろう。

 ――だが、わざわざ助けにいく必要性はない。

 冒険者は冒険者を守るためにでも、魔物を退治するために雇われたのでもない。商隊を次の国に運ぶために雇われたのだ。

 馬車が発車できない状態ならば、行く手を塞ぐ障害物をどかし、その援護をする。あるいは、生き残りを集めて自分が馬車を動かす。それ以外の行動は一切必要ない。

 腰に括り付けられている特注の閃光魔弾は三発。魔物を数秒行動不能にするためのこの目くらましが、脱出のための鍵だ。

 ただ、使えば魔物を呼び寄せる。そのためにはどこにどんなタイプの魔物が何匹いるのか。それを把握しなければならない。

「アベル」

 短い声がした。

 近くのテントの影に男がひとり。同じギルドの仲間だ。

「状況は?」

「わからん、俺も起きたばかりだ」

「了解です」

 受け答えは簡素なものだ。互いになにをやるべきかわかっている。

 この大柄な男は、レオナルド。アベルに生き残るための術を叩き込んでくれた者だ。

 ギルドの代表者であり、国では『雷神』の名で知られていた。ベテランの冒険者である。

 多くの経験を重ねてなお生き残っていた凄腕は、世にも珍しき『紫電の魔手』を操る魔法使いだ。

 彼の広い背中を見つめ、アベルは心強いものを感じる。レオナルドと早くに合流できたことは、魔物の襲撃を受けた中の幸運だったろう、

 レオナルドの紫電ならば、魔物の動きを一定時間止めることも可能だ。

「ついてこい、アベル。馬車と積荷を確認するぞ」

「ういっす」

 地を滑るように駆け出すレオナルドを、見失わないようにして後を追う。

 さて、魔物はどこに何匹潜んでいるのか。

 一匹なら話は早い。二匹だと少し、面倒だ。サイズによっては死が付きまとう。三匹相手に囲まれていたら、犠牲なくしては脱出不可能だろう。少なくとも先ほどの剣戟と正面に見えた赤い眼により、二匹はいるはずだが。

 命がけの暗がりをゆくこの瞬間は、いつでも自分が闇と一体化したような気になる。

 そうすることで、恐怖をごまかすことができるからだ。

 草の臭い、風の音、土の感触、揺れる火とその影。あらゆるものが情報だが、見間違えてはいけない。解釈を誤れば、それらはすべてアベルを地獄へと引きずり込むだろう。

 また剣戟の音。どこで誰が戦っているのか。

 ――ふいに、地面が変容した。

 摩擦が消失し、ずるりとぬめる。アベルはその場に激しく尻餅をついた。痛みに毒づきながら姿勢を低く保ち、辺りを眺める。すると闇の中、大小さまざまな塊が転がっているのが見えた。

 死体だ。

 塊は十を超えているが、それらは破壊された人体のパーツが点々としているに過ぎない。実際は三人から六人といったところだろう。

 今この瞬間まで、アベルは冒険者が無残に殺されたことよりも、仕立てたばかりのズボンが血にまみれてしまったことを苦々しく思っていたのだが。

「……ん、レオナルドさん?」

 先を走っていたはずの、男の声がしない。

 立ち込める血生臭さに鼻は麻痺してしまい、役には立たず。

 間近に光る真っ赤な輝きは、何者も照らしはせず。

 ――真っ赤な眼?

 気づけば、口の中には凄まじいほどの苦味が満ちていた。

 激痛にも似た苦味。それは一説には魔物の放つ毒気が人間の感覚器を汚染しているがゆえだと言われている。目にも鼻にも異常はなく、ただ舌がしびれるような苦味が走るのだ。

 よって、――それはそこにいた。

 なぜこの距離まで気がつかなかったのか。それが己の命を己ではなく先頭を走っていたはずのレオナルドに預けてしまったがゆえだと、アベルは気づきもしない。

 冒険者たちをバラバラに引き裂いた魔物は、いまだ貪欲な殺戮の胃袋に満足感を得ず、獲物を待ち構えていた。

 原型モチーフは、野犬。だが筋肉がはちきれるほどに巨大化しており、鼻先から尻尾までの長さは、成人男性の身長を超える。

 黒い巨体。濡れたような毛。真っ赤な相貌。闇に潜み、獲物の喉笛を噛みちぎる狩人。どんな鋼鉄に身を包んでいようが、その爪と牙を防ぐ手立てはない。

 高速移動を特長とする、猟犬ヘルハウンド

「こいつが――」

 人々を城壁の中へと追いやり、あらゆる防具を廃れさせた元凶の魔物種である。

 飢えを満たすため、ときには人を襲う動物とは、まるで違う。

 ――魔物は殺戮のために人々を襲うのだ。

 果たしてレオナルドがどうなってしまったのか。アベルは思考を放棄し、閃光魔弾に手を伸ばす。

 どっちみち生きていてくれたら援護をしてくれるだろうし、死んでいたのならばひとりでこの窮地を乗り越えなければならない――。

 魔物が一瞬地面に沈み込む。飛ぶ気だ。魔物は十メートルの距離を一瞬で詰めてくるだろう。

 間に合わない。まだピンを片手で弾いたばかり。死は形となってアベルに迫る。

 ダメだ。

 死ぬ。

 万分の一秒ほどにも切り取られた時間の中で、アベルは迫り来る魔物と視線を交錯させた。人々に根源的な恐怖をもたらすその怪物を視界に捉えた瞬間、アベルの脳髄に怯えが突き刺さる。

 跳躍する魔物。牙を開き――。

 ――そこに紫色の光が巻きついた。

 ハッとするアベル。この大地を這う稲妻のような力は、レオナルドの『紫電の魔手』だ。

「レオナルドさ――」

 根本を見た。そこには肉塊が転がっているだけだ。

 瞠目する。彼は半分だった。

 恐らくは暗がりから飛びかかってきた四足獣の初撃で、体を斜めに切り裂かれたのだ。顎まで死に浸かっていながら、最後の力を振り絞って魔法を放ったのだ。

 アベルの耳に、聞こえるはずのないヒューヒューという呼吸の音が聞こえた気がした。

 心が凍る。

 アベルは恐怖に駆られて叫んだ。

「ああああああああああああ!」

 アベルは閃光魔弾を魔物に向けて叩きつけるように投げる。

 蜘蛛の巣を払うように魔手を振りほどく魔物。遺書のような魔法はたやすく解け、だがそれはこの瞬間確かにアベルの命を救った。

 閃光魔弾が空中で着火し、アベルは顔を腕で覆い隠す。

 ――辺りに強烈な光が閃いた。

 夜が朝に変わり、そして再び夜を取り戻す。

 フラッシュバックの残滓を瞼の裏から追いやりながら、アベルは状況を確認した。夜に棲む魔物は激しく地面を叩いている。獲物の場所を感知することができなくなったのだ。

 感情の嵐を吐き出すように苦味に満ちた唾を吐き出す。

 早いところ、商隊を出発させなければ。

 そう思い歩き出そうとしたアベルが、一歩を踏み出した。じゃりん、と音が鳴る。死体の遺品だろう。金物を踏んでしまったのだ。

 ただそれだけのことが、致命的な過ちであった。

 次の瞬間――。

 視覚を奪われてその場で暴れまわっていた魔物が、磁石に引き寄せられるかのように向きを変えてアベルに迫った。

 跳躍。影すらも見えず、アベルの左腕の肘から先が爪撃によって絶たれた。

 アベルの二歩目。今度は音を立たなかった。叫ぶ代わりに下唇を噛み切らんばかりに力を込め、三歩目を踏み出す。

 振り向きたい気持ちを殺し、アベルはその場から離脱した。

 局所的な地震のように暴れ狂う音が聞こえる。だが、口の中の苦味は徐々に薄れていった。

 魔物からの次撃はなかった。

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