第2章 サラ(1)
国、あるいは島。
昔どうだったのかは知らないが、今ではひとつの城塞都市を指す場合に用いられる言葉だ。誰が言い出したのかはわからない。だが、都市の中で一生を終える住民にとって、住処は国であり孤島だったのだ。
そんな各国、各島には王がいて、独自の法をもって住民たちを統治している。
さて、次に訪れた国は、いったいどんな法があるのか。
そんなことを思いながら、やってきたのだが――。
サラは平原に屹立する山のようなその城壁を見上げて、眉をしかめた。
「リリ、これ……」
「そうねえ」
リリスはのんきな声をあげた。
サラは背負っていたナップザックを下ろして、この世の終わりのような顔をする。
荒野を歩いて三日間。魔物に襲われた商隊からリリスが回収してきた食料を担ぎ、ようやくここまでやってきた頃には体は汗まみれで、髪も油臭かった。
サラにとってふたり旅は気楽だ。わざわざ恋人の振りなどしないで済むし、人の目を気にする必要もない。
もちろん魔物は怖いけれど、怖いのは人間だって一緒だ。魔物は殺せばいいけれど、人間はそうすることができず、互いに衝突しないための道を探す必要があるので、余計に厄介だ。なにをしてくるのかわからないし、なにをすればいいのかもわからない。
それでも、国には来なければならないし、ならば久しぶりの暖かな寝床や、水浴びを楽しみにしようかと思ったのに。
その期待は裏切られそうだ。
「魔物を倒すための騎士団を結成しているという話を聞いて来てみたんだけど、でっかい穴が空いているわねえ」
リリスは顎をさする。
どうやらサラだけに見えていた幻ではなかったようだ。
閉じられた門の横。城壁の脇腹にはぽっかりと巨大な穴が空いていた。
これほどの穴が空きながら城壁がびくともせずにそびえたっていることは驚嘆に値するだろう。よっぽど丈夫な作りだったようだ。
ともあれ、外側からとてつもない質量を叩きつけられたように、瓦礫は中へと散らばっている。手ひどい有様だ。
魔物の仕業だろう。
「ここまでの芸当ができる魔物って、どれくらいの大きさなのかしら。よく育ったものねえ」
「リリ、いこうよ、もう。中には人なんて残ってないよ。魔物の巣窟だよ」
「滅びたのなら滅びたでもいいのだけど」
リリスはブーツで瓦礫を踏みながら、大穴へと向かう。
ひとりでスタスタと行ってしまいそうな勢いだ。
サラは眉根を寄せて、再びナップザックを背負い直した。
自分よりはるかに重そうなテントと食料の入った袋を担ぐリリスだが、その足取りはまるで庭園を散歩しているかのようである。リリスのあの無限のスタミナはいったいなんなのか。
納得できない気持ちを押さえながら、サラはリリスの後を追う。
すると、城壁の中を覗き込んだリリスはなにかを見つけたようだ。
「あら」
サラも近づけば、そこには作業員の青年がいた。
彼はこちらを見て、目を丸くしている。
「あんたたち、その格好……もしかして、海から来たのかい」
海とは、外界のことであろう。
リリスは調子を合わせて手を開く。
「ええ、見ての通り。ここの島はずいぶんと痛んでいるから、てっきり人がいないものだと思っていたわ」
「二日前に『ベリアル』が来てな。まあ、このありさまだよ」
青年はくたびれた顔をしていたが、しかし絶望がにじんでいるわけでもなかった。
サラにはそれ以上のことがわからない。知らない人と話すのはいつもリリスの役目だ。
それよりもサラは地面に残された足跡が気になった。
足の大きさは一メートルほど。非常に発達している。これが魔物のものならば、全長は想像もつかない、思わずぞっとして、サラは己の身を抱いた。
リリスがどんなに強いと言っても、限度がある。
その『ベリアル』という魔物と戦うことにならなければいいな。そんなことを思い、リリスを見やる。
彼女は青年から情報を聞き出しているところだった。
「なんとか退けたんだけど、まあ次はどうなるかわかんないな。今、王様が戦える者を集めているけれど……。あんたたち、外から来たんだって知られたら、たぶん無理やり引っ張りこまれるよ。面倒事に巻き込まれる前に、去ったほうがいいな。俺に一晩付き合って、夢を見せてくれるならそれでもいいけどさ」
せせら笑う。わかりやすい欲望を剥き出しにする青年に、サラは不快感を覚えた。
リリスはいつも「あんなのは可愛いものよ」と言うが、理解できない。
青年と目が合った。下卑た視線に、思わず鳥肌が立つ。
リリスの影に隠れようとしたものの、彼女はニコニコと微笑んでいるのだ。信じられない。
いつもこうだ。サラを見る男が劣情を抱かなかったことは、ほとんどない。
サラは自分の容姿が嫌いだ。どこにいても目立つ長い金髪も、誰にでも見くびられるこの華奢な肢体も、無駄に膨らんだ胸も。下品なからかいを受けたこともしょっちゅうだ。
美しい姿に生まれ落ちて、得をしたことは一度もない。
母が自分を愛してくれているのだって、この容姿が優れているからだ。宝石だから大事にしてくれるのだ。
だったら、――路傍に落ちた石ころのようになれたらよかったのに。
陰気くさくたたずんでいるうちに、リリスが戻ってきた。
「サラ、また鬱ってたでしょ」
「そんなことない」
「眉根が寄ってる。せっかくの可愛い顔が台無しよ。まったくもう」
まったくもう、まったくもう。
リリスはいつもそう言う。
まったくもう、だ。本当に。
「いいよ。わたし可愛くなりたくない。もっともっと可愛くならなくなるから」
どうせまたワガママを言っていると思っているのだろう。サラの気も知らずに。
青年はまだこちらを見ていた。消え去りたい気持ちを押さえながら、サラは頬を膨らませる。
リリスは小さく笑い、サラに手を差し出した。
「だったらあたしは中で水浴びしてくるけれど、サラはお外で待っている? そうしたらあなたの願いは少し叶えられると思うわよ」
「………………行く」
憎たらしいほど綺麗なリリスに、サラはうめくようにして答えた。
長い間旅を続けていたが、女だけを泊める宿というものは一度も見たことがない。
そもそも、女が冒険者をやるということが、想定されていないのだろう。
ふたりは城壁からもっとも近い宿を訪ねた。
島が襲われたというのに商売を続ける宿の店主には驚嘆するが、逆に言えば宿を開いていることによって、さらに面倒なさまざまな雑事を無視しているのかもしれない。
宿の店主は女だてらに冒険者をしている自分たちを見て、あるいはその美しさから呆気に取られているようだった。
リリスが部屋を借りる旨を伝えると、なにかを言いたそうな顔をしてうなずく。あからさまに魔物に襲われたであろう場所にわざわざ立ち入ろうとする冒険者の、そうしなければ生きられない業の深い姿に、彼のような人は
しかもそれが自分の年端もいかない少女たちなのだから、なおさらだ。
部屋は当たり前だが空いていた。料金は格安である。ここ一帯は先の国で使用していた硬貨が価値をもつらしい。
リリスは革袋から大量の硬貨を手のひらにあけ、その中から使えそうなものを選んで店主に見せた。
「こりゃあ、お嬢ちゃん、ずいぶんと色んなカネを持っているなあ」
「ええ。父がコレクターだったので」
しれっとした顔で嘘をつくリリス。もちろんあちこちの街からかき集めてきたお金だ。中には死体から奪い取ったものだってある。彼女の胆力は天才的だ。
サラは、まるで真似したいとは思わないけれど。
幸い、料金を支払うことはできた。施設の説明を軽く受け、ふたりは二階に部屋を借りる。
ぱたんと扉を閉めて、手荷物を置くリリス。
内装を見回す彼女は、荷物を置いて息をつくサラに問う。
「どうする? お部屋で少しゆっくりする?」
サラは直ちに首を振った。
「ううん、それよりもシャワー浴びようよ、シャワー、ねえ、シャワー」
そのためにこの島にやってきたのだ。当初の目的を忘れてはならない。
体中の汚れを落とせば今の気分もずいぶんマシになるだろうという思いもあった。
犬のようにせがむサラに、リリスは苦笑した。
「はいはい。焦らなくてもシャワーさんは逃げていかないわよ、まったくもう」
部屋に鍵をかけ、ふたりは一階の水場へと向かう。
サラだっていつもならばこんなワガママは言わない。いや、リリスには恐らくこの子はワガママばっかり言って、とかなんとか思われているだろうが、違うのだ。彼女には彼女のなりの考えに従って発言をしているにすぎないのだ。
まあそれはいい。別にリリスにわかってほしいとも思わない。
とにかく、濡れたタオルで体を拭くだけで済ませる日々にはあきあきだ。いい加減に髪の油を洗い流したかった。
シャワー室は狭かった。ふたり同時に浴びるのは無理そうだ。
「サラ、先に浴びなさい」
リリスはそう言ってサラを促し、カーテンを閉じた。
ちらりとのぞくと、佩刀したリリスの後ろ姿が見えた。閉じられた小さな空間で、サラは守られている。いつものように。
それはさておき、シャワーだ。
サラが蛇口を開くと、わずかに土の混じった水が降り注ぐ。
久しぶりの水浴びは心地よかった。冷たい水が真っ白なサラの柔肌を滑り落ちる。
十六歳になるサラの体はもう大人だ。胸も膨らみ、腰もくびれている。まだまだ尻の肉付きは薄いが、十分に子供も産める。人には見せぬ厚い旅装の下の肉体は、蠱惑的ですらあった。
自覚ないまま、サラは目を閉じて優しく肌を撫でた。
石鹸をつけて髪を梳くと、よどんだ気持ちまで洗い流されてゆく気がした。
すごく気持ちいい。
こういうのを『生き返るようだ』と言うのだろう。
数分間の禊を終え、リリスからタオルを受け取って体を拭き、番を交代する。
水が滴る髪をかきあげ、アップにしてまとめながら、サラは小さな丸椅子に座って壁に背中を預けた。
自然にホッと息が漏れる。
安らいだ気分でリリスの水浴びが終わるのを待っていると、ひとりの男がやってきた。
「へえ、女がいるのか、珍しい」
目の上に傷がある大柄な男だ。他に泊まり客がいたのか。
急に居心地が悪くなる。サラは素直に、嫌だな、と思った。
ひとつしかないシャワー室は狭い上に、男女兼用だ。
そもそも、女性の冒険者など考慮されてはいない。だから閑散とした宿を選んだのだが、まさか宿泊客とかち合ってしまうとは。
「しかもすっげえ良い女じゃねえか。他の島から来たのか? 名前はなんつーんだ?」
大股で近寄ってきて、その男はうなるように喋る。
サラは困ったまま水浴び中の母を見た。
大人相手になにを言えばいいかわからないのだ。頭の中が真っ白になり、言葉がうまく出てこない。
戸惑うサラを見て、大男は首を傾げた。
「口が利けねえってわけじゃねえんだろ? おい、どっから来たんだよ、冒険者か?」
「あ、えと……」
凄まれて、さらにサラは言いかけた言葉をも失った。
身がすくむ。
いつしか男の視線は、サラを舐めまわすようなものに変わっている。水浴びを終えたばかりの少女は、絶世の美少女だ。滴る水すらも宝石のように輝いていた。
「まあ、なんだっていいか。ちょうど暇していたんだ――」
男の手が伸びる。サラは喉の奥からひきつったような声を漏らそうとして。
そこで、カーテンの向こうから声がした。
「どちらさま?」
男の視線がサラから外れる。
喋らぬ金髪の人形よりも、幕の中の艶やかな声に興味を示したようだ。
「この島の冒険者さ。あんたはハプニングが好きかい?」
「そうねえ」
男の武骨な手がカーテンにかかった。サラは思わず「あっ」と言いながら立ち上がる。
そんなサラを、男はぶしつけに見やった。
「ああ?」
凄まれて、サラは己の行動の意味を悟る。
やってしまったという気持ちが半分。血の毛が引いてゆく。だがそれでもなぜか、気持ちは止まらない。
サラは目を逸らしたまま、制止した。
「今、入って、いるから」
「はあ? いいだろ、減るもんじゃねえんだ」
「それは」
違う。サラは言いかけたが、とっさに言葉が出てこない。
だが、思ったのだ。
――こんな男にリリスの裸が見られたら、彼女の価値が減ずる、と。
それは間違いなく事実だ。あってはならないことなのだ。
「……嫌だよ、絶対に」
「あ……?」
男はもぞりと口内を舌でまさぐり、不快そうに顔をしかめた。
「……苦ぇな。なんだ……?」
平坦な声がした。
「サラ、タオル取ってくれる?」
「――え、あ?」
顔をあげたサラは、握りしめていたタオルに気づく。
男を睨もうとするが、しかしそのとき、もう男はその場にはいなかった。
「……あれ?」
拍子抜けたような気分だった。
「苦味を感じたから、きっと外を見に行ったんでしょう。魔物がまた戻ってきたかもしれないと思って、ね」
「あ、うん」
カーテン越しに伸びてきた手にタオルを渡す。
ちらりと見えたのは、鍛え抜かれた四肢だ。しなやかで強靭なバネの強さをもつ彼女の体には、あちこちに傷が刻まれている。それだけを見れば戦い慣れた冒険者のようだが、しかしあまりにも筋力が貧弱すぎる。男はおろか、恵まれた体格をもつ同性とすら比べ物にならないだろう。
だが――、薄い布の奥からリリスの目が覗く。
まるで肉食動物のように細められたその瞳孔に宿るのは、紅い光。
「リリ……」
「体を拭いて髪を乾かしたら、王の元へ行きましょう。本当に魔物が現れる前に、ね」
リリスは刀を握っていた。寝るときでも水浴びをするときでも、常に肌身離さず身に着けているものだ。
タオルを受け取って綺麗な銀髪を拭くリリス。濡れていたはずの彼女の肌は、すでに乾いていた。
「サラ、体は平気?」
「え? あ」
リリスの手がサラの額に当てられる。
そういえば今気づいた。サラの手先が少し熱っぽかった。
水浴びをして、体を冷やしてしまったからだろうか。
「部屋に戻って薬を飲みましょう。あと少し残っていたわね」
リリスが上着を羽織りながら言い聞かせてくる。サラは反射的に首を振った。
「これぐらい大丈夫だよ。残り少ないし、我慢する」
「絶対にだめ。そう言ってあなたはすぐ倒れるんだから。国の中だと気が抜けちゃうのよ」
「……はーい」
間延びした返事をして、サラは男が去っていったほうを向く。
リリスはなぜ
もし男がカーテンを開いていたら。彼は浅慮の代償をその命で支払っていたのかもしれない。そんなことを考えると、寒気が増したような気がした。
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次回:3月17日 AM11:00 更新
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