第3章 リリス(3)

 リリスは鏡の前にいた。姿見はよく磨かれていて、リリスの美しくも妖艶な姿を映し出していた。

 胸を申し訳程度に隠した下着のようなあられもない格好だ。腰布が巻かれているものの、露出に比べれば頼りない。

 リリスは顔を手で覆った。

「まさか自分がこんな服を着るとは、思ってもいなかったわ」

 これが服なのだろうかという疑念は置いておくとして。

 着替えが終わったことを告げると、部屋の外からカシムがやってきた。着替えを手伝ってくれた女が頭を下げて部屋から出てゆく。

 入れ違いで入ってきたカシムは、明るい声をあげた。

「いやあ、素晴らしいね。これほどの上玉を見るのは初めてだ」

 それが心からの賞賛であっても、リリスの心にはなにひとつ響かない。

「刀は置いてゆくのよね」

「そりゃそうだろうよ」

 リリスは眉根を寄せた。もちろん抜刀術がなくても、リリスの戦闘能力は人間相手に比類する者はいない。

 だが、それでも心細さが胸の中に生まれた。それはあるいは、この娼婦のような格好のせいかもしれないが。

「サラには見せられないわ」

「可愛いと思うんだけどな。もしかしてリリスは、そういう経験がねえのか?」

「あたしの恋人はサラよ。あなたには関係ないでしょ――」

 言葉の途中だ。カシムがリリスに迫ってきて、思わず口をつぐんでしまった。

 カシムは真剣な目をして、リリスを見つめている。

「本当に、いい女だ。王に渡すのはもったいねえな」

「おかしなことは言わないで」

「俺はマジさ」

 目を逸らす。応接間で待っているはずのサラの顔が瞼の裏に浮かぶ。肩を掴んできたカシムの手を、リリスは振りほどいた。

 カシムは肩をすくめて、取りつくろうように言う。

「お前は、心にずいぶんと壁を作っているんだな」

「……なんですって?」

「サラのほうがよっぽど前に進もうとしている。だってのに恋人がこれじゃ、これからも大変だろうよ」

「どういうことよ」

 リリスはカシムを冷やかな顔で見つめ返す。

「気づいていないのかい。お前は自分がなにをやりたいのかをわかっていないんだよ」

「あたしをバカにしているつもりか」

「いんや、見たまんまさ」

 カシムはひょいと退きながら、さらににやついた顔でリリスを見やる。

「サラはいつかお前の手から離れてゆくさ。お前が内に閉じこもっているのなら、なおさら。そのときにお前はあいつに手錠でもつけるのかい」

「あの子は!」

 リリスは思わず踏み込んだ。

 怒気に部屋の姿見がビリリリと揺れる。

「サラは、絶対にあたしのそばから離れないわ! ずっと、約束していたもの! あたしがあの子を守り続けるんだって!」

「それはあいつの願いじゃなくて、お前の望みだろう」

「だとしても!」

「だとしたら、お前は自分の好きなようにサラを閉じ込めているんだろ」

「……っ」

 リリスは唖然として、カシムを見た。

 華やかな外見をもつその男は、なにも言わずにこちらを見据えている。

 リリスの語気が急速に弱まってゆく。

「あたしは、サラのことを本当に大切に思って……」

 本当にそうだろうか。

 問いかければ問いかけるほどに、その疑念はリリスの胸に矢じりのように突き刺さってゆく気がした。

「だから、彼女の幸せが、なによりも大切で……」

 それは純粋な想いか?

 大切ならば、サラを拘束したいとは思わないはずだ。

 いや、大切だからこそ自分のそばにいることが、サラの一番の幸せだとリリスはそう考えている。そのはずだ。

 しかし、それが本当に心からの善意によるものだと証明することは不可能だ。リリス自身が疑念をやめられないのだから。

 だから、カシムはリリスに問う。

「お前はいったい、なにがしたいんだ?」

「あたしは――」

 リリスは言葉を詰まらせた。

 サラを幸せにしたいのか、自分が幸せになりたいのか、どちらなのか。

 それが、わからない。

 カシムはリリスにささやく。

「あんたが望むなら、これぐらいの屋敷はすぐに手に入るだろうよ。そうして女どもをはべらせて、自由気ままに暮らせばいい。悩むことはねえ、今よりもずっと幸せなはずだぜ。どうしてそれじゃあいけないんだ? なあ」

「……」

 リリスは再び首を振る。

 それではだめなのだ。

 明確な理由はあるのだが、しかしそれを言語化することができない。

 リリスはサラといったいどうなりたいのか。

 それすらわからず、ただ彼女は首を振った。

「サラはあたしのすべてよ。あなたに手を出さないでほしいわ」

「それが彼女の望むことであってもか?」

「そうよ」

 リリスは断じた。

 拒絶の意思を浮かべたその目を見て、カシムも肩をすくめる。

 それでも言っておかなければならないことがあるようだ。

「王の元に行ったら、もう戻ってこれねえぞ」

「……それはどういうことなのよ」

「言葉通りの意味さ。あんたがどれほど強くても、城は王の庭だ。女たちが中でなにをされているかなんて、俺たち商人は知らねえ。ひどい目に遭わされるかもしれねえぞ」

「あんたたちはそれを知っていて、女を王の元に送り込むんでしょう? 人間のクズね」

「こんな世界だ。やりたいようにやって生きていくしかねえだろ。なあ、リリス」

 カシムの黒い瞳の中に映ったリリスは、まるで女のような顔をしていた。

 だが、揺るがない。そんなものは目の錯覚だ。雌雄の区別などありえない。

 ――なぜなら、自分たちは悪魔だ。とうに人間ではないのだから。

 リリスは小さく指を鳴らした。

 カシムの気を削ぎ、そしてとうとうと語る。

「あの子たちが現状に絶望し、あるいは刺激を求めて新しい生活に飛び込もうとしているのは、わかるわ。あるいは身を売らざるをえない事情があるのかもしれない。だからといって、その子たちを食い物にして私腹を肥やしているような連中を許す気にはなれないわ。特にそういう男はね」

 あの浴槽だってそうだ。かわいそうな目に遭った女たちの血肉でできている。

 それを考えたらリリスは素直に楽しむにはなれなかったのだ。

 リリスの全身が赤みを帯びてくる。血液に混じる魔力はその速度を増し、リリスに無限の力を与えてくれる。

「食い物だなんて、そんな」

 カシムは後ずさりをした。

 目を赤く輝かせるリリスは、先ほどよりもずっと美しい。だがそれは決して触れてはならない。

 先ほど見せた弱さはもはやそこにはない。

 契りを結べば魂を砕かれるような、悪魔のような美貌だけが輝いていた。



 サラには「自分はひとりで王の元に向かう」と言いつけておいた。

 彼女はそれをとても不満そうにしていたが、今回ばかりは甘やかすわけにはいかない。

 リリスと違い、サラの肉体強度は並なのだ。彼女の魔手がいかに強力だとはいえ、逃げ場のない空間で無茶はさせられない。

「でも、リリ、それもわたしの薬のためなんだよね……」

「……まあね」

 結局、カシムの屋敷の一室を借りることにした。王からの召集はいつ入るかわからないということらしいから。

『英雄の国』の夜は騒がしい。あちらこちらから怒声や悲鳴。さまざまな感情の噴出がある。

 リリスとサラには別々の部屋が与えられた。ベッドがふたつある部屋がないというのがその理由だったが、リリスとサラは身を寄せ合うようにし、ひとつの部屋、ひとつのベッドをふたりで使っていた。

 そんな夜のことだ。

 サラは寝た子を起こさないような声で、ささやきかけてきた。

「リリ、最近ちょっと、様子が変だよ」

「……そうかしら」

「うん。思いつめているっていうか、すごく悩んでいるように見える」

 リリスはサラの美麗な顔を見つめながら、口をつぐむ。

 だとしたらそれは、カシムに言われた言葉がずっと響いているのだ。

 今までずっと考えないようにしていたことだったのかもしれない。

 なにがサラの幸せなのか。彼女がたとえばここでカシムの妻になって、そうして短い余命を終えることが本当の幸せなのだろうか。それが見えなくなってきた。

 いつからこんなことを考えるようになったのか。

 昔はもっと本当に純粋に、サラのためだけに生きていたはずなのに。

 もう、よくわからない。

 リリスの口から出るのは、上っ面の言葉だ。

「大丈夫よ、サラ。あなたが心配することはないわ」

 サラは嫌そうな顔をした。

「……リリはいつもそう言うばっかり」

「あなたのためよ」

「なにがわたしのためなの」

 彼女こそ様子がおかしいと思い、リリスは顔をあげた。

 サラはうつむき、唇を噛んでいた。

「そうやってわたしを子ども扱いして、なんにもさせないようにするのが、わたしのためなの?」

「……それは、そういうわけじゃ」

「リリはわたしをあらゆるものから遠ざけようとしているだけだよ」

 ここ最近ずっと安定していると思っていたら、これだ。

 わめきだすサラに、リリスはため息をついた。

 なぜ彼女はわかってくれないのか。そんな気持ちがこぼれた。

「そうじゃないの。あたしはあなたが大切で」

「わかんないよ、リリ。だったらどうしてあれもやっちゃだめ、これもやっちゃだめなの。リリが本当にわたしのことを考えているなら、そんなこと言うはずないよ」

「あなたが無茶ばかり言うから――」

「――『あたしの気に入らないことはするな』って言ってくれたほうが、よっぽどわかりやすいよ!」

「サラ!」

 リリスは思わず立ち上がり、彼女の手首を握りしめる。

 自分が研究所から救い出さなければ、サラは魔物にやられてか、あるいは伝染病によって死んでしまっていた。それなのに、その言い草はなんだ。

 とても怖い顔をしてしまっていただろう。

 サラはびくっと震え、怯えたような顔でこちらを見上げていた。

「わたしを、ぶつの? リリ……」

 魂が冷えてゆくのを感じる。

 それは甘美な誘いですらあった。

 サラに力づく言うことを聞かせることができれば、どれだけ気持ちいいだろう。己の望みはもしかしたらそれなのかもしれないとさえ思えた。

 だが、ありえない。

「……そんなことは、しないわ」

 サラはさらに踏み込んだ。

「いいんだよ、斬っても、別に」

「やめなさい、サラ」

「リリに斬られるなら、それで構わない」

 震える彼女はそう言った。

「やめて」

 リリスはサラの手首をゆっくりと離す。

 言葉が出てこなかった。

 自分にひどいことを言うサラが許せなかった。

 誰のために延命の薬を探し続けていると思っているのか。

 それなのに斬ってもいいだなんて言われたら。

 今までリリスが続けてきた好意と善意だと思っていたことが、すべて必要なかったと斬り捨てられたようなものではないか――。

 彼女のためにどんなにつらい思いだって我慢してきたつもりだったのに。

 あんまりだ。

「あたしは……ただあなたに……」

 だからといって、サラを傷つけるつもりなどない。

 青い顔をしてこちらを見つめてくるサラに、ことさら大きなため息をついた。

「……」

 サラは金髪を翻しながら部屋を出てゆく。

 止める術は、リリスにはなく。

 悔いはあとから押し寄せた。


 サラはなかなか戻ってこなかった。

 目を閉じてベッドに座るリリスは、少し昔のことを思い出していた。

 自分がまだ研究所にいた頃だ。

 いつも、彼女に慰められていた。

 ――サラ。

 胸の中でつぶやく名前は、同じ。

 ずっとリリスをかばってくれた少女の名前だ。

 故郷からずっと一緒で、絶望の中にもあっても彼女の輝きは太陽のようだった。

 自分が生きていられたのは、サラのおかげだ。

 だから――。

 見失ってはならない。

 おごり高ぶってはいけないのだ。

 永遠に、彼女に仕える騎士でなければならない。

 自分はあの、記憶を失ったサラを、いつまでも守り続けなければならないのだから。

 ――どんなに性格が変わり果ててしまっていても。

 彼女に報いるために、絶対に――。

「……そうよ」

 心細くて、悲しくて、泣きそうだった毎日。

 だが、いつでも必ずあの金髪の少女が自分を見つけに来てくれた。

 もしかしたらあの日の自分のように、サラは今、どこかで自分を待っていてくれるのかもしれない。

 リリスは目元をぬぐい、立ち上がった。

「……よし」

 サラを探しにいこう。

 あの頃の自分とは違う。今度は自分が守る番なのだから。

 リリスは刀を摑むと、廊下に出た。

 辺りはもうすっかり暗い。壁に取りつけられた燭台の火がゆらゆらと揺れて影を作る。

 さて、サラはどこにいったのだろうか。

 この広い屋敷で、特定の人間の呼吸音や足音を聞き分けるのは難しいだろう。労を惜しむよりも、循環燃焼メディテーションを使おうか。

 そんなことを思っていると、話し声が聞こえてきた。

 近くの客室だ。リリスがそちらに近づくと、間もなくドアが開いた。

 出てきたのはサラと、そして気安く笑うカシムだ。

 リリスに見られて、サラはしまったという顔をした。だが、カシムは平然としている。

 刀を抜かなかったのは、単純にリリスがまだ循環燃焼メディテーションをしていなかったからに過ぎない。

 サラを迎えにいくのは自分のはずだ。そうでなくてはならなかった。

 だというのに――。

 ぞっとするほどに冷徹な声が漏れた。

「なにをしているの、カシム」

「……こいつぁ、面倒なところを見られちまったなあ」

「答えなさい」

 有無を言わさぬ口調で詰問すると、代わりにサラが前に歩み出てきた。

「違うの、リリ。これは」

「サラ。あなたがその男と親しげにしていたのは知っていたわ。だけれど、やめなさい。その男はあなたにふさわしくないわ」

 いつも以上に険しい物言いだった。

 リリスを口説き、断られたから今度はサラを狙ったのだろう。

 その一方的な言葉に、しかしサラは表情を曇らせた。

「ふさわしい、ふさわしくないって……。カシムは別に悪い人じゃないと思うけど……」

「そいつが悪党じゃなかったら、世間に牢屋はいらないわね」

「カシムだって、いろいろあって、ここまで生きてきて……。両親が亡くなってからの事情だって、わたしは聞いたもの! リリはなにも知らないのにそんなこと言わないで!」

 リリスはスッと目を細めた。

 このふたりの関係がどこまで進んでいるのかはわからない。だがサラはすっかりとカシムに懐柔されてしまったようだ。

 うちのお姫様は優しくて、あまりにも世間知らずだから。

 あのサラの真っ白くて透けるような肌に、カシムは触れたのだろうか。よりにもよってこの男が両足をこじあけ、サラを良いようにもてあそんだのだろうか。

 なぜ、いったい、そんなことができてしまうのか。

 サラは宝石であり、リリスのすべてだ。

 それをこの下品な男が汚したというのなら。

 やはり、だめだ。報いを受けねばなるまい。

 リリスは己の心の中に母親というだけではない想いが浮かんでいることに、果たして気づいているだろうか。

 男が男であるというだけで、この美しき我がサラと添い遂げることができてしまうという事情を看過してはいけない、胸に燃える想いを。

 リリスの愛は、サラが思うほどに普遍的でも、博愛でもない。

 その事実を己が魂に刃を突き立てられたような気持ちで受け止め、しかしリリスはさらにサラの腕を取った。

 なんであろうと、今さら目を背けるわけにはいかない。

 自らの心情を論理的に言語化することができず、荒ぶる情念の炎に振りまわされながら、リリスは口を開いた。

「その男の事情は知らないわ。サラがなにか力になってあげたいと思うのは、美しい話よ。けれど実際問題、あたしたちにとって他人を構っている余裕なんてないの」

 サラはその言葉に反感を抱いたようだ。

「それじゃあわたしたち、なんのために……」

「あなたのためよ、サラ」

「だったらわたしは、なんのためにいるの!」

 サラが弾かれたようにリリスを見上げた。

 最近は手がかからないと思っていたのに、ここにきて、だ。

「少なくとも、そこにいる悪人に食い物にされるためにいるわけではないわ」

 リリスがそう言うと、サラは非難するようにこちらを見た。

 ひどく、反逆的な視線だった。

「カシムがなにをしているのか、わたしだって理解していないわけじゃない。ただ、相談にのってもらっていただけで、別になにもされていない。それに――」

 サラはリリスに決定的な一言を放つ。

「――やっていることだったら、リリだって変わらないじゃない」

「……それは」

 突然の糾弾に、リリスは言葉を失った。

「わたしのためだって、人を騙して、殺して、薬を奪って! それでまっとうな顔でお説教をしないでよ!」

 サラは両手を振り乱す。

 一方、カシムはどうだ。己のために私利私欲を肥やす。だが他人から見れば、そこに大きな違いなどはないのではないか。

 憤りが動揺に変わる。鼓動が跳ねた。

「あ……」

 サラは自分の言ってしまったことがどんな結果をもたらしたのか、気づいたようだ。

 しかし言葉は口内には戻らない。

 ふたりは一瞬だけ見つめ合い、そして再び視線を逸らした。

「……サラ、部屋に帰るわよ。あなたがその男とふたりで会うのは認めない。これからもずっと。それだけよ」

 サラは小さく首を振った。

 拒絶の仕草であった。

「リリなんて、だいきらい」

 その言葉が心臓に突き刺さる。

 カシムは肩をすくめて去り、サラは借り受けたもう一方の部屋に戻ってゆく。

「……」

 リリスは自らの拳を握りしめた。

 信じていないわけではないのに。リリスは暗澹たる気持ちになる。

 この美しき少女のどこにあの男のゴツゴツとした指が触れたのか、それが気になって嫌な気持ちになって仕方ない自分は、とても救われないな、と想いながら――。



 翌日。ふたりに、会話はなかった。

「あたしが出かけたら、あなたはちゃんと自分の宿で待っているのよ。薬はちゃんと毎日飲むこと。症状が出てからでは遅いからね。いい? 毎日よ」

「……」

 椅子に座って手遊びのように紙を折るサラに話しかけても返事はなく、リリスは苛立ちを押さえることができない。

「あの男に誘われても、ついていってはいけないわ。本当にわかっているの? あの男と付き合いを続けていたら、そのたびにあなたは不幸になってしまうわ」

 論理的に諭さねばならないと思っていながらも、ついつい強い言い方になった。

 サラの瞳が、おずおずとこちらを見上げた。

「リリが帰ってこなかったら、わたしはずっとひとりで待つの?」

「……あたしは戻ってくるわ」

 断じるが、サラは納得していない。

「わたしはリリのものじゃない」

「……なんですって?」

「わたしにはわたしのやりたいことがある。なにもかもリリの思い通りになると思わないで。わたしだってちゃんと考えている」

「それはっ――」

 またも頭ごなしに叱りつけようとして、リリスは気づいた。

 見られまいと顔を背けていながら、サラは目の端から涙をこぼしていた。

 唇を噛みしめ、なぜわかってくれないのだと訴えるように。

 ハッとさせられた。

 サラは変わろうとしていた。それは彼女のここ最近の言動を見ればわかる。

 知らない人とも打ち解けて、手のかからない娘になろうと努力をしていたのかもしれない。

 独立心が芽生え始めた彼女の変化を受け入れず、行動を押さえつけていたのは、自分だったのか。

 ――その結果が、今のサラの涙だ。

 リリスは惑う。もう出発まであまり時間は残されていない。

 こんなサラを独りにしてしまっていいのか?

 だが、しかし、きょうの機会を逃せば次はいつになるかわからない。最低でも一か月後だ。

 ――一か月後には恐らく、薬はもたないだろう。

 滅病ペカトゥムに侵され、手足を腐らせながら死んでゆくサラをそばで看取ることなど、できるはずがない。

 サラがそれでいいとしても、受け入れられるはずがない。

 絶対に嫌だ。

 だが――。

「……サラ」

 サラはもうなにも言わず、己の心を閉ざすかのように目を伏せた。

 彼女は傷ついている。

 もっとうまいやり方を選ぶべきだったのではないだろうか。そんな気持ちが胸を刺す。

 自分はいったいなにをやっているのだろう。

 本当に大切なものはなんなのか。わからなくなってしまいそうな気がして、リリスは胸の前で拳を握る。

 それで本当に、想いをつなぎ止めることができていたらいいのに。

「……」

 結局、ろくに言葉を交わすことなく。仲直りをするタイミングも逸したふたりは、表面上だけはいつものように別れた。

 この日リリスは馬車に乗って、王城へと運ばれていった。

 正門をくぐり、城壁の中へと。




 ともに連れていかれた女性は、三人。

 自分たちと一緒にやってきたふたりの女性は、これから一か月間かけて教育を施されるらしい。王の身のまわりの世話をするのだ。最低限の礼儀や教養などを仕込まれるのだとか。恐らくその辺りの如才のなさで、カシムは商人を続けていられるのだろう。

 だめだ、カシムの顔を思い浮かべると、またしても胸の奥にわだかまりが訪れる。

 結局、サラは宿にひとり残してきた。

 だが、やはり心配だ。誰に誘われてもついてはいかないように言いくるめてはみたものの、カシムが無理やり連れだすかもしれない。

 そうなった場合、自分はサラを守れない。やはり他の潜入手段を考えるべきだったかもしれない。しかし、残る薬は三十錠を切った。サラの発作でずいぶん使ってしまたのだ。なんとしてでもこの国で薬を入手しなくてはならない。

 もっと自分には他にできることはあったのではないか。

 悔恨がじくじくと胸を刺す。

 そんなことを感じていると、一緒に王城の控え室にいた女性が話しかけてきた。

「ずいぶんと心配なことがあるみたいですね」

「……ん」

 くすくすと笑っているのは、栗色の髪の少女だった。

 いや、それでも自分よりは少し年上に見えるか。自分と同じように、宝石をちりばめた首飾りや腕輪など、一風変わった衣装を身に着けさせられている。

 胸や下半身を包むのも、やはり薄布一枚だ。

「私はミア。あなたはどうしてここに?」

「……王に、会いたくて」

「ふふ、変わっていますね」

 頬に手を当てて笑うその顔は、上品であった。これがカシムの教育ならば、大したものだ。

「私は、小さな農村で生まれたんです。穏やかでなにもない暮らしでしたが、幸せでした。でも、それも長くは続かなくて。家族の生活を守るため、カシムさんに買ってもらったんです」

「……」

 どこかで聞いたような話だと思った。

「いまどき、城塞のない村に住んでいるような家族です。もし魔物が気まぐれを起こして、一匹でもやってきたら、全滅してしまうでしょう。それなのに、その刹那的な幸せを守るために、私は自分の人生を捨ててきました。あなたもそうなんじゃないですか?」

「わたしは、どうだったかしらね」

 銀色の髪をいじり、リリスは目を伏せた。

 もちろん、すべてはサラのためだ。

 だけれど、捨てたかと言えば、語弊がある。

「好きな人が、いたのよ」

「あらあ」

 ミアの声が弾んだ。期待に応えられるような甘い話ではないけれど。

「その人は、ずっとあたしのことを守ってくれていて。だから、あたしはもっと強くならないとって思っていたの。その人のために力を使うことができたらよかったのだけど。でも、結局あたしは、自分のしたいことがしたかっただけなのかもしれない」

「女なんてそんなものじゃないですか?」

「かもしれないけれど」

 自然と言葉が、涙のようにこぼれ落ちた。

「でも、それでもあたしは理想のあたしになりたかった。信じていれば、いつかはなれると思っていたのだけど。でも何年経ってもダメね。いつも、失敗ばかり、些細なことで、喧嘩をしてしまうわ。そのたびにどうしてうまくいかないんだろうって思うの。大人になれないのよ」

 リリスは指先をふうと吹いた。

「最初から、あたしなんてつり合いが取れないくらい素敵な人だったわ。明るくて、綺麗で、あたしはきっと恋をしていたの。だから、報いたくて……ごめんね、あたしはなにを言っているのかしら」

 リリスは諦観の念を抱いたような顔で、微笑んだ。

 それを見たミアはぼうっとして、頬を上気させる。

「あ、あの、あなたの名前は? もしかしたらこれから先、一緒にうまくやれるかもしれないし……」

「ごめんなさい、ミア」

 銀髪をかきあげ、リリスは妖艶に目を細めた。

「あたしは恐らく、あなたにとっても悪魔になるわ」

「……え?」

 そして控え室にいた四人が呼ばれ、王の元へと招かれる。

 ついに謁見だ。


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