赤い部屋の策謀者

エルバッキー

赤い部屋の策謀者

  一



 「赤い部屋」から下宿先である東栄館まで帰る道中、北村の脳内には先のT氏が語った「絶対に法律に触れない人殺し」の話がこびりついておりました。結局彼は最後の最後で種を明かし「赤い部屋」の夢幻的な空気を一掃してしまったわけですけれど、どうにも北村にはT氏の殺人が本当の事のように思えてならなかったのです。

 あの部屋に集まった誰もが――北村も含めて――人生に飽いている者でしたから、T氏の語った殺人法に蠱惑的な魅力を感じるのは無理のないことでした。


 さて、そんな北村が東栄館で暮らしていたる日の事でございます。玄関先で、四、五日前に引っ越してきた郷田三郎という男と出くわしました。挨拶の後、彼と軽い世間話を興じていたところ、北村は郷田から自分と同種の――人生に退屈している者独特の――雰囲気が察せられる事に気が付きました。

 人間とは奇妙なもので、己と近しい考えの者に対する評価は嫌悪か仲間意識かの、どちらかになってしまいます。そして北村の郷田に対する評価は――「赤い部屋」に参加している事からも明らかですが――後者でした。


 玄関先で意気投合した彼らはそのまま近所のカフェへ場所を移したのですが、偶然同じカフェには北村の友だちである遠藤の姿もありました。この遠藤という男は大そう几帳面なうえに自意識の高い性格でありまして、北村はそんな彼を好ましく思っておりませんでした。しかし旧知の相手を無視する訳にもいきませんので、三人で同じテーブルへと着いた次第でございます。

 酒を飲みながら――酒嫌いの郷田はコーヒーでしたが――語り合い、さてそろそろ帰ろうかという流れになりました。しかし東栄館に着くや否や、赤ら顔の遠藤が二人を引き止めたのでした。


「まあ僕の部屋へ来てください」


 酒に酔った遠藤は自慢話をし足りないとみえて、自室へと二人を無理に引っ張り込みました。そして独りではしゃぐ遠藤は、夜も遅いというのに女中を呼び出す始末です。


「その女とですね、僕は一度情死をしかけたことがあるのですよ」


 異様に大ぶりな口をペロペロと舐め廻しながら、カフェでも聞いたような話を繰り返す遠藤に、いい加減嫌気がさしてきた頃でした。ふと北村が郷田の顔を盗み見ますと、彼も遠藤に嫌悪しているらしく眉間に薄い皺をつくっているではありませんか。

 北村の脳裏に悪魔的な思考が浮かび上がったのはその時でした。

 郷田を巧く動かせば、自分にも「絶対に法律に触れない人殺し」が可能ではないか……――北村が計画を練りはじめたのは、その晩からでございます。


 しかし他人を思い通りに操るというのは存外に難しいものです。どうしたものかと考えるうちに、二日、三日と時間が過ぎます。そんな或る日、北村が押入れから蒲団ふとんを出している最中、偶然にも天井板が――北村の部屋は郷田と遠藤の間でした――ゆるんでいるのを発見いたしました。おそらく電灯工夫が天井裏へともぐるためなのでしょう。試しに天井板を――重いもので封じられているのは明白だったので注意深く――外してみますと、やはり屋根裏への通路ではありませんか。

 その穴を「こいつは驚いた」と独り言ちながら眺めていた北村でしたが、次の瞬間にはハッと全身に電流が流れたかの様な衝撃を感じました。

 その発想を逃さぬうちに、屋根裏への通路へグイと身体を捩じ込みますと、そこには――北村の想像通り――人の通れるほどに広い空間が在るではありませんか。さらには都合の良いことに、細々とした星の煌めきにも似た光が見えます。安普請やすぶしんゆえの隙間や節穴から、各部屋の明かりが漏れ出ていたのでした。新築とあって埃や煤、蜘蛛の巣すらもありません。


 あの「赤い部屋」で語られた「絶対に法律に触れない人殺し」とは、不幸な偶然を意図的に起こす事で成し遂げられる殺人でございます。つまり出揃った――あるいは意図的に用意した――「点」を「線」で結ぶ事で成し遂げる殺人なのです。


 異常とも言える郷田の気性。

 その郷田が遠藤を嫌悪する感情。

 両者の部屋を結ぶ秘密の経路。


 この日、東栄館に在るこれらの「点」を結ぶ「線」が、北村の中に浮かびはじめたのでございました。




  二



 屋根裏への穴を見つけた翌日、北村は遠藤の部屋を訪れました。いつものように延々とのろけ話を聞きながら、それとなく遠藤や彼の部屋を観察するためです。


「それでね、僕は女に言ってやったのですよ。僕が毎晩キチンと眠っているのは知っているだろうとね」

「へえ、几帳面だとは思っていたけれども、寝る場所も決めているのか」

勿論もちろんだよ。君、寸分違わぬ行動こそがですね、大切なんですよ」

「この東栄館では、どの様に眠っているんだい」

「そりゃあ、君、そこに眼覚まし時計があるだろう。ええ、それです。そちらを頭に、蒲団を敷くんですよ。畳の角を目印にしてね」


 遠藤のピンと伸ばす指の先には、確かに舶来物らしい眼覚まし時計と、その手前には畳の角がありました。

 適当なところで会話を切り上げ、その日の晩に例の屋根裏から遠藤の部屋を覗きますと、話通りの位置に敷かれた蒲団で、遠藤は律儀に仰向けで眠っております。さらに都合の良いことに、大ぶりな口を無様に開けていびきまでかいているではありませんか。


 満足した北村が蜘蛛の様に棟木の下を伝い歩き、次に向かったのは郷田の部屋でした。

 さて、音を立てずに郷田の部屋まで移動した北村でしたが、とある違和感に気づきました。煙草の臭いが鼻を突いたのです。それは部屋へと近づくほどに濃くなり、やがて隙間から漏れ出す紫煙しえんを視認できるほどでした。

 すわ、火事か(!) と肝を冷やした北村でしたが、慎重に確認してみますと、どうにも違うようです。


「なあんだ、押入れの中で煙草を吹かしているのか」


 おかしな行動だなと思いましたが、よくよく考えてみますと郷田もまた人生に退屈している人間なのです。このような奇妙な事に興味を抱いたとしても不思議はありません。

 それどころか、都合の良い偶然の連続に歓喜したのでした。押入れに隠っているのであれば、この秘密の通路にも遅かれ早かれやがては気付くであろうと思われます。


 屋根裏への穴を見つけて三日目、北村は、遠藤と郷田の外出中を見計らって例の屋根裏に細工を施しました。

 細工といっても大した事ではありません。北村の施した細工は二つだけでした。一つは寝ている遠藤の口の真上に当たる箇所に穴を空けて、あらかじめ用意しておいた木片で軽く――わざと部屋の明かりが漏れるように――栓をした事。もう一つは郷田の部屋の抜け穴を塞いでいる石を一寸ちょっとだけ横に動かして、天井板をフワフワと動き易くした事。たったそれだけでした。


 くして北村による「絶対に法律に触れない人殺し」の算段がついたのでございます。


 あとは郷田が遠藤を殺すのを待つだけでした。無論、様々な可能性が考えられます。

 例えば、郷田が天井板を塞いでいる石に頭を潰される可能性。

 例えば、屋根裏の散歩が見つかり郷田が刑務所に入る可能性。

 例えば、全てうまく運び、遠藤が物言わぬ亡骸になる可能性。

 例えば、北村の仕掛けには気付かず、何も起こらない可能性。


 しかし北村にとってしてみれば、どの様な結果に終わっても良いのでした。罪に問われる事はないのですし、殺す相手もまた探せばいいのですから。




  三



 読者諸君は既に、郷田三郎がどのような行動をとり、どのような結果を迎えたのかはご存知でしょう。郷田は北村の想像を超えた働きを見せました。概ねの仕掛けは北村の用意したものでしたけれども、警察をも騙す巧妙な密室トリックは紛れもない郷田の慎重さが作り上げたのです。

 遠藤の死体が発見された時は仕事で立ち会えなかったものの、北村は他の下宿人から話を聞くたびに郷田を褒め称えたい気持ちに駆られたものです。

 ですので、そのあたりは少し省くと致しまして、郷田の元へと明智小五郎が訪ねて来た時の事についてお話し致しましょう。


 明智が東栄館を訪れたのは、遠藤の死から丁度三日目のことでした。


「やあ。突然、悪いね。

 こちらの方は明智小五郎さんという、探偵をなさっている方なのだけれども、申し訳ないが遠藤の部屋を開けてもらってもいいかしら」


 明智を連れ立って北村の部屋を――同郷の者という事で、遠藤の部屋の鍵は北村が預かっておりました――叩いた郷田が、何ともたのしげな声で言いました。

 北村としても、これほど愉快な事はございません。まんまと操られた郷田と、名の売れはじめた素人探偵である明智が、北村の「絶対に法律に触れない人殺し」の現場へ来たのです。郷田を倣って深刻な表情を作りながらも、その胸中には郷田以上の高揚感がありました。


「彼は毎度々々の様に女の話をしていたね」

「ああ。カフェで飲んだ時なんて、女と情死しかけた話を延々としていた。他の下宿人に聞いた話だと、モルヒネを呑んでしまったのも女絡みなのだろう(?)」


 北村と郷田が白々しくも遠藤の噂話を交わしている間、明智は油断なく室内を観察しておりました。そんな姿を横目に、さあさあ明智は郷田のトリックを見破る事が出来るのか、などと北村が局外者の様に考えいると、明智は或ることを訊ねました。


「これは眼覚まし時計ですね」

「そうですよ。遠藤の自慢の品です。あれは几帳面な男でしてね、朝の六時に鳴るように、毎晩欠かさずにこれを捲いておくのです。私なんかいつも、隣の部屋のベルの音で眼をさましていたくらいです」


 そこまで話した時、北村は遠藤の死んだ朝も鳴っていた事を思い出しました。自殺しようとする者が眼覚まし時計を捲くというのは、実に奇妙な話です。

 話して聞かせるべきか否か、ほんの少し思案した結果、北村は正直に話すことに決めました。


「遠藤の死んだ日だってそうですよ。あの朝もやっぱりこれが鳴っていましたので、まさかあんなことが起こっていようとは想像もしなかったのですよ」


 相手は名探偵とまで称される明智ですから、これは郷田を窮地に追いやる証言になりかねません。

 しかし、それがどうしたというのでしょう。仮に郷田が遠藤を殺したと発覚したところで北村に損は無いのです。むしろここで嘘を吐けば、北村にまで疑いの眼が向いてしまいかねません。

 「絶対に法律に触れない人殺し」といえど、避けられる危険は避けておくに限ります。


「その朝、眼覚ましが鳴ったことは間違いないないでしょうね」

「ええ、それは間違いありません」

「あなたは、そのことを、警察の人におっしゃいませんでしたか」

「いいえ……」


 そもそも郷田による殺人を膳立てしたとはいえ、何時いつ殺すかも判らないのです。その為、眼覚まし時計が鳴っていたことは、今まで気付かなかったのでした。

 北村は己の立つべき場所を肝に銘じました。すなわち、物わかりの少し悪い局外者です。


「でも、なぜそんなことをお聞きなさるのです」

「なぜって、妙じゃありませんか。その晩に自殺しようと決心した者が、翌日の朝の眼覚ましを捲いておくというのは」

「なるほど、そういえば変ですね」


 密室という状況から「自殺」と信じきっている友人ならば、この様な反応をするでしょうか。なるほど、確かに、と明智の指摘に感心した風を装いました。

 片や郷田は平静を装いながらも、視線がキョロキョロと虚空を彷徨さまよっております。明智がいっそうの綿密さをて部屋中を調べはじめ、天井板を一枚々々叩き試みていた際などは、口を真一文字に結び、今にもガチガチと震えだしてしまいそうな歯の根を必死に押さえている始末です。

 幸いにも(?)部屋の観察に傾注していた明智は彼の微細な挙動の変異に気付かなかった様で、一頻ひとしき穿鑿せんさくを終えると郷田を連れ立って――郷田はその頃になると幾分気を持ち直しておりました――彼の部屋へと帰って行ったのでした。




  四



 明智の来訪から半月も経つ頃には、戦々恐々としていた郷田も気を許したらしく、快活に日々を送るようになりました。明智はその後一度も東栄館を訪れず、遠藤の部屋に有った彼の持物も国許へ送られてしまいました。既に遠藤の部屋だった所は片付けられ、新たな主を待っております。

 遠藤の死という非常は日常の流れにすっかり呑み込まれ、今では見る影もありません。


 そして遂に、北村が例の「赤い部屋」に赴く日がやって参りました。


 何時かのようにチロチロと薄気味わるく瞬くロウソクの焔が、部屋の四周にけられた血液の如き垂れ絹の上に、円卓に集まった男たちの影法師を浮かべております。

 そんな中、今回の話し手である北村がユルリと語り始めました。


「皆さん、きっと憶えておりますでしょう。先日T氏の語った『絶対に法律に触れない人殺し』の話を。

 私は愚かにもそれを行い、かの明智小五郎さえも見事に欺いて仕舞いました…………」




  五



 異常者たちによる奇妙な集会を終えた北村が東栄館へと帰りますと、丁度玄関先で見知った男と出くわしました。


「やあ。これはこれは。部屋を訪ねても留守だったから、帰ろうかと思った矢先に遇えるだなんて。

 こんばんは、北村君」


 もう日付の替わろうかという時分じぶんです。だからでしょうか、モジャモジャ頭を掻きながら笑う明智小五郎の声がやけに響いて聞こえました。いつものようにニコニコと愛想の良い顔をしております。

 しかし、何故でしょうか。北村には彼の無邪気な顔がどうして不気味に感じられるのです。


「実は郷田君の部屋へ寄った帰りでしてね」

「こんな夜更けにですか」

「ええ。遠藤君の死について解ったことがあったので、居ても立っても居られなくなりましてね」


 遠藤の死について、それは紛れもなく郷田のトリックを暴いたという事なのでしょう。けれども、それでは北村の部屋をわざわざ訪ねた理由になりません。

 北村の背中から嫌な汗が滲み出しました。


「……遠藤の、死についてですか」

「はい。簡潔に言ってしまえば、彼は郷田君の手によって殺されたのですよ。

 実は以前訪ねてからも、たびたびこの下宿には来ていたのです。鍵を大家さんに返していた君は知らなかったでしょうけれどね。そして郷田君と同じ様に『屋根裏の散歩』によって、止宿人の様子をさぐっていたのですよ。

 ああ、『屋根裏の散歩』というのはですね…………」


 様相を崩さず明智が郷田のトリックについて語る間、北村は言い知れぬ不穏な感情がジワジワと広がるのを感じました。

 屋根裏の経路について嬉々として話す明智が、まるで名状し難い恐怖の権化に見えるのです。


「ところで、君は節穴の特徴を知っていますか」

「……いいえ」

「なに、簡単なことです。木目というものは節穴を避ける様にできるんですよ。

 しかし奇妙な事にね、偶然にも遠藤君の部屋にあった節穴だけが木目を遮って開いていました。色合いが同じだから、注意しなければ判りませんがね」

「郷田はそんな細工までしていたのですか……

 なるほど、確かに口の真上に細工してあるとは、警察も思わなかったでしょうね。それにしても郷田が犯人ですか。彼がそこまで遠藤を憎んでいたとは思いませんでしたよ」


 平静を装い、殊更ことさら局外者らしく振る舞おうとする北村に、明智はモジャモジャ頭を掻きながら笑いかけました。


「ハハハハ……僕は一度も『口の真上に』なんて言ってませんよ。『遠藤君の部屋にあった』と言ったのです。それに『口の真上に』なんて言ったら、まるで奇妙な節穴は一つだけだと知っているようじゃありませんか」


 明智の指摘に北村は足元がドロリと溶けた様な、不快感とも絶望感とも分からない感覚の中に陥りました。

 いつの間に膝が折れていたのか跪く北村を見下ろしながら、無邪気な明智はカラカラと笑い掛けます。


「ハハハハ……大丈夫ですか。

 そうだ、君に一つ謝らなければならないのですが、節穴を木目が避けるなんて事は無いんですよ。

 さて夜も遅いので、そろそろ失敬しますね。君と会うのもこれで最後でしょうから、一つだけ忠告しておきましょうか。

 あの奇妙な部屋へは、もう二度と行かない事です」


 明智小五郎が、どこまで真実を知っていたかは分かりません。しかし北村にとっては、もうどうでもいい事柄でした。



 東栄館を包んでいた妖しく密やかな夜は、やがて騒がしい朝陽によって一掃されました。

 それはまるで、夢や幻を剥ぎ取られた「赤い部屋」の様でありました。

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