第三話 真相


 台座の奥に、地下へと続く階段を見つけ、ゾロイとオリズスは、アジネの後を追いかけている。

「ところでゾロイさん、アジネちゃんのお母さんがウリアツラさんなら、お父さんはどこにいるんでしょうか」

 妙な質問だ、とゾロイは感じた。誰、ではなく、どこ、と訊ねるということは、存在自体を疑いようもなく信じているということだ。

「ゲーブ、だろうな。俺も詳しくは知らんが」

 足下を手元の灯りで照らし、注意深く周囲を観察しながら進む。

「ゲーブさんて、さっきアジネちゃんを連れていったあの人ですか?」

「姿はな。ゲーブはずっと昔に煤化して、それきり俺は会ってない」

「あの、わたし思うんですけど、アジネちゃんのお父さんの居場所、クートって人が知っているんじゃないですか。さっきイレスと同化した時、本能的に理解したというか……融合した幽体でなければ、たぶん見た目を変えられません」

 ゾロイはそれに答えず、ただ黙って考えていた。

 オリズスの指摘は的確だ。ゾロイ自身がそれを行った経験はないが、長く幽体を扱っていると、それが可能だと実感していた。

「ゾロイさんてばーー」

「静かにっ」

 話し声が聞こえる。ウリアツラの声だと、ゾロイはすぐにわかった。

 ゾロイは声のする部屋の前で立ち止まり、耳を澄まして中の様子を窺う。

「クート、おまえは一体何をしようとしている」

「イアネルク様と同じですよ。自分のしたいことをしたいように。ただそれだけのこと」

 反響音から、かなりの広さを感じる。先ほどイレスが現れた部屋と同じくらいだろうか。

 こうして会話をしているということは、アジネは人質として捕らえられているままだ。好転はしていないが、少なくともウリアツラが攻撃をしかけてはいないことから、アジネは無事なのだろうと推測する。

「私が……したいこと、だと?」

「ええ。幽体について詳しいことを知っている者は、国の機関に身を置く僕たちの中にさえいない。その解明に心血を注いでいるのではないですか? お嬢さんのために」

 口調だけで、クートの薄ら笑いが伝わってくる。ゾロイの胸はざわついていた。

「どういう意味だ」

 怒りに満ちた、ウリアツラの顔が目に浮かぶ。

「僕は長年ーーそう、あなたが研究に携わる前から、ずっと幽体について調べていたんですよ」

 先ほど見たクートの姿を思い浮かべる。年齢はゾロイとさほど離れてはいないだろう。ウリアツラが研究を始めた正確な年齢はわからないが、クートはそれ以前から、と自信を持って断言している。根拠があるのだろうか。

 ゾロイは黙って、相手の出方を見る。クートはゾロイたちが生き残ったとは知らない。隙をついてアジネを救出するために、クートの話に耳を傾けることにした。

「ずっと前から、などとどうして言える」

「イアネルク様、あなたが求めている答えを、僕はすでに持っています。器を失った幽体を入れるための実体を探しているのでしょう? お嬢さんを見つけた時には、さすがの僕も驚きました。実体でも幽体でもない、きわめて特殊な存在を見るのは、初めてだったもので」

「……私の質問に答えろ、クート」

「幽体化した者が、実体を奪い取るのは可能です。適格者でなければならない、という条件がありますがね。僕の作成した研究資料にも、その旨が記してあります」

「貴様っ……! 知っていたというのか」

「あなたに見てほしくて、わざわざ書いたものですからね。その様子だと、すべてを見たわけではなさそうですが」

 ウリアツラは、一体何を見たというのか。ゾロイにはわからないが、会話から察するに、おそらくはマニグスの一室で発見した、クートの覚え書きの内容と同じものだろう。

「先ほど御覧入れたように、今の僕は幽体です。幽体が存在し続けるためには、器となる実体が必要になる。短期間ならば実体は不要ですが、長期間この世に留まるには憑代が不可欠です。僕がリヒサコニの森で行った実験で、それを知ることができました」

 ゾロイは、身体中の毛が逆立つのを感じた。

 ゾロイや、ウリアツラ、ゲーブが味わったあのリヒサコニでの出来事の首謀者は、クートが行ったのだと自ら明かしたのだ。

「あの森で行った実験が、おまえの起こしたものだっただと? 馬鹿を言うな。貴様、私とそう年齢が離れてはいないではないか。もしそうならば、年端もいかぬ子供が、実験の首謀者だったということになる」

 ウリアツラは震える声でそう言った。が、実際には薄々感じているのかもしれない。ゾロイと同じく、おぞましい事件の裏側を。

「僕は、あの時すでに、幽体だったのです。幾度も実体を乗り換えて、やっと相性の良い身体を見つけた。それが、現在の僕の憑代なのです」

「貴様、一体……。幽体化には、すでに確立された方法があったというのか」

「気が付きませんでしたか? 僕はあなたよりも前から、この研究を行ってきた。しかし、それを理解する人間が周囲に一人もいないのは、とても寂しいものです。面と向かって資料をお渡ししても構わなかったのですが、あなたはとても矜持が高い。そこで、回り道ではありましたが、僕はあなたが、自ら成果を手にしてもらう方法を考えました」

「書庫にあった、リヒサコニの森に関する報告書……」

「あれは、僕がしびれを切らしましてね。幾度となく、僕は研究中のあなたに、手がかりとなるよう進言したつもりだったのですが……。あなたはまだ、幽体について、僕と対等に話ができる段階には至ってなかった。いささか残念ではありましたが、あの報告書を使うことにしたのです。あなたが書庫で調べ物をしていたのは知っていましたからね」

 クートは、嬉嬉として語る。

 まるで、自分の玩具を自慢したい子供のように。

「誘導していた、というのか。ではなぜ、アジネをさらった。関係ないはずだろう。話し相手がほしいのなら、私が幾らでもなってやる」

「僕はマニグスでの調査の傍ら、ニヒサスムでも個人的に実験を行っていたのです。あの街は国の手が入りにくいので、こっそりと。ある程度の成果が得られたなら、それを報告するつもりではいたのですが、邪魔が入りましてね。もう出てきても構いませんよ、ベネッド……いや、ゾロイさんでしたか」

 ゾロイの存在は、クートに気づかれていた。舌打ちしたい気分だったが、ゾロイはそれを表に出すことなく、扉に手をかける。

「オリズス、おまえはここにいろ。何かあったら一人で……いや、できればアジネを連れて逃げてくれ。頼む」

 オリズスの返答を聞くことなく、ゾロイは勢いよく扉を開いた。

 広々とした空間が、そこにあった。先ほどイレスと一戦交えた部屋と同じ作りだ。

 部屋の奥に、金髪の男クートと、その傍らに立つ黒い獣の姿が見える。

 黒い獣が、アジネを抱えていた。

「案外、強いようですね。ああ、肉体的な意味ではなく、精神の方ですが」

 クートは冷たい笑みを湛えて、ゾロイを見ている。

 ゾロイは拳を強く、握りしめた。

「やっと会えたな、クート。ベドがおまえを探していたぞ」

「あの店は良い隠れ蓑でしたが、残念です。しかし、思わぬ発見もあったので、ゾロイさんには感謝したい」

「勿体ぶってないで、さっさとおまえの企みを話せ」

 ゾロイは苛立ちを隠さず言った。

 ウリアツラは、ゾロイに一瞥もくれず、クートから決して目を切ろうとはしない。

「僕はね、ずっと答えを探していたんですよ。どうして幽体化する者と、煤や黒い獣になってしまう者がいるのかを。どちらになるにせよ、長く存在を維持するのは難しい。僕とて、今は憑代がありますが、根底を理解しないことには安心できない。二つは同じもので、幽体の期間が長いか短いかだけの違いしかないかもしれませんからね」

 クートは言葉を区切り、黒い獣に担がれているアジネを指さした。

「僕はこの子を発見できたのは幸運でした。最初は、イアネルク様の研究動機を探るために、幽体に触れたのがきっかけです。鬼気迫る様子でしたから、あるいは僕と同じ幽体化した人間だろうかと思い、そうしたのです。その時、半幽体であるこの子の存在を知った」

「やはり……。おまえは必ずそうしているだろうと思ってはいたが」

「これは僕の欲する答えかもしれない、そう思いましたよ。すぐさま見つけて、実験対象になってもらうつもりでしたが、中々居場所がわからなかった。イアネルク様の記憶には、ここ、リヒサコニの森での出来事しか見あたりませんでしたから。あなたも探したでしょう、お嬢さんと旦那さんのことを」

「まさかっ、ゲーブを唆したのはおまえか!」

 ウリアツラはがなり立て、怒りを露わにした。

「彼は賛同してくれたんです。ゲーブには僕の実験台になってもらうことにしました。お嬢さんの境遇を改善するためにと言ったら、快く承諾してくれましたよ。人間と動物の、幽体融合に参加することをね」

「動物……だと?」

 ゾロイは胸騒ぎを感じた。

「ええ。僕は、自分の経験から、人間同士の幽体融合は可能だと知っていました。しかし、種の違う生き物でそれが可能かはまだ試したことはなかった。幸い、投薬実験で成功した幽体の馬が一頭いましたので、それを使うことにしました」

 ゾロイの脳裏に、白い毛並みの馬が浮かぶ。

「バナム……そんな……」

 マニグスの一室にあったゲーブの身体。その在り方の理由を知り、ゾロイは驚愕のあまり、それ以上言葉がでなかった。

「実験は成功しましたが、半幽体のお嬢さんの居場所は、どうしてか依然掴めなかった。ゾロイさん、あなたに会うまでは。正確に言うなら、あなたの助手の記憶を見たおかげですが」

「おまえ、ニヒサスムでオリズスの記憶を見ていたのか」

 合点がいった。オリズスの記憶からならば、アジネの存在を認識しているために、その居場所までわかるはずだ。

 バナムーーゲーブがアジネを、ゾロイの元へやったのは、クートから隠すためだったのだ。

クートが、ゲーブの記憶にアジネの居場所を見つけられなかったのは、その時すでにゾロイと暮らしていたからだろう。

「ではなぜ、おまえはゲーブの姿をとっていたんだ。私はその姿を見たからこそ、カーチムから追いかけてきた」

「先ほども申し上げたように、僕はあなたに見てもらいたいのです。とはいえ、クートの姿では警戒するでしょう。僕は、あなたをここまで連れてきたかった。幽体と、黒い獣の融合をお見せするために」

「なん……だと?」

 ゾロイは顔を歪めた。

 幽体と黒い獣の融合は可能ではある。イレスとオリズスの例のように、融合それ自体は出来る。しかし、一体何の理由があって、それを行おうとしているのか、ゾロイにはわからない。

「幽体同士の融合は簡単ですが、分離は非常に難しい。なぜかと言えば、意志が混ざってしまうからです。より強い意志でなければ、融合後に分離するのは、第三者の手助けが必要となる」

 イレスとオリズスの分離も、同じ理屈である。ゾロイが事前に行った行為は、オリズスが自分を見失わないようにするためだった。

「僕は以前ーーあなたたちと出会うずっと前ですが、黒い獣に取り込まれてしまったことがあります。その時、僕の中に入り込んでくる得体の知れない何かを感じた。一度は完全に取り込まれてしまった僕ですが、分離に成功したのです。無我夢中でしたから、その方法を覚えたのは最近の話ですがね」

 わざとらしく咳をして、クートはゾロイたちの様子を窺う。誰も口を開かないことを確かめると、にやりと口角を上げて話を続ける。

「とすると、今度は別の疑問がわいてきます。分離できるならば、果たしてそれは何のための機能であるのか。黒い獣は、幽体としての性質を持ちながら、実体として周囲に認識される存在。幽体化に成功した者は、人間としての自我はあるものの、周囲には認識されにくい。この二つの異なる性質を持ったものを融合させた結果は、御覧の通り。この黒い獣はすでに一度融合してあります。僕の幽体が入ったこの黒い獣は、意のままに操ることが可能です。しかし、戦闘要員としては良くても、ただそれだけのこと。僕の最終的な目的には、一歩届いていません」

「目的が何かは知らんが、そこにアジネはいらんだろう。おまえは勝手に、好きなだけ研究をしていりゃあいい」

 ゾロイは不穏な空気を感じていた。バナムと件を考えると、クートの思惑が人道外れたことであることは想像に難くない。

「あなたたち実体を持つ人間にはわからないかもしれないが、僕はそれを欲している。そのために、このお嬢さんが必要不可欠なんです。黒い獣との幽体融合は、決して実体化には至らない。繋ぎがあれば、話は変わってきますが」

 クートの身体から、煤が漏れ出ている。何か、ことを起こす前兆だろうか。ゾロイは身構える。

「繋ぎ……? 貴様、まさかっ!」

 ウリアツラの叫ぶ声が、広間に響く。

「イアネルク様は察しが良くて嬉しい。そう、アジネさんは実体の性質も持つ半幽体。僕とアジネさんの融合では、ただ意識が二つあるだけの半幽体になるでしょう。獣とアジネさんの場合は、実体化の面で良くても、知識のない彼女の意識は獣に取り込まれてしまう。そこで意志の強い幽体が必要となります。……僕、というね」

 クートが黒い獣に抱かれているアジネに手をやると、閃光が走った。

 まばゆい光が広間を照らす。

 黒い獣が雄叫びを上げ、煤化していく。

 クートの身体から漏れ出た煤が、光を包んでいく。

 腕で光りを遮りながら、ゾロイはアジネを助けるべく、駆け出した。

「アジネっ!」

 叫んだのはウリアツラだ。足音がゾロイの後方から聞こえてくる。

 徐々に光が収まってくると、再び闇が広間の輪郭を曖昧なものにしていた。アジネの姿がその中に見て取れる。

 アジネは目を閉じて立っている。黒い獣やクートの姿はない。周囲を見回してみても、そこには誰の気配も感じ取れない。

 アジネに駆け寄ろうとしたが、異様な雰囲気を察して、ゾロイは足を止めた。

 何か、おかしい。

 クートや黒い獣は、一体どこに行ったというのだろう。

 閃光が収まったというのに、アジネの身体からほのかに青白い光が漏れている。

 警戒体勢をとり、ゾロイは周囲の気配を探った。

 と、アジネに駆け寄る足音がして、ゾロイは音のする方へ目をやった。

「待てっ、ウリアツラ! 近づくな。クートがいない……妙だ」

「ならば好都合だろう。今のうちにあの子をーー」

 ウリアツラがアジネに手を伸ばした、その時だった。

 アジネは、目を開いていた。

「アジネ……」

「あれれ……どうしちゃったのかな……ここは……」

 意識が戻ったらしく、アジネはきょろきょろと辺りを見回している。

 一瞬、躊躇う様子を見せたが、ウリアツラはアジネを抱きしめた。

「無事か! ……どこにも違和感はないか?」

 ウリアツラは、アジネの身体に不自然なところはないか、くまなく確認している。

 ゾロイは未だ警戒を解いていない。

(思い過ごしだった、のか……? クートの奴、実験には自信を持っていたようだったが)

 アジネのぽかんとした表情を見る限り、たとえ融合が成功したとしても、意識の主導権は彼女にあるように思える。

「何かしてほしいことはあるか?」

 ウリアツラの言葉に、アジネは腕を組んで答えを探している。

「そうだなあ……ちょっと、喉が渇いた、かも」

「水……は持っていないが……」

 薄明かりが、ウリアツラの翳りを照らす。

「ゾロイさん、水持ってる?」

 明るい笑顔で、アジネはゾロイに尋ねた。

「持ってない」

「そんなはずないでしょう。カーチムからここまでどれくらいあるのか知らないけれど、飲み水を持たずに出かけるなんてさ」

 ゾロイは深くため息を吐いて、それから意を決して口を開く。

「水は持ってきている。だから言ったんだ、おまえにやる水はねえってな」

「なっ……! どういう意味だ、ベネッド!」

 目を剥いて、ウリアツラは声を荒げた。

「アジネが、俺のことをさん付けで呼ぶなんてありえない。あるとすれば、それは俺のことをからかう時だけだ」

 くつくつと、笑い声が漏れる。

 アジネの身体が小刻みに揺れていた。

「くっくっく……もう少し楽しませてくれてもいいんじゃないですか?」

 同じ身体を使っているというのに、アジネはその顔に、ゾロイが見たこともないほど、歪んだ笑みを湛えていた。

「生憎、俺にはそんな趣味の悪い冗談に付き合うほどの、寛大な心はないんでな」

 幽体の剣を構え、ゾロイはその切っ先をアジネに向けた。

「わ、悪い冗談はよせ。ベネッド、アジネをどうするつもりだっ!」

「そいつはアジネじゃない。クートだ。奴の意識が、アジネの身体を乗っ取っちまったんだよ」

「実験は成功です。この身体は良い……幾つもの宿借りをしてきましたが、アジネさんのは相性抜群だ。この場に、完全な実体かどうかを確かめるための人物がいないことだけが、唯一残念ですが」

 どすっ、と鈍い打撃音がした。

 ウリアツラがうめき声を上げ、その場にうずくまる。

 アジネーーの姿をしているクートが、横にいるウリアツラの腹に拳を叩き込んだらしい。

「しかもこの身体、黒い獣の怪力まで備えているではないですか。こうなると、全力を試したくなってきますね」

 クートはゾロイを標的にするつもりらしく、冷えた瞳で見つめてきた。

 ゾロイは両手で握る柄に、力を入れ直した。

「……やめろっ、融合しているとはいえ、その身体はアジネのものだ。その剣で切れば、アジネが危ない」

 うずくまりながら、それでも絞り出すように、ウリアツラはゾロイに言った。

 それはゾロイも考えていたことだ。しかし、一方的に攻撃されていては、打開策も見いだせない。防御と牽制の意味合いで、ゾロイは切っ先を相手に向けているに過ぎない。

(くそっ、どうすればいい?)

 たんっ、と地を蹴る音が響く。

 小柄な体躯が、人間とは思えないほどの速さで。ゾロイに向かって一直線に近づいてくる。

 青白く光った腕が、低い位置から繰り出される。

 受け太刀すると、想像以上に重く、そして硬かった。

 拳は次から次へと、ゾロイに向かって放たれる。

 少しでも気を抜けば、あっという間に倒されてしまうだろう。いや、今も手を抜いているつもりは毛頭ない。

 ゾロイの身体は、クートの攻撃によって、徐々に後退している、

 なるほど、クートの言う通りに、物理的な力は、あの黒い獣とほぼ同等のものだろう。先ほどイレスの拳を受け続けた時の感覚が蘇る。

(オリズスに使った方法はどうだ?)

 ゾロイは、クートの攻撃を受けながら、打開策を練っている。

 オリズスは多感な年頃だった。ゾロイとの信頼関係も、ある程度は構築されている。だからこそあの口付けが効果的だった。何より、あれは幽体を分離させるためのもので、実体から引き離すための行為ではない。もしアジネの幽体だけを引き離せたとしても、彼女が実体を失う結果を招いてしまう。

「これはいいですっ!」

 クートの感情が高ぶる。その影響か、大振りの一撃を放つ体勢を取った。

 隙をつき、ゾロイは身を交わしてクートの背後に移動した。

「アジネっ、聞こえてるか! 聞こえていたら、返事をしやがれっ!」

 ゾロイは、半ば無意識にその名前を叫んでいた。

 クートの意志の強さに、アジネが負けてしまわないように、と。

「なんて気持ちが良いんだ。ふふふ……ははははははっ!」

 攻撃を受ける場所が変わっただけで、ゾロイの劣勢は変わらない。

 じりじりと後退する。打開策も見つけられないまま、ゾロイの身体はただ後ろに下がっていくばかりだった。

 ちらりと後方を確認すると、そこにはウリアツラがうずくまった姿勢のまま、そこにいた。

「ウリアツラ、そこから移動してくれっ! 危険過ぎるっ!」

 クートの猛攻は、更に勢いを増し、速く、重くなっていく。

 ゾロイは焦りを感じていた。

 アジネを助け出す術を見つけられていない。

 ウリアツラは動くことも出来ずにいる。

 自分一人でも倒せる相手か定かでないが、それを二人を守りながらこなさなくてはならない。

 幽体の剣を使い続けるのは、精神的にも肉体的にも負担が大きい。クートが新たな身体を使いこなせる前に決着をつけなければ、ゾロイに勝算はない。

 一層強くなるクートの打撃を受けながら、それでもゾロイは諦めてはいなかった。

「これでも喰らえっ!」

 クートが次の攻撃の為に距離を取った一瞬の隙を見計らって、ゾロイは手持ちの光石を投げて、爆発させた。無論、アジネの身体に傷を付けぬよう、地面に向けて。

 粉塵が巻き上がり、互いの視界を遮った。

「べ、ベネッド……わ、私を切るんだ……」

「こんな時に泣き言か? 悪いが後にしてくれ!」

「違うっ……そうではない、よく聞け……。アジネの身体から、黒い獣を追い出せば、クートの奴もそこに留まっていることが難しくなるだろう。きっと、一度は分離するはずだ」

「黒い獣を? そんなことが、可能だって言うのか」

「私を誰だと思っている……? 魔術師の言うことを黙って聞け。あの黒い獣はおそらく人工的に研究所である薬によって作り出されたものだ。自然発生したものなら使用の意味がないが、そこにつけ込む余地がある。あれはその薬で相殺できる」

「その薬はどこにある?」

「今はない。しかし、薬の生成に必要な成分なら、ここに、ある」

 ウリアツラは、苦しそうな顔で、切れ切れに言葉を放った。

「まさか……血液、か?」

「そうだ。私は三種の血液を元に薬を作り、ベネッド、ウリアツラ、ゲーブと名付けた。元々は幽体分離を行う目的だったが、失敗した結果、それが黒い獣を作る原因となってしまったのだ」

「……わかった」

 ゾロイは一度幽体を納め、折れた刃の根本を使って、ウリアツラの腕を切った。赤い血液が、ぽたりと地面に落ちて染みを作った。

 再び幽体の刃を作り、すぐに身構える。

 粉塵が晴れて向こう側が見通せる状況になったが、そこにクートの姿はなかった。

 代わりに、扉の向こうから、オリズスが半身で顔を見せる。

「ゾロイ、さん……? 大丈夫ですか?」

 きょろきょろと周囲を窺った後、オリズスは全身を見せた。

 その時、ゾロイは自分の愚かさを呪った。

「ね、言った通りだったでしょ? 一件落着だよ、オリズスさん」

 オリズスの傍らには、アジネの姿をしたクートがいたのだ。彼女が逃げられないよう、手を握っている。いや、ゾロイたちを逃がさないようにするためかもしれない。

 言動から察するに、オリズスはまだ状況を理解していないようだ。

 ゾロイとオリズスの間には距離があるため、走る動作を見せれば、クートに気取られてしまう恐れがある。そうなった時、どうなるかは明白だった。

 歯噛みしていると、ゾロイはあることに気が付いた。オリズスの瞬きが不自然なほどに多い。

(あいつ……気が付いていたのか)

 ずっと中の様子を窺っていたのだろう。

 オリズスは、ゾロイに向けて暗号を示していた。

 ここに来る前、アジネの残しただろう暗号を探していた時に、教えたものだ。

『アジネから奴等を分離するには、ウリアツラの血液を付けたこの剣で切らなくてはならない。隙を作るから、おまえは逃げてくれ』

 ゾロイは暗号を使って、オリズスに言葉を投げる。

「あれれ、何をしているのかな?」

 ゾロイの不自然さを感じ取って、クートは言った。

『剣を、渡してください。まだ完全には悟られてません。わたしがやります』

 オリズスは、強い気持ちを瞳に乗せ、ゾロイにそう伝えてきた。

「ああ、一件落着だ。だから、これはもう使わない」

 ゾロイは、幽体の剣を、オリズスに向かって放り投げた。キインと耳障りな高音を響かせ、剣はオリズスの足下に転がった。

 手に取って、オリズスはまじまじと折れた刃を眺める。

「ごめんね、アジネちゃん」

 オリズスが言うや否や、柄からは青白い幽体の剣が、その形を現した。

 そして間髪を入れず、剣を繋いだ自分の手の甲ごと、アジネの手に突き刺した。

 苦痛に顔を歪めるオリズス。

「ん? いきなり何をするんだよ、オリズスさんってば…………こ、これはっ!」

 突き刺された二人の手の甲から、赤い血が滴り落ちる。

 アジネの振る舞いを忘れ、クートはすぐさま剣を抜くためにオリズスの身体を突き飛ばした。

「ぐぐぐ……っ、ぬうううあああああ……っ!」

 クートの雄叫びが、広間にこたまする。

 アジネの身体が、苦痛にのた打つ様を見て、ゾロイは顔を背けたくなった。

 融合した時とは違い、アジネの身体から、煤が猛烈な勢いでこぼれ落ちていく。

 やがて煤は二手に別れると、それぞれクート、黒い獣へと変貌を遂げた。

「おいっ、オリズス!」

 ゾロイが急いで駆け寄ると、オリズスは痛みに顔を歪めて、しかしどこか誇らしげに口元には笑みを湛えていた。

「ど、どうですか……わたし、ちゃんと助手ができましたか?」

「おまえの度胸には恐れ入ったよ。まさか逃げられないように捕まれていた手を、逆に相手を逃がさないための的にするなんてな」

 ゾロイはオリズスの頭をぽんと軽く叩いた。

 黒い獣は、地に膝をついていた。クートは憎々しげにゾロイとオリズスを交互に睨んできた。手からはぽたぽたと血が滴り落ちている。同化した者も、同様の部位に傷を負うのかもしれない。

「まさかそんな手があったとは、僕の誤算でしたよ」

「おまえの負けだ、クート」

 ゾロイは転がった剣を拾い上げると、再び幽体の刃を作って構えた。

「しかし、分離したなら、もう一度融合すればいいだけのこと」

 にやり、と冷えた笑みを浮かべ、クートは傷ついていない方の手を挙げた。

 黒い獣はそれを合図に立ち上がり、ゾロイの足下に横たわるアジネに、その視線を向けた。

(まだ獣を動かせるのか……まずい)

 ゾロイは、黒い獣とクートを相手にしなければならない。そして同時に、アジネとオリズス、少し離れた場所にいるウリアツラの三人を守らねばならない。

 力比べなら、この場で最も優れているのは黒い獣だ。しかし、獣にはアジネを襲うという意思は存在しない。意思統一を担う頭脳さえ叩ければ、事態は好転する。

 ならば、ゾロイの採るべき行動は一つだ。

 ゾロイは黒い獣に向かって光石を投げた。直接当たってもいいが、目的は視界を遮ることである。

 巻き上がる粉塵に視界を奪われた獣は、ゾロイの思惑通りに足を留めている。

 その隙をついて、ゾロイは宙に跳んだ。

 空手のクートの頭上から、ゾロイは渾身の力で刀を振り下ろす。

 握った柄から伝わってきたのは、しかし肉の柔らかさではなかった。

「甘いなあ、ゾロイさん。僕を倒せば、獣が機能しなくなると踏んだんでしょうが、見込み違いですよ」

 ゾロイの剣を受けたのは、クートの持つ杖だった。それも片腕だけで、である。

 ゾロイの描いた作戦では、一撃でクートを倒す予定だった。黒い獣と二手に分かれて攻撃の手を繰り出されるのを危惧してのことである。

「短期決戦は失敗でしたね」

 クートは空いている方の手を上げ、獣に指示を出す。

 黒い獣が、アジネの方角へと一直線に走り出した。

「し、しまった!」

 ゾロイはすぐに体勢を整え、黒い獣を追って駆け出す。

 獣よりも、ゾロイの方が幾分、速度がある。

 しかしそれでも、獣が先にアジネの元にたどり着くだろう。距離を縮めるにはあまりに近すぎた。

 時の流れが、急速に遅くなる。

 周囲の音が、遠くなっていく。

 一足踏み出すのに、気の遠くなるような時間を感じる。

 アジネの見開いた目、オリズスの恐怖におののいた表情。

 瞬き一つさえ、はっきりと確かめることができる。

 身体がもどかしい。いっそ脱ぎ捨ててしまいたい。ゾロイはそんな馬鹿げたことを感じていた。

 どのくらいで、獣はアジネを捕らえてしまうだろう。

 重い足を、全力で前に出す。

 あと数歩の距離。ゾロイは、獣よりも身体一つ、アジネよりも遠い。

 獣が手を伸ばす。アジネが身を強ばらせて、屈み込もうとしている。

 クートをしとめることが成功していたら。

 自分の足が、もっと速ければ。

 ゾロイの心の中を、後悔が支配しようとしていた。

 獣の黒い腕が、ゆっくりと、しかし確実に、アジネを捕らえようとしている。

 自らの瞬きさえ制御できず、それをただ視界に入れることしかできない。

 諦めかけた、その時だった。

 黒い獣とアジネの間に割ってはいる、白い毛並みが目に映る。

 全ての動きが鈍くなったその中で、その白い馬だけがただ一人、生きている。

 アジネが白い馬を感じるよりも速く、白い馬がアジネをくわえ上げた。

 白い馬はアジネをくわえたまま、速度を落とさずに駆け抜ける。獣が伸ばした腕は宙を切った。

 と、ふいに蹄の音が耳に届き、ゾロイは時の流れを取り戻す。

「バナム!」

 バナムは距離を取り、くわえたアジネを地面に降ろした。

「真打ち登場、てな感じかな」

 ひひん、と鼻を鳴らし、自慢げなバナム。

「お、おのれ……僕の崇高な実験の邪魔をしてくれたなっ……!」

 青白い光を纏い、クートは全身に怒りを湛えている。

(ここで始末を着けなければ、いずれまたやってくる)

 ゾロイは、懐に入った光石を確かめた。

 脳裏に、懐かしい記憶が蘇る。

 昔、リヒサコニの森で、黒い獣を倒した時のこと。

「受け取れっ」

 石を二つ取り出すと、バナムとウリアツラに、それぞれひとつずつ投げて渡した。

 ゾロイはオリズスの元へと駆け寄り、周囲の立ち位置を確認する。

 ゾロイ、ウリアツラ、バナムの三人が、それぞれ違う壁際にいる。

 クートと黒い獣は、距離は離れているが、ゾロイたちが囲む外周の内側にいる。

 光石を握った手を身体の前に出すと、二人はゾロイに倣って同じ姿勢を取った。

「今だっ、幽体を全開にしろっ!」

 ゾロイの声を合図に、青白い光が線を結び始め、三角形を描き出した。

「ぐっ、こ、これはっ……!」

 ゾロイたちが作り出した幽体の三角形が、クートと黒い獣を囲む。

 幽体三角の辺が急激に縮まって、対象を縛る。

「ぐ……ぐああああああああ!」

 叫び声が、広間にこだまする。クートのものか黒い獣のものか、判別出来ないほどに、それは壮絶な音だった。

 分離の際、ウリアツラの血液を流し込まれたせいか、黒い獣の姿は間もなく見えなくなった。

 しかしクートは、怒りの形相のまま、未だその姿を保っていた。

「オリズス、ちょっとこれを頼む」

 ゾロイは光石をオリズスに手渡す。

「え、ちょっと、ゾロイさんーー」

 彼女の言葉を最後まで聞くことなく、ゾロイは幽体で縛られているクートの元に跳躍した。

「喰らえっ、クート!」

 ゾロイはクートの頭上から、一気に幽体の剣を振り下ろした。

 身体の裂け目から、煤が湧き出てくる。

 それはあっと言う間に、クートの全身を覆い隠す。

 辛うじて保っていた人の姿は、煤の散らばりと共に、やがて霧散していった。

 静けさが、辺りを支配する。

 誰も、何も、音を立てる者はいなかった。

 静寂を破ったのは、人の倒れ込む音だ。

「アジネちゃんっ」

 オリズスが慌てて駆け寄る。

 ゾロイも遅れて後を追いかけた。

 アジネがバナムの足下に、仰向けに倒れている。

「おい、アジネ、大丈夫かっ」

 瞼を閉じたままのアジネの姿を見て、ゾロイの中に緊張が走る。

 バナムも声を掛け、後ろからはウリアツラが這々の体でアジネに近づく。

 そうして、この場にいる全員に囲まれる中、アジネの瞼はゆっくりと開いた。

「どこか痛い? 変なところとか、ない?」

 オリズスは目に涙を溜めていた。

「……痛い、ところ? くくく、痛いどころか、実に心地よい」

「ま、まさか、あなた……クート……?」

 青ざめるオリズス。バナムもウリアツラも、硬い表情をしていた。

「ふ、ふはははははっ……、ゾロイ、水を持ってまいれ。喉が渇いた」

「そ、そんな……アジネちゃんはもう……」

 オリズスの涙がこぼれ落ちる。

 と同時に、すぱん、と乾いた音が響いた。

「あほ、クートがそんな間抜けな言葉を使うか。冗談も時と場所を選べ、アジネ」

「ありゃ、ばれてた?」

「俺のことをゾロイと呼び捨てにするのは、この場じゃあ、おまえかバナムくらいだからな」

 ちぇっ、と不満そうに舌を出すアジネ。

「え……じゃあ、アジネちゃん、なの……? ほ、ほんとうに?」

「うん、もちろんそうだよ。クートなんかには、この身体を使わせないから安心して、オリズスさん」

 その言葉に、ようやく安堵を感じたのか、オリズスは声を上げて泣き始めた。

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