第3章 リリス(1)



 夢を見ていた。

 自分はずっと泣いていた。

 思い出すのはそんな記憶ばかりだ。


 研究所クリニックの生活はつらかった。

 村から売られてきても、結局は同じことの繰り返しだ。

 自分はどこにいたっていじめられる運命なのかもしれない。

 実験は痛みをともなった。そのことで集められた少女たちは日々ストレスを積み重ねていて、そのはけ口になったのが弱くて泣き虫の自分だった。目が合えば嫌がらせを受けた。すぐにメソメソとする自分は、さらに彼らの苛立ちをさそった。

 自由時間。ラウンジに居場所はなかった。

 部屋に閉じこもっていられるならいい。だが、掃除のために昼間は追い出されてしまう時間があって、そんなときいつでも泣きながら研究所クリニックをさまよい歩いた。

「リリス」

 声がして、ハッとした。

 きょうは階段下の影に三角座りをして隠れていたのに。

 彼女は後ろに縛った金髪を揺らしながら、にっこりと笑った。

「君、いつもかくれんぼしているみたいだよ」

「……ごめん」

 後ろで手を組みながら体を揺らして、彼女は近寄ってきた。

 リリスはうつむいたまま、申し訳なさそうに膝を抱く。

 そこで、彼女が顔を覗き込んできた。

「今度はどうしたのー。誰かにいじめられちゃった?」

「……そういうわけじゃ、ないけれど」

 そういうわけじゃないわけでもない。

 つらいのはいつものことだ。

 金髪の彼女がリリスの頭をくしゃりと撫でる。

「――まったくもう、リリスは、本当に泣き虫なんだから」

「ん……」

 指の感触がとても心地よかった。

「わたしに探してもらうために隠れているとかじゃないわよね」

「違う、と思う……」

 ふるふると首を振りながら、言われてみればもしかしたらそうなのかもしれない、とリリスは思っていた。

 でもそんな甘えたことを口にすれば、彼女に嫌われてしまうかもしれない。

 暗がりの中、リリスは彼女の瞳をじっと見つめる。

 吸い込まれそうなほどに美しい、宇宙の煌めきのような青だ。

「ねえ……あなたはどうして、あたしに優しくしてくれるの……?」

「なーに? それ」

「優しくしてもらう、理由がない……」

 鼻先を突かれた。

「うっ……」

「大真面目な顔で、なにを言っているの、リリス。わたしが誰に優しくしようが勝手だよ。理由があろうがなかろうが、ね」

「でも……」

 不安そうに瞳を揺らすリリスの頬を、彼女は撫でてくる。

「わたしは、君のママからちゃんと頼まれたんだ。君をよろしくね、って。だから、絶対に守るよ、リリス。これが理由じゃ不満?」

「え、あ、ううん」

 リリスは慌てて首を振った。

「ママに……そうなんだ」

 ぽうっとした顔で少女を見上げる。

 研究所クリニックには希望がない。誰もが先の見えない状況で、管理されたスケジュールの中、日々をやり過ごしている。

 リリスも同じだ。実験動物として、明日には死ぬかもしれない。新薬の副作用で今すぐにだって苦しみ悶えながら、のたうちまわるかもしれない。

 それでもリリスは一日でも長く生きていたいと思っていた。

 できれば彼女とともに、いつまでも。

「ね、ママに言われたから、それだけ……?」

「もう、リリス」

 甘えるような視線のリリスに、彼女は困ったような微笑を浮かべた。

 ここは暗がりだが、しかし人の往来がないわけではないのだ。

「これ以上、わたしに言わせるの?」

「……うん、だめ?」

「まったくもう」

 職員が後ろを通り過ぎてゆく。そんな中で、少女はリリスの髪を撫でた。

「少しだけだよ」

 少女の美しく精巧な顔が近づいてくる。

 それはリリスの唇に淡い感触を残した。

 人目をしのぎ、彼女は愛をささやく。

「好きだよ、リリス。泣き虫でも、いつもそばにいてくれる君が大好き。君の銀色の美しい髪が大好き。好きだから、守りたいの」

 歪な告白。閉塞的な恋。

 だがそれはふたりにとって紛れもなく、――真実の愛だ。

 心の中から熱い想いが溢れてきた。

 それがあれば、どんなに苦しいことだって耐えられるような、そんなエネルギーだ。

「……うん、あたしも、だいすき」

 リリスは彼女を抱きしめた。

 髪を撫で、背中をさすり、そして繰り返し唇を重ねた。

 次の試験が始まるまでのわずかな間、ふたりは互いの存在をその五感で確かめ合う。

「好きだよ、リリス」

「――愛しているの、サラ」

 希望もない世界において、彼女たちはお互いの光であった。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 しばらく、旅を続けていた。

 といっても休養しながらだ。サラの具合を思えば無理はさせられなかった。

 サラの容体は少しずつ回復の兆しを見せていた。一時は深い昏睡状態に陥り、目覚めた後もしばらく歩くことすらできなかったが、徐々に薬が効いてきたのだ。

 一方のリリスもまた、サラに頼まれては薬を飲むしかなかった。

 幸い、初期症状は早く抑えられたのだけれど、薬の残りがやはり気になってしまう。

 養生のために十二錠もの薬を消費してしまったのだ。

 早く次の国にゆかなければならない。そう思っていた矢先の出来事だった。


 昼間のことだ。ひとつの馬車が魔物に襲われていた。

 リリスはいつものように無視をして先を急ごうと思ったのだが、しかし手を貸してしまったのはふたつの理由があった。

 ひとつは次の国の場所に目星がついていないこと。馬車を助けて乗せてもらえば、次の国に効率よく到着することができるだろう。

 もうひとつは、サラの無茶が原因だ。

 前回、たったひとりで巨大な魔物をねじ伏せたサラは、そのことで辺りに伝染病をばらまいた。ずいぶんと自分を責めてしまったようだが、それはリリスの責任でもある。

 リリスがベリアルを退治していれば、サラが戦うことはなかった。彼女の正義感を止められなかったのも、自分のせいだ。

 サラに精神的な負担を強いていたのだろう。

 だから、目についた人々はなるべく救ってやろう。リリスはそう思うことにしたのだ。

 そうしたほうがサラの心は軽くなるはずだ。

 というわけで、リリスは刀に手をかけた。

 ――魔手抜刀剣、堕天だてんは、とてつもなく重い。重心のバランスを犠牲にした重さだ。

 優れた技量をもっている剣士であっても、速やかに抜刀斬りをするのは難しいだろう。その上、己の手ではなく魔手で抜くのだ。達人であってもあるいは満足に扱えないかもしれない。

 リリスはそれをたやすく行なう。正確に言えば、リリスはこの刀しか振るうことができないのだが。

 馬車に付きまとっていた魔物は、一匹。

 全体的に歪な印象を受ける怪物だ。体長は人間サイズなのだが、右腕は二メートルほど。べたりと右腕が地面に寝そべり、左腕は人間のそれよりも短い。全身が右に傾いており、足は中ほどから折れていた。

 原型モチーフは熊だろうか。片腕グレンデルに近いが、もしかしたらこの地方に生息する亜種かもしれない。

 非対称的で、神が造ったにしてはあまりにも雑な造形である。

 ずるずると這いまわるように動いているのだが、それでも相当に素早い。

 怪物の近くには二人の男が倒れていた。ぴくりとも動いていない。すでに事切れているのだろう。ちらりと見ると、眉間を穿たれていた。

 その場にとどまるようサラに言いつけ、リリスは馬車へと近づいてゆく。

 情けない悲鳴が響き渡っている。口の中に苦味がたまってきて、リリスは唾を吐いた。

 歩きながら循環燃焼メディテーションを開始すると、夜の森で目を閉じたときのように、五感が冴えわたってゆく。

 音が立体的に描き出され、視界はさらにクリアになった。魔物の発する臭気はその居場所を克明に伝えて、踏みしめた地面の感触が足元からも情報を届けてくれる。

 まるで血管に炎をぶち込んだように、リリスの意識は急速に覚醒してゆく。

 心臓が痛いほどに早鐘を打つ。

 爆発的に高められた集中力がリリスの闘争本能を刺激した。

 馬車の上で頭を抱えていた男がこちらに気づいたようだ。

「た、助けてくれ! 助けてくれ!」

 自分よりはるかに年下に見えるであろう銀髪の少女を見て、恥も外聞もなく助けを求める男か。

 多少顔は良いようだが、それがリリスに好印象を残すことはない。

 ただ、助けてはやろう。

 ――我が麗しきサラのために。

「来い」

 リリスの発した言葉の意味がわかったわけではないだろうが、魔物は振り返った。焦点の合わない左右に突き出したギョロ目が、こちらを捉える。

 次の瞬間だ。魔物はその長い右腕をブンと薙ぎ払ってきた。その行動を予測していたリリスは、いったん後方に距離を取る。

 四肢の魔手によって五感や運動力が向上しているとはいえ、反射神経が人間の上限を飛び出したわけではない。

 そうするためにはいつも寝る前にやっているように、忌まわしき反射加速剤を首に打ち込めばいいのだが、あれは起きて使うとその後のコンディションが最悪なので、できればやりたくはない。

 というわけでリリスは、再び間合いに踏み込むことにした。魔物は先ほどと同じようにしなる右腕を叩きつけてくる。

 狙いは正確。あの二体の死体と同じようにリリスの眉間を狙ったそれを、刀の鞘で弾く。

 魔物の右腕が宙に舞い、引き戻される。

 引き戻されると同時、リリスも大地を蹴った。

 右腕を瞬時に追い抜き、そして刀の鍔を親指で跳ね上げた。

 リリス《にんげん》に二度同じ技を見せたのが間違いであった。仕留めるなら一度で。それができないのなら、虚をつくべきであった。

 疾走。リリスは魔物の目玉に柄の先端を突き刺した。魔物の腹を蹴り、左斜め後方に飛びのきながら刀を抜き放つ。

 斜めに傷跡が走り、そこで引き寄せられた魔物の右腕が戻ってきた。その制御に失敗し、魔物は自らの腕にぐちゃりと頭を潰される。

 リリスは納刀し、今度は呼吸を整えながら腰だめに刀を構え、右足を思いきり踏み込んだ。丁寧な挙動の中に、爆発的な力の開放がある所作であった。

 魔手抜刀術、無慙むざん

 何千何万回と繰り返したその烈撃は、魔物を分断した。


 赤い蒸気を立ち上らせる魔物を蹴り倒し、リリスは刀についた血脂を懐紙で拭う。そうして刀を鞘にしまった。

 鞘に納めた瞬間バジンと電火のような音が響くのは、霊鋼の魔力結合が行われた証だ。

 次に抜くためにも再び魔手が必要となる。その措置であった。

 サラがとてとてと走り寄ってきた。

「大丈夫? リリ」

「ええ、なんともないわ」

「でも、血が」

 言われて気づいた。魔物が腕を引き寄せたときにかすってできたのか、右の肩口の辺りが破れている。あと数センチ左にズレていたら、腕をもっていかれただろう。

 とっくに知っていたように取りつくろい、リリスは髪をかきあげた。

「なんてことはないわ、サラ。この程度の相手にあたしが遅れを取るわけがないでしょう」

「それは、信じているけれど、でも……」

 不満げな顔をして、サラは口を尖らせた。

 その顔をリリスは、素直に可愛らしいな、と思う。

 サラはリリスの愛する娘だ。この金髪の少女の笑顔を守るためなら、リリスはなんだってやるだろう。自らの体を切り刻んで与えたとしても、惜しくはない。

 リリスはなんでもないとばかりに片手を広げて、サラの不安を取り除く。

「平気よ、サラ。それよりももうすぐでお薬の時間でしょう。残り少ないからって欠かしては駄目よ。それじゃあ意味がないわ」

「わかっているよ。もう……」

 嫌そうな顔をするサラの前髪を直し、リリスは微笑んだ。

 サラはリリスの宝物だ。


 馬車には男がひとり、そして荷台に女がふたり隠れていた。

 命の恩人だと感謝をされ、その後は図々しくも次の国まで同行を願われる。

 だが、リリスはそれを了承した。

 男の名はカシム。年は二十五。浅黒い肌をし、黒髪に黒い目をしたエキゾチックな優男であった。

 こんな時勢に周辺国へと出稼ぎに回る変わり者の商人だ。

 殺されていたのは、護衛に雇った冒険者だったらしい。

 単独で魔物を討伐することができるリリスを手放したくはないと思ったのだろう。カシムはなにかと熱心に話しかけてきてくれたが、リリスはそっけない態度を取り続けていた。

 代わりに、珍しくサラが彼に興味を抱いたようだ。

 男らしくない、中世的な美貌がサラの警戒心を和らげたのかもしれない。

 あるいはサラにもなにか心の変化があったのだろう。

 この金髪の少女は小動物のように警戒心が強く、決して他人に心を開かなかった。それはそれで可愛らしいものだったのだが、しかし独りにしておくのは不安である。

 そこでサラがこうして自分から他人に話しかけるようになったのは、きっといいことだ。

 だがそれは、サラが人に興味をもったのではなく、むしろ人から興味を失ったからこそ、こうやって自然体で生きていけるようになったのかもしれない。

 悪魔が人間に怯え、遠慮をするなど、バカな話だ。

 そういうことなのだろうか。

 ともあれ、サラが楽しそうならば、リリスはそれでいい。

 あちこちで見聞きしたことを語る様は軽妙で、退屈をずいぶんと紛らわしてくれていたので放置をしていたのだが。

 リリスはとうに気づいていた。

 カシムは奴隷商人だ。女の扱いはどうりでお手の物だろう。

 リリスは個人的にこういった人間を扱う商売をする者のことが、嫌いであった。

 今は斬るほどのことではないが、あまりサラに近づけたい類の輩ではない。

 この男との旅は次の国まで。そう決めていたはずだったのが……。

 少々事情が異なってしまった。



 旅の途中、カシムは言った。

「すげえな、姐さんは。魔物をひとりで倒す冒険者なんて、見たことがねえ。あんた、いったい何者なんだよ。あ、いいや、詮索するつもりはねえよ。あんたの気分を害しちゃらんねえもんな」

 御者席で馬車を走らせながら、カシムは笑う。

 馬は伝染病の感染を免れた数少ない動物のひとつだ。人間が守り切った、というのはさすがにおこがましいだろう。それは馬自身の生命力と、そして最後に打ち勝ったものは幸運だ。

 サラは薬を飲んで、今は穏やかに眠っている。商品である女ふたりは、それなりに華やかな容姿をしていたが、主人の命令を従順に守ってサラを見てくれているだろう。

 とりあえず、この馬車に危険はないとリリスは判断していた。

 カシムから目を離さなければ、だ。

 リリスはカシムの隣に座り、すらりとした右足を抱いて座りながら、つぶやく。

「大切なものを守りたければ、強くなるしかないわ」

「いやはや、ご立派なもんだ。俺にゃあ真似できねえな。そこらの男よりもずっと男らしいぜ」

 カシムには自分たちの関係をいつものように、『恋人同士』と話してある。彼はそれを聞いて口笛を吹いただけであった。彼のような業種に身を置いていれば、よく見るものなのかもしれない。

「しかし、今から行く国はいいところだぜ。特にあんたみたいな美人にとってはな」

「別にいい暮らしがしたいわけじゃないわ」

「まあそうだろうけどな。でもこの辺りじゃ一番でけえ国さ。なんたってそこを治めているのは、……誰だと思う?」

 楽しそうに笑うカシムの愛嬌に、リリスは付き合わない。

「魔物とか?」

「はっは、そりゃいいな。でも俺たちにとってはあんまり変わらねえかもな。あんたも冒険者をやっているなら、聞いたことはあるだろう」

 もったいぶるような口調で、カシムは語る。

 得意げに知識を披露したいのか。

 くだらないわね、とリリスは彼の声を意識の外に締め出そうとした。

 だが――。

「次は『英雄の国』。伝染病の特効薬を開発した、英雄医師のひとり、マルケド=エリンツィの治める国さ」

 ――リリスは目を見開いた。

 ここでその名を聞くことになるとは。

 風景が遠ざかり、代わりに別種の情景が思い起こされた。

 記憶の中、逆光を背に立つ白衣を着た人物たちのうち、ひとりの顔が浮かび上がる。

 マルケド=エリンツィ。

 そうか、ついに見つけた。

 リリスは鞘を握りしめる。高揚した魂が循環燃焼メディテーションを呼び起こし、その体温は著しく上昇の一途をたどった。

 様子がおかしいと思ったカシムは、怪訝そうな顔でこちらを見やる。

「ん、姐さん、どうかした、か……?」

 リリスは壮絶な笑みを浮かべていた。

 魔力発動の証であるその目は、紅く染まっている。

 息を呑むカシムを気にもせず、リリスは思い出していた。

「そうか、マルケド=エリンツィ。そいつがいるのか」

 かつて彼女が『研究所クリニック』と呼ばれていた場所にて、いったいなにをされていたか、を。


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