第3章 リリス(6)

 ふたりが部屋を出ると、そこはそのまま研究室につながっていた。

 液体に満たされたカプセルがいくつも並ぶ不気味な部屋であった。

 どうやら討伐した魔物をそのままの状態で保管しているようだ。リリスは棚や机の引き出しを漁るが、しかし薬は出てこない。

「どこかにあるはずなのよ、どこかに……」

 汗を拭う。伝染病の熱病とはまた違う、リリスの欠点だ。

 魔力を使い、体温を高めすぎてしまったのだ。おかげで身体のコンディションが完全に狂っている。以前にベリアルと戦った際と同じ状態だ。

 マルケドはリリスが完全なる魔人だと評したが、それは違うと彼女自身は思っていた。こと持久力に関して言えば、魔物よりもよほど劣る。

 少なくとも、素手でこれ以上のパフォーマンスを発揮することはできないだろう。部屋をかきまわしながら、リリスは眉根を寄せる。

 やはり薬は出てこない。忌々しい。

 かたや、サラは相当に苦しそうだ。今にも倒れそうなところを、なんとか気力を振り絞って立っているという状況だろう。

 今ここに薬があれば、とりあえずの症状は脱せると思うのだが。

「サラ、薬はどうしたの?」

「控え室にあると思う。目覚めたときには、手ぶらだったから……」

 受け答えはしっかりしているが、焦点が怪しい。限界は近いようだ。

「……そうよね」

 爪を噛みたい気持ちを抑え、リリスはさらに続く扉の奥をうかがった。物音は聞こえてこない。

 サラのことを思えばあまり時間をかけていられないので、なにが出てきても迎え撃つつもりで蹴破ると、そこは王の私室だった。

 こういう作りだったのか。リリスが王の部屋で感じた不気味な雰囲気は、研究室の中の魔物から発せられているものだったのだろう。

 マルケドの部屋もひとしきり探してみたが、しかしというか、やはりというか、薬はなかった。

 どこか医務室か、あるいは倉庫のような場所に行かなければならないかもしれない。

「サラ、あなたは控え室がどこかはわかる?」

「どこだろ……」

 廊下はどこも似たような作りだ。

 仕方ない。兵に追いかけまわされる危険を冒してでも、城を探索しよう。

「なら手あたり次第に開けていきましょう。まだ歩ける? おぶろうか?」

「う、うん……大丈夫」

 サラは潤んだ瞳をしていた。

 彼女はそっとリリスの手を握ってくる。

 熱い。心配そうに顔を覗き込んだ。

「ん、どうしたの? どこか痛む?」

「ううん、そうじゃないの」

 サラは小さく首を振る。

 彼女は感情をこらえるような顔でぽつりぽつりとつぶやいた。

「わたし、ママがわたしのことを今度こそ嫌いになったんだと思ってた」

 そんなはずがない。

 それを言うなら、自分こそサラに嫌われたと思っていた。

 サラはなにも悪くないのだ。

「……カシムと会っていたし、ママのいいつけを破ってばかりだったから。ママはわたしのことを思っていてくれているのに、わたしは聞き分けがないばっかりで」

 リリスは想いを込めてサラの熱い手をぎゅっと握る。

 サラはわずかに微笑んでくれた。

「でも、そうじゃないってわかって、本当によかった。わたし、嬉しいの」

「……ばかね」

 リリスはサラを抱き寄せた。

 陽の香りのする金髪に顔をうずめ、ささやく。

 ずっと、繰り返し言い続けてきた、愛の言葉を。

 きょうからまた、心からの気持ちで伝えるために。

「あたしがあなたを嫌いになるはずがないじゃない。いつまでも大好きよ、サラ。ずっとずっと、永遠に愛しているわ」

「……うん、ありがとう、ママ」

 甘えるように胸に顔をうずめてきたサラを、もう一度強く抱きしめる。

 華奢で、今にも折れてしまいそうな、大切なリリスの宝物。

 壊さぬように、汚さぬように、優しく、そして包み込むように。

 リリスはサラの頬を撫で、決意を新たにした。

「そのためにも、ここを脱出しないとね」

「うん」

 城を揺るがすような禍々しい微動は、まだ続いていた。



 異変に気づいたのは、その直後であった。

 兵士たちが慌てて廊下を駆けている。最初はマルケドの命令で自分たちを捕まえようとしているのかと思ったが、しかしどうやら様子が違うようだ。

 槍や剣を抱え、物々しい様子でどこかへと向かっている。まるで魔物が侵入してきたようだとリリスは思った。しかし門が閉じられた形跡もない。

 王城内が混乱しているのなら、好都合ではある。リリスとサラはなにも知らない少女を装いながら、ひとつひとつの部屋を確認してゆく。

 兵士の部屋、厨房、使用人の部屋。絨毯の敷かれた回廊をゆき、さらに離れは少女たちの住まいとなっていた。

 控え室はいまだ見つからない。兵士を締めあげたほうが早かったかもしれないと後悔し始めた頃。

 ついにサラが立ち止まった。

「ママ、わたしはここにいるから、先にいっていて」

「サラ……」

 彼女の伝染病は漏れてはいない。魔手で心臓を握りしめているからだ。

 だが、壁についてもう一歩も歩けないとばかりに首を振っていた。

 リリスは即座に否定する。

「そんなこと、できるわけないでしょう」

「でも、わたしのペースに合わせていたら、間に合わなくなっちゃう、かも……」

「……」

 彼女の言い分もわかる。

 サラの体力は、明らかに限界であった。

 それはしかし、リリスとて同じこと。

「……まったくもう」

 壁に手をついて、リリスもまた顎から汗を流していた。

 素手で魔物を打ち倒すために全身の血を使いすぎた。めまいが止まらない。なによりも先にサラのためだけではなく、自分のためにも薬を確保しなければ。

 サラをおぶって歩くにも、つらいだろう。

 つらいが、まあ、やらない理由にはならない。

 ――と、そのときだ。

 天井からミシリ、という音がした。

 壁に背をつけたまま、サラがぼんやりと石造りの壁を見上げる。

 リリスはしっかりと二本の足で立ち、音の発生源を探った。

 移動している。自分たちの真上を。その奥を見透かすようにリリスは目を細めた。なんだ。巨大なものが這いずるように動いているのか。

 リリスの背後でなにかが突き抜けるような音がした。サラが「あっ」と叫ぶ。

 反射的に振り返った。そこにいたのは、異様な物体。かろうじて手足のわかるような女の裸体が破られた天井から垂れ下がっている。彼女はこちらを見ていない。

 まるで首つり死体だが、疑似餌のようだとも感じた。

 まともではない。リリスは右拳を思いきり引いた姿勢で、その物体を見据えた。

 正体を見極めるよりも先に、破壊する。それが一番手っ取り早い――。

 そう決めた次の瞬間、リリスの背後でさらに物音がした。

「しまっ――」

 さらに全身で振り返る。すると、似たようなものがもう一匹、天井から今度はサラを捕まえようと迫っているところだった。

「この――」

 床を踏み砕くほどの勢いで駆け出そうとしたところで、しかしリリスの半身が揺らぐ。十分な量の魔力を確保できなかったため、循環燃焼メディテーションが失敗したのだ。

「――化け物がァ!」

 手を伸ばす。だがサラもまた同じように捕まった。

 羽交い絞めにされた彼女もまた、こちらに手を伸ばす。

「ママ――」

「――サラ」

 だが、ふたりの指は触れ合わず。

 化け物がサラの体を引き上げた。

 サラの美しい瞳がリリスを映したまま遠ざかり、天井の穴へと消えてゆく。

 リリスは思わず叫んだ。

「あああああ!」

 最後の力を振り絞り、跳ぼうとするが、しかしそれも遮られる。

 背後から先ほどの化け物が天井を破壊しながらこちらに迫ってくるのだ。頭上でなにかひとつの根に接続されているような軌道であった。

 リリスはその強襲を横に飛びのいて、間一髪で避ける。足の爪先がかすり、わずかに切れて血を飛ばす。

 前後二匹の化け物は天井の中に引っこんでゆく。そして声が届いた。

「この娘を返してほしければ、屋上へと来るがよい。そこでお前との決着をつけてやろうぞ」

 マルケドだ。

「――っ」

 その勝手な言い草に、血ではなく魂が燃焼する。

「サラは関係ないでしょう! 放せ!」

 だが続く声はなかった。

 気配が遠ざかる。壁をぶち壊しながらまっすぐに上へと向かっているようだった。行き先を示すかのように、兵士たちの絶叫が点々と届いてくる。

 リリスはむなしくその場で拳を床に叩きつけた。

「まったくもう……まったくもう!」

 サラを守れなかった。その悔恨を引きちぎるようにして立ち上がり、リリスは歩き出す。

「今、迎えにいくわ……待っていて、あたしのお姫様」

 せっかく心が触れ合ったと思ったのに、こんなところで離れ離れのまま終わるなんて嫌だ。

 足を前に進める。だが三歩もいかないままで、リリスは壁に手をついて立ち止まった。

「……はぁ、はぁ……くそう……!」

 いよいよ全身に力が入らない。

 歩けなくなったのなら、這ってでも進もう。あの子を迎えにいこう。

 だが、それではおそらく、やつには、――マルケドの造り出した最高傑作には勝てない。

 今ゆくのは、犬死と一緒だ。

 死ぬとわかっていて、なんのために向かうのか。

 一歩が重い。とてつもなく遠い道のりに思える。

「あたしは……」

 報いるためだとか、愛のためだとか、守りたいからだとか、彼女に救われたからだとか、そういった理由はもはやリリスの頭の中には残っていなかった。

 ただ、ただ、サラがそこにいるから。

 それだけのために、リリスは足を動かした。

「……はぁ……はぁ……」

 音は遠ざかり、五感のすべてが麻痺してゆくかのような感覚。

 だが、耳にはサラのささやきが残っていた。

 抱きしめたときの感触があった。

 陽麦のような髪の匂いを思い浮かべることができた。

 まぶたの裏には、サラの笑顔が輝いていた。

 今、ようやくリリスは理解した。

 サラが自分のとってのすべてであるという、その言葉の本当の意味が。

 どんなときも、どこだって、リリスの思い出はすべてサラとともにあった。彼女がいるからこそ、リリスは人生を歩んでこられた。サラのいない人生などもはや考えられない。

 だから、ゆくんだ。

 歩き出す。

 足を引きずりながら。

 城の頂上へ、空を目指して。

 ――その途中、思わぬ人物と再会した。

「おお、あんた、また会ったじゃねえか」

「……え?」

 かすむ目で見つめる。

 カシムであった。


 なぜここにいるのかと問いただすと。

「そりゃあ城へは出入りしているさ。王には会ったことがないってだけでね。女を売るだけが商売じゃないんだ。こう見えても腕の確かな商人って評判なんだぜ」

「……そう」

 さすがに立ち話をしているような余裕はリリスにはない。

 彼の横を通り過ぎようとしていたところで、カシムが目を光らせた。

「それにしてもあんたたちだろ? あの魔物を引っ張り出したのは」

「……魔物?」

 カシムは天井を指差した。

 ああそうか、魔物か。マルケドの造り出した魔人は、そう言われるべき存在だろう。

 今思えば、兵士が右往左往していたのは、それが原因か。

 頭が働かない。

「王様が、トチ狂っちまったんだろうよ。魔物を従えて、王城の最上階でふんぞり返ってやがる」

「今、そいつをぶちのめしにいくところよ……」

 と、言いかけてリリスは口を閉ざした。

 ようやく――、ゆっくりと思考が回転を始める。

「……カシム、あなたは商人で、この城に出入りをしているのよね」

「ああ、そうさ」

 カシムは我が意を得たりとばかりにうなずく。

「城の構造には詳しいぜ。もちろん、倉庫の場所も知っている。なにかお探しかい?」

「……サラのいた控え室に、薬が置いてあるはず。それがあれば」

 でも、とリリスはこめかみに指を当てた。

「あなたが泥棒の片棒を担いで、なにか得することはあるのかしら……」

「あるんだな、いろいろと」

 カシムは含みをもった言い方をした。

 彼は再び天井を差す。

「そのためにはあれを鎮めてもらわねえとな」

「……いいのかしら。あたしが行ったら、あなたの一番の取引先は死んでしまうわよ」

「おっかねえ女だな」

 カシムは笑った。

「女を売る商売なんざ、長くは続かねえよ。恨まれるばっかりさ。だが、王に目をつけられている以上、生きている限り、国にとどまる限りやめられねえ。そろそろ足を洗うときだと思っていたんだ」

「……」

 カシムはそう言うと、リリスの体を起こすように肩を貸してきた。

 腕を彼の肩に回され、ハッとした直後にリリスは怒鳴る。

「だ、だめだわ。あたしに触ったら、あなたにまで」

 リリスは今、サラの影響で伝染病に感染している。ならば触ったカシムにもうつってしまうかもしれない。

 しかしカシムはうろたえない。

「知っているさ。でも薬を飲めば治るだろ?」

「それはそうかもしれないけれど……」

 だからといって、ほとんど名前しか知らないような相手に命を懸けるなど、ありえない。

 信じられないとばかりに首を振るリリスに、カシムは真剣な横顔を見せていた。

「魔物に殺されそうだった俺を助けたのは、あんただろ……。だったらこの命、一度はあんたのために使ってやらあ」

「あなた……」

 リリスを引きずるように歩き、カシムはまっすぐに目的地に向かう。

 この現場を見られても、商人が怪我した女を安全な場所に運んでいるとしか思われないだろう。

 カシムはさらにつぶやく。

「あんたなら、やってくれるはずさ……。今度は俺を、運命から救ってくれよ……」

「……」

 その言葉には答えられなかったが。

 しかし、ものの足らずにサラたちのいた控え室へと到着した。

 リリスは震える指でサラの荷物を漁って、薬を確かに一瓶見つけ出し、その中身を一気に三粒飲み込んだ。

「はぁ、はぁ……」

 拳の開閉を繰り返す。すぐに効いてくるものではないが、だがこれでひとまずの命拾いはできた。

 心臓に手を当てる。鼓動が少しずつ安らいでゆく。

 体温は下降の一途をたどり、脳には冷静さが注ぎ込まれた。

 ふらつきながら、自力で立ち上がる。

「ありがとう、助かったわ、カシム」

「どうってことはないさ」

 カシムは入口に立ち、肩をすくめていた。

 彼にも錠剤を二錠わける。

「今すぐ飲んで。それで恐らく発症は防げるわ」

「おっかねえな」

「もし余裕があったら、これと同じものを見つけてほしい。お礼はするわ」

「その身体で?」

 悪戯っぽく笑う彼に、リリスも口の端を吊り上げた。

「いいわ、気に入らない相手がいたら殺してあげる」

「おっかねえな」

 そこでカシムは背負っていたなにかを取り外す。

 それは刀であった。

 まったく気づかなかった。カシムが胴に背負っていた一本の刀は、リリスの愛刀だ。

「持ってきておいてよかったぜ。あんたのだろう。このバカみてえに重い刀は」

「……あなた」

 両手で渡してきたそれを、リリスは片手一本で軽々と受け取った。

「あんたを初めて見たときから、あんたは俺の中のなにかを変えてくれるような予感がしていたんだ。……今さらだが、いろいろと言って悪かったな」

「いいわ」

 リリスは静かに首を振った。

 素直に認めよう。

「サラの審美眼は、正しかったのかもしれないわ」

 カシムはそう悪い人ではない。

 彼女は最後まで言い張っていた。

「ああ?」

「なんでもないの。でも、ありがとう」

 リリスは親指で刀の鍔を跳ね上げた。

 バジンという音がして結合が解け、その刀身があらわになる。血を吸う妖刀のように鈍く輝く刃。それを見つめながら、リリスはつぶやいた。

「あなたと出会えてよかったわ、カシム」

「光栄だね。だったら一緒に暮らす件、改めて考えてくれてもいいんだぜ」

 せっかくの申し出だが、断らせてもらった。



 刀を摑み、リリスはさらに上へと昇ってゆく。

 螺旋階段は天空へと続いているかのようだった。

 震動はさらに強くなり、自分が近づいているのだということがわかった。

 英雄医師。彼らは人類にとっては救世主だったのかもしれないが、自分たちにとっては狂乱の暴君でしかなかった。

 風の吹きすさぶ、王城最上階。

 そのテラスから外に降り、斜めに張った屋根の上に、マルケド王はいた。

 そばにひざまずく、異形の魔人とともに。

 リリスは前に歩み出た。

 兵士たちの死体が散乱する中、サラの姿は見えない。

 マルケドはやってきたリリスを濁った瞳で見据え、口を開く。

「よくぞ来たな、リリス」

「……マルケド、サラをどこにやったの」

 しかしマルケドはリリスの言葉を聞いていない。

「僕はこれから証明する。僕の造り出した傑作こそが、お前を凌駕する性能をもつということを」

 数メートルにも及ぶ異形の魔人。それはこれまで以上に醜悪な外見をしていた。

 遠目には頭部のない人間のように見えるだろう。だが近づいてみれば、それはまったく違った。両手足と胴体。五つのパーツから組み立てられた肢体は、人間の体で作られていた。

 なまめかしく白い肌をした娘たちが、その魔人を形成しているのだ。

 五人の娘が犠牲になって、生み出されたおぞましき一匹の怪物。それこそが――。

「これこそが、セフィロト」

 マルケドは左足を形成する少女の臀部を愛おしそうに撫でる。

「リリスは偶然の産物で生まれた者だ。お前の存在は神が与えし才能だというのなら、僕は神を超えてみせようじゃないか」

 先ほど、天井からリリスを襲い、サラをさらったのはこれだ。

 恐らく右腕と左足がやったのだろう。

 リリスは息を吸い込み、マルケドに問う。

「それが、それなの?」

「そうとも、セフィロトさ。これがリリスを打ち倒したそのとき、魔人は魔神と成るのだ」

「サラをどこにやったの」

 二度目の問い。だがやはり彼は答えない。

 リリスは刀を強く握る。

「サラは無事なの」

「心配することはない。貴様はここで死ぬのだから」

「ああそう」

 くだらない。

 まったく。

 リリスは彼をねめつける。

「あなたは王なんじゃなかったの? 守るべき民を殺して、そんなことがしたかったの?」

「王の座など、僕が研究するための設備を整える皮に過ぎぬ」

 マルケドは腕を振る。

 そして突然、激高した。

「いつまでも下らないことを言うんじゃない。僕はあいつらの誰にも成し遂げられなかったことをするのだ! なにが英雄医師だ! もっとも優れているのは僕だ! 英雄はマルケド=エリンツィただひとり! それを今から証明してやろうじゃないか!」

 唾を吐きながら叫ぶその老人を、リリスは冷たい目で見つめる。

「結局あなたはその程度の男だったのね」

「黙れ! お前のような実験体に、僕のなにがわかる!」

「わかるわ」

 深呼吸し、リリスは言うべきことを告げる。

「王城の屋根で魔物を率いて、守るべき兵を殺し、たったひとりで気炎を掲げる孤独な男。それがあなたの至った道よ。他には誰もいない、愚かな終点だわ」

 そこに愛はない。

 リリスの全身に再び炎が宿る。

「あなたを引き裂いて、サラを返してもらう」

 マルケドもまた叫んだ。

「いけ、セフィロト! その実験体を物言わぬ肉塊へと変えろ!」

 その言葉とともに、セフィロトは腕を振り上げ、全身から赤い蒸気を噴き出した。

 リリスは刀を抜く。――そして魔手抜刀剣の鞘を無造作に捨てた。

 きらめく刃を真下に向け、リリスは柄を両手で握った。

「さようなら、マルケド。あなたは歴史の中で生き続けなさい」

 刀の柄を両手で上下にゆっくりと開いてゆく。

 すると、割れたその柄の中に、もうひとつの鉄芯のような柄があった。

 新たなる柄には数ミリの針が無数に突き出している。その剣山のような柄を、リリスは両手でしっかりと握りしめた。

 内部に隠されていた針は当然のごとく手のひらに深く突き刺さる。だが、リリスの手のひらから血がこぼれる様子はなかった。

 ――血管に接続され、この瞬間、魔手抜刀剣はリリスの体の一部と化す。

 これは魔手抜刀剣・堕天。

 この世界でリリスのためにだけに作られた魔刀である。

 彼女は全身に魔力を込め、渾身の循環燃焼メディテーションを始める。

「魔手抜刀剣・堕天。――天より堕ちる時が来たわ」

 その漆黒の刀身に、ゆっくりと赤い線が走った。


 研究所クリニックが魔物に襲われ、すべての機能を停止し、ふたりが旅に出なければならなくなったその日から、リリスは自らの戦闘技術を高めることに執心した。

 多少の心得はあった。少女たちの中で魔手に覚醒したものたちは皆、その訓練をさせられていたし、リリスの特筆すべき魔手は身体能力にこそ長けていた。

 旅に出たリリスは刀を持っていた。

 実験の最中、戯れにひとりの医師がリリスに与えた刀だった。

 当時はまだ魔手抜刀剣が開発されていなかった。そのプロトタイプとして作られた一振りである。

『魔手抜刀剣・堕天』

 研究所クリニックの技術の髄が結集したその刀は、特殊な物質で作られていて、とても人が振りまわせるような重さではなかった。

 刀は、魔力を内包した魔物の骨で作られていた。それらを金属と見紛うほど超高密度に圧縮した物質であったからこそ、あまりにも重くなってしまったのだ。

 そして、もうひとつの能力。それこそが、堕天の真の力を解放するトリガーであった。

 普段は重く鋭いだけの、その刀。

 だが、リリスが操るときにこそ、本性を現す。

「これはあたしの刀。あたしのためだけに作られた刀。あたしが望めば、森羅万象を破斬するための力をくれる。魔刀」

 その言葉通り、刀は不気味な赤い光を宿している。

 ――血が注ぎ込まれたその刀は今、魔手と同じ力を発する。

 マルケドが目を見開いた。

「たわごとを! やれ、セフィロト!」

 歪な怪物が屋根を揺らしながら、リリスに迫る。

 五人の魔人を繋ぎ合わせて作られた魔神セフィロトの魔力は、単純に考えて通常の五倍。これまでとは比べ物にならないほどの強敵だ。ならばリリスが受け切れる道理はない。ないのだが。

 ただ事実だけがある。リリスが刀を水平に振るったそのとき、セフィロトが振りかざした左拳は分断され、マルケドの後方、屋根の上に突き刺さった。

「ばかな」

 もう一振り。今度はセフィロトの右腕が断ち切られた。

 これほどまでにたやすく――。

「なんなんだ! なんなんだその刀は! この僕の理解が追いつかないなんて、いったいどうなっている!」

 さらに循環燃焼メディテーション。魔力を運びながら加速してゆく高温の血液は、刀身に赤く、赤く、線を刻んでゆく。

 今度はリリスがセフィロトの左足を斬り飛ばす。体を支えられず、セフィロトはその場に転倒した。

 わざわざセフィロトの四肢を斬り離しているのは、いたぶっているからではない。一本一本、リリスは組み合わされた少女たちを葬送しているのだ。

 セフィロトがあがくことによって、屋根が崩壊してゆく。足場が揺れ、マルケドはその場に張りつくようにして伏せながら、叫んだ。

「そうか、わかったぞ! わかった! その刀はそうか、そういうことか!」

 さらに刀身に赤が走る。それは血の色だ。

「魔物の骨髄を使い、そこにお前の血を注入しているのだな! その刀もいわば魔物のようなもの、すなわち魔刀だ! リリスの肉体と同化したことにより、お前の魔手の影響を受ける! だからそんなにも――」

 そんなにも、鋭く重い。

 リリスの身体能力に呼応するように、刀の斬れ味があがっているのだ。

 屋根が崩れた。マルケドは喚きながら落ちてゆく。

 それすらも逃さない。

 リリスは瓦礫を蹴って飛び込み、刀を振るう。

 四本目の足が分断され、ついに残るはセフィロトの本体ひとつ。

 これで忌まわしき戦いも、終わりだ。

 まさしくリリスの振るう刀は、魔刀。

 たっぷりと血を含んで鋭さを増したその刀は、魔物だろうが魔神だろうが、斬滅せしめる。

 もはや抗う術はない。

 リリスは刀を大上段に振りかぶり、裂帛の気合いとともに振り下ろす。

「あたしのすべてはサラのためにある。それがわからないのなら、あたしには勝てないわ。永遠にね――」

 セフィロトはついにその存在を断ち切られた。



 すべてが終わり、リリスは「わかったぞ、わかったぞ……」とつぶやき続けるマルケドを見下ろしていた。

 下半身が瓦礫に潰されており、もはや死は目前に迫っていた。

 老人を看取ることなく、リリスは背を向けた。

 それよりも――。

 リリスの五感が彼女の居場所を探り当てるまでもなく。

 落ちたところに、サラはいた。

 床に倒れた金髪の少女は熱でもうろうとした目をこちらに向け、苦しそうに息をついていた。

「サラ!」

 抱き起こすと、彼女はその頬をわずかに緩めた。

 力の入らない四肢を投げ出したまま、目を細めて口を開く。

「ママ……。やっぱり、来てくれたね……」

「当たり前よ、サラ」

 慌てて薬の瓶を取り出し、リリスはそれをサラの舌の上に押し込んだ。

 三錠。飲み込むように言うけれど、サラは夢を見ているような顔をして微笑んででいるだけだ。

「早く、飲んで、サラ……」

「ママ、わたし……」

「サラ!」

 熱い。手足がとてつもなく熱い。

 斑紋はもはや首にまで浮かんでいる。

 まさかこんなにも進行が早いだなんて。

 サラは儚い笑みを浮かべ、つぶやいた。

「わたし、もう十分に、楽しかったから、だから」

「やめて、サラ。薬を飲みなさい!」

 肩を揺さぶるけれど、彼女は力なく首を振っていた。

 どうしてそんな顔をするのか。

 それでは悪魔ではなく、天使になろうとしている少女のようではないか。

 瓦礫に埋もれた彼女は奇跡のように美しく。空から差し込む光はまるで階段のように、サラを照らしている。死ぬにはふさわしすぎる光景で、それがなによりも悲しかった。

 リリスはあがく。

 とても諦めることなんてできなくて。

「愛しているわ、サラ、だから――」

「わたしも、愛しているよ、リリス。だから、君は、君の――」

 だったら。

 お願いだから。

 リリスは思いきり息を吸い込んだ。

 そして。

「――あたしを置いていかないで、サラ」

「んっ――」

 リリスはサラに口づけをした。

 有無を言わさず、そのまま彼女の口内に唾液を流し込む。

 のどがこくりと鳴る。錠剤を嚥下する音がした。

 しばらくそのまま唇をつけたままでいた。

 ゆっくりと顔をあげたリリスは涙を流していた。

「死なせないわ、サラ。あなたがいなくなったら、あたしはひとりぼっちになってしまう。あたしを置いてかないで、サラ」

 ぽたりぽたりと。

 その涙が、サラの頬を濡らし、肌を伝って唇に流れた。

 そして再び彼女は喉を鳴らす。

 浮かんだのは、淡い微笑みだった。

 身を丸めながらリリスに引っつき、彼女は想いを遂げたかのようにこう言うのだった。

「――まったくもう、ママは、本当に泣き虫なんだから」


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