第2章 サラ(3)

 

 

 宿でリリスが言った。

「王塔に侵入して薬を奪うわ」

 サラは思わずパンを取り落とすところだった。

 ふたりの部屋で食事をしている最中だ。寝台がかび臭いから窓を開けてと訴えたのに聞いてくれなかったのは、この話をするためだったのかとサラは気づいた。

「魔物が襲撃してきたら、そのときに合わせて王塔に乗り込むから。サラはここで待っているのよ」

 リリスは買い込んできた食料品をバッグに詰め込みながら言う。

 経済活動が崩壊している国も多くある中、この『討伐の島』ではいまだに硬貨が価値をもっていた。物資を調達することが非常に簡単だったのだ。

 雑貨屋を巡り、足りない装備――たとえば新しい水筒だとか、携帯食料だとか、厚手の寝袋だとか――をまとめて買い込んでくることができた。そのことがリリスの決意を後押ししたのかもしれない。

「でも、リリ、魔物を倒すって」

「そんな危険には付き合っていられないもの。あれはもっているかどうかカマをかけただけ。だいたい、こっちが約束を守っても、本当に薬がもらえるのかどうかも怪しいわ」

 確かにそうだ。

 だが――。

「そんな、泥棒みたいな真似を、リリが……」

 サラは嫌だった。

 それではこの国で威張りくさっている王様と同じレベルではないか。

「だから、あなたはここで待っていなさいね」

 リリスの指がサラの髪を梳く。

「心配いらないわ。お薬はしっかりと取ってくるから」

 ポケットの中から小瓶を取り出すリリス。

 その中に入っている錠剤は、残り十六粒。

 ――サラは滅病ペカトゥムに侵されていた。

 物心ついたときからだ。といっても十五才以前の記憶はすべて伝染病によって奪われてしまっていたのだが。

 サラが覚えていたのは自分の名前。ただそれだけである。

 本来ならば、伝染病はあっという間に体中にまわり死んでしまう病だ。感染すれば三日三晩とて生きられまい。

 しかし、サラの症状はそうではなかった。病魔は心臓にまで深く入り込んでいたが、しかしそれは薬と彼女自身の特殊な力によって進行を抑えることができた。

 だがそのためには薬が必要不可欠だ。

 そうでなければサラは苦しむし、やがて死に至ることに変わりはないのだから。

「ねえ、リリ、わたしは」

 サラは消え入るような声でつぶやく。

「なあに? サラ」

 けれど、微笑むリリスの前、言葉は出てこなかった。

 サラの薬を手に入れるためにリリスが、今までどんな無茶を繰り返してきたか、サラは知っているからだ。

 超常的な力をもち、魔物を単体で撃滅することができるリリスが危険な旅をしなければならないのはすべて、サラのためだ。

 そこにどんな策謀が、欲望が、陰謀があろうとも、サラが彼女を拒絶することなどできやしない。

 庇護されるという不自由を受け入れるしかないのだ。

 ――わたしは、そうまでして、生きていたくないのに。

 そう言いかけた言葉は、出てこなかった。

 サラは小さく首を振る。

「……なんでもない。でも、無理はしないで」

 駄々っ子をあやすようにサラの頭を撫で、リリスは母親のように微笑んだ。

「もちろんよ、サラ」

 リリスは嘘つきだ。

 その夜、ふたりは夜襲を受けた。



 サラにはなにが起きたか、まるでわからなかった。

 ただ陶器を落としたような硬質的な音がわずかに鳴って、それで目を覚ましたそのときにはもうリリスは行動を開始していたのだ。

 ベッドから跳ね起きたリリスはしなる鞭のように跳んでいた。その残像だけがサラの目には映る。

 窓から飛び込んできたのは恐らく矢だ。自分たちの寝台は窓から直接狙える位置ではなかっただろうから、なんらかの仕掛けのついた矢だろう。

 それをリリスは床に倒れ込むような低い姿勢となりながら、地面に突き刺さるその直前、――掴んでみせた。

 彼女が無茶な態勢から右足を床に叩きつける。素足が床板を踏み抜く音がした。それは踏み込みだ。手の中で矢をくるりとまわしたリリスはまったく同じ軌道をなぞるように矢を投げ返した。

 針を穿つように破られた窓の穴をたどり、リリスの放った矢は虚空に消えた。

 ――そして数瞬後、大輪の火花が咲く。

 見事直撃したのだ。ここよりも高いところから矢を放ってきた刺客の狙撃地点に。

 その頃にはサラも起き上がって、部屋の隅に避難していた。

 輝きの残る夜空を白黒とした目で見上げ、うめく。

「な、なに、なんなの……?」

「あのオッサン、一杯食わせやがったわね」

 リリスはもう事情を理解しているようだ。

 不安げな顔をするサラに、告げる。

「命じたのは恐らく王よ。あたしたちよそ者を排除しようってことね。そんなに薬を取られるのが嫌だったんでしょう」

「そんな、だって魔物が攻めてくるんでしょ⁉ それなのにどうして同じ人間のわたしたちを狙うの⁉」

「本当に、まったく、微塵も理解ができないわね」

 リリスは刀を掴んで窓から外を睨んでいる。

「射ってきたのは塔の方角か。国の中で爆発物を使うだなんて、いったいなにを考えているのよ。魔物の仕業に見せかけられるとでも思ったのかしら」

 騒ぎが起き始めている。宿に泊まっていた冒険者たちが飛び出したようだ。

 だがあくまでもその発生源は、通りふたつ向こう。冒険者たちはそこに殺到してゆく。

 当然だ。まさか射られた矢を投げ返して、百メートル近くの距離を命中させることができる人間がいるとは、思わないだろう。

「サラ、あなたは宿のこの下の部屋で待ってなさい」

「……リリは、どうするの?」

「混乱に乗じて薬を奪ってくるわ。あたしの大事なサラをこけにして、ここまでやられて黙っていられるものか」

「だ、だったら、わたしも行くよ」

 サラの言葉にリリスはいい顔をしなかった。

「危険だわ。あなたは残っていなさい」

 反射的に言い返す。

「わ、わたしだって戦えるよ。それに危険なら、宿にひとりいるのだって、危険だもん」

 リリスはわずかに逡巡しているようだ。

「リリはわたしのために薬を取ってきてくれようとしてくれるのに、わたしが待っているだけなんて、やだ」

 こう言えばリリスが首を縦に振るだろうという算段はあった。

 事実、リリスはひどく気が進まなそうな顔で「あたしから離れないでね」と言ってくれた。

 サラは腹の下に力を込めて、気合を入れた。

 自分が見ていなければリリスはやり過ぎてしまう。

 確かに自分たちを狙った王は許せないが、しかしこの国で生きている衛兵や冒険者たちには関係のない行為だ。それでもリリスは行く手を塞ぐ者は何人たりとも斬り伏せてしまうだろう。

 それがサラには嫌だった。

 こんな死にぞこないの自分が生きることで、周りのみんなが殺されてしまうだなんて、それはひどく帳尻が合わないことだと思ってしまうのだ。

 本当は誰にも迷惑をかけたくない。

 だがリリスがそれを許さない。

 ならばせめて、リリスの手綱をうまく握らなければならない。それができるのは自分だけだから。

「いこ、リリ」

 旅装に着替え、リリスを招く。

 サラの幼き不安定な正義感を、母はとがめなかった。

 

 

 夜の闇を疾駆するふたつの影。ひとつは銀、ひとつは金。

 リリスほどではないが、サラだって体を動かすのは得意だ。特に薬を飲んだあとなどは調子が良いから、いつも以上に身のこなしが達者となる。

 刀を握る母親に対し、サラはなにも持っていない。邪魔な荷物はすべて宿に置いてきた。

 ひんやりとした外気に反発するように、サラの体は火照っていた。緊張が身を包んでいるのだ。ただの散歩ならばよかったのに。

 塔のそばまでやってくると、いよいよ騒がしい。これでは侵入することは難しいのではないだろうかと思ったが、しかしそうでもなさそうだ。

「衛兵たちはみんな、出動したみたいね」

「……そうだね。どうしてだろう」

 衛兵がたくさん固まっていたら母親も諦めてくれると思っていたのだが、そのあては外れた。このままでは侵入できてしまえそうだ。

「いこ、サラ」

 母親の後を付き従うサラ。

 彼女の体力は自分とはまるで違い、底なしだ。サラは早くも息が乱れ始めていた。

 自分がこのままではただの足手まといになるのではないかという不安も、徐々に芽生え始める。

 正門に鍵はかかってはいなかった。リリスが力づくでこじ開け、サラが滑り込む。

 塔は静寂で満ちていた。

「向かうなら上よね」

 塔の床は滑らかで、妙に足音が響きそうな作りだ。侵入者対策なのか、あるいは儀礼的な理由があるのかはわからないが。足音を殺しながら階段を上ってゆく。

 中には一切の光が灯っていなかったが、月明かりが窓から差し込んでくれたおかげで足元は見える。それに普段は王塔として使われているのだから、罠の類は張られていないはずだ。

 誰にも会わず、三階へと到る。

 呆気ないほどに順調だ。

 だがこのときサラは嫌な予感を覚えてしまっていた。それがなにかはわからないが。

「さて、ここから先だけれど」

 階段の影に声をひそめるリリス。静けさが耳に痛い。外から聞こえてくる喧騒は、別世界のようだった。

 サラは自らの心臓の音が響いているのではないかと、心配そうに胸を押さえる。

 それをリリスが目ざとく見とがめた。

「大丈夫? 胸、痛い? サラ、やっぱり宿に戻りましょう」

「……そうしたら、リリも戻ってくれる?」

「もちろん送るわ。サラが眠ったら、あたしはもう一度ここに来るけれど」

「……じゃあいい」

 サラが首を振ると、「まったくもう」というつぶやきが返ってきた。

 そのつもりはなかったのに、どうやら仮病を使ったように思われたようだ。少し癪だ。

「四階は会議室があって、五階には要職の私室。そして六階が王の部屋らしいのだけど」

 もう調べはついているようだ。いったいいつの間に聞き込みをしてきたのか。

 サラは疑念を口にする。

「……七階建てじゃなかった?」

「七階へと続く階段は存在を確認されていないようよ」

「隠し部屋ってこと?」

「たぶんね」

 そこでサラは口を押えられた。

 リリスの温かい手だ。身を固くしていると、どこからか足音が聞こえた。

 塔の壁に反響して、方向がよくわからない。

「無警戒な足音だわ。きっと雇われた衛兵ね」

 だが、リリスにはわかっているようだ。

 さすがというか、経験の差だというべきか。サラはそのままじっと体をリリスに預ける。ふたりの身長は、リリスが頭半分高い。

 後ろから抱きしめられているためか、じっと汗ばんできた。

 恥ずかしい。リリスに汗の匂いを嗅がれる前に振りほどくかどうか、サラは選択を迫られる。

「いったみたいね」

 限界値を迎える前にリリスが離れた。

 サラはほっと息をつく。

「だから言ったでしょう。そんなに怖いなら、部屋で待っていればって」

「……そうじゃないもん」

 呆れたようにつぶやくリリスに、サラは口を尖らせた。

 別に怖がっているわけじゃない。ただ、リリスの邪魔をしたくないと思うだけだ。

 さらに奥へと向かう。

 上れば上るほどに、サラの中で嫌な予感は強くなった。

 五階の警護は手薄だった。しかし起きている者がいるのか、ランプの揺れる火が廊下を照らす。光はリリスとサラの侵攻を拒んでいるようにも思えた。

 リリスはしかし、物ともしない。

 その程度の明かりでは消えぬ深淵のように、銀色の髪を揺らしながらリリスは進む。

 誰にも見つからず、さらに上を目指した。

 六階。王の居住区があるはずのそこには、大きな扉が一枚あった。後からはめ込んだのか、周囲の壁とは全く雰囲気の違う、剣の紋章が刻まれた両開きの扉であった。

 無警戒に取っ手を掴むリリス。

 罠が仕掛けられていないと判断したのだろうが、サラは少しだけひやりとしてしまった。

 なにかを始めようと言うなら、十分な説明がほしいものだ。そんなことを思うサラをよそに、ドアには当然のように鍵がかかっていた。

「どうしようかしらね」

 つぶやきながら、リリスは左手を刀に添えている。

 白作りの鞘に収まっている刀は、武者震いするようにちりんと鳴った。

 サラはリリスの後ろで、再確認するように問う。

「破らずに済まそうって考えているの?」

「どう破ろうかって考えているのよ」

「ああそう。じゃあ、わたしが魔手を使う?」

「バカなことを言わないで、サラ」

 一蹴されてしまった。

 すぐに結論が出たようだ。

 リリスは刀を押さえたまま、取っ手を引く。さほど力を込めたようには見えなかったが、みしりという音がして、すぐに鍵が引きちぎられた。

 瞬間的に循環燃焼メディテーションを行ない、肉体に重なり合う魔手でこじ開けたのだろう。リリスの筋力なら造作もないことだ。

「ただの錠だなんて不用心だわ。魔法使いには効かないのに」

「リリが言うと説得力があるね」

 壁の影に隠れていたサラの前、リリスはゆっくりと扉を引きはがしてゆく。

 想像していたような騒ぎには、ならなかった。王の部屋は壁に取りつけられた燭台が点々と続いてゆき、部屋の中を薄暗く照らしている。

 どこか物陰から急に殴りかかってこられてもわからなくて、サラは怖くなった。

 今のところはなんの音もしない。下界の騒ぎも遠い。

「いこ、サラ」

 盗人に手を引かれ、共犯者であるサラもまた、歩を進める。

 この先に待つのは、鬼か蛇か。

 少なくとも明るい未来だけが想像つかないサラは、ふと廊下に通りがかったところで窓の外を見た。リリスもまた立ち止まっていたからだ。

 光が動いた。手燭だろうか。

 複数のそれが、不規則に街並みを移動している。

 ……いや、どうにもおかしい。

 ここは塔の六階だ。ならば眼下を縫うように駆けまわるあの紅い光は、いったいどれほどの速度を出しているのか。

 しかも、あんなにたくさんの光が――。

 リリスは目を細めて言った。

「魔物だわ」

 サラは絶句した。嫌な予感の正体はこれだったのか。


 警報や召集発令すらもなかった。

 それはすなわち、『討伐の島』が奇襲によって防衛機能を停止せざるを得ないほどの大打撃を受けたことを意味しているのだ。

 いったいいつの間に?

 ――次の瞬間、ハッとしてサラはリリスを見上げた。

「リリ……」

 母は黙して語らず。

 サラは今まで気づかなかった。

 恐らくはリリスが投げ返したあの矢だ。光と熱と音のミックスが魔物を呼び寄せたのだ。宿が爆破されただけではそうはならなかっただろう。高度の問題である。

「……知っていたの?」

「なにが?」

「魔物が襲いかかってくる混乱に乗じて、王塔に忍び込もうとしていたの? だからあんなに急いでいたの?」

「魔物がやってくるという確証はなかったわ」

 どうりで警護が手薄だったわけだ。王塔を守っている場合ではないだろう。

 国の危機なのだから。

 これでは火事場泥棒だ。重ねてたちが悪い。

 サラのとがめるような悲しむような視線を受けてなお、リリスはためらいなく告げる。

「あたしたちを先に殺そうとしたのは、王でしょう。これぐらいのことは許されるべきだわ。恐らく薬の在処は七階よ。気づかれる前に行きましょう」

「……助けにいかないの? 町の人を」

「助けに?」

 リリスはまるで叱るような顔をした。

「あたしが大事なのはあなただけよ、サラ。他の人なんて知ったことではないわ」

 母はいつもそう言う。

 目の前で困っている人がいるなら、助けてあげたいと思うのに。

 伝染病に侵されている自分とは違い、未来があるだろうに。

「いきましょう、サラ」

「……」

 サラにはその気持ちが、重かった。


 無人の六階をゆくふたり。

 ときおり響く爆発音は、王が言っていた『機工兵団』とやらの力か。だがあれほど深く街に入り込んだ魔物を追い返すには至らないようだ。

 七階への階段を見つけた頃には、階下からは無視できないほどの叫び声が響いていた。

 それは雑音のようで、正体に気づかなければ祭りの騒ぎにも聞こえるだろう。だが今のサラにとっては助けを求める声に思えた。

 地上の人間たちを見捨て、天上にゆくかのようだ。

 七階もまた、居住区であった。同じように鍵のかかったドアをリリスが破壊し、難なく開く。王の私室が六階七階と続いているのかのようで、少し雰囲気が違った。その辺りの家庭のリビングにも似ている。

 靴が沈むほどに毛の厚いカーペットの敷かれた品の良い部屋だ。足音が響かないのはありがたいが、しかし暗いために見通しも効かない。

 どこかに薬があるはずだと、リリスの瞳が鋭く辺りを見回す。家探しを始める彼女から離れ、部屋の入り口に立ってサラは所在なくたたずむ。

 まるで家族が暮らしているようだとサラは感じた。

 だからこそ、この場を荒らすことに抵抗を感じ、サラの胸は痛む。

 けれどリリスはそんなことはまるで気にせず、テーブルや戸棚、キャビネットなどをひっくり返す。浅ましい行ないであると、サラは思ってしまった。

 旅の間、サラとリリスの関係性は変化した。

 リリスがサラをひたすらに守る。その構図は変わらないが、しかしサラの態度が変わっていった。

 最初はそそがれる無償の愛を嬉しく思っていたのだが、しかしリリスの行動をとがめることも増えていった。

 彼女の行動は過激すぎるのだ。右も左もわからないサラを守りながら、リリスは敵対する者を斬った。薬を奪い、それをサラに与えた。人を殺し、その持ち物を強奪することになんのためらいも罪悪感も抱かないリリスに、不信感が募った。

 リリスはすべてサラのためだと言う。だがサラはそんなことは望んでいないと言い返す。

 何度も喧嘩した。いつも優しいリリスだけれど、サラの命にかかわることだと途端に感情的になった。サラはそれが苦手で、最後にはいつも言うことを聞いた。ぶつかりながらも、リリスは絶対に己を曲げなかった。

 なぜ自分が生きているのか。なぜ生かされているのか、サラは最近よく考えるようになった。

 もしかしたら自分が生き続けていたくないと思うのは、力ずくで家具を破壊して回るリリスの、あんな様を見たくないからかもしれない。

 美しく高潔であると思っていたはずのリリスが、自分のために醜い姿をさらすのは、サラにとって病気に苦しむよりもずっとずっと嫌なことだった。

 母親は娘のためになんでもするものだとリリスは言う。

 でも、娘だって母親にはこうあってほしいと願う権利ぐらい、あるはずだ。

 自分のためにリリスが汚れた仕事をするさまは、サラの心に黒い影を落とす。

 勝手な言い草だ。

 ――でも、だからこそ、サラはときどき消えてしまいたくなるのだ。

 そんなことを思っていた矢先、ずしんという震動が響いた。

 窓に近づくと、リリスが慌ててやってきた。サラをかばいながら、その下を覗く。

 魔物だ。さらに増えている。機工兵団とやらは軒並み殺されてしまったのだろうか。どんな小細工を弄したところで、まともな人間が魔物に勝てるはずがないのだ。

 いや、それよりも。リリスが顔をしかめた。

「まずいわね。このままだと王塔から脱出できなくなるかもしれないわ」

 いくらリリスが強いと言っても、複数の魔物から袋叩きにされてしまっては、手も足も出ないだろう。

 サラはリリスの袖を引く。

「リリ、早く逃げよ。これじゃあ逃げられなくなっちゃうよ」

「……そうね」

 リリスは苦々しい顔でうなずいた。

 だが放ったのはサラの望む答えではない。

「あなたは逃げて。大穴から外に出てまっすぐ、一昨日野宿した辺りで待っていて。すぐに追いかけるから」

「リリ……」

 間違っている。ひとりで生き延びたいわけではないのだ。

 だが、リリスは聞き入れず、乱暴にリビングをひっくり返す。

 サラは窓の外で咲いては散る火花と、焦るリリスを交互に見比べる。

 王塔に次々と魔物が群がってきて、それとは別にデカブツの気配も感じていた。先ほどから断続的な足音が響くのだ。

 魔物は人に引き寄せられる。大勢の人がいればいる場所を嗅ぎつけ、そこを襲う。だから人が寄り集まって暮らすところは狙われやすいし、立てこもった場所はさらに危険だ。

 それがなぜなのかはわからない。魔物の本能がそうさせるのか、あるいはもっと別の理由があるのか。

 人間を喰った魔物は成長し、その凶暴性と破壊力を際限なく増し続ける。

 そうして生まれたのが壁を砕いた『ベリアル』という化け物なのだろう。

 しばらくリビングを漁っていたリリスだが、ここに目当てのものはないと見切りをつけたようだ。リビングから続く扉は三つ。そのうちのひとつに、リリスは手をかけた。

 無造作に開く。書斎だ。壁一面に本が並んでいる。

 リリスは端にあった机を見るやいなや、引き出しの施錠の有無も確かめずに足を振り上げ、そして踵を落とす。鉄板の仕込まれたブーツは鈍器のように机を蹴り砕いた。

 中に入っていた小物をひとつひとつ確認してゆくリリス。サラは棚にある本を見つめる。

「珍しいな、本だなんて……。ずいぶんと読み込まれて、ボロボロになっているみたい」

 技術が失われて久しい。手書きでなければ、一般的に出回ることはほぼなくなった代物だ。内容は子供向けの物語ばかりのようである。

 本に手を伸ばそうとしたところで、再びどしんと震動。思わず壁に手をついた。

 サラは顔を青くしてリリスに訴える。

「リリ、早く出ようよ……。薬はまだ大丈夫だよ、一瓶残っている」

「あれぐらいじゃいつ使い切るかわからない! 発作が起きたら一晩でおしまいよ! それに、次の国に薬が置いてある保証なんてないもの!」

 リリスは叫び、さらに破壊された机をひっかきまわした。目当てのものが見つからず、そのまま本棚を無理やり引き倒す。

 大きな音がして、室内の秩序がまたひとつ失われた。人間の英知に対しても、ひどく冒涜的な所業だ。

 その剣幕に手伝うことすらはばかられて、サラは立ちすくんでいた。

「この部屋にもない!」

 リリスはサラの横を通り抜けると、次の部屋へと向かった。

 開くとわずかに埃臭い。長く使われていない衣裳部屋のようだ。所狭しと物が詰め込まれている。リリスは険しい顔だ。

「……ここは後回しだわ」

「もういこうよ、リリ! わたしは大丈夫だから……!」

「……ここまで来て手ぶらで帰るわけにはいかない」

 そのときだった。サラは気づいたのは。

 リビングにて、窓ガラスの奥から赤い瞳がこちらをじっと見つめている――。

「――リリ」

 苛烈な苦味を吐き出すように叫ぶ。リリスの反応は遅れた。

 槍のようなものが部屋に放たれ、窓ガラスが割られる。一瞬の出来事であった。

 立ち位置的にまず攻撃を受けるのはサラ。

 リリスの踏み込みが床を蹴る。彼女は刀を抜くよりも先に手を伸ばした。

「サラ!」

 無防備極まりない。それでも彼女は娘をかばってみせた。リリスの手の甲をなにかが貫き、サラの視界に鮮血が飛び散った。

 ぬらぬらと光る槍のようなものは舌であった。魔物が舌先を伸ばしてリリスを突いたのだ。リリスは手首を回しながら舌を掴む。そして引き寄せた。

 その力に逆らわず、魔物は窓ガラスを破り、中へと侵入してきた。全貌が明らかになると、それがトカゲの化け物だということが知れた。

 ぎょろつかせた赤い眼。粘ついた肌。不潔な四肢など、生理的な嫌悪感が催されるフォルムであった。体長はサラの腰辺り。まだあまり育っていない魔物のようだが、これでも人ひとり絞め殺すのはたやすいことであろう。

「サラ、頭を下げて」

「っ」

 鞭を振るうかのごとく大蜥蜴をさらに引き寄せるリリス。その細腕に力がこもると、絞り出されるようにして血が吹き出した。屈んだサラの頭上を大蜥蜴がかすめた。

 凄まじい速度で迫る大蜥蜴に向けて、リリスは片腕で抜刀をする。そして引き抜いた刀を魔物の口内に突き刺した。

 口から尻まで串刺しにされた大蜥蜴はびくびくとその場で痙攣を繰り返す。リリスは足を高く上げて、その顔面を踏み抜いた。びちゃりと飛び散った体液が床を汚し、しかしそれきり魔物は生命活動を停止した。

 リリスは手の甲を貫いた舌と、そして汚れた刀を引き抜くと、窓に寄った。

「……まずいわ」

 サラがリリスの横から首を出す。すると塔には大量の大蜥蜴がへばりついていた。それらは王塔の中に逃げ込んだ一般市民たちをなぶり殺しにしているようだ。この分だと、上にもやってくるのは間違いないだろう。

 いよいよ追い詰められた。サラはリリスの怪我した手を気遣いながら、その指先をこわごわと引いた。

「ねえ、もういこうよ、リリ……。今ならまだきっと間に合うよ、ねえ、リリ」

「サラ、あなたは先に出て。あたしは薬を――」

「――ふたりじゃないと意味ないよ!」

 サラは強く叫んだ。

 だが、リリスは首肯しない。

「ごめんね、でも」

 リビングにあったテーブルクロスの切れ端を破ると、器用に片手と口で傷口に巻きつけた。とりあえずの応急手当を処置し、そうしてつぶやく。

「……苦しむサラになにもしてあげられないのなら、あたしは死んだほうがマシだわ」

 リリスは最後のドアを開いた。

 禁忌の扉が開放された。そんな音がした。


 大きなベッドが中央に座する。そんな寝室だ。

 ベッドサイドには机がふたつ。薬が置いてあるとしたら、もうあそこしかない。サラは一縷の望みをかけた。自分のためではなく、薬が見つからなければリリスがここを離れようとしないからだ。――それも含めて自分のためかもしれないが。

 リリスはカツカツと部屋に足を踏み入れようとして、ふと気づいて立ち止まる。

「……なにかしら、ここは普段から使われているようだけど」

 怪訝そうにつぶやいたそのときだ。

 ふたりの前、ベッドがわずかに動く。

 また魔物か。だが苦味は感じられない。リリスは抜いたままの刀を手に、布団をめくる。そして、見た。

 そこには荒い息をついて、胎児のように丸くなって眠る少年がいた。

 十歳そこらか。柔らかそうな亜麻色の髪を汗で汚し、頬を赤く染めて苦しんでいた。全身に浮かんだ斑紋を見れば一目でわかる。それは伝染病の症状だ。

 リリスの顔から血の気が失せた。


「リリ、それ……その子……」

 亜麻色の髪は、この国の王と同じものだ。だとしたらこれは王の子か。

 塔の最上階に、伝染病になった息子をかくまっていたのだ。

「……」

 リリスの視線が動く。ベッドサイドのテーブルには、水差しとひとつの小瓶があった。

 伝染病の薬。瓶いっぱいに錠剤が詰め込まれている。

 この少年のものだ。

 どおんと王塔が揺れる。外からの打撃は、噂のベリアルのものだろうか。一方、リビングに再び大蜥蜴が再び入り込んできたようだ。口の中が苦い。

 切迫する状況が、リリスに決断を迫る。

 ――サラは祈るような気持ちだった。

「ねえ、リリ……」

「……」

 リリスはじっと少年を見下ろしている。彼女の顔は青ざめていた。

 まさか、とサラは思った。リリスがそんなことをするはずがないと、信じていたかった。だけど。

 リリスはじっとテーブルを見つめている。

「サラ、薬が見つかったわ」

 ぞっとした。

 聞きたくなかった。

 サラは唖然としたまま聞き返す。

「……リリス、それ、本気で言っているの……?」

 闇の中、リリスの瞳が赤く光り、こちらを向く。

「どっちみち、斑紋が浮かんでしまっている。この子はもう長くないわ。薬を飲んでも末期症状からは治らないのよ。英雄医師ですら、この子を完治させるのは不可能だわ」

「……だからって!」

「それに、この国は亡びる。なら同じことでしょう」

「しっかりしてよ、リリ!」

 サラがリリスの肩を掴む。

 ――彼女は、わずかに震えていた。

 ハッとして顔を覗き込むと、リリスは目を逸らした。

「あたしはあなたが大切なの、サラ」

 そんなことは知っている。

 誰よりもサラがよくわかっている。

「そのためにあたしができることなら、なんだってするわ。あなたがいなくなることに比べたら、人を見捨てるなんて、どうってことないの。本当よ」

「ねえ、リリ、帰ろう。もういいの、もういいから、ね。リリがそんなにつらい思いをしなくてもいいから、だから、行こうよ」

 彼女を正面から抱きしめる。

 わかっている。リリスは優しい娘だ。けれど、サラのためにと心を刃のように研ぎ澄ませている。そんなフリをしているだけなのだ。

 悪いことをして、傷ついていないはずがない。人を斬って平気なわけがないのだ。

 すべては自分のために、リリスはそう言い聞かせて、強くあろうと思っているだけだ。

「リリ、わたしはリリがいれば幸せだよ。ふたりで一緒に、どこか遠いところで暮らそうよ。わたしはそれだけでいいの。もう十分だよ」

「でも……でも……」

 まるで外見そのままの少女のように、リリスはうつむきながら首を振った。

 ここまでがんばってきたのに、そう言うように。

 サラを振りほどき、ベッドサイドへと向かう。

 彼女がどこか遠くに行ってしまいそうで、サラは思わず手を伸ばした。

「リリ!」

「大丈夫よ、サラ。あたしはあなたのために――」

 ――その直後、王塔がこれまで以上に揺れ動いた。

 揺れはまったく収まらない。それどころか数瞬ごとに激しさを増した。もはや立っていられぬほどの激震がふたりを襲う。

 棚が倒れ、なにもかもが横滑りしてゆく。

 すなわちこれは、塔が今にも倒れようとしているのだ。

「――」

 視界が斜めに傾げてゆく中――。

 リリスは薬と、少年と、そしてサラを見やり。

 あらゆるものがゆっくりと落ちてゆく中、リリスは飛んだ。

「――サラ!」

 リリスはサラを抱きしめる。

 その温もりに包まれたまま、王塔倒壊の轟音が頭蓋骨の奥までを満たした。



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次回:3月24日 AM11:00 更新

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