第2章 サラ(4)
気を失っていたのだろう。
サラは夢を見ていた。
何度も何度も見た、記憶が始まるの日の夢だ。
硬い石のベッドに寝かされていた。
サラはつぎはぎのない一枚の白い布をすっぽりとかぶったような恰好であった。
辺りは冷えていて、肌寒い。
壁には燭台の火が揺らめき、四方を灰色の石に囲まれている部屋だった。
なにもかも、見たことがない。
芽生えたのは当然の疑問。ここはいったいどこだろう。
ゆっくりと身を起こす。人の気配はしない。部屋を探るよりもまず、自分の頭の中を探りながら、サラはだんだんとその表情を暗くしてゆく。
なにも覚えていないのだ。
自分がなぜここにいるのかはおろか、それ以前のことも。
名前はサラ。
それは間違いない。証拠はないが、はっきりとした確信があった。
では他に思い出せることはなにか。年齢? 出身地? 父は? 母は? 友人は? ここはどこか? なぜこんなところで眠っているのか? 普通は柔らかいベッドで眠るだろう。そうか、自分はベッドで眠るのが普通だと思っているのか。いや、そうなのか? それは本当に自分の記憶か?
数珠繋ぎにひとつを思い出せば連続して蘇ると思っていたはずの記憶も、曖昧だ。
サラは起き上がり、床に足を下ろした。
触れた素足が冷たくて、顔をしかめる。
部屋の中にはめぼしいものはないようだ。振り返れば、自分が眠っていたベッドと思しきものは、なにか棺のようにすら見えた。
サラは隣の部屋へと続くドアに手をかけた。それは大した力も入れずに開く。
隣の部屋も同じような作り。そして同じように、娘が眠っていた。
美しい銀色の髪をもつ娘だ。
同じく真っ白な布をまとった彼女は、目を閉じ、まるで死んでいるかのように眠っている。
サラは思わず息を呑んだ。この少女のことを自分は知っているだろうと強く思った。衝動に突き動かされて彼女のもとに近づいたサラは、その肩にゆっくりと触れる。
温かい。彼女はまだ生きている。
頭の中に彼女の名前がぼんやりと浮かぶ。
静かに、その名をつぶやいた。
「リリス……」
目が開く。
穏やかな、藍色の瞳であった。
「……サラ?」
名前を呼ばれたその瞬間、体中に電撃が走ったような気がした。
自らがサラであることにもはや疑いがなく、記憶を失ったことに対する不安や心細さがなにもかも消え失せたかのように、全能性がサラの体に降臨した。
「サラ、ああ、サラ。よかった、サラ」
銀髪の彼女の感激もまた、相当なものであった。
このままでは抱きつかれてしまうだろうと思ったサラは、慌てて両手を振った。
「ま、待って、リリス。わたし、君のことを覚えていないの。ごめんなさい、リリス」
その言葉に彼女はショックを受けるだろう。
覚えていないなど、裏切りのようなものだ。サラはひどいことをした気分になる。
だが――。
リリスはほんの一瞬だけ瞬きを繰り返すと、すぐに微笑んだ。
そっとサラの手を握って、それを両手で大切そうにさする。
「そう、サラ。大丈夫だよ。怖かったね、サラ。不安だったね、サラ。大丈夫よ、あたしがそばにいるから。もうあなたはなにも心配することはないわ」
後ほど教えてもらった。
サラはこれまでに二度、記憶を失ったことがある、と。これが三度目の記憶喪失なのだから自分にとっては慣れたものだ、とリリスは笑いながら言っていた。
握られた手をそっと見つめながら、サラは彼女に問う。
「……リリス、君は誰なの? わたしの友達?」
「ううん」
リリスは首を横に振った。
「あなたはあたしの大切な娘よ、サラ。何度でも言うわ。あたしはあなたのママよ」
言葉が出なかった。
サラは自分がとても幼い容姿をしているのだろうかと思った。
しかし違う。ふたりで部屋を脱出した後で見た鏡に映っていたのは、リリスとほとんど年齢の変わらなく思える自分だった。
金髪の長い髪。白い肌。華奢な手足。妖精のようだとよく誰かに褒められていたことを思い出し、これが自分であることに違和感は覚えなかった。
だからこそ感じる、強烈な不協和音。
リリスが自分の母親のはずがない。
――自分は騙されている。
石に囲まれた部屋を出た先もまた、石の部屋だ。ずいぶんと歩いて、階段を上った後に、ようやく生活感のある部屋についた。
「ねえ、リリス。君は本当に、わたしのママなの?」
誰かが住んでいた部屋なのか、そこのハンガーにかかった服に着替えながら、サラは同じように着替えるリリスに問う。しかし。
「ええ、そうよ。サラが変に思うのも無理はないわね。いつものことだったもの。でもあたしはあなたの母親。もともとはサラよりもずっと年上だったのだけど、ひょんなことからこの体になってしまってね」
「おかしいよ、リリス。だってわたし、そんな風にぜんぜん思えないんだもの」
「無理もないわ。でも大丈夫。思い出せなくても、あたしはあなたのそばにいるから」
「変だよ、そんなの。だってわたしのママは……ママは……」
記憶の引き出しを乱雑に探るが、なにも出てこない。だがそれでもリリスが母親でないということだけは、ハッキリとわかった。
不安げに瞳を揺らすサラの肩に、リリスが手を置く。
「大丈夫よ、サラ。あたしはなにがあっても、あなたのそばを離れない。たったひとりの、大切な娘ですもの。当然でしょう。あなたの幸せ、あなたの喜び、あなたのすべてがあたしの生きる意味なの。あなたが生きていてくれて、本当によかった。あたしはこれからもあなたのことを守り続けるわ」
「……リリス……」
彼女は立場を偽っているのかもしれない。だが、その言葉の中に込められた気持ちは本物だと思ったからこそ、サラはそれ以上なにも言うことはできなくなった。
ぽろぽろと零れる涙が、頬を濡らす。
嗚咽を漏らすサラを、リリスは優しく抱きしめていた。
いつまでも、なにも言わずに、抱きしめてくれた。
この施設が魔物に襲われ、サラの伝染病が発症し、ふたりが薬を求めて旅を始めるのはそれから四日後。
リリスは一本の刀を手に、その言葉通りサラを守り続ける。
彼女に助けられて以来、サラはリリスと旅を続けている。
一年にも及ぶ旅だ。
体の芯まで伝染病に侵されて生と死の境を苦しみながらも、いまだサラが生き長らえていられるのは、彼女が遺跡の地下から発見されたことに起因するのだという。
リリスはそのことを詳しく教えてはくれない。
ただサラに「心配することは何もない。あなたの病気を治す方法は、あたしが見つけ出す」と言い聞かせてくるだけだ。
一時的な症状は薬を飲めば抑えられるが、それは逆に言えば伝染病の特効薬と呼ばれるほどの薬ですらその程度の効用しかなくなってしまったということだ。
父や家族の存在も知らされず、サラはただただリリスに連れまわされ、治るともわからない病と闘い続けている。
それが今の日々だ。
――だが、どんなに不安でも、リリスがいてくれるから。
強くて美しく、そして何者にも怯まぬ意思をもったリリスの存在は、サラにとって太陽だった。
彼女はきっと本当の母親ではないのだろうけれど、サラはそれでも構わない。
だが、もし彼女にとって自分が娘だから守ってくれているというのなら。
サラは自分が娘ではないと否定をするわけにはいかなかった。本当にそうだと知ったら、リリスが自分の元を去ってしまうような気がして。
だからサラは自らが娘だと受け入れた。
それはひどくずるいような気がしたけれど、でも、リリスがいなくなることはなによりも怖かったから。
彼女が喜んでくれるなら、彼女がそう信じているのなら、いつまでも娘でいよう。
サラの想いを、リリスは恐らく知ることはない。
だから、きょうも明日も明後日も、サラは娘を続ける。
――他ならぬ、リリスのためだけに。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
スイッチが入るように、サラは目を覚ました。
景色が一変していた。
真っ先に飛び込んできたのは、水平となった地面。大地が割れたわけでも、重力がおかしくなったわけでもなく、単純にサラが地面に寝かされていただけのようだ。
耳が痺れたようになにも聞こえない。けれど、どしんどしんと大地から震動が伝わってくる。先ほどから断続的に。
自分はいったいどうしてここにいるんだろう。この感覚は記憶を失って初めて目覚めたときにも似ている気がした。まるで何度も何度も繰り返し経験したかのように。
そんなことを思いながらその身を起こす。
そして――。
刀を握りしめ、サラに背を向けているリリスの後ろ姿を見た。
「リリ」
声をかけたそのときに、気づく。
肩まで切り揃えられた彼女の銀髪は、血にまみれていた。
――返り血と、そして自分の血で。
「リリ!」
疾呼に気づきながらも、彼女は軽く手を挙げただけだ。
なぜ振り返ることができなかったのか。それは、リリスが決して隙を見せることができない事態に陥っていたからだ。
影が落ちていた。
サラは見上げる。
巨大な、途方もなく巨大な化け物がこちらを見下ろしていた。
盛り上がった両肩ははち切れており、ピンク色の肉が顔を覗かせている。上半身は非常に大きく。しかしそれに比べて下半身は短く小さい。アンバランスだった。粘土で怪物を作ろうとして、その途中で作業を放棄してしまったような。
毛むくじゃらの体に埋まった頭部は小さく、しかし曲がりくねった角が二本。湾曲したそれは自らの肩に突き刺さりそうだ。
そしてなによりも体長。牢獄が丸ごと動き出したかのような質量である。
なにが
これがベリアルだろう。
恐らく、王塔を引きずり倒したのはこいつだ。
痛いほどの苦味が口を支配する。本能的な恐怖に突き動かされ、サラは目を見開いた。手をつき、這いつくばるようにして後ろに下がる。そのついた手のひらにぬめった感触。
「え……」
視線を転ずる。そこには切断された大蜥蜴の死体と、ぐちゃぐちゃに潰された人間の死体があった。
それも、ここが死の河だと錯覚するほど大量に――。
「あ、あ、あ……」
そしてようやく視界が開けた。自分たちは塔の残骸のその近くにいた。粉塵が晴れるほどに長い時間が経ったのだろう。辺りには魔物の死体の群れ。そのすべてが一刀両断されていたのは、恐らくリリスがやったのだ。
周囲の家々もひどい惨状だ。砕けた塔の破片が屋根に突き刺さり、逃げ遅れた人々の死体が転々と散らばっている。
これほどの魔物に囲まれ、あんなにも傷だらけになるまで戦って。
なぜ、リリスは自分を連れて逃げなかったのか。
崩れ落ちた塔から助け出してくれたのはリリスだ。なのに、なぜ、どうして。
――決まっている。
「リリス、もしかして、薬を探して――」
「大丈夫、サラ」
この世のすべてを肯定するような口振りで、リリスは言った。
「今こいつをぶち殺して、あなたの薬を掘り起こすわ。あたしに任せて、サラ。すぐに終わらせるから」
サラが冷静であれば、リリスの左腕がほとんど動いていないことに気づいただろう。右足を引きずり、さらに息も乱れている。スタミナの限界が近いのだ。
リリスは助けられなかった。あの王塔に眠る病気の子供を、助けられなかったのだ。
サラに手を伸ばした後、リリスが少年をも救おうとしていたことを、サラは知らない。どちらも助けようとした結果だが、リリスの力は及ばなかった。
どこかでぐしゃりと潰れた少年の死体を悼むために、リリスが戦っているのだとすれば、これは彼女の罪滅ぼしのようなものかもしれない。
だが、今のサラには気づけなかった。目の前に直立するベリアルを前に、頭が真っ白になってしまっていたからだ。
リリスはすでに刀を抜いている。
右腕一本で持った刀を水平に持ち上げ、ベリアルを見据えていた。
「邪魔なのよ。そこに居座られちゃ、困るわ」
魔力が血流に交じり、全身を循環する。リリスの背中から大量の熱が発せられ、それは陽炎のように燃え立った。
リリスの戦闘力を支えるのは、この膨大な魔力だ。
彼女の魔手は『四肢の魔手』。射程距離はゼロに近いが、しかしその代わりに手足を魔手と化すことができる。それは血液に込めた魔力によって強度が変動し、通常時で普段の筋力の三倍。最大時には十倍以上の出力を発揮することができる。
――だがそのためには自らの体を酷使しなければならない。
動き出すベリアルは、拳を握り固めた。
真正面から迫り来るそれを見上げ、リリスは刀を引き戻し、脇を固める。
「来い――」
拳が襲いかかった。それはまるで大砲のようだった。
壁をぶち破り、王塔を破砕した拳だ。
ベリアルは吼えずに殴りかかって来て、そしてリリスは吼えながら刀を振るった。
「ああああああ!」
まるでそれが勝敗を分ける明確な差だったかのように、刀は爆発的な衝撃を伴った。拳と刀が衝突し、空気の波が弾ける。
あまりにも肉が厚すぎて斬り飛ばすことができない代わりに、破壊力はベリアルの拳から手首、そして腕から肘へと抜けてゆく。
ぶぎりとベリアルの肘の先から耳障りな音が響いた。高濃度に循環した魔力によって、魔物の血は赤い蒸気のように噴出する。
リリスは刀を引き、さらに暴撃。ベリアルの胸に斜めの傷跡が走る。
四肢の魔手に耐えられるほどの強度をもった刀など、世界にふたつもない。あれだけ乱暴に振りまわしていてもまるで損傷を来たさないそれはまさしく魔刀。
魔手が握る魔刀は、ベリアルを圧倒した。
遥かに巨大な化け物を、人の子が蹂躙する。
倒壊した王塔の下、物理法則を捻じ曲げる光景。舞い踊るようにリリスはベリアルを叩きのめした。
傍目から見る分には、リリスの快勝、圧勝だ。自らに並び立つ相手と戦ったことはなく、なにもかもを狩りの名の元に引きちぎってきたベリアルでは、リリスには敵わない。
子を守る母の苛烈さを魔物は今、その身をもって味わっているのだ。
ベリアルがおののくように後ずさりをした。数メートルにも及ぶほどの大きな一歩に地面が揺れる。だが魔物が恐れているのは、少女が踏み出す数十センチの一歩だ。
彼女は逃がさぬ。一歩で追う。
「サラとあたしの邪魔をする奴は許さない――」
真っ赤な眼。その肌もまた、紅く染まりつつある。
体からは沸騰した汗が水蒸気となって立ち上っていた。
「待て――」
もはや戦闘の意思を失ったベリアルを追う彼女は、狩人のようだった。
その背を――サラが抱きとめる。
「――もう大丈夫、大丈夫だから、ママ」
必死に訴える。
神の怒りを鎮めるかのように。
リリスは慌ててこちらを肩越しに振り返ってくる。
「サラ! だめよ、離れなさい! あたしの体に触れると、火傷をしてしまうわ!」
「平気だよ……このぐらい……!」
実際それは相当なやせ我慢であった。
リリスの
――しかしこれ以上戦いを続ければ、リリスの体が壊れてしまう。
サラが今感じているようなその熱さを、彼女は常に味わい続けているのだから。
四肢の魔手は絶大な破壊力を生み出す、いわばリリスの切り札だ。
だがその状態を長時間維持しようとすると、体組織や細胞が破壊し尽くされてしまう。魔力を血液に循環させることの弊害であった。
リリスは気を失うような高熱に耐えているはずなのだ。
「大丈夫よ、サラ。あたしは大丈夫。さあ、ベリアルに止めを刺して、薬を探しましょう。もうあたしたちを阻む者は誰もいないわ――」
まったく、最初からこうすればよかった。
サラはリリスの手から魔刀を奪う。油断していたのか、それはするりと回収できた。柄の部分が熱いし、でたらめに重い。両手でなければとても持ち上げられない。彼女はこんなものを握り、振り回していたのだ。
――その刀をサラは、自らの喉に押し当てた。
「サラ!」
リリスがこちらを見て絶叫した。
静かに首を振る。
悲痛な決意をにじませて、サラは一言一句言い聞かせるように。
「リリ、もう逃げよう。これ以上は君の体がもたない」
「玩具じゃないのよ。早く離しなさい、その刀を、早く!」
狼狽する彼女の姿が少しだけ面白くて、サラは口元を綻ばせた。
「わたしと一緒に逃げてくれる?」
「あと少しで薬が見つかるかもしれないのに!」
「その少しを踏み出せば、君は死ぬかもしれない」
「あたしなんてどうなったって構わないわ!」
「嫌だよ、そんなの、嫌」
「サラ、刀を渡しなさい!」
まったく、自分は嬉々として死地に飛び込んでゆくくせに。
わたしが死ぬかもしれないと思った途端に、この顔だ。
今にも泣きそうな顔で、こちらに手を伸ばしてくる。
「ね、君を失いたくないんだよ、リリ」
リリスは何度も大きくうなずいた。
「わかったわ、わかったから、バカな考えはやめて」
「本当に?」
「言う通りにするから、だから、お願い」
リリスの発熱が収まってゆき、頬には健康的な赤みが戻ってきた。
それを見たサラは、すっと刀を首から離した。
本当はそろそろもう、刀を支える腕が限界だったのだ。
穏やかに微笑む。
「ありがとう、リリス」
「――ばか」
リリスは刀を受け取りもせず、そのままの勢いでサラに抱きついた。
からんと刀が落ちて、サラはあっと思ったけれど。
少女のように泣きじゃくるリリスは、心から安堵したかのように。
「……もうこんなことはやめて。お願い」
サラの耳元に、涙ながらに訴えた。
それもまた自分勝手な言い草だが。
しかし、なぜだか少し嬉しくなってしまう。
ちゃんと自分のことを考えてくれているという、それだけで。
サラは彼女の背を、優しく撫でる。
「わかったよ、ママ」
――まったくもう、リリスは、本当に泣き虫なんだから。
ふと心の中に浮かんだその言葉は、まるでもうひとりの自分がつぶやいたかのようだった。
国は本当に滅びていたようだった。
瓦礫だらけの道を歩む。辺りには死の匂いと苦味。
死肉を漁る魔物から身を隠しつつ、ふたりは破壊された城壁へと向かう。
夜明けまではまだ遠い。国の中には逃げ場がないため、家に閉じこもっている人々は今、無残なことになってしまっているのだろう。
結局のところ、この国は周辺の魔物が成長しすぎてしまったため、いずれ滅びる定めにあったのだ。
ベリアルなどという魔物の繁栄を許せば、人は住処を捨てるしかない。いつまでもすがりついた結果が、この廃都の有様だ。
サラは隣を歩くリリスを見上げた。
満身創痍。足を引きずるようにして歩いている彼女の輝くような銀髪も、今は血に薄汚れている。シャワーを浴びるために立ち寄った国だったな、とサラは思い出した。あれが半日前のことだとは思えない。
本当に、ずっと迷惑ばかりかけている。自分はいつまで母にすがりつくのか。それはこの国のように滅びるまでなのか。
自分の首に刀を突きつけるだなんて、今思い出してもぞっとしてしまう。
無茶の反動と反省で、サラの胸に再び暗澹たる気持ちが訪れていた。
その心を支えるのは、左手に伝わる温もり。リリスの手だ。
ふたりは帰り道の宿で荷物を回収し、国の外へと出た。
城壁の外に広がるのは、鬱蒼と茂った林。ただでさえ月明かりの照らしていない闇をより深めている。
そこから声がかけられた。
「……お前たちも、生きていたのか?」
すでにサラとリリスは暗闇に目が慣れている。
彼らも同じようなものだったのだろう。ふたりの少女を見て、男は「あっ」と声をあげた。
「あんたたち、その格好……。そうか、魔物に襲われたのか、よくここまで来れたな」
見覚えのある男だ。
そうだ、確かシャワー室で自分たちを覗こうとしていた冒険者か。
その冒険者の周りにも、仲間たちが控えていた。さらに国から逃げ延びた住人も固まっていた。ざっと見て百人以上はいるようだ。いや、闇の奥にもまだまだいるのか。
これだけの人数が固まって林の中にいれば魔物を引き寄せてしまいそうだが、大丈夫なのだろうか。心配そうな顔をするサラに、リリスがそっとささやく。
「国の中の死者とここにいる生者の区別は、魔物にはまだわからないでしょうね」
そういうものか。男はリリスに問う。
「王はどうなったか知っているか?」
「死んだわ」
リリスはその死を看取ったわけでもないのに言い切った。
いや、サラが気を失っている間に、死を確認したのかもしれない。
だとしたら、王塔の頂上にいたあの少年も同じ運命をたどったのだろう。
しかしそれを聞いた男はにやりと口元を緩めた。
「なるほどな、つまりあの国を総べる者は、もういないわけだ」
男が馴れ馴れしそうにリリスの肩に手を置こうとする。怪我を負ったリリスはその手を避けられないだろう。
しかし代わりにサラが前に出た。
「リリスはけが人だよ。不用意に触れないで。傷口から病原菌が入っちゃう」
「あ? ああ」
男はぼうっとしたような顔をして、眉根を寄せた。
暗に汚い手で触るなと言われたのだ。不愉快さを隠せぬ度量を見せつつ、男はしかし一本の槍を肩に背負った。
「まあいいさ。すぐに俺の偉大さに気づくだろう。機工兵団の軍団長、このゼクスさまが今からデカブツを打ち倒してやるからな」
「……国を奪還する気?」
「当然だ。あそこは俺たちの住処だ。あそこを取り返すんだ。この『砲魔槍』でな」
サラは知らなかったが、リリスは気づいたようだ。
それは自分たちが『討伐の島』に運んできたあの積荷だということ。この数日の間に荒野から回収をしていたのだろう。
そして、周囲に立つあらゆる人々が皆、その兵器を抱えているということだ。
ベリアルを倒すというのか。彼らが。
サラはそんなことが本当に可能なのだろうか、と思った。
確かにあの国を取り戻すにはそれしかない。これからも居続けるなら、退治するしかないだろう。だが、だとしても。――いいや、できないことはないかもしれない。
そうだ、あのベリアルは手負いだ。さらにリリスの圧力に逃げ出した敗北者だ。ならばかつての闘争心は失われたかもしれない。
勝機はあるだろう。リリスやサラが加担をせずとも。
人々は血気の炎を胸に掲げ、砲魔槍を手に魔物を待ち構える。爆発的な士気の高まりが辺りを熱狂に包み込んでゆく。あるいは、それは王政によって弾圧されてきた人々の革命だったのかもしれない。
人々は森の中に陣を敷いていた。扇状。前方に火力を集中することができる効率的な配置図である。
サラはリリスを見上げた。
リリスはそっとサラの頭を撫でる。
「巻き込まれないうちに、行きましょう」
「……うん」
ふたりの少女はこれから始まる戦乱の予感に背を向けながら、森から道へと抜けようとする。
救える命は救いたいと思うサラだが、彼らは己の命を懸けて戦おうとしているのだ。邪魔をするわけにはいかないだろう。
いかないのだろうが――。
わずかに進んだところだ。
どしん、どしん、と響く音に顔をあげる。
――闇の中ぽつりと浮かぶ赤い光を前にしたときには、さすがに心が震えた。
サラとリリスの前に、その怪物はいた。
森の中に存在する根源的な恐怖。
紛れもない。ベリアルだ。
なぜここにいるのだ。やつはまだ国の中に。
そう思って見上げるサラは、すぐに気づく。
そのベリアルは、無傷であった。いかに強烈な再生能力をもつ魔物といえども、この短期間で傷跡までが消え失せてしまうはずがない。
ということは――。
「別個体だわ」
その巨体を震わせながら、ベリアルは自分たちの横をゆっくりと通り過ぎてゆく。なぜ彼らは自分たちを狙わないのだろう。もしかしたら先ほどまで四肢の魔手を発揮していたリリスを『同類』だと思っていたのかもしれない。
この地響きは、あちらで陣形を組んでいる人たちにも聞こえているだろうか。
しかし、どちらにせよ、――挟み撃ちだ。
撃っても撃ってもその進軍を止められず、前から迫るベリアル。そして、そんな中ふいに後ろから現れて陣形をバラバラに引き裂くもう一体のベリアル。
そんな光景が見えて、思わずサラは立ち止まってしまった。
せっかく生き延びたのに、彼らはなすすべもなく殺されるだろう。
そんなのって、ひどい。
「もしかしたらベリアルは、つがいだったのかもしれないわね」
暗闇ではっきりとは見えなかったが、確かに先ほどのベリアルは一まわり小さかったように思える。夫の危機に馳せ参じた妻なのだろうか。
あるいは、サラにとってそれは、母親を助けるためにやってきた娘のようにすら見えた。
どっちみち、リリスはベリアルの背をぼうっと見送っていた。人の運命を見送るだけの神のようなたたずまいで、超然と。
だが――。
その娘、サラは駆け出していた。
弾かれたように叫ぶリリス。
「サラ! 待ちなさい!」
ベリアルの横を追い抜き、母の制止を聞かず、両足を力強く動かし。
救える命があるなら、救いたい。
その一心でサラは戦場に飛び込んでゆく。
「あなたが戦ってはならないわ! サラ!」
なびかせた金色の髪が、闇の中に煌めいた。
「逃げて!」
唐突に叫んだ金髪の少女を、皆は何事かと見やった。
ここには老若男女問わず待機している。
サラは今、その士気を掻き乱す存在であった。
「いきなりなに言ってきやがるんだ、てめえ! 今が大事なときだってのが、わかんねえのかよ!」
このままでは勝てる戦いにも勝てなくなってしまう、とばかりに神経質に叫んだ男、ゼクスをサラは必死に見返す。
「後ろから魔物が近づいてきているんだよ、このままじゃ、みんな、死んじゃう!」
普段ならばこんなに堂々と発言することなどできないサラだが、今は緊急事態だ。
自分がなんとかしなければ、という想いが強くあった。
ゼクスは顔をしかめた。
「魔物だあ……? ンなもん、何匹来ようが俺たちには――」
直後、地面が抉れた。
大質量のなにかが空から落ちてきたのだ。土砂が舞い上がり、それぞれに降り注いだ。それはまるで闇が襲いかかってきたかのようだった。
呆気。絶句。放心。その中で人々が大量にえづく音が叫喚じみて響き渡る。
突然、口の中に苦味があふれてきたのだ。魔物とこれほどの距離で接敵したことがない人々にとってそれは、地獄の臭気のような味わいだったろう。
浮かぶのは、赤い光。両眼――。
「う、撃てェ――!」
ゼクスが弾かれたように叫んだ。
首長の発射を皮切りに、砲魔槍が次々と火を吹く。
最初のうちは恐る恐ると、確実に当たると思った距離でのみ放つ人々。ベリアルの体表を火焔が照らす。しかしベリアルはなんの痛痒も感じていないように腕を振り上げる。阻止しようとさらに撃ち手が増す。それでも止まらない。
――腕が地面に叩きつけられた。
肉が爆ぜる。辺りに真っ赤な血が飛び散った。
人間が瞬時に破壊される光景を見て、様子をうかがっていた者の行動が二分した。
逃げ出す者。あるいは砲魔槍を乱発する者だ。
我先にと砲魔槍を放つ人々は、さらなる被害をもたらした。なにしろ威力が高い。サラは自分たちの宿を爆発させようとしたのが、その砲魔槍によるものだと気づいた。弓矢ではなかったのだ。それほどの威力の矢が森を数十と飛び交う。あっという間に森は炎に包まれた。
ベリアルだけが悠然としているのに、その周りにいる人々は爆発物による延焼で、ことごとく地面を転がり、苦しんでいる。
なんと愚かな結果か。リリスならそう吐き捨てただろう。
サラはそうではなかった。
彼女は必死だった。
人を救う。そのための腕を掲げた。
魔手――。
「みんな、逃げて! 逃げて!」
サラの背中から闇に溶けそうな淡い色の腕が、鎌首をもたげる蛇のように浮かぶ。
ひとつ、ふたつ、三つ、四つ――。本来ひとりひとつしかあるはずのないそれが、次々と。
その光景を目の当たりにした者たちは、サラの呼び出したそれが『魔手』であるとは到底思えなかっただろう。
なんといってもあまりにも巨大だ。一本一本が人間を丸呑みにできそうである。
やがて七本目の腕が出現した直後、ベリアルは唐突に雄叫びをあげた。
あの魔物にだけはわかっているのだ。サラがなにをしようとしているのかを。
ベリアルは酩酊状態から覚めたような速度で、拳を叩きつけてきた。
同時にサラは目を見開いた。
漂う煙のような魔手の内部に魔力の光が走った。直後、それぞれの魔手は誰の目にもわかるほどに実体化した。形作られるのは鎖が巻きつけられた剛腕。そのすべてがサラの意思のままに動き出す。
砲魔槍を束ねたよりもはるかに強力な質量を、七本の腕が受け止める。
そして掴みながら、一気にねじりあげた。
魔物の体が揺らぐ。だがこの化け物はしっかりと大地に根を張るように踏みとどまった。
その結果、
――サラの魔手はベリアルの右腕をねじ切った。
凄まじい血しぶき。森を消火するかのように噴き出したそれは、火に照らされてあらゆる人々の目に見えた。
烈々と魔手を操作するサラは、それ以外のすべてに目が向かない。
彼女の目には今、ベリアルの苦しむ様だけが見えていた。
「ごめんなさい、でも、死んじゃえ――」
ただ一本の魔手を自在に動かすため、魔法使いが数年の修練に及ぶというのならば、あの七本の腕を自在に動かすサラの脳はどのような電子信号を発しているのか。
常人には及びもつかないほどの速度で魔手は
ベリアルは左腕を振るい魔手の一本を引きちぎると、より激越に暴れ出した。
踏み潰された人の死体が果実のように汁を漏らし、ベリアルはなおもサラに拳を振るう。
強大なハンマーを、サラは再び魔手で受け止めた。辺りに衝撃がほとばしり、地面を舐めるように震動が広がる。
辺りに立つ人々が態勢を崩して地面に転んでゆく中、サラはベリアルの腕を放さない。
六本の腕が食い込み、血管のように腕を内側から貫き、そして食い破ってゆく。
サラの魔手は、出力、本数、操作距離、そのすべてが異常だ。総合力はおろか、それ以外のあらゆる数値で比較したとして、他の追従を許さないだろう。
『荒神の魔手』と、リリスは呼ぶ。
サラがサラとして目覚めたその瞬間から、彼女の中に宿る力。
これがどれほどに忌まわしい力であっても、それで人を救えるのなら。サラは母親のように、誰かを守れると信じていたかったのだ。
母の愛はサラの心を突き動かした。その結果が、この圧倒劇だ。
腕から腹へとかけて突き破られたベリアルは、その場で苦悶の叫び声をあげた。その声にあるいは国内からもう一匹のベリアルが現れるかとも思ったが、その様子はないようだ。
すぐにベリアルはその場に倒れ込んだ。そうして動かなくなる。
国を長年にかけて脅かしてきた化け物は今、たったひとりの少女によって討伐されたのだ。
サラは勝利した。完膚なきまでに、ベリアルを撃滅してみせた。
山火事の中で浮かび上がる彼女の顔は、まるで幽鬼のように青白く、儚げであった。
今にも地面に倒れてしまいそうなサラは、霞む目で振り返る。
限界付近でなにかをこらえながらも、彼女は賞賛と感謝を求めていた。
無意識の中、それが与えられることが当然だと信じていたのだ。
しかし――。
違った。
「ベリアルを、倒した……」
「なんだこの女は……」
「新しい王……女王の誕生か……?」
彼女に与えられたのは、畏怖と戦慄。
そして、――新たなる憎悪であった。
サラは激しく戸惑った。
「こいつが王なら、こいつを倒したやつが新たなる王に……?」
「森の中だ、他に見ている人はいまい」
サラは遠ざかる意識の中、背筋が凍りついた。
「……え?」
彼らはなにを言っているのだろう。自分がベリアルを倒し、その命を救ったというのに。
なぜそんな発想に至るのか。
意味がわからない。理解ができない。
――この『討伐の島』の住人は狂っているのか。
サラは手を伸ばす。自分は味方だと言うつもりが、今になって緊張のあまり声が出なくなった。
彼女の前に現れた男は、ゼクス。生き延びたのだ。そして大振りの剣を手に、サラを睨みつけてくる。
ベリアルを破壊した女に恐れを抱きながら、それでも求めるのは栄華か。
「どうして」
サラはその場に片膝をついた。意識が遠ざかりつつある。
「お前は化け物だ。たったひとりでベリアルを倒せるはずがない。お前のような化け物は、俺が今、討伐してみせる」
「わたしは、違う」
「違うものか、お前は――」
――そのときだ。
ゼクスの指先から腕にかけて、急激に斑紋のようなものが広がっていったのは。
「う、おおおおおおおおお⁉」
叫び声だ。絶叫と言ってもいい。
右腕を掲げながら、それを見せつけるようにゼクスは狼狽した。
「こ、これは、これは⁉ 俺の手が、腕が! 汚染されてゆく!」
「あ、あ」
サラは目を見開いた。
動揺は次々と広がってゆく。同じように――感染も。
ゼクスの近くにいた女性の体に斑紋が浮かぶ。さらに隣の男に。すぐそばの老年に。次々と、次々と悲鳴。感染が広がってゆく。
これは、これは――。
――制御できなくなっている。
「だめっ、わたし、こんな」
サラが同時に操ることができる魔手は、十本。だが彼女がそれをすべて表に出すことはない。
なぜなら、そのうちの何本かでサラは己の
でなければ漏出する。
外にウィルスがにじみ出て、辺りを汚染する。
今のように――。
だからこそサラはいついかなるときにでも、魔手を操る。そうでなければサラは大切な人をその手にかけてしまうだろうから。
三本残していれば、大丈夫だと思ったのだ。ベリアルを倒すには六本では足りないと思い込んでいた。しかしその目論見はすべてダメだった。過信と増長がサラの心臓から毒気を放出させる。
サラは自らが守ろうとした人々が苦しみつつある姿を見て、激しく動揺をした。
「こんなつもりじゃ、なかったのに、なかった、わたし」
体内に戻した魔手を操り、サラは己の心臓をギュッと握り締める。勢いづいたその力は普段よりもずっと強かった。目の前がチカチカと発色し、サラは口から血を吐き出した。
その吐血を見て、人々はさらに恐れた。あれこそがすべての病原菌の源とばかりに指差し、喚き立てる。
このままでは病気は広まる。
ならば燃やさなければならない。
「……ちがう、の、わたし、は……」
化け物じゃない。
あなたたちを守ろうとしたの。
口元を押さえながらサラは精いっぱい手を伸ばした。
それを掴む者は、いない。
伝染病をばらまく女を前に、人々は――。
――砲魔槍を向け、発射した。
矢が四方から迫り、サラは。
「どうして――」
斜めに歪んでゆく視界の中、声がした。
「――そんなのは決まっているわ。人は弱い生き物だからよ」
風切り音がした。
リリスがサラの前に現れ、矢を一瞬で斬り裂いたのだった。
背後で爆発音が響く。
サラがその後に見たものは、自分たちに仇為す存在を殺戮するリリスの姿だった。
逆らう者に容赦はせず、彼らをリリスは一刀のもとに斬り捨ててゆく。
サラは慟哭していた。
自分は彼らを救うことができなかった。
ただ、リリスの真似をしたかったのだ。
強くて美しく、そして一歩も引くことがない彼女のようになりたかったのだ。
だが、だめだった。
自分の存在は、この世の悪だ。害だ。
サラは伝染病そのものであった。
その魔法を使ってはいけない。サラが魔法を使えば、周りの人々が傷つく。そしてなによりも、サラが傷つく結果になってしまう、と。リリスに何度も言いつけられた。
なのに、サラはその言いつけを破ってしまった。
その結果が、今のこの事態だ。
幼き正義感で、よりたくさんの人を不幸にしてしまった。
リリスはサラを抱き寄せ、背負うようにしてその場から駆け出す。
彼女に抱かれながら、サラは泣きじゃくっていた。
まるで赤子のように、わけもわからず。
「わたしは悪魔なんだ。こんなわたしは、生きるべきじゃなかったんだ」
誰かを救おうとすれば誰かを傷つけて、リリスに庇護されなければ生きることだってできない。そして、今リリスの首元には伝染病の斑紋があった。
リリスもまた、冒されているのだ。
サラがばら撒いたその伝染病に。
だから彼女も薬を飲まなければならない。
リリスは死ぬことはない。その体もサラのように特殊なものだった。だが、だからといっていつまでも無事で済む保証はないのだ。
だいきらいだ。だいきらいだ。
口癖のように繰り返しているけれど、本当にだいきらいなのは、こんな自分自身だ。
ボロボロと涙を流すサラに、リリスは告げた。
「あなたが悪魔でも、構わないわ。あなたが悪魔なら、あたしだって悪魔でしょう。悪魔の母親なんだから」
再び爆発音がした。背後からだ。もしかしたら手負いのベリアルが乱入してきたのかもしれない。つがいか、あるいは子どもの死を見て、発狂したのだろうか。
いや、今はもう、そんなことはどうでもいい。人の住む世界の話など。
悪魔の母は、優しい声色で語る。
「なにがあっても、あたしはあなたを守り続けるわ。あたしたちは、たったふたりの悪魔なんだから。ねえ、サラ」
サラはリリスの温もりを感じながら。
ゆっくりと、眠りに落ちていったのだった。
「結局、手に入った薬は一瓶だけだわ」
リリスはポケットから取り出したその瓶を軽く掲げ、眉根を寄せていた。
ベリアルに襲われる前、瓦礫の下から見つけ出したものだった。
瓦礫に潰されて砕けた瓶の中身が散らばったものを拾い集めたから、ずいぶんと数が減ってしまっている。
合わせて、せいぜい五十錠。
これだけでは、あと何回の夜を越えられるか、わからない。
サラはテントの中で、苦しそうに呼吸を続けていた。
先ほど薬を二錠飲んだから、もう少しすれば起き上がれるようにはなるだろう。
サラは薄目を開いて、リリスに手を伸ばしていた。
「ママ……」
「ええ、大丈夫よ。あたしはここにいるわ」
サラの両目から、涙がこぼれていた。
「ごめんなさい、ママ……」
「謝ることなど、なにもないわ」
なにもないはずがなかった。自分が無茶をして、リリスやたくさんの人に迷惑をかけたのだから。
リリスに指をからませ、サラは繰り返す。
「ごめんなさい、ママ、ごめんなさい……だから、捨てないで……」
それを聞いたリリスはわずかに目を丸くした。
それから、サラの頭を優しく撫でる。
「バカなことを言わないの。もうおやすみ。ここにはあなたを邪魔する者は誰もいないわ。元気になって、そして早く次の国に向かいましょう」
ささやくリリスの顔を、サラは見てはいない。
もしそれを見たら、いったいどんな想いを抱いていただろう。
リリスは笑っていた。
サラの哀願を受けて、とても心地よさそうに笑っていたのだった――。
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次回:3月28日 AM11:00 更新
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