第3章 リリス(2)

 滅病ペカトゥムが世界に与えた影響はあまりにも大きく。

 それでも人々が人体実験を認可することはなかった。

 だが、それは表向きの話だ。

 農村に生まれて育ったリリスは十二の頃、売られた。

 買い取られた先は世界の未来を担う最重要施設であり、人類にとっては希望の光であり、そしてリリスにとっては狂気の人体実験施設だった。

 そこでは彼女は個体識別ナンバーを振られ、一匹の検体としての生活を強要された。

 人間の尊厳は踏みにじられたが、売られた時点でそんなものはないと諦めていたので、まだ我慢はできた。

 毒を浴びせられ、指でも触れないような場所をもてあそばれ、そして人皮の中をメスで切り刻まれても、リリスは耐えることができたのだ。

 ――それはすぐそばに、彼女が本当に大切にしていた人がいたからだ。

 いつでも自分を守って、そうして泣きじゃくる自分を抱きしめてくれたからだ。

 リリスは名前を奪われ、管理されたが、しかし独りではなかった。

 だからこそ、研究所での生活はつらかったが、絶望を覚えたことはなかった。

 ――だのに。

「マルケド=エリンツィ」

 小さくつぶやいたそのとき、リリスのそばで眠っていたサラが身じろぎをした。

 ガラガラと音を立ててあぜ道をゆく馬車の荷台。寝袋に包まっていた金髪の少女だ。

 辺りは宵闇に包まれている。彼女は女神のように少しもかげることのない絶美をその大きな瞳の中に閉じ込めながら、こちらをじっと見つめてきた。

 ぼんやりとした顔だ。

 幼さと色気を両立したサラの唇が開く。

 きっと寝ぼけているのだろう。

「……どうしたの、ママ」

「ううん」

 甘えたような声をあげる彼女の蜂蜜色の髪を撫で、リリスは少しだけこわばった顔をしていた。

 その瞳を見つめながら、問う。

「マルケド=エリンツィ。その名前に、聞き覚えはある?」

「……ん、んん……?」

 サラはもぞもぞと身をよじりながら、駄々をこねるように小さく首を横に振った。

「……知らない。ママのともだち?」

「ううん、なんでもないの」

 どこからか獣の鳴き声がする。サラはこちらを曖昧に見やったあとで、寝袋から小さく指を出した。

「大丈夫だよ、ママ。わたしがいるから。怖がらないでいいよ。わたしが守ってあげるから」

 少しだけ、心を見透かされたような気がした。

 リリスはふっと頬から力を抜いた。

 サラの差し出した指をぎゅっと握る。

「ありがとう、サラ。あたしは負けないわ」

「……うん……」

 半分眠りに落ちているような声でうなずき、サラはまたすぐに寝息を立てた。

 寝ぼけていたのだろうが、普段は見せることのないその素顔に触れたリリスは、大きく息をついた。

 次の国では波乱が待つだろう。

 だがそれでも。自分はこの子のためにできるだけのことをしよう。

 リリスはそう決意を固め、窓の外の夜空を見上げる。

 分厚い雲が覆うそこに、星の輝きはなかった。

『英雄の国』に到着したのは、それから二日後の朝であった。



 茶汚れた城門を見上げる。

 規模は今までに訪れた中でも一位二位を争うだろう。退廃的な臭いが漂ってくるような、そんな繁栄と享楽を兼ね備えたような国だ。

 もくもくとあがっているのはなんの煙だろうか。わからないが、長くとどまれば健康を害しそうだな、とリリスは思った。サラにとってよい環境ではなさそうだ。

 馬車はがらがらと車輪を回し、城門の下を通過してゆく。入国者を管理しているらしく、出入りの際には帳簿に記帳しなければならない仕組みがあるようだ。

 一方、サラは荷台の上から頭を出し、無表情を装いながらも物珍しそうにあちこちを眺めていた。派手な装飾の取り付けられた看板や、けばけばしい格好をした女性。道端では怒声が響く、なにもかもが目に痛い。情報の洪水だ。

 リリスには不快感しかないが、やはりサラにとっては興味がそそられるのだろう。

 あちこち指差しては、「あれはなに? あ、あっちにも変なのがある」とカシムに説明を求めている。

 鬱々と己の殻に閉じこもっていた一年間を取り戻すような、はしゃぎっぷりであった。

 その無邪気さはとても愛らしいが、発揮する相手を選んでほしいものだ。

 小言を言うかどうか迷った挙句、リリスは頬杖をついて見守ることを選ぶ。

 さて、馬車は中央通りを抜けて、うらびれた路地の前で止まった。ここからは歩いて商館へと向かうらしい。奴隷商館らしい立地だ。

 リリスとサラは降り、ここで別れるつもりであったのだが。

「おいおい、礼もさせてくれねえのかよ。あんたぐらいの護衛に正当な報酬を払うだけの金はねえが、それでもちったあ勉強させてくれよ、なあ」

 カシムのそんな言葉に、リリスは眉をひそめる。

「別に、いらないわ。いきましょう、サラ」

「でも」

 サラは後ろ髪引かれているようだ。

「お金ぐらいはもらってもいいんじゃないかな、リリ」

「必要ないわ。そんなに使わないもの」

 サラは人の悪意には聡いが、しかし善意を断るのは苦手なようだった。

 そういうところを付け込まれることもあるだろう。あとで改めて教え直す必要がありそうだ。

 リリスがサラの手を強く引いて、大通りへと歩き出そうとしていたところだった。

 カシムが幼子を引っかけるような口調で、つぶやいた。

「この国の王様に会いたいんだったら、むやみに尋ねても無駄だぜ。ちょっとしたコツがあるのさ」

 それを無視することはできなかった。

 リリスは胡乱な目をして振り返る。

「それ、お礼の代わりにこの場で教えてもらってもいいんだけど?」

「これっぽっちの情報じゃ、礼にならねえよ。きちんとしたご挨拶をさせてくれないとな」

 慇懃に腰を折るカシム。

 その手の戯言を前に、リリスは自らの銀髪を軽くもてあそぶ。

 心情的にはあまり気分がよくない。のだが。

 まあ、どっちにも利はあるだろう。最終的にはサラに問うことにした。

「……サラ、どうしたい?」

「仕方ないよ。お礼をしたいっていうんだったら。させてあげようよ。ねえ、リリ。それにカシムの屋敷には、すごく大きなお風呂があるって言うし」

 そっけなさそうに言うけれども、餌に食いついているのがまるわかりであった。

 ああ、なるほど、それに惹かれていたのか。

 ――まったくもう。

 口癖を心の中でつぶやき、リリスはサラの髪を撫でた。

「……お姫様のご随意に」

 そう言い、リリスは大仰なため息をついたのだった。


 カシムは屋敷に大量の女をはべらせていた。それだけでカシムという男が知れるようだ。

 確かに大きな屋敷だ。しかし奴隷商人だと思ったのだが、彼の屋敷にそういった痕跡は見当たらない。うまく隠しているのだろうか。

 リリスは入るつもりはなかったのだが、サラがどうしても言うので、ふたりは浴槽にやってきた。

 主人の帰りを喜ぶ下女たちが風呂を沸かしたので、リリスとサラは湯浴みへと向かう。

 木綿の仕立ての良い湯浴み着を借り、ふたりは服を脱いだ。

 リリスの体は細かな傷だらけだ。サラも同じように。だが、それでもその姿の美しさに一切の陰りはないと、リリスは思う。

 サラがこちらをじっと見つめているのに気がついた。

「……どうかした?」

 少し恥ずかしい。尋ねると、サラは慌てて目を逸らした。

「う、ううん、なんでもないの。ほら、いこ」

「え、ええ」

 顔が赤らんでいる彼女に手を引かれ、ふたりは浴室の扉を開く。

 そこからは花の香りが漂ってきた。

 見れば湯の上に桃色の睡蓮が浮かんでいる。

「わあ、すごい、すごいね、リリ」

 サラが童女じみたはしゃぎ声をあげる。

「そうね、これほど立派なものを見るのは、さすがに初めてだわ」

 研究所クリニックは四方を石造りに囲まれた無機質なシャワーだった。

 それにしたって、風呂に入れるような機会は限られている。水は清涼で、そのまま飲んでも人体に無害そうである。まったく、なんて贅沢だ。

「ね、ね、入ろ?」

「焦らないの。滑って転ぶわよ」

 湯浴み着は前を覆うようになっていて、背中はぱっくりと開いていた。サラの滑らかな背の白く眩しい肌が、嬉しそうに跳ねていた。

 サラに急かされながらも、なぜだかリリスの胸には寂しさが吹く。

 珍しいものだとはいえ、こんな湯浴みひとつではしゃぐサラに、自分は今までなにも与えられていなかったのではないだろうか。

 そんな気持ちが泡のように浮かんでは消えていった。

 先に入ったサラに続くように、リリスもまた足先を湯面に沈めてゆく。

 長い金髪をアップにまとめたサラは肩まで湯に浸かりながら、ほっとしたような顔で微笑んでいた。

「気持ちいいね、リリ」

「そうね」

 手の甲で彼女の頬を撫でると、サラは幸せそうに目を細めた。

「もしわたしの病気が治ったら」

 睡蓮の花を両手ですくい、サラは他意のない笑みを見せた。

「おうちには、こんなお風呂がほしいな、ママ」

「そうね、サラ。そうしましょう」

 もしも病気が治ったら。

 それはサラとリリスがときどき交わすおとぎ話のようなものだ。

 そのときには、穏やかで自然が豊かな土地に家を立て、ふたつのキッチンと、広い庭。それに植えた木々にはブランコを作って、小さな馬を飼う。

 たくさんの色とりどりの花は、赤、青、黄。毎日パンを焼いて、地平線に沈む夕日をふたりで手をつなぎながら見るのだ。

 さらにひとつ、きょう新たに加わった。大きな浴槽だ。それを叶えるためには、深い井戸を掘らなければならないだろう。骨が折れそうだ。

「そのためには、ちゃんと毎日忘れずに薬を飲むのよ」

「えー……」

 不服そうな声を漏らすサラの頬を、軽くつつく。

「はい、でしょう」

「……はーい」

 わずかに上気したその柔肌は、とても伝染病に侵された病人のものとは思えなかった。


 下女に濡れた体を拭かれ、着替えたのち、ふたりは応接間へとやってきた。

「湯上り美人。火照った肌と、わずかに濡れた髪が実にいいねえ」

 ソファーにもたれかかって待っていたのは、変わった民族衣装に着替えたカシムであった。

 仕立ての良い服の他に、じゃらじゃらとした貴金属を身に着け、頭にターバンを巻き、腰には厚手の布を巻いている。

「それがあなたの正装?」

「まあな、珍しいだろ。この格好だと覚えがいいんだ。特別に作らせているんだよ」

「ずいぶんと羽振りがいいのね」

「そうさ、その話をしようじゃないか」

 リリスの棘の混じった言葉に、カシムはにやりと笑って手を鳴らした。

「この国の王様のことだが」

「マルケド=エリンツィね」

「ああ。誰に聞いても構わねえが、あの方は非常に用心深い人だ。特に、冒険者となんか絶対に会ってくれねえ。あんたたちが王に用があるからって、取り次いでもらうのは簡単じゃねえだろうよ」

 記憶の中のマルケドもまた、臆病で疑り深い男だった。

 この国の規模から見ても警護の数は先の『討伐の島』とは比べ物にならないだろう。

 邪魔者は斬る。いついかなるときでも自らを非情の使徒と変えることのできるリリスであったが、できれば争い事は避けてゆきたい。

 人間は狡猾だ。魔物とは違う。特に組織を相手にすれば、なおさらだ。

 リリスがいくら強いからと言っても、守るべきサラを狙われたら元も子もない。

 カシムは続ける。

「俺はその王様の命令で、近隣の国へとあるものを買い付けにいっている。それが、あれさ」

 壁を指すカシム。そこにはふたりの女性が並んでいた。どちらも背筋を伸ばしていて、リリスやサラのような俗世に交わらぬ極星の美しさには届かないながら、絢爛であった。

 一緒に馬車で旅をしていたふたりである。衣装を整えたからか、見違えた。

「王は、美しい女をご所望だ。でっけえハーレムを作っていてな。まったく、羨ましいもんだぜ。で、だ。月に一度、そのためにお目通りが叶うのさ」

 あのマルケドが?

 サラの前でそのような話をするカシムをとがめることも忘れ、思わずリリスは聞き返すところだった。

 当時の印象では、マルケドは冴えない小男だった。女を口説くよりも、現場に女が混じっていることに文句を言うような研究者だ。その彼が女をはべらせしているだなんて、まるで想像つかない。

 大人しく腰を下ろしているサラを横目に、リリスは問う。

「なるほど。じゃあその時に、あたしたちがあなたの護衛という体で、同行すればいいのね」

「そいつは無理な話さ。王は俺とすら直接会ってはくれねえ。あんたたちを王の元に連れていくためには、もっと別の手段が必要さ」

 別の手段。荷に紛れるなどだろうか。

 とにかく、必ずマルケドには会わなければならない。いくつか個人的な理由はあるが、しかしなによりもまずサラの薬だ。

 伝染病の特効薬を開発した英雄医師のマルケドならば、恐らくもっているはずだ。何年分にも及ぶような、大量の薬を。

 その在処を問いただし、薬を奪うためには、リリスがマルケドに会う必要がある。

 手紙や人づてではだめだ。直接でなければならない。

 が――。

 続いて放たれたカシムの言葉は、完全に想像の外であった。

「あんたたちは俺の商品として、一緒に運んでいくさ。王に選んでもらえれば、王とふたりっきりで会えるぜ。どうだい、悪い話じゃあないだろ?」

 一瞬、なにを言っているのかわからなかった。

 噛み砕きながら、リリスは娼婦の格好をした自分たちを想像する。

 媚びた笑顔でマルケドに笑う、大切なサラの姿を。

「――最悪よ」

 そんなの、ありえない。



 サラの制止も聞かず、リリスは彼女を連れて屋敷から退散した。

 その後、カシムに紹介してもらった宿は確かに悪くなかった。

 彼は自宅に泊まればいいと言っていたが、しかしリリスはカシムをそこまで信用をしていない。

 あの男は軽薄で、時折女を見下すような視線を向けてくる者だ。

 ひょうひょうとしている外見の中に大きな野心を秘めている。前の国で会ったゼクスという男と似ているのだ。

 リリスはその実力によってカシムに認められているようだが、サラはどうかわからない。ここはリリスの力が必要な外界ではなく、彼のテリトリーだ。なにをしてくるかわからない以上、一緒にはいられなかった。

 宿で一泊し、翌日。

 リリスはサラを連れて、国を見まわっていた。

 冒険者ギルド局で手形を見せると、国での便宜をある程度取り計らってくれる。必要な情報屋を紹介してもらえるものだが、しかしこの国ではそうもいかなかった。

 各国間の通信が断絶して以来、すべての国は陸の孤島と化した。冒険者ギルド局が栄えるのも滅びるのも、すべては国を治める王の沙汰ひとつなのだ。

 この国の冒険者ギルド局は、ほとんど機能していなかった。すべての軍隊は王が支配し、そしてそれなりの戦果もあげているようだ。

『討伐の島』のような小国とは違う。安全を約束された市民の噂話によって、人々はさらに増加の一途をたどる。治安の悪い区画もあるようだが、全体的にはしっかりと統治されているようだ。

 この『英雄の国』には、王が定めた十八条の法律があった。

 人のモノを奪うな、役人は勝手に税を取るな、大事なことはひとりで決めずに相談せよ、そういった他愛もないものばかりだ。だが、それだけのことすらできない国が、世界には山ほどある。

 なるほど、ではこの国には冒険者ギルド局は必要ないということなのだろう。

 となると、困るのはリリスだ。寂れた冒険者ギルド局を追い出されるようにして出てきた彼女は、サラと近くの大衆食堂で食事をする。その際、さらに金品の支払いで揉めた。

 なんとこの国は独自通貨を使用しているらしく、造幣局すらあるようだ。交渉の結果、リリスは相場の数倍の価値をもつ金粒を渡すことになった。

 まったく、よそ者には生きづらい国である。

 これでは薬を売る商人がいるかどうか探すのも楽ではない。長く滞在して薬売りがいなければ、今度は意味がない。国が大きければ手がかりを摑むのも容易なことではないのだ。

 リリスは路地を歩きながら、「まったくもう」とつぶやく。

 城の近くもうろついてみた。そこは城塞の中にあるもうひとつの城塞とでも言うべき場所だ。四方を巨大な壁に囲まれて、鼠の入り込む隙間もないほどに警備が厳重であった。

 リリスが本気で仕掛ければ侵入できないことはないだろうが、しかしそれは死闘になる。サラの病気を治すまで、自分は死ぬわけにはいかない。

 宿に帰り、落胆の色を隠せないリリス。

 サラは平然を装ってつぶやいた。

「リリ、やっぱりカシムに頼もうよ」

「……そうね」

 つまりは、サラにそのようなことを言わせてしまうほどに、打つ手がなかったのだ。

「でも、だめよ、そんなの。あんな男に頼るだなんて」

 吐き捨てるように言いながらも、リリスは自らの髪をくしゃりと握る。

 もしそうしたら、あのマルケドに娼婦の格好で会いにゆかなければならないのだ。

 それは嫌だ。本当に、心の底から。だが――。

「あのさ、リリ」

「ん」

 一日歩きまわって得られた情報は、カシムの言っていた女をはべらせる王というその話が真実だったという裏付けだけ。

 だからこそ、サラは申し出た。

「もし、リリが嫌なら、早く次の国にいこうよ。別にわたしは平気だよ。少しくらい薬がなくても、魔手で心臓を強く握りしめればいいだけだから。それよりも、リリが辛そうな顔をしているほうが、嫌……かも」

 サラは薬がなければ生きていられない。それは間違いない。だが。

「そっか」

 おずおずとそんなことを言うサラの頭を撫で、リリスはこわばった笑みを浮かべた。

 この一言でリリスの腹は決まった。

 マルケドに会うため、カシムに頭を下げよう。まずはそこからだ。

 ――プライドなどくだらない。サラの容態に比べればなんの価値もない。

 訪ねられたカシムは、リリスたちを歓迎した。



 カシムの元に戻ると、サラは妙に嬉しそうだった。

 それはもしかしたら、ただ浴槽に入れるからとか、そういうもの以外になにか特別な理由があったからかもしれない。

 サラが幸せそうだったのに、それを素直に喜べないリリスは複雑な思いを抱えていた。

 むしろ、どうしてリリスはそんなにカシムを嫌がるのかと、サラに尋ねられたときもあった。

 理由はもちろん、ある。

 リリスは人買いによって研究所に売られていった者だ。忌避感があるのは当たり前だ。

 だがそれ以上に、カシムとサラが密接な距離でいることに対し、リリスは危機感を覚えているのだ。

 サラは初めて仲良くなった男性に対して、必要以上に心を寄せてしまっている。それがリリスの危ぶんでいることなのだ。

 食事をとる際にも。

「きょうはカシムに、花の名前を教わったんだよ」

 などと微笑みながら報告をしてくるサラを見ていると、胸がきゅっと苦しくなった。

 自分以外の誰かの話をするサラを見て、リリスはなぜかうわべの笑顔を浮かべることしかできない。

 そして、ついつい水を差すような言葉を吐いてしまうのだ。

「……あの男にはあまり近づかないほうがいいわ」

 サラは途端に笑顔をひそめた。

「……リリは、そればかり」

「あなたのために言っているのよ、サラ」

 押さえつけるように言うと、サラはうなだれるようにうなずいた。

「……はい」

 リリスは重苦しいため息をついた。

 心労がたまって、疲れているのかもしれない。

 そんな中でも、リリスは潜入への準備を着々と進めていた。

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